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第五話 尋ね人

     第五話    尋ね人


 父の車を借りて僕は環七を北へ走らせた。メモの住所には国分寺市とあった。明治大学の横を抜けて井之頭通りへ入り、今度は西へと車を走らせる。産みの母親の話題は出さない環境で育ってきたというのに、急に父の考えが判らなくなった。

 僕の養子縁組を仕切ったのは死んだ祖父だった。父はまた祖父とは違う考えを持っていて、僕の今回の結婚話をきっかけに産みの母に会わせようとしているのだろうか。理由がさっぱりわからない。会わせる前に産みの母についてもっと詳しく教えてくれてもいいはずだ。父は僕にはその名前すら教えなかった事も腑に落ちなかった。

 一年中混んでいる井之頭通りをたった30キロ程走らせるのに2時間近く掛かった。ようやく国分寺市内に入った頃にはお昼を過ぎていた。

 嫌な用事を抱えてきたというのに国分寺の市街で車を降りると春のそよ風が体に柔らかく当たった。西国分寺駅前の市道を抜けると程なくメモに書かれた住所に着くはずだった。父の大きな四輪駆動車を駐車場に停め、いよいよ生母の住むところに向かう。

 3丁目2-5 寿アパート202号室。昭和っぽい寂れた名前のアパートだった。例えこのアパートが既にこの世のどこにも無かったとしても僕は不思議に思わないだろう。父の記憶の中に有ったというそれだけのことだ。そして僕の記憶にはもう残っていないのだ。父の言うとおり僕はその住所の部屋にどんな人が住んでいるかを見て帰ろうと思っていた。もし生母らしき女性が目の前に現れても僕は素知らぬ顔をするはずだ。

 幼かった頃に住んでいた町が同じ東京にあった事に驚いた。さほど広くない市道の両脇には運送トラックが所々駐車してしている。平日の昼間では歩く人もそれ程多くない。そこから薄暗い脇道に入ると綾とりに指を通すような迷路の道だった。道の奥に意識が吸い寄せられていく。僕が5歳まで住んでいたのはこんな街だったのだ。 

 ただ十五年も経てば街も変わる。さっきから郷愁など微塵も湧いてこないのは当然だろう。河原の葦のように生い茂る灰色の電信柱に巻かれた緑色に塗られた鉄の、その地番の表示を確かめながら小路をまた右へ折れる。駅前の風はこの小路にまでは抜けてこないようだった。舗装はのアスファルトが真新しい本当の黒色だった。何度か塗りなおされた家々の壁が時間の経過を表していた。

 不意に景色がセピア色に見えて、僕は現在の国分寺から僕が幼かったあの頃の国分寺の町に、これっぽっちも覚えていないにも関わらず既知の光景であるかのような錯覚に陥った。いつのまにか地図を捨て、見ず知らずの初めてのご近所の馴染みの通りを迷うことなく歩いていた。

 裏町に立ち入ると人の気配はなく薄暗くかび臭い、舗装すらも歪んだような荒れた小路だった。薄灰色のひびの入ったコンクリート建ての建物があると思うと、その隣にも同じようにひび割れたコンクリートで出来た建物が小路の両側に沿って、僕を挟み込むように向かい合わせで立っていた。薄緑色の濁ったようなガラス窓がほぼ規則正しく並んだ建物は、その一対だけでなくその奥にもまたその奥にもあり、そのまま向こうを遠くまで見ると一列に並んだ灰色の建物は車もすれ違えないこの狭い小路に沿って際限なく続いていた。薄暗くまるで森のようだった。

 既視感を幻惑に違和感を感じながら導かれるように歩いていくと、不意に手が触れるその電信柱には2丁目4と書かれている事に気が付いた。その10mも向こう側には左へ折れる曲がり角があり、薄らと陽の光が漏れていた。それは迷路の出口に似ていた。半ば確信的に角を一息に曲がった時、僕の耳に揺さぶるような轟音が鳴り響いた。あっと思わず声をあげた僕の目には、鋼鉄の線路を叩きながら疾走する一列の電車が映った。唸り声をあげる黄色い車体はすぐに周りの建物の陰に隠れて見えなくなった。驚いた僕が次に見た曲がり角の先に続いていたのもさっきまでと同じように狭い小路だった。ただ両側の壁に挟まれた狭い視野の向こうには右から左へ瞬きより早く電車が流れていくのだった。あぁ此処は僕の生まれた町ではないか。そうだよと誰かの声が聞こえた気がする。不思議な事にそれは自分自身の声に似ていた。 線路の目の前まで進んでいくと、遠くにカンカンと踏切の鳴る音が掠れそうに聞こえた。左側に線路に沿った小路が続いている。その突きあたりに2階建ての古そうなアパートがあった。薄暗い小路に漏れる陽に照らし出されていた。間違いなくこのアパートだった。子供の頃の記憶は曖昧だったが、構わず僕は住所の書かれたメモも見ずに近寄って行った。やはり父は僕を生母に会わせようというのだろうか。

