第七話 僕の事
第七話 僕の事
地図で見ると多摩川に繋がる支流のひとつに過ぎない。所々途切れて断片的に表示されているような小さな川だった。だけど地図に載ってない細くて弱々しい水の流れが繋がっていた。確かに道路を拡げたりするのに邪魔になって埋め立てられたり、地下を通るように治水工事されて目に見えなくなってしまっていた。そして僕らはそれらの川の事を少しずつ忘れていく。どこかの町に流れていた川が消えるとき、区画整理のためにコンクリートの筆でその流れが塗りつぶされたあと、その流れはいつか誰の記憶の中からも消え去っていく。そしてもっとみじめなのは、まだそこに流れているのに誰にも愛されない、地図にも曖昧にしか載っていない小さな川達だ。だれも振向く事無く誰にも名前を覚えてもらえないこの川もまたそんな川の一つだった。みすぼらしくても貧しい流れしかなくても確かに流れている。僕はその川べりを歩いていた。おぼろげな記憶では幼い頃にエコーと歩いていたはずの川べりの道を。
アパートから歩いてすぐにその川べりの道がある。川幅はせいぜい五メートル程度、浅く均一の深さでずっと川下へ流れていく緩やかな流れ方は川底にブルドーザーを入れて人工的に均した結果に違いなかった。川べりには古い記憶にあるような雑草は繁っておらずコンクリートの遊歩道が丁寧に敷かれている。それはまだ新しかった。やや重い曇空の青色と、元気のない薄灰色の雲が疲れたような温い流れに映っている。川上に目を移すと電車の走る橋梁が一つきり見えた。アパートの裏を走っていた線路はここも通り道としていた。記憶の中の雰囲気とは随分変わってしまったようだった。ただ桜の木はまだ残っていた。こんなに少なかったんだ。僕はこの川べりの続く距離に比べて、植えられた桜の木の本数の少なさに唖然とした。桜は幾つもの枝からつぼみが垂れており。そのうちには既に花を咲かせたものもある。来週には満開になるのではないか。そう思わせる伸びやかな強さを持ったつぼみだったが、桜の木は僕の記憶のなかにある本数より少なく疎らにしか植わっていない。ひょっとすると川べりを舗装する際に切られた桜もあったのかもしれなかった。
あの川べりの雑草に交じって咲いていた花たちはもう跡形もなくなっていて、決して戻すことはできない。嫌でも僕はいまのこの川の流れを見る事しかできないのだった。だけど記憶と言うのは凄いもので、川の流れを遡るように僕の心の中にあの頃の風景が蘇ってくるのがわかった。そうだ。確かに僕はここをエコーと歩いていた。雑草が伸び放題になった石ころだらけの道を、川を渡る涼しい風を、虫の声を、僕と手をつないだあの白く透き通るような指、あれはエコーの手だ。弱くて冷たいエコーの手だ。
あぁ、エコー。やっと思い出したよ、遅くなったけどこの川べりの道にやっと帰ってきたよ。
子供の頃よりきれいで固く舗装された遊歩道は何だか靴擦れがしてしまいそうで変な感じだったけど、慣れない足取りでよちよちと歩くたびに僕はひとつひとつの言葉さえも取り戻していけそうだった。エコーが僕を捨てた理由以外は。
大家さんの家は確かに教わった通りの場所に直ぐに見つかった。綺麗になった遊歩道から降りるために設けられたコンクリートの階段の下の狭い道路に面した3階建ての大きくて、立派な妻飾りのある家だった。門柱のドアホンを鳴らす。
「すみません。昔、寿アパートに住んでいたものです」返事をする女性の声がドアホンのスピーカーから聞こえると程無く奥の扉が開いた。呼び出した大家さんは白髪の上品そうなお婆さんだった。和服を着て出てきたその姿にちょっと恐縮してしまう。
「どんな御用でしょうか?」
おっとりと話す柔らかい品の良い人だった。話を聞くと大家さん本人は出かけて不在でありこのお婆さんは大家さんの奥様だという。
「大家さんに尋ねたいことがあって来たんです」僕はこのお婆さんを大家さんと呼んで話していた。大家さんにさっき貰った写真を見せた。
「あぁ覚えていますよ」
15年以上も前だというのに大家さんは結び目が溶けたように笑顔になり僕を懐かしむ様な目で見てくれた。
「たしかねぇ・・・」大家さんは家の奥から引っ張り出してきたらしい埃をかぶった古い台帳を丁寧に調べてくれた。僕は横から覗き込むように盗み見た。そこには生母の名前が書かれているはずだった。
「そうそう、青野さんね」大家さんは眼鏡をうまくずらしながら、台帳の小さな字を読んでいた。
