第二話 家の事
第二話 家の事
廊下の一番奥の父の寝室へむかって歩き出した。僕を待っている彼女のためにも父を説得しなくてはいけないのだが、今日は無理かなと弱気になって足取りは重い。
父の部屋はかび臭い匂いがした。青白い蛍光灯の明かりに照らされた八畳のがらんと広い部屋の中央に父が布団の中で臥せっていた。
僕が薄暗い部屋の障子を開け閉めする音で父の目が開いた。「ずいぶん遅かったな」機嫌の悪い死人のような声もしばらくぶりに聞いた。顔色が以前より悪くなったと一目でわかる。酒の飲みすぎで父は肝臓の病気を患っていた。医者に止められてからも酒や煙草はちびりちびりとやっているようだったが。
「上原の駅で事故があって、それで電車が遅れたのです」
「人身事故か」父は僕の言い訳に苛ついただけであった。父は案外と気が小さくて子供じみた気の短さを持っていた。そして歳を経てますますそのようであった。
僕は先ほど母が置いて行ったポットのお茶を注いだ。茶碗を受け取る父の手の指は節が強く立っていて爪も黒く貧しく痩せていた。昔から仕事と遊びとで家にも寄りつかなかった父は、体を壊すまで好きな事をやり続けた。そういう人だった。今は自分が経営する小さな会社も父の弟に任せて、ほとんど家で療養するような生活をしていた。
「車、買い換えたんですね」「あぁ、知り合いが輸入車のディーラーの相談役をしていてね」「もう少し小さな車でも良かったんじゃないですか」
車を買い替える前に体調を整える方が先じゃないかとは言えなかった。父はその前もトヨタの大きな四輪駆動車に乗っていた。迫力のある車が好きなのは知っていたが、あの車高の高さでは膝を痛めた母が乗りこむのが大変じゃないだろうか。
「もちろん、足踏み台を後席に積んでいるから大丈夫さ。あの車は母さんだって賛成してくれたんだ」
父の買う車の種類に母が意見したことは一度もなかった。母はそういう人であった。もう少し母を大事にしてくれてもいいのに。どうせ買い換えるなら母の事を考えて少し小さな車にしても良かったはずである。そう思ったが口には出さなかった。そもそも父とは最初から上手くいっていなかった様に思う。父はおしゃべりが苦手で、人の話を聞く忍耐も無かった。しかし父の態度がこんなに不遜になったのは、一緒に暮らしていた祖父が病気で亡くなってからだ。それまで父を抑えていた祖父という鎖が外れたのだと僕は思った。最近では父自身も病気を患って寝て過ごす事が多くなった事がそれに悪い意味で拍車を掛けたようだ。
「電話で話した事。了解してくれませんか?」
先日、父に大学を自主退学したいと電話をした。僕は何か職に就いて稼ぐつもりだった。もっとも父は僕の卒業後に父の友人が経営する企業に就職させて、数年後には自分の会社に呼び戻すつもりだった。田中家の跡継ぎにすると、小学生の頃から何度も言われていた事だった。
「お前はこの家の一人息子だ。自分が無責任な事を言ってるのが判らないのか」
「家や会社への責任を果たさないとは言いません、そのために僕はこの家で育てられたのですから」
この言い方に父がさらにイラついているのが判った。
「だけど、彼女と結婚して暮らすためにはお金がいるんです。そのためには退学して仕事をする必要があります」
父はすぐに口を開いた。「その女とは別れなさい」と決めつけるように言った。そんな風に指示めいた口調に僕が徴発されそうだ。それとも父はわざと言っているのかもしれない。
「すぐに稼いで生活をしていかなくてはなりません。その女のお腹には僕の子がいるんです」
子供を育てるために結婚して所帯を持つ以外に彼女と子供を守る方法は無かった。気を静めて落ち着いた風を装って僕は話した。正直言うと大学を中退して家族を養うために父やこの家の財産を利用してやろうと思っていた。図太く考えたつもりでいて僕の前身はさっきから震えっぱなしだった。話をしているうちに目の前のお茶が冷め始めている事に辛うじて気がついた。
「愛とか正義感という訳だな。つまらん考えだ」半身を起こした父の眉間に深いしわが湧いた。
「しかし、生まれてくる子供を育てなくてはなりません。だから相談しているのです」