 アパートは古い昭和の木造の作りであった。敷地にエントランスなど無く湿った壁の建物には道路に面して木のドアが5つ並んでいる。2階への階段は建物の外に取り付けられており誰もが知っているような、よくあるアパートの作りだった。表の塀には寿アパートと書かれていた。はっきりと覚えてはいないのだが知っている。そんな再会だった。

 一歩踏み入れると、途端に先程まで遠くに聞こえていた雑踏も聞こえなくなった。錆びついた手摺をなんどか塗り直したような外階段を昇ったところにも一階と同じように部屋が並んでいる。周りにもこのアパートにも人の気配はなく、生母との再会になんとなく気後れしている僕はその気配の無さに妙に安心していた。だけど僕は今しがたこのアパートのすぐ裏を通る電車を見てから、そしてアパートにたどり着いてからはもう今が昔の幼い頃の自分に、どんどんとお伽話のように意識が後退していくようであった。この階段に座って帰りの遅い生母を待っていた日、階段を昇っていくぎしぎしと鉄の踏板が外れそうになる。2階の廊下に立つと目の前にはすぐに目当ての202号室があった。いきなりドアの前に立っていいのだろうか。いきなり対面する度胸は無かった。そうだ、家の中にいるなのか、それとも留守なのかを確かめる程度でいいのだ。僕はドアの向こうの様子に耳を澄ませた。しかしふと見ると表札は上がっていなかった。ドアの上の電力メーターも全く回転していなかった。空家のようだった。

 階下をみると敷地と道路を隔てるブロック塀の内側に小さく咲くタンポポがあった。少し早咲きのタンポポであった。生母であったなら珍しそうに見に行ったであろう。そういう人だった。いや、そんな人だったような気がする。

 人っ気のないアパートに一部屋だけ中から物音がする部屋がった。202号室の隣。201号室だった。そしてドアが不意に開いて中から背の曲がった初老の女が一人現われた。

「うぎゃっ」女は驚いてドアノブに手を掛けたまま訝しげに僕の全体を凝視した。待ち構えていたかのように見えたのは僕の方だけだった。

「あの、人を尋ねて来たんですが」僕は焦って言い訳がましく自分から話しかけた。

「どちらさん?」すっかり白髪頭のその女はドアの奥に半分身を隠しながら眼鏡の奥の警戒した眼をこちらに向けた。

「僕は……」不意に自分の正体がばれるのを避けて僕は名乗るのをやめた。「いや、人を探しているのですが、この202号室には何という方がお住まいなんですか?」

 我ながら怪しい問いかけ方だ。大体、尋ね人の名前を言わないなんて疑ってくれと言わんばかりだ。案の定その女は返事もせず疑惑の目でこちらを見ていた。ふと気が付いて僕はその女をまじまじと見た。歳の頃は六十歳前後というところだろうか。

「その部屋には誰も住んでないよ。さっさと帰ってちょうだい。帰らないなら警察を呼ぶよ」

女は早口で言うと、恐らくワザと大きな音を鳴らしてドアを閉めてしまった。

「あ、あの」

むしろ余計に不審者だと疑われたに違いない。部屋の中で女が110番に電話している姿が目に浮かんだ。

「なんだか、うまく行かないなぁ」僕は仕方なく退散する事にした。一旦引き下がるだけで夕方にまた来てもいいのだ。今度は離れたところから張り込みをして誰か202号室に立ち入るものを見つけるという方法でもいいだろう。その部屋の住人がどうしているか見てくればいいのだ。

 すると、再び201号室のドアが開いてさっきの女が出てきた。「あんた、もしかしてマー君かい?」つっかけを素足に履いてバタバタと飛び出した女は僕に言った。


 *



 ねぇ、エコー。

 誰も訪ねて来るわけでもない部屋の中にはチョコレート色の小さなちゃぶ台が一つきりあったね。

 それ以外に殆ど何もなくて僕たちはお互いがお互いだけを持ち合っていたんだ。

 何もする事が無いそんな日には、ただ静かに雨音を聞いた。

 そして空に薄日が差し始めるのを僕たちは寄り添って待っていた。

 もう永遠に続くかのようなある梅雨の日に、君はどこからか外国の匂いのする紅茶を出してきた。

 それがひととき雨の匂いを掻き消して僕たちは誰にも秘密の笑顔を二人っきりで楽しんだのさ。

 

 ねぇエコー。怖いものなんて何もなかったよね。



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