「貴方のお名前は?」
「僕は正将。正しいに将軍の将と書きます」
「じゃぁ、間違いありませんね」
確かに202号室には僕とエコーが住んでいた記録が残っていた。ちょうど十七年前の三月。だから僕が五歳のときの三月だ。
「でも当時の青野さんの引っ越し先は判りません。そういう事について逐一尋ねないものですから」
桜が咲く時期の少し前、今日と同じような日にエコーはあの寿アパートから引っ越した。大家さんにも、隣のおばさんにも行先を告げずに。一人でどこへ行ったのだろうか。
「でも貴方、息子さんがお母さんを探さすなんておかしいわね」
息子が親を探すのに昔住んでいたアパートの大家を訪ねる事があるだろうか。不審に思うはずである。
「実は訳があって、僕は子供の頃に養子に出されたんです。それで僕も生みの母がどこにいるのか知らないのです」
訳を話すと大家さんは、ただ深く息をのみ込むようなしぐさをして言った。
「でも私のところに来られても、もう退去された方の事までは判りかねます」
「色々と事情がありまして、何か少しでも手がかりが判れば」
さすがに彼女と彼女との間にできた子供と三人一緒に実家に帰るための条件です、等という様な理由を話すわけにも行かず、しどろもどろになりながら僕は汗を拭っていた。大家さんにしても、それ以上エコーの事を知らないようだった。
「捜すなんて無粋な事はおよしになれば如何でしょうか?」大家さんは、子供を手放すという重い決断をしたエコーを無遠慮に捜す事は良くないと言った。
「まして、今になって会う事は手放すと決断した気持ちを、また後悔のどん底に落とし込むような真似ではないでしょうか」
「まぁ今頃は別の人と再婚したりしてるかも知れないから、僕が直接会ったりする事は無いと思います」
もちろん僕の目的は直接会う事ではない。
「大切な要件でもない限り、探したりもしないものよ。失礼ですが貴方の今のお母様は貴方が産みの母親を探している事をご存じなのですか?」
大家さんはそう言って僕をたしなめようとする。。
「それは……僕には僕の理由が有るんです。今の母親だって判ってくれますよ。産みの母親にだって直接会って困らせるような事はしませんから」
「例えばその姿を遠くから見るだけだとしても、やっぱりお母様がお気の毒だと思います。それに見れば直接会って話をしたくなるのではないでしょうか」
「僕は産みの母親に捨てられたようなものです。僕もどんな顔して会ったら良いか判りませんよ。だから会いません。捨てられた者にしかわからない気持ちです」
待って欲しい、大家さんは知らないけど僕はエコーに捨てられたのだし、手放すだなんて緩い言葉に置き換えられても困るのだ。なんだかムキになって言い返してしまったと僕は気恥ずかしい気持ちでいた。でも僕は産まれてくる子供のためにも父の条件をクリアしなくてはいけない。
「いいえ、子供捨てるだなんてそんな事が出来る母親がどこに居るもんですか」大家さんはいう事を聞かない子供を叱るような口調でこう言った。
「子供を捨てる親なんかいませんよ。子供を捨てるって言う事は自分を捨てるのと同じことなんですよ。養子を受けて他所の子を預かるって事には相当な覚悟が必要でしょう。その母親の人生まで背負うって事です。出す方も受ける方も一生背負うのです」
そう言われると僕も言い返せなくなった。
「だから安心なさい、何か事情があって手放さなくていけなくなったんです。そしてその事情はその母親が幸せになるためではなく、きっと貴方の幸せのためでしょう」
大家さんは決して僕について本当の事情を知っている訳ではないと言った。だが自分の事を絡めて話すだけに口調に重さを感じて僕は圧倒されていた。確かに捨てたというのは僕の思い込みかもしれないし、祖父が言ってた事を鵜呑みにしているだけかもしれないのだ。
「僕が産みの母と暮らしていたのは小さい時だけですから、あまり覚えてなくて。あのアパートで僕は母と二人暮らしで、確か母は夜の仕事をしていたと思います。帰りはいつも深夜だったから」
「そうですよ、部屋をお貸しするときに勤め先をお聞きした記録が残っていますから。そうそう府中市の飲食店と書かれていますね。でも名前からしてスナックとかそういう類のお店だと思います。昔は女手一つで育てるってことは大変だし部屋を貸す側として念入りに確認させていただいた記憶があります」
