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第十六話 君の名はエコー

 夜の駅舎は大きくて冷たい鉄の塊に見えた。どんなに目を凝らしても入口という入り口にはシャッターが降りていた。この駅は死んだように静まり返っている。黒いパズルピースがはめ込まれたような四角い窓の奥からは幾つかの赤い灯りが漏れていたけど、中に誰もいない事を示しているのだ。

 駅舎からは二階の改札口に続く階段が伸びている。地面より高い所を通された線路はコンクリートの分厚い壁に囲まれて真っ直ぐ知らない街の方向へと伸びている。もう今夜は電車が走ってくる事はないと僕は気が付いた。ここに居てもママに会いに行く事はできないのだ。そう思うと途端に空も道も夜の風も何もかもが怖くて堪らなくなった。

 振り向くと同時に月は雲に隠れてしまった。そこにある羽根木公園は薄暗くて幽霊の住む森の様に見えた。進む事も戻る事も出来なくなり、僕は誰にも見つからない様に駅舎の階段の手すりの下に腰を掛けた。小さくなって何者かをやり過ごそうとしていた。

 このまま朝が来るまでこうして隠れるんだ。朝になったらまたママに会いに行こう。もしアパートにいなかったら遠くの街まででもママを探しに行こう。きっとママは僕のために何か手掛かりを残しているに違いない。冬の夜風に吹かれながら、さすがに寒さに震えて僕はママを探す冒険に思いを馳せる事でその寒さに耐えていた。だけど一向に風は止まず、遠くