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最終話 三人目の母の事

 僕の態度が変わったのは、あの夜の後からだと思う。僕は母と仲良くする事に心を砕いていた。自分から母に話しかけるようになっただけで、張り詰めた糸のようだった母の表情が緩んでいくのがわかった。それに比べて父と祖父とのギクシャクした関係に変化は起こらなかった。もしくは多少変化しただけだった。いつも田中家のなかで浮き上がっている不思議な祖母が当時から何を考えているか判らなかった。それでも田中家で暮らしていく日々が少しずつ僕の心を塗り替えていった。最も大きな違いは僕がこの田中家の人々を家族として受け入れる気になった事だった。

 容赦なく時が流れて、僕は小学生になり、中学生になった。新しい友達と付き合い、これまで行った事のない街に出かけたりした。恋もしたし、受験も乗り越えた。そうしてエコーの知らないところで僕の季節はぐるぐると回転しエコーの知らない僕の時間が積もって過去を覆い隠していく。

 いつの間にか、僕にとってエコーは記憶の片隅にいある古い友達のような存在になっていった。手元に写真の一つも無く、誰との話題にも上らないエコーの事を思い出す事も減っていった。祖父はエコーの事を僕を捨てた人だと度々言ったので、僕もそのうち祖父が言っていた通りに考えるようになっていた。

 そんな祖父が死んだのは僕が中学生の時だった。その時が来るまで祖父と僕の距離は縮まらなかった。家族になりきれないまま、お葬式で僕は祖父を火葬場まで見送った。会社関係の多くの人が参列した盛大なお葬式は僕にとっては別世界の出来事に見えた。惜しむ事といえば最後まで祖父からエコーがなぜ僕を捨てたのか聞かないままになってしまった事だけだった。

 エコーが僕を捨てた。思えば祖父が僕にそう言い続けたのは、祖父の計画通りという事だったのではないかと思う。

 ともかく僕は、田中家の跡取り息子として健康に我儘に育っていった。母が僕を大切にすれば大切にするほど逆手に取るように自分勝手に生きてきた。あげくに今回の騒動だ。途中までは祖父の計画通りだったとしても、僕が今こんな感じなのは僕の性分なのだろう。母が甘やかしたというより、むしろ父の傲慢な性分を受け継いだのかもしれない。そして自分ではどうしようともせず刹那的に暮らしてきた。

 この数日間で知ったエコーの事。判らないままにしてしまうエコーの事。色々有るけれど一つだけ確かなのは、エコーは自分の未来を僕にくれたという事。僕がその未来をどう使うかって考えると大げさで、何が正しい選択なのか判らない。いま決まっている事は学校を辞めて、父親になり、社会人になる。きっとこれから大変な毎日になるに違いない。だけどそれを楽しんでいこう。エコーが自分の未来と引き換えにして僕に与えてくれた生活だから。 

 気が付くと僕は病院の中を出でたらめに歩き、一つ一つの病室の入り口に貼られた入院患者の名前を見ていた。青野あずさという名前を無意識に探していた。昔の事をあれこれと思い出したのも、そのせいだ。

 これでエコーを探すのはやめにしよう。エコーを見つけたとして、きっとエコーは中途半端な僕を見て喜ばないだろう。僕はエコーの覚悟を受け入れる必要があったはずだ。ぼくは自分にそう言い聞かせて母の病室に戻った。

 病室に入ると父も祖母もまだ戻っていなくて、母は誰かと携帯電話で話をしていた。よく見ると母が手にしているのは僕の携帯電話だった。そういえば鞄を病室に置きっぱなしにしていたのだ。病院の中であっても個室の中なら携帯電話を使うことも出来る。