大家さんは、しばらく遠くを思い出すように目を瞑っていた。
「私には子供がいませんが、若い頃に流産して産んであげられなかった子供がいました。貴方は男性だから判らないのかもしれませんが、子供を産めなかった私には罪悪感が残ったんです。道を歩く親子を見ても憎くて堪らない気持ちになりました。人の子を奪って育ててやろうと何度思った事か」
「冗談に聞こえて冗談ではないのです」と、大家さんは言った。知らないうちに大家さんの心の傷に触れてしまったようだった。立派な家を見ても大家さんが裕福で良い暮らしをしている事が判る。裕福な暮らしであっても、女性の幸せのある部分にとって助けにならないのかも知れなかった。
人づてにエコーと僕の足跡を追って来る事になってしまった。エコーは僕を育てるために府中市内のスナックで働いて生活していた。父の会社があるのも府中市である。そういう所からエコーと父や祖父になんらかの繋がりが出来た可能性もあった。むろん父に聞いても教えてくれそうにないのだが。
大家さんはまじまじと僕を見て言った「やっぱり面影がありますね。貴方はお父様に似ているもの。やっぱり本物の息子さんね」「え?」大家さんが言う言葉に僕は腰を抜かすかと思う程驚いた。これまで考えた事がなかった。自分は父親似だったなんて。はっと気がついて僕は言った。
「父親って…産みの母と僕は二人だけで暮らしていたんじゃなかったんですか?」
大家さんは僕が父親の事も知らない事にもっと驚いたようだった。しかし僕は大家さんにどんな事でもいいから父親についても教えてほしいと頼み込んだ。
「アパートには貴方とお母様と二人だけで住んでいらっしゃいました。でもお父様が支援されていた様ですね。同居されていなかったようですけど。青野さんが部屋を退去される少し前に、その方が何故か家賃を一年分前払いをするためにいらっしゃった事がありました。赤い色のメルセデスベンツに乗っていらしたから珍しくて印象に残っています」初めての僕の本当の父親の情報に声も出せないほど驚いた。
「青野さんが一度退去するが、もう一度戻ってくるので一年分前払いするとおっしゃいまして、本当はお受けできないのですがどうしてもという事で一年間部屋の契約延長をしました」
実の父親の話を聞く事は初めてだった。これまの僕の意識の中に本当の父親の事なんてどこにも無かった位だった。
「もし一年たっても戻らなかったらそのまま部屋は解約扱いで構わないとおっしゃいましたね。そして部屋にはその後どなたも戻ってきませんでした」
「そんな事があったんですか?」
「変わったお話だったから覚えています。どこかに入院でもされるのかってお聞きしたような気がします。でも貴方のお父様は何も言わずに立ち去られました。正直言って顔は不確かにしか覚えていませんでしたが、貴方を見てはっきり思い出しました。それくらい貴方と当時のお父様は似ています」
僕の顔は父親に似ているという。僕は思わず自分の顔を両手で覆った。手のひらに頬骨の硬さや鼻の形を感じた。
「でもお貴方のお父様の事はそれ以外に判りません。そのまま二度と現れなかったんです」
今の話の中で一つ気になる事があった。赤いメルセデス…僕の本当の父親が乗っていたという車の事だ。でも僕は知っている。僕が小学生の頃まで梅ヶ丘の父が乗っていた車は確かに赤いメルセデスだった。車が好きだった僕はその車の種類を知っていたのだ。僕の中で疑惑が産まれた。
「僕は父親の名前も知らないんです。その人の名前を教えてもらえませんか?」
大家さんはすぐには言うのに躊躇っていた。「たぶん、田中って名前だと思います。そうですよね?」
僕が言うと大家さんはその古い台帳を開いて僕に見せてくれた。「そうですね。借主はお母様の青野あづささん。そして保証人の名前は田中哲也さん」
僕はもう一度自分の顔を両の手で覆った。その形を指でなぞった。田中哲也は梅ヶ丘にいる僕の父の名前だった。
*
ねぇ、エコー。
僕が寝息を立てるまで君は森のように僕を包む。
僕は君を力いっぱい抱きしめた。エコーが大好きだよって、僕は君にささやいた。
君はうっとりと僕を見つめていた。
その顔が不意にどこか遠くを見ているように感じて僕は驚く。
でも君は落ち着いた言葉で、”この好きは、世界の誰にも内緒の好きだね”と言った。
そして好きという言葉は、誰にも聞かれないように言うものだと。
僕達は世界から切り取られた破片のようだったね。