第四話 もめ事
第四話 もめ事
祖母は奥の和室で大抵一人でおり、そのまま夜まで過ごす。僕が中学生になる頃までは日本舞踊を人に教えたりして、いつも沢山の弟子たちに囲まれていた。近頃では部屋から出る事もない様子だった。元々母は祖母の弟子のひとりである。でも祖母が舞踊を教える姿を覚えているものはもういないだろう。今ではもう祖母の元を訪ねて来るものは殆どいない。あの大勢いた弟子たちの中で祖母の元に残ったのは母だけだった。
祖母は、座椅子に座って半分眠ったような顔でぼんやりと宙を眺めていた。「元気そうだね」本当は二年ぶりに見る祖母が痩せたように見えた。祖母は僕の声に気づいてきょろりと僕の方へ眼をやった。古くなった風船のように萎んだ目が僕を見つけると「あら帰ってたのかい」薄ら嬉しそうな声を出した。僕を見るとき祖母はいつも霞んだような表情をして微笑む。目が悪いせいだろう。それが苦い表情に見えて僕はときどき戸惑う。
「もう春だね、外は暖かくなってきたよ。庭に散歩に出ないかな?」祖母は何も答えなかった。
「ねぇ、話があるんだけど」意を決して切り出すと祖母がしわしわの手を止めた。
「か、ら、し? 辛子があるって何を食べるんだい?」
「辛子じゃねぇし。は、な、し、だよ。話があるの!」祖母の耳が遠くなってきている。祖母の方も会話するのが億劫でよく聞こえないふりをしたりする事もあった。
「ねえ、聞いてる?」「・・・。」
「ねぇ」「・・・。」
「お小遣いあげようか?」
「ほんとかい?」
「・・・うそ」
「ありゃまぁ」祖母はにんまりと笑っていた。絶対にばかにされてる。まるで子供扱いだ。
「散歩するのは昼過ぎって決めているんだよ。ポカポカした時間にきっちり一時間だけ。それが一番良いって、お医者が言うからね。その通りにするんだよ。だからごめんよ。お昼まで待って頂戴」
祖母はそれだけをゆっくりと、そして続けて最後まで言い切ると、脇のポットから注いだお茶をゴクリと飲んだ。これも母が準備しておいたものに違いない。庭を歩きながら、祖母に相談する台詞まで考えていたというのに。
「この家に帰ってこようと思うんだけど。どうかな」
「おや、まぁ。それは急な話だねぇ。みんな何て言うかしら」
もっと驚くのかと思ったが、祖母は予想の5割減程度の反応しか見せなかった。
「うん、父さんには言ったけど、大学を辞めると言ったらいい顔をしなかったよ。でも俺は一人息子だし、そのうち家に戻ってくる必要があるだろう?」
「そりゃ長男だから、いろいろ大変だねぇ」
祖母が答えたのはそれだけだった。だいたい祖母が話をきちんと理解できているのかも怪しいのものだった。祖母の視線は宙を彷徨う様に泳いでは、やがて再び僕の顔を見た。僕は障子をあけて祖母に庭を見せた。「ほら、庭だって荒れてきてるだろ。父さんなんて何もしないんだから、僕が家の修繕や色々とするためには早く帰って来た方が良いんじゃないかと思うんだ」祖母は庭には目をやることもなく言葉を続けた。
「春になればまた花が咲くのよ。何も庭の世話をするために帰って来ることもないわね」
頼りない祖母の言葉に僕は観念した、それでついに僕は結婚を考えている人がいると告げた。子供が出来た事を話すのは別の機会でも良いかもしれないが、まずは結婚をネタに祖母を巻き込んで父を説得する必要があった。
「おや本当かい?それは良いことだけど学校を卒業してからにするもんだよ。先生方にもお世話になっているんでしょう、あまりご迷惑になることはしてはいけないよ」
祖母はまるで僕をイタヅラをした小学生のように諭そうとしていた。
「人の話きちんと聞いてる?」「あぁ・・・聞いているよ」祖母は飛んでいた意識が自分の体に戻ったように今度はしっかりした口調で話し始めた。