「どうしたの母さん。電話したいところがあったの?」母の顔を見るとニコニコとした表情で話す声も弾んでいた。誰か知らないが、友達と話しているような口ぶりだった。

「そうなの?昔からあの子は時間にルーズなのよ、私が甘やかしたせいね」 

 こんな風に電話で話す母を見るのは初めてだった。

「だめよ、そういう時はもっと厳しく言わないと。そうそう、最初が肝心なのよ」

 母は一つ言葉を発するたびにケラケラと笑い声をあげていた。ちょうど大学のゼミの友達どうしで話しているのを見るようだった。

「本当に楽しみ。あなたの顔が早く見たいわ」

 僕はのびのびと話す母が珍しくて、しばらく見入っていた。母は僕に気付くでも気付かないでもなく、自由に僕の携帯を使い続けた。

「では、本当にお体を大切にしてくださいね。ではごきげんよう」

 しばらくしてそう言うと母は電話を切った。そしてこっちを向いて嬉しそうに言った。

「ほんと可愛いらしい感じの方ね」

「え、今なんて言った?」

 僕は汗が噴き出る程に驚いた。本当に体が熱くなってきた。

「この方ならマサちゃんをお任せできるわね」

「まさか、電話してた相手って…」

「そうよ」

 驚いたことに母は京都の彼女と電話をしていた。訳を聞いてみると、母は僕の置いたままにした鞄の中で鳴る携帯の大きな音に驚いて電話を取り上げたのだという。ディスプレイに表示された名前が女性だったのでピンときて電話に出たのだ。

「でも普通、人の電話に出ないでしょ?」

「電話を置いていく方が悪いのよ」

「そんなぁ、母さんって結構、いたずらっ子だったんだね。知らなかったよ」

 僕がそう言うと母は得意そうに満面の笑みを浮かべた。

「でもお話が出来て本当に良かった」

「うん…。きちんと紹介してなかったからね」

 そう言って僕は、母からまだ結婚の承諾をもらっていない事を思い出した。

「そうだ…あのさ」

「もう言っておきましたよ」

「なにを?」

「不束者の息子ですが、何卒よろしくお願いしますって、言っておきました」

 母はとっても満足そうな顔をしていた。どうやら僕のいない所で、僕の妻になる彼女と、自分の母親との間でまとめられてしまったようだ。格好の付かない話だけど、僕の帰省の目的を達した事が判ったのだから文句をいう事もできない。

「母さん、心配ばかりかけてごめんね。僕は母さんの子供だからさ…。もう人探しはやめるよ」

 母は何も答えず、花が咲くようにそっと静かに微笑んでいた。


 間もなく父と祖母が病室に戻って来た。

「体はもう心配ないと医者も言っていたが、何かあったらどうするんだと脅して今夜一晩泊れるようにしてきた」父はそう言って珍しく母に微笑みかけた。

「救急車まで呼んでしまったので日帰りさせたら、ご近所の手前、格好がつかないってことなのよね」

 祖母が父の弁を混ぜっ返したので母も僕も吹き出した。

「毎日働きづめだからたまには休んでもらおうと思っただけだ、これが良い機会なんだ」

 父が負けずに偉そうに言うので僕と母は目を合わせた。母はとっても嬉しそうだった。

「では、お言葉に甘えさせていただきますね。孫が産まれたらまた忙しくなりそうだし」

 母は父の顔を見ながらそう言った。その台詞に改めて父は額に汗をした。

「そんなに簡単な事じゃないからな」わざと厳しい父親の顔で父はそう言った。

「その分あなたが助けてあげてください。私はこの子に賛成します。自分の息子を助けない親がいるもんですか」

 そう言った母に父は目を合わせられぬまま、「わかった」と精一杯の声で言った。

 母はこれまで家庭を顧みない祖父や父を宛にせず家庭を切り盛りしてきた。僕を育てて、歳をとった祖母の面倒も見てきた。長い年月の間少しずつ溜まった苦労が体をすり切っていて、とどめのドロップキックの様なここ数日の騒ぎが母には堪えたのだろう。