「軽はずみに女を孕ませたお前が悪いんだ。どう責任を取るんだ?大学を中退した男がどれだけ稼げるんだ?」
返答に困った。自分に稼いだり家庭を守る力があるのか全く自信がなかった。ただ今を楽しむ生活が終わった事だけは自覚しているつもりだった。「二人で話し合って結論を出したことです」
「考えるのが怖くて安易に出した結論だろう」
「もちろん、お父さんのいう事はもっともです。僕がバカでした。情けない息子だと思うでしょうが。でもお父さんにとっても初孫です。いまは怒るのは当然ですが、きっと孫の顔を見れば幸せだと思えますよ」何度か調子を変えて父を説得しようと試みたが最後の一言が余計だったかもしれない。まるで父が社業を引退するかのようだった。父は病気ではあるが、父の弟で副社長をしている砧のおじさんに当面の指揮を任せており、なおオーナー社長としての権限は持っている。僕の言葉に気分を害したのか、父は錆びた扉のように頑なに拒否感を露わにした。
「金を渡して堕胎させなさい」父の声が大きくなって上ずった。見るている方が驚くほど興奮しているのだ。
「それでも別れないと言うなら、さらに金をやって言う事をきかせろ」
「なんて事を言うんですか!そんな酷い事はできません」
この言いぐさ、やはり父はそのような人なのだ。人間として我慢できない。
「僕はどうしても結婚します。産まれた子供を捨てたりしなくていいように、僕が家族を守りたいんです」父は僕の言う事を予測していたように、ふんと鼻をならして苦虫を噛み潰したような顔で僕を斜交いに睨んだ。そしてしばらく黙っていた。
僕は訳があって貰われてきた子供だ。育ててくれた事を父にも母にも感謝している。だからといって何でもいう事を聞く従順でお行儀の良い子供ではなかった。自分の境遇に劣等感を感じて親の言いなりになるのは惨めな子供だと思うし、遠慮ばかりするようでは親子ではないと思う。
「僕にだって自分の人生を生きる権利があるはずです」
だからこそ、これまで何度も頑固な父に反発してきた。
「彼女は一人でも子供を産むでしょう。産まれてくる子供に不憫な思いをさせたくはありません」
「自分が養子だからといって、それを言い訳にしたら何でも通ると思うんじゃないぞ。養子と堕胎とは違う」
父の紫色の顔がだんだん青白んできた。
「ともかくそんな事は許さん。勝手が通用する歳じゃないんだぞ。もっとよく考えろ」
父の顔を見ていると今にも泡を吹いて倒れそうに見えた。肝臓を悪くした人間は突然意識を失ってそのまま逝ってしまうという。 別に可哀そうとも思わなかった。生来が用心深い人のはずなのに、最初から程々にしておくという事ができれば良かったのである。
少しの間、父は目を閉じて、痛みなのか苦しさなのかに堪えていた。僕の話が片付く前に入院でもされたら困るので、僕は父に体を寄せた。
「父さん、大丈夫?」上辺だけ心配そうな言い方だけど、見ていると本当は洒落にならないのではないかと焦る。その僕の気持ちを見抜いたように父が淀んだ白目をむき出しにして僕に迫ってきた。
「少し考え直してやってもいいぞ。ただし条件付きだ」
なんて事だろう。呻きながら話す父の声には何とも言えない凄みが有った。父の表情は、ひりひりとする危険な臭いがした。
「お前に、ある所に行って様子を見てきてもらいたい人がいる。それが上手く出来れば考え直してもいいぞ」
僕は父の白目に吸い込まれそうになるのをこらえた。
「それって誰なの?」
「名前は教えられない。お前には住所だけを教えるから、そこに住んでいる人の名前をメモして暮らしぶりを見て教えてくれればいい」
不遜な口ぶりに嫌味を感じただけでなく、父は僕に探偵まがいの事をしろと言っているのだ。
「どうして僕にそんな事を頼むんですか?その人は知り合いなんですか?」
「いいから質問はするな。そうすれば退学することを認めてもいい」
胡散臭い交換条件だ。しかし同時に心の中にはこの機会を逃すなという心の声が湧いてくるのも止められなかった。
「そうすれば、お前はこの家に帰ってくればいい。こっちで働く口を探してやってもいいぞ」
父は僕の返答には全く興味が無いかのようだった。そしてまた僕の顔を覗き込む。黄色く濁った2つの目玉が僕の心の内を読んでしまうかのように突き刺さる何かを発していた。そして部屋の隅の籐の物入れから古い手帳を出した父はあるページを見ながらメモを黄色い紙片に写し取り僕に手渡した。