まるで自分のペースで話が運ばないし、これ以上祖母を説得しても何も効果が無いような気がした。作戦を変更する必要性を感じ僕は祖母の部屋を出て次の手を考える事にした。冗談を言っていた祖母だったが歳のせいか感情の一つ一つが弱くなっているように感じた。僕は結局そんな祖母に迷惑を掛けようとしている。それで良いのだろうか。
でも皆ももう少し僕の気持を判ってくれてもいいんじゃないかな。
父から出された条件はどうしても気乗りしないものだった。どのように考えても、その人物はエコーだ。僕を産んだ実の母だ。ドラマじゃあるまいし、本当のは母親に会いたいなんて思わないものだ。母親は一人だけ。いまの母親だけだ。なにも不満は無い。実の父親っていうのもいるはずだから、なんなら実父に会って、子供と仲の良い父親がどんなものか見学して将来に役立てたいくらいだ。
父の言う事も様子を見るだけで会ってくるというわけではない。そんな中途半端な事をしてどうするつもりなのだ。あの言い方を思い出すだけ癪に障る。僕は気分転換に外に出た。こんな時に行くのは子供の頃から決まって羽根木公園だった。
羽根木公園は梅が丘の住宅街の真ん中にある。公園だけでなく隣には野球場や図書館も併設されていていつでも沢山の子供達が集まる。僕も小学生の頃からここで遊んでいた。
春先の梅の季節には沢山の人がやってくるが、それが過ぎるととたんに静かだ。特に平日はそうだ。誰もいない平日の公園は大きな庭園のように広く感じる。林のように木々が茂り、昼間でもぼんやり影に包まれている。周囲の柵に沿って花の落ちた梅の木が並び、中央には小ぶりだが子供が遊ぶには十分な大きさの小山があって、小さな頃の僕が飽きずに遊んでいられた。林のようになったその小山の麓には丸い屋根の図書館があって友達とここに溜まっていた中学生くらいまでの僕が目に浮かんだ。子供の頃を思い出すのはいつまでたっても変わらないこの公園のせいだろうか。
厳しい祖父と、祖父に頭の上がらない父。祖父がいつも家にいるから父は仕事から帰るのが遅いのだろうと僕は思っていた。僕は祖父とも父とも仲良くなれず、母にどっぷりと甘えていた。僕は祖父と父が家にいる休日には、二人から離れるためによくこの公園に来た。僕は友達が作るのが早くて羽根木公園に居る限り嫌な思いをせずに済んだのだった。そうして家に寄り付かない、今の僕が形成されていったのだと思う。
羽根木中学校の聞きなれたベルが聞こえた。気が付くと僕はとぼとぼと梅ヶ丘の住宅街の中を歩いていた。この辺りには昔からあるクリーニング屋とか、パーマ屋さんとかが、ずっと変わらず続いている。東京の速い流れのなかで引っかかった様に動かない頑固な街だ。変わらな過ぎて懐かしいなんて気持ちにもならなかった。故郷が懐かしいって思うときは、きっと月日と共に色々な変化がある中で、思い出とか本当に大切なものとか、人とか。変わってない何かを不意に見つけた時だよな……。近いはずの環七からの雑音も聞こえず、道すがら誰かとすれ違う事もなく、特に夜は取り残されたゴーストタウンの様だった。いつまで経ってもこの辺はこんな感じのままなんだな。
そういえば小さかった頃、この道を通って一人で駅まで母を迎えに行った事があった。確かにそんな事があった。駅で母とすれ違いになったのに僕は気が付かず、一人ぼっちで夜遅くまで駅の階段に座っていて母を待っていた。家族には小さい僕が行方不明だって事で大騒ぎさせたのだけど、僕を探し当てた母は優しく許して決して怒らなかった。そんな夜があった。古い記憶の断片に混乱することもあるけど僕にも安心できるくらい土台になっている思い出がある。
ポケットが震えて、それは携帯に彼女からの着信だった。通話ボタンを押すと彼女の透き通るような声が聞こえてきた。
「おはよう。お父様とはお話しできたの?」