 母は田中家の花だと思う。食物や空気や水や大地では無いかもしれないが。もし田中家で母が咲いていなければ家の中はきっと無味乾燥な不毛地帯になるだろう。

 「今夜はゆっくりしてよ。明日迎えに来るからさ」

 僕らは母と少しおしゃべりして暗くなる前に病院を出た。帰りの車の運転は僕だった。父を助手席に乗せて運転するのは初めてだ。

「ちょっと待ってくれ」

 父はそう言って自販機で飲み物を買った。そんな姿を見るのも初めてだった。祖母はそそくさと後部座席に乗り込むと車を出すか出さないかのうちに居眠りを始めた。色々とありすぎて疲れてしまったのだろう。僕はいつもより丁寧に車を走らせる。祖母は、母に苦労を掛けてきたのは父だと言っていた。僕に矛先を向けないのも、父が自分の子供だからこそ父を責めたり愛したり気軽にできるのかもしれない。

「これ」

 父は僕の分まで買った缶コーヒーを運転席側のホルダーに載せた。父と車の中で缶コーヒーを飲むのもまた初めてだ。

「結局、どこにいるか判らないままだった」僕はそう言うと父の反応を伺った。「僕の小さな頃に知りあいだったお隣さんや、大家さんにも会ってきたけど誰にも居場所を知らせてなかったんだ。という事は本当に行方をくらませるつもりだったんだね。いまも何処でどうしているんだろうね」

「不器用で寂しがり屋のくせに、いつも一人でいるような女だった」

 父の横顔に刻まれた皺がもっと深くなったように見えた。

「でも、僕は本当にもう探しませんよ。母さんとも約束したんです」

「そうか」

「だけど、アパートまで行ってみて良かったと思います。僕は捨てられた訳じゃないって判ったし。誤解が解けたみたいな気がします。これまで父さんに酷い事言ってごめんなさい。今、僕には二人の母親がいるって思っています。二人の母親の気持に答えようって、そう思っているんです」

「そうか」父はまた同じ言葉を繰り返した。

「僕は父親の責任も果たしたいし、この家の跡取りとしての責任も果たしたい。期待通りには行かなかったと思うかもしれないけど、僕の望みどおりにさせてください」

 父はさっきから窓の外の府中市の街並みばかりを目で追っていた。もう僕に答える声も小さくなっていた。

「家に帰って父さんの会社で働きたい。長男としての役割が何かって事は理解しています。でもそれだけではなく、父さんは僕の小さな頃から殆ど家にいないで働き続けてきた。どうしてそうする必要があったのか僕は知りたい。それを知るためには同じことをする必要があると思うんです」

 いつも屁理屈をこねる父は、窓の外を見ながらすぐには何も言わなかった。

「まず、やってみればいいさ」しばらくして父はそう言った。「ただし、もう一つ条件がある」

 父はまた難題を持ち出すのだろうか。

「また条件ですか…?確かに父さんの期待した道ではないかもしれない。でも彼女や産まれてくる子供に辛い思いはさせたくないんだ」

「大学だけは卒業しろ。金の事は俺がなんとかしてやる。それが条件だ」

 父ははっきりりとそう言った。

「それは父親と学生とを両立するって事ですか?」そんな事ができるのだろうか。

「だから、まずやってみろと言っているんだ」

 父はそう言うときも、じっと助手席の窓の外ばかりを見ていた。

「いいんですか?そんなに甘えてしまって」

「いいから言われたとおりにしろ。大学くらい出してやらんと…」

 父はエコーの事を想っているようだった。エコーが自分を犠牲にして掴んだ僕の未来にはきっと大学を卒業させる事が含まれていると考えているのだろう。

「わかりました。父さんがそう言うなら、その通りにします」

 父は答えず何かを見ていた。いや正確には窓の外を見ている訳ではないのかもしれない。エコーと過ごした面影がこの府中の街のあちこあちに残っているではないだろうか。その破片でも見つけられやしないかと、そういう風に見えた。

「ところで父さんは自分では探したくならないんですか?」

「もういいんだ。これで充分だ」

 僕達はわざと主語を抜いて話した。何のことを言っているかなんて判り切っていた。

「なぁ、正将」

「はい」

「もう少し、ゆっくり走ってくれないか」

 窓の外は夜になった府中市の街にネオンサインが灯るところであった。僕は出来る限りスピードを緩めた。父はまた何も言わなくなった。



 翌日、退院する母を病院に迎えに行ったのは僕だった。

母は、もう少し寝ていたかったと冗談めかして言った。すっきりとした顔つきを見ると安心できた。そんな事を言っても母は家に着くなり、全ての部屋の窓という窓を開け放し、掃除を始めていた。