「そんなに遠い場所じゃない。すぐに出発しろ」
「まだ引き受けるとは言っていません」ふんと、父は鳴らして機嫌を損ねた態度を見せつけた。
「本当にそんな話を信用できるんですか?そんなに大事な事なら自分で出向いた方が良いんじゃないですか。もう少し理由も教えてくれませんか」
「やらないと、こちらの条件も引っ込めるぞ」
「じゃ、本当に僕が大学を辞めてこの家に戻ってもいいんですね」「いいだろう」
僕も結局は勝手に決めつける父の言葉に反対したかっただけで本当は引き受けるしかないのだ。最初から断れない条件を父は出していた。
「それだけでなく僕は結婚します、そして子供も堕しませんよ」
「相手の人の考えもあるから自分の一存では決められない」当たり前の返答。しかし父は反対はしないと続けた。ますます疑惑が大きくなる。条件が全く釣り合っていない。そうすると不意に閃く事がある。「父さん、その人って僕に関係のある人ですか?」
「やるのかやらないのか、どっちなんだ」
「まさか、僕の捨てた母を探すとか会いに行くって話なら引き受けませんよ」
「そんな人とは何の関係もないから安心しろ。もしその人を見かけても様子を見るだけで良いんだ。会って挨拶して来いと言うわけじゃない」
父は、早口に言うと「しかし、母さんが誤解するといけないからこの事は誰にも内緒にしておけ。これも条件だ、わかったな」父は土気色の顔をしてそう言った。
「僕と生みの親を会わせようとする理由は何んですか。もう15年以上経っているのに」
しかし父はもう僕の言葉に答えなくなった。少し気分が悪そうに布団に戻り横になった。
「そんな迷惑な話、僕は絶対行きませんから」
また父が苦しそうに、目を固くつむった。目の焦点が合ってないのが判る。さすがに心配になった。
「しっかりして下さい」
しかし父は僕の手にあるメモを指さしながら、「いいから、早く行け」そう絞り出すように言葉を吐き出した。
「少し休んでください。じゃなくて救急車呼びましょう」
「構わん、寝ていればよくなる」
父はそれだけ言っそっぽを向くように顔を壁の方に向けた。しかし僕はまだ産みの母親の家に行く事に抵抗を感じずにはいられなかった。
「メモの住所に出向くかどうか、もう少し考えさせて下さい」
言いたい事を言って都合よく臥せる父に腹だしいものを感じながらも、見るからに土気色の顔色に僕は、近いうちに父の身に何か起こりはしないかと心配になる。今はこれ以上話が出来そうではない。父は認めなかったが僕はこのメモの住所に住んでいる人が僕の産みの母親に違いないと確信していた。
どうして僕を捨てた母を、探しに行かなくてはならないんだ。なぜ母の方からではなく僕が探しに行くのだ。自分で起した癇癪で自分が参ってしまいそうになる。僕と父の間には血の繋がりはなくとも共通して短気だった。僕自身も取り乱しそうになり仕方なく今夜は自室に撤退して出直す事にした。
「この話は母さんには黙ってろ。わかってるな」父の呪いのような声が僕の後を追ってきた。
最後には逃げるように父の側を離れたのは僕の方だった。
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エコー。覚えているかい?
薄暗いアパートの部屋で静かに流れた日々の事。二人以外に何もなかった日々。
弱気な僕を、君はいつも、そっと暖めてくれたんだ。甘酸っぱい君の匂いで僕の心の穴が塞がっていくのさ。君という蜜に包まれたまま、いつまでも蛹でいたかったよ。この街は窮屈で羽なんか広げていけやしない。でも君がいれば僕にはこれっぽっちの不安もなかった。
ねえ、エコー。僕たちは足りないものに囲まれていたけど、本当は蛹のままの方が安心できるって判っていたんじゃないかな。どうして君はいなくなってしまったんだろう。もしかしたら僕を幸せにするために君はいなくなったのかい?汚れちゃうのが嫌で嫌で、飛べもしない羽を広げてみせるよりは、土の中に隠れたまま腐ってしまえばいいと。今の僕ならきっと無理にでも君を引き留めただろう。