第八話 戯言
国分寺のコインパーキングから車を出そうとしていると、突然の雨がフロントガラスを叩いた。
アスファルトの路面には程無く薄い水膜が出来始め、あっという間に白く煙が湧いてくると、大きめの雨粒が跳ねる様は植えたばかりの稲の並ぶ水田のようだった。
いつのまにか市道の向こうの空には雨雲が分厚く溜まっていた。ひときわ濃い雨雲から雨粒が噴き出ているように見える。吸っていた煙草を灰皿に捻り込んでしまうと僕は薄く開いていたサイドウインドウを閉めた。雨が降ればまた梅ヶ丘までたっぷりと渋滞するに違いない。目の前の車の急ブレーキが赤く滲んだ。ワイパーを一番早く動かすとキュッキュッという耳障りな音がしてその度にラジオも滲んだ。外車ってやつは細かい作りが出来ていないのだ。フルオートなのに効きすぎるカーエアコンのおかげで足元までで湿った冷たい空気が入り込んでいる気がする。前走車の頻繁なチョン掛けブレーキに、いちいち反応させる僕の足も忙しい。井之頭通り東向きはやっぱりひどい渋滞だった。
あのアパートの小さな窓から見た雨の日の暗い空を思い出せた。記憶は僕の中で掘り出されていく遺跡のように部分的に、そして少しずつ全体像を浮かび上がらせていく。風化しつつあるかすかな意識の欠片を寄せ集めてるように僕は記憶の断片をつなぎ合わせていった。
あの川べりの道をエコーと僕は何度も歩いた。そこで僕たちは手をつないで笑いあいながら子供同士のように駆けっこをしたり、色んなお話をした。きっとエコーが僕に付き合ってくれてたんだと思うけど僕にとって幸せな時間だった。これまで僕は自分が捨てられた理由は、きっと僕がエコーにとって邪魔になったのだろうと思っていた。女の手一つで子供を育てる事は簡単じゃないはずだし、金だって無い暮らしだったはずだ。エコーが夜の仕事をしていたのも経済的な理由があったからに違いない。エコーは生きるために僕を捨てたのだと思う。
それより僕の本当の父についてだ。エコーや僕をそこまで追い詰めたのは他ならぬあの父なのだ。僕の年齢から考えて僕が産まれた時には既に父と母は結婚していたはずだった。だけどエコーと父の間に僕が産まれた。古い記憶が蘇る脇で新しい事実に打ちのめされそうだった。あの不遜で思いやりのない父と僕によりによって血の繋がりがあるなんて。
大家さんは僕の顔を見て父の若い頃の顔を思い出していた。赤信号の井之頭通りで僕はミラーに自分の顔を映してみる。病気になってからの父の土気色のやつれた顔と僕の顔とでは全然似てやしない。では父の顔を若返らせて少し太らせたらどうだろう。そう考えると恐ろしい事に僕と似てる気がしなくもない。はっとして何度も見返した。大家さんが僕の顔を見て父親似だと言った声がまた聞こえるようだ。
不快なまま梅ヶ丘に帰った頃には夜になっていた。ガレージに車を停めたとき庭先で長靴をはいた母が見えた。驚いたことに母は髪の毛も体もびっしょりと雨に濡れていてた。
車から降りた僕は枯れた鉢の並んだ脇を抜けて庭に直接入った。「母さん、どうしたの?」母は傘も差さず雨に打たれたままであった。こちらに気付いた母は顔をそむけて何も答えずそそくさと勝手口のの奥に入って行った。見ると勝手口の脇には園芸用のスコップが泥に汚れたまま置かれていた。
「どうしたの?急に庭仕事なんかして」庭の花壇の世話をしていて雨に降られたのだろうか。春の冷たい雨に打たれて寒い思いをしたに違いない。後を追い声を掛けるが、母は振りかえることもなく、そのまま浴室へ入ってしまった。廊下には母の冷たく濡れた足跡が寒々しく滲んでおり哀れなほどだった。
さっきの母の顔は青白く濡れきっていて涙の中に埋もれているみたいに見えた。それでいて、おっとりした母にしては珍しい厳しい表情に僕は戸惑った。こんな母の姿は珍しく不思議に思える。
暫く庭の世話なんか出来ていなかったはずった。たしかに昔から休むことに慣れていないようなところが母にはあった。働いて働いて、また働く様な人なのだ。
「おや、どら息子が雨のなか何処まで行ってたんだい?」
振り返るといつの間に忍び寄ったのか背後に祖母が立っていた。
「うわ!」パジャマ姿の祖母は一日部屋から一歩も出ていない様子であった。
「びっくりさせないでよ」
「ハリボテみたいにぼぉっと立ってるから気が付かないんだよ。刺客に襲われたらまず助からないね」
「自宅で刺客に襲われないか用心する人がどこにいるんだよ」
祖母は小さな木の針みたいなものを僕のみぞおちに何度も当てて笑った。
「いまので即死じゃよ」
祖母はなぜか耳かきを持っていた。
「耳かきの柄で孫を暗殺するな!今日は・・・というか今日もふざけてるよね」
相変わらずの祖母の口調に閉口させられる。このだらしない姿で元々は日本舞踊の師範だったというのだから恐れ入る。
「少し出掛けてただけだよ。それより母さんはどうしちゃったの? ずぶ濡れだったけど急に庭仕事を始めたの?」
「そりゃ、本当かい?」
祖母は母が雨に濡れながらも庭仕事ををしていたという事を知らなかった。
「あんなに働いたら、母さんの方が先に体を壊しちゃうよ」祖母は直ぐには何も答えなかった。
「アホすかポンタンがいつも心配ばかりさせるからだねぇ」
祖母は、考え抜いた揚句に僕に散々な言い方をした。結局僕が責められているだけだった。