「もう気になって仕方なかったの」母の笑顔は一昨日より絶対に鮮やかだった。

 僕は夕方になる前に家を出た。京都に帰って彼女とこれからの事を相談するつもりだった。梅ヶ丘の駅までの道傍に、どういうわけか百合の花が二本ばかり野性で植わっていた。その花は何よりも美しく、力強く地面に根を下ろしていた。

 ポケットの中から何か音がした。空耳かと思ったらそれは彼女からの電話の着信音だった。昨日は事の顛末を簡単にメールで送っただけでそれ以外に何にもフォローできてない。怒ってやしないかと慌てて通話スイッチを入れた。

「もしもし」久しぶりのこの声。透き通っているけど心を優しく潤してくれるような、やっぱり大好きな声だった。

「悪りぃ。全然、電話できなくて」

「メール読んだよ。頑張ってくれて本当にありがとう」

「当たり前だろ。お礼言われることじゃないよ」

 彼女の声が落ち着いていて僕は安心した。

「あのね、わたしね。やっぱり、赤ちゃん産みたいの」

 彼女の透き通るような声に力強さが加わってきたような気がした。子供を産む勇気は一人では出せない。子供にとっても、産まれて来る事を待っている家族が揃っていることが必要だ。僕の梅が丘での数日間はそうするためにあったのだ。

「わたし、いいのよね?産んでも」

「いいよ。決まってるじゃないか。僕達の子供だよ」

 こんな素晴らしい事があるんだ。僕の中の不安とか決意までも含めていろいろ無理しようと頑張ってた、その重いもの達が音もなく消えていった。誰かの声が聞こえる。彼女以外の、でも同じ透き通った声だった。君の声なのかい。

「いまからそっちに帰るよ。これから君の実家にも挨拶に行かなきゃだし色々と忙しくなりそうだ」

「うん、ありがとう。待ってるね」

 電話を切った後も彼女の表情が見えるような、そんな気持で僕は歩き出した。さっきの白い百合の様に背筋がしゃんと伸びる感覚がする。それだけで良いんだ。特別がんばって幸せになったり、幸せにしたりとか。そういうのよく判んないけど。僕だって子供頃の楽しい思い出なんて全部普通の事ばかりだったし。肩に力が入らない程度に背筋を伸ばして、幸せなんてそれ程度の事だろう。

 すれ違う人の表情が気持ち良く見える。きっと僕が顔をあげて歩いているからだろう。こんな町にも沢山の人が生活しているんだ。こんな事に今頃気が付くなんて。目の前の空いていたビルの1階にテナントが入る工事をしている。荷物を運ぶ込む男の人たちが足早に目の前を過ぎていった。この町だってよく見れば少しずつ変わっていくんだな。

 角を曲がってくる子供連れの母親らしき女性が見えた。あの子供は何歳くらいだろう。そういえば、さっきからこんな親子連れに何組かすれ違った事に気がついている。自分も親になるって意識をして街を見ると、見る角度が変わるんだな。ところでこの道、歩道と車道の間にガードレールくらい付けろよな、子供が事故にあったらどうするんだよ。

 僕は自分の考えている事が可笑しくて可笑しくて、一人でニヤニヤしてしまった。すれ違った親子連れを振り返ってみると、母親と手を繋いだ小さな男の子が僕を見ていて、このニヤ顔に気が付いた。きっと母親に言うに違いない。”あのお兄さん一人で笑ってたよ”って。母親はきっと”あらそう”って笑顔で適当に受け流して、また歩いていくんだ。

 あの頃のエコーと僕のように。


 ねぇエコー。僕がいま吸っている煙草はECOHじゃないんだ。ごめんよ。

 だけどね、煙草のECOHは僕にはちょっと苦く感じてさ・・・。そんなの嫌かい?


 ところで、最近どうなの?ねえ、僕の大事なエコー。




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