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第六話 昔の事

  第六話   昔の事



マー君と言う呼び方が僕の幼い頃の記憶を呼び覚ました。

「あ、いや僕は……」「マー君じゃないの。戻ってきたのかい?」

 さっき、あの電車を見た時くらいから、古い記憶と現在の記憶が混ざってようではなかったか。僕は自問する。

「はい、帰ってきました」思わず言ってしまった。

「やっぱり。まぁよく帰ってきたね。まぁ嬉しい」

 ちょっと昔の事を覚えています風に会話した方が良いのかな、そう僕は思った。しかし打算的に考える自分とは別の自分がこのアパートに住んでいた幼い頃の記憶を少しづつ蘇らせている自分がいる事も感じていた。もう一人の自分の記憶が曼荼羅のように回転し始めて、小学校も、中学校も高校もこのアパートから通っていたような気すらしている。そんな事は絶対にないのに。なぜこんなに混濁していくのだろうか。それにおばさんがこんなに歳をとってしまっている事すら不思議に思えた。僕はとなりのおばさんの事すら思い出し始めていた。

「変な質問の仕方をしてごめんなさい。ここに僕が住んでいたのは幼い頃だったから自分でもあまりよく思い出せないんです」

 おばさんは少し困惑した表情を浮かべた。「マー君、今はどこで暮らしてるの?」

「僕は養子に貰われて、いまは田中って苗字です」

「そうかい、やっぱりママとは離れ離れになったんだね」

「はい。僕だけが今の家に引き取られましたから」 

 苦労してるんだろうと言わんばかりに眉を下げておばさんは僕に向かってうんうんと何度か頷いた。判ってるよと言ってくれているような前傾姿勢の優しさも僕は嫌いではなかった。 

「そうだよね。マー君が居なくなったのは小学生に上がる前だったものねぇ」おばさんはまるで僕を小さな子供を扱う様な口調で話した。

「この202号室には、もう誰も住んでないって言いましたよね」僕は、聞かなくてはならない事を思い切って尋ねた。「僕の母はどこに引っ越したのかご存じありませんか?」

「え、知らないのかい?」

 僕は何としてもこの部屋に住んでいた人が、今どうしているかを知って父に教えなくてはいけないのだ。しかし駄菓子屋で売っている10円饅頭のように小さくて丸いおばさんの顔が日中の朝顔のように萎んだのが判った。

「そうね、マー君がいなくなってすぐ私にも何も言わずに引っ越ししたのよ」

「連絡先も判らないんですか?」

 おばさんによると、このアパートで僕達親子は二人で慎ましく暮らしていたという。ところがあるとき僕は居なくなり、次いで誰にも告げずに母は夜逃げ同然にこの部屋を引き払ったそうだ。おばさんは、生母の居所を知らなかったが僕が産みの母親と別れて暮らしていたと聞いてとっても気の毒に思ってくれたようだった。でも親に捨てられて施設暮らしせずに済んだのは今の父母に引き取られたからだ。この古臭いアパートで暮らす事に比べれば今の暮らしの方が良いに決まっている。

「だけどね、マー君。あんたの小さい頃の写真があるよ。見ていきなよ」

おばさんは、僕の手を引き部屋に招き入れた。断る間もなく僕は初めて会ったのと同じくらい覚えていないおばさんの家に上がった。

 すぐに、つーんと鼻の奥に熱いものが通った気がした。アパートを見つけたときと同じ感覚だ。見覚えのある部屋のような気がした。間取りは隣の202号室と同じはずだろう。2DKの狭い部屋には小さなTVの外にはミシンとその台が目立っていた。昼間でも薄暗いのは窓の外にさっき外で見えた高架線路の外壁が迫っているからだろう。この部屋には梅ヶ丘の父の部屋で感じた年寄り臭さとは違う、朽ち果てた空家に似た臭いがしていた。

「お茶入れるから少し待ってね」おばさんは台所のコンロに火を付けた。一人暮らしだと普段はお茶も沸かさないのだという。確かに部屋の隅には空いたお茶のペットボトルが片付けられている。一人身では料理などしないのかも知れなかった。玄関脇の台所に立つおばさんが「マー君、お昼ごはんは食べたの?」と聞いてきた。「といっても、お茶漬けしかないんだけどさぁ」ごめんねと悪びれずに言うと、おばさんは僕の返事も聞かずに準備を始めた。「いや、お構いなく」僕は断った。所詮お茶漬けである。おばさんは、それにも拘らずニコニコと憎めない笑顔を浮かべてお茶碗にご飯をよそい、冷蔵庫から何か出している。「その……」言っても無駄だろう。おばさんのうきうきした顔が微笑ましくて止められなかった。