「うん、正直まだなんとも言えないんだ。うちの父は頑固者だから…。おまけに変な用事まで頼まれちゃうし。だけど諦めないでもう一度話してみるから」少しがっかりした感じが受話器越しに伝わってきた。彼女は「ごめん、ちょっと話があるんだけどいいかな?」と口調が変わったのに気付いた。
「うん。どうしたの?」
彼女は僕の声の調子まで慎重に聞き取っているのが判った。一呼吸も二呼吸もおいて話し始めた。
「あのね。いろいろ考えたんだけどね」
何だ、この嫌な入り方。悪い事を話し始めるとき特有の詰将棋みたいに言葉を置きに来る彼女の声に、携帯を持つ手に力が入った。
「やっぱり、子供は産まないほうがいいと思うの」
彼女は思ってもみなかった事を言った。初めて妊娠が判った時から何度も話し合って僕たちは出産する事を選んだはずだった。
「え、どうして」あんなに話し合ったのに気持が変わったのだろうか。
「一生懸命考えてくれて嬉しいけど。学校辞めるとか…そんなに負担掛けちゃうと、やっぱり悪いなって思っちゃうし。今回はお腹の子を諦めて、そして貴方に自分の人生をもっと大切にしてほしいの」
ちょっと声が震えていた。
「待ってよ、何でそんなこと言うんだよ。何回も話し合って決めた事だろう?」
「ごめんね。でも今の私達じゃ、きちんと子供を育てるなんて。きっと出来ないよ」
「変な事言うなよな、俺が信じられないのかい」
「そういう意味じゃないの」
「じゃぁ、産まれてくる子供をどうするんだよ。産まれる前に殺すのかよ!」言った瞬間に後悔した。早まってメールの送信ボタンを押しちゃったような気分だ。彼女が電話の向こうで押し黙った。
「あ、悪ぃ」
「ひどいわ」僕は何かフォローできる言葉を探した。
「毎日、体調が悪くてつらいのは私の方なのよ。だいたい私と結婚する気なんて無かったじゃない。いつも遊んでばかりで真剣に付き合ってたなんて思えない」
「いや、僕は真剣だよ」
「嘘よ、子供が出来たって言ったら、あぁ産んでいいよ俺が働くから。とか言って、それって恰好つけてるだけじゃない。真剣に考えてないのって、相手には伝わるのよ。だから私…」
正直、その後は何を言ったか聞き取れなかった。何か他にも言ったけど、伝えようとする途中で彼女は電話を切ってしまった。掛け直した電話の向こうからは、電源が切れているか電波が届かないってメッセージが聞こえてきた。どちらって、間違いなく前者なのだけど。
まずいな。僕は始めて彼女が怒る声を聴いた。いつも僕に優しくしてくれた彼女に甘えていたのかな。もっと彼女の気持ちを考えていかないと。そうすると僕は父の条件を呑む他ないのだ。そうでなければ彼女と僕だけでなく産まれてくる子供の未来を捨てる事になってしまう。
*
エコー、僕たちは何もかもが正反対だったね。僕は友達を作るのが上手だったけど服装は模様の無い地味なものが好きだった。君は美しくて人目を引くような華やかな服を簡単に着こなした。でも本当は遠くに出かける事が好きじゃなかった。家の中や静かな場所を好んだ。
だから僕達はいつもアパートの近くに流れる名も無い小川に沿った散歩道を歩いたんだ。舗装もされてなくて雑草が繁ったままで歩くところだけが獣道のように踏み固められたつまらない散歩道に違いなかった。違いないのだが君はいつも春になると桜が咲いて綺麗なのだと繰り返し言っていたね。
ちょうど散歩道に沿って土手に根をしっかりと張った桜の樹が並んでいたはずだ。四季を問わず君があの散歩道で話す台詞は桜の美しさに関する事で占められていて、風が吹いて薄桃色の花びらが舞う中を並んで歩きたいのだと夏も秋も冬も言うので僕はそれを聞いて笑ったり君の言い振りをまねたりしておどけていたんだ。
あの日、雑草に埋もれそうに咲いていた君が見つけたいくつかの小さな花は、君によると全部きちんと名前が有って名も無い花などひとつも無いのだと僕に教えてくれた。