「なにか母さんに話したの?」まさか子供が出来たことまで母さん話したのではないだろうか。祖母は僕の言葉をまともに聞かなかった。でも今日はボケた振りになんか騙されたりしない。
アリさんと♪アリさんが-ごっつんこ―♪
祖母は突然、今の状況と1ミリも関連しない鼻歌を口ずさみながら悠々と奥へ歩いていった。
「ちょっとぉ、僕の話し聞いてるの?」
どうやら祖母が母に何か喋ったと考えて間違いない。どれだけ元気なのかという健脚ぶりで祖母は歩いていった。これでまた母さんを心配させちゃうな。僕の分析では父の同意を取り付ける事ができれば、母を説得できると考えていた。でも祖母はきっと僕より先に母に話してしまい母は驚いてしまったに違いない。雨の中での突然の庭仕事もそれと関係しているのかもしれない。今すぐ父におばさんにもらった写真を見せて僕が条件をクリアしたのだと認めさせる必要があった。そうすれば父の同意を得た状態で母に改めて事情を説明できる。
こんな雨の日だからか父の部屋は薄暗かった。何だか薄ら寒かった。陰気臭い畳み張りの床の上に父は一人で何をするでもなく座っていた。
「寝てなくて平気なんですか?」
「何か成果が上がったのか?」今日も父は僕の質問には答えず、相変わらずの上から目線で僕に詰問した。「えぇ、父さんの指示した住所のアパートを尋ねてきましたよ」
「どうだった」父はやや身を乗り出すようにして言った。「約束は守ってもらえますよね。でなければ何も教えませんよ」父はまた苦虫を噛み潰したような表情をした。
「報告しなければ、お前の希望も叶えられんのだ」確かにそのとおりである。「判ったら早く言いなさい」腹が立つが仕方がない。僕はアパートに行った事、202号室に青野あずさはもう住んでいない事。そして隣のおばさんに会った事を伝えた。
「そのおばさんも青野あずさは引っ越したきり一度も戻ってこなかったと言っていました。僕が調べられたのはそこまでです。それ以上は手掛かりがないので判りませんでした」
父は、うぅっと低く小さく呻くような声を漏らした。眉間の皺が深くなった。
「気分が悪くなったんですか」答えない父をそれ以上心配する訳でもなく僕は続けた。
「やはり、青野あづさは僕の産みの母親ですね。どうして僕にそれを判らせようとしたんですか?今日もしも僕が青野あずさと顔を合わせる事になったらどうするつもりだったんですか?」
僕の声がつい大きくなった。母や祖母に聞かれてはまずいだろう。もう少し落ち着かなくていけない。
「そうか、やはり戻っていなかったか」父は自分だけと会話するようであった。
「そんな問題じゃないでしょう」僕の心の中に例えようの無い怒りが湧きあがって来た。僕はおばさんに貰ったあの写真を父の目の前に出して見せた。すぐに父の表情が硬くなるのが判った。
「父さん、貴方は母さんにどうしてこんな酷い事をしたんですか。母さんは僕が父さんと青野あずさの間に生まれた子供だって事を知っているんですか?」僕がずばりと父に言うと、父は初めて僕を見た。「もちろんだ、全部知っている」隠してあった宝箱を取り上げられた子供のように父の眼はぎらついていた。
「どうして僕はこの家に貰われてきたんですか?」だが父はまたも僕の問いには何も答えなかった。
「戻っているはずだったのだ。病気が治ったらあのアパートでまた暮らせるように手配してあったんだ」
ただ父は呻くようにそう言った。
「病気が治ったらって、どういう事ですか?」
エコーはあの部屋に戻るはずだった、だから父は一年分も家賃を先払いしたのだ。しかしエコーは戻らなかった。一年どころか、一五年以上経った今も戻ってこない。
「確かにお前は私の本当の息子だ。だからお前を養子に引き取る事になったんだ」
「何言ってるのか全然判りません。どうしてこんな事になったんですか?」
「お前が大人になったら、理由を全て話してお前を本当の母親に会わせる事になっていた。だが…。一度もアパートに戻ってくる事無く連絡もない」
「僕をアパートに行かせても青野あずさは部屋には住んでいなかった。僕を行かせたのはそれを確かめるためだったのですか?」
「そうだ、もう何年も前からいつか戻ってくるのではないかと思って時折様子を見に行っていた。だが体を壊してから数年の間は見に行けなかったのだ」
「過去の事情を話す前に、まずは青野あずさが戻ってきてないか僕に確かめさせたかったって訳ですね。本当にあなたは酷い人だ」
僕はさらに頭にきた。先に事情を話せばひょっとして僕があのアパートに行く事を拒むのではないかと考えたに違いない。僕を全く信用していないではないか。
「あんな変な条件を出して僕をアパートに行かせるなんて、どうかしてますよ」
父は暫く何も話さなかった。口を開くこともなく最低限の呼吸しかせず、僕のいる事すら忘れてしまったかのように宙を見つめていた。痴呆症が始まった老人のようで一瞬僕の背筋に震えが走った。今の父の意識がどこを向いてしまっているのか僕には容易に判った。
外の雨はさらに激しさを増していた。家の中が肌寒いのはそのせいかもしれなかった。父と僕とエコーの関係がようやく判った。だけどこれから僕は母と祖母に結婚と新しく産まれてくる子供の事をきちんと説明しなおさなくてはいけないのだ。
「これで、僕の結婚に反対したりしないですよね」
僕は父の条件を出来る限り満たしたはずだ。父は何も言わなかったが僕はむしろさっきの母の方が気がかりだった。