 五分もせずに何の変哲もない昆布が載っただけのお茶漬けが卓に湯気を湛えながら運ばれてきた。

「ごめんね。一人暮らしって駄目よね。何もしない癖が付いちゃって」

「いえ、美味しそうですよ。丁度お腹が減っていて」二十代の僕の食事の量としては明らかに不足しているのだが、おばさんの嬉しそうな顔を見ると何も言えなかった。

 おばさんは旦那さんが亡くなってからは一人で年金暮らし。たまに会える孫との時間を楽しみに暮らしていると言う。「ちょうど良かった。人が来てくれて」そういうのを聞くと僕は自分が体の良い話し相手にされた気がする。あっという間に一膳きりのお茶漬けを食べ終えると、それを見たおばさんは何やら大したことない話をし水屋から饅頭をお茶菓子に持ってきた。とにかく何か食べさせようとするところが母に似ていると思った。

「こんな安いアパートにはわたしみたいな年寄りか、あとは貧乏人ばかりが住んでるんだよ」

おばさんが言う事は、僕とエコーが暮らしていた時の事を言っているように聞こえた。

「あまり小さい時の事は覚えてなくて」

「仲良かったよ、あんた達はいつも二人でくっついて暮らしていたんだよ」

ほらと、おばさんは古い写真を出してきた。使い捨てカメラだと色あせが早いのだと言うおばさんの出してきた写真には、若い女性と小さな頃の僕らしき子供が映っていた。これが僕の産みの母親か。

「昔この写真を見せてもらった時に忘れていってね。だから一枚っきりしかないんだけどね」

 僕は無言で写真に見入った。そのひとはとても綺麗な人だった。でも悪く言うと派手だった。明るい金髪に染めた髪。強めの赤いリップ。顔立ちだけでなく服装も含めて見た目が派手だった。そのせいか、やっと見る事ができた産みの親の顔という愛おしさを感じなかった。正直言うと駅前商店街の福引で白い玉が落ちた時に似た軽いはずれ感すら感じた。

「親子っていうより恋人同士みたいだった。そんな感じだったんだよ」

予想外のおばさんの言葉に僕は戸惑った。幼い僕と母親が恋人同士なんて想像しがたい表現だと思った。

「まぁ、それ位いつでも一緒に居たってことだけどね」

戸惑う僕に向かって、饅頭をかじりながらおばさんは言った。「でも写真を見ても思い出さないなんて、仕方ない事だけど何だか切ないわね」

 僕はふと写真に写る二人の背景に見えるものに気が付いた。

「この写真って遊園地で写してますよね?」「そう?」おばさんもあらためて写真を覗きこむように目を細めた。「ほら、この端っこに小さく写っている赤いものは観覧車のゴンドラに見えませんか?」

二人の写る写真の背景には白い夾竹桃の花がいっぱい咲いた木々が映っていた。そして、その枝の隙間からさらに遠くの方にゴンドラを回す観覧車があるように見える。

「どこでしょうか?この遊園地」

「写真を見せてもらった時に聞いたような気もするけど。悪いけど忘れちゃったよ」

「そうですか、僕も写真を見てもこの場所について何も思い出せなんです」

 おばさんは、また僕を可哀想にと心配してくれた。「でもきっと、遠いところじゃないよ。だって車も持ってないんだから。電車やバスで日帰りの場所だよ」

「この写真を僕に頂けませんか?この遊園地を探してみたいんです」口をついてでた言葉だった。本心で探そうとは思っていなかった。ただ写真を持って帰れば父に対して僕がきちんと働いたことを示す証拠品になると思っただけだった。

「いいよ。是非そうなさい」おばさんは感激したように目を細めた。そして帰る僕にさっきの饅頭をいくつか袋に入れて持たせようとした。ふと、気が付いて僕はおばさんに尋ねた。

「僕の小さい頃ってアパートの裏の線路に貨物列車が走ってた事がありますか?」

 不意の僕の質問におばさんは暫く考えていたが。ぱちんと手を叩いて真ん丸に見開いた目で言った。

「あった、あった。貨物列車でしょ。走ってたわよ。よく覚えてたねぇ」

 そうなのだ、ぼくの記憶の中の貨物列車はやっぱりエコーと暮らしていた時に部屋の窓から見た景色だった。知れば知るほど、僕の中のエコーは形を取り戻していくようだった。

「他にも知りたい事があったら、聞きにくるんだよ」

 おばさんは僕がエコーの事を調べているのだと思っているのだろう。僕の記憶の中でアパートでエコーと暮らしていたときと、梅ヶ丘の屋敷で暮らしている時の記憶が取り換えられている。解明したいのはむしろそっちの方だった。僕を捨てたは母に会うつもりはない。そう言うとおばさんが悲しみそうなので僕は適当に嬉しそうな表情をしてみる。それだけでおばさんが喜んでくれるので悪い気はしなかった。

 部屋の奥にはミシン台があった。青い布が組まれている。

「なんですか。あれは?」おばさんは孫のためにキルトの手さげかばんを縫うのだという。見ると向こうにも同じような形をしたかばんか袋のような縫物が完成していた。「あれもお孫さんのものですか?」僕は不思議に思った。「どうして、渡さないんですか、上手に仕上がらなかったとか?」

「あぁ、見つかっちゃったかね」おばさんは恥ずかしそうに言った。「ほんとはね。もう何年も孫には会ってないんよ」おばさんは孫に会っていないにも関わらずかばんを幾つも縫っていたのだ。

「息子夫婦が離婚してね。別れた母親が孫に会わせてくれないんだよ」おばさんの顔が苦しそうに歪んだ。見た事のない表情だった。

「頼んでもダメなんですか?」

「そうだね。きっと再婚するつもりなんだろう。だから父親やその家族、私なんかには会わせたくないんだろうね」

 おばさんは孫の事をとても可愛がっていた。一人息子の初孫なのだからなおさらだろう。そして想い描いていた夢は孫の小学校の入学式に出る事だった。しかし、その少し前に息子夫婦が離婚して、それ以来おばさんはお孫さんに会っていない。いまは高校生になっている年齢だそうだ。

「なかなか思う通りにはいかないものなのよねぇ」ため息交じりにつぶやいたおばさんの肩に白髪交じりの髪が力なく垂れかかった。「なんか、ごめんなさい」僕は余計な事を聞いて悪かったかなと思った。でもおばさんは気丈な笑顔を見せて、「仕方ないのよ」と、それ以外にやりようのない固い笑顔を無理に作っておばさんはそう言った。「でもね、生きていればいつかまた会えるかもしれないじゃない。だから作っているのよ」おばさんは手作りのかばんを指でひょいと持ち上げて僕の目の前で揺らせて見せた。いまどきの高校生が好きになりそうもない”身内の手作り感”が満載の冴えないデザイン。だとしても…いや違う。だからこそ僕にはとても素敵なかばんに思えたのだ。お孫さん本人はおばさんが、こんなかばんを作っている事なんてきっと知らないだろう。

「実は僕も言ってない事があったんです」何を思ったのか僕は自分が話し出した事に戸惑った。

「僕が養子に出されたのは母親が僕を捨てたからなんです」僕の言葉におばさんの口元がきゅっと閉まって、心配そうな表情に変わった。「だけどこのアパートに来てみると古い記憶が少し戻ってくるようで、何だか懐かしく感じるんです。変ですよね、僕は捨てられてここを去ったのに」僕がそういうとおばさんの漫画のような10円饅頭の顔が引き締まった。「なんて事言うの。ママがマー君の事を捨てる訳ないじゃないの。きっと何か事情があったのよ」おばさんが言いたくなる気持ちはわかるが事実は一つである。もちろん事情があったのだろう、それは例えば貧困とかかもしれないけど、僕はあるとき突然に田中家で暮らす事になったのだ。それにかわりはない。

「そうですね。悪く言っちゃだめですよね」僕はおばさんに対しては取り繕う様にそう言った。「僕が養子に貰われた理由はよく知らないんです。本当に子供の頃の事はあまり覚えてなくて。ただ母親の事を僕はエコーってあだ名で呼んでいたみたいなんです。それだけは覚えていました」

 すると、おばさんは被りを振って否定した。「そうなのかい?おかしいね。いつもマー君はママ、ママって呼んでいたのよ。私の方がはっきり覚えてるけどねぇ」

 それを聞いて僕は驚いた。このアパートでは僕は産みの母親をママと呼んでいたのなら、僕の記憶にあるエコーというあだ名は何なのだろうか。

「マー君は、いつもママと仲良しだったのよ。いっしょに川べりを散歩したり、このアパートの前で自転車に乗る練習をしたりしてたのよ」

「近くに川があった事はなんとなく覚えてるんです。小さな川で、ゆっくりと流れていて。たしか川べりといっても道もないような感じの」僕の頭の中にある風景が浮かぶ。それは都内の整備された河川敷のように舗装されて遊歩道のようになっているのとは真逆の狭く両側の土手に雑草が無精に覆う寂しい川だった。

「そうね。昔はそんな感じだったのよ。いまはもう少し綺麗になっていると思うけど」

川べりの道と聞いて無性にそこに行きたくなってきた。エコーの事をもっと思い出したくなっている自分がいる。

「そうよ、大家さんの家を尋ねてご覧なさい。丁度その川べりに大家さんのお家があるのよ」

おばさんは、僕の気持を煽るように言う。「それがいいわよ。大家さんの家の住所を教えてあげる」

 おばさんは僕に大家さんの家の住所をメモして持たせてくれた。そして「どこかで元気でマー君が生きている。そう思う事を支えに生きていると思うわよ」おばさんは気丈な笑顔を見せて僕を見送ってくれた。帰り道に僕はあの真ん丸の笑顔が何かに似ていると思った。確か自分の顔を食べさせて子供を救うTVヒーローがいたっけ。

 古びた塀の脇を歩く僕の手には真ん丸の饅頭が入ったナイロン袋が揺れていた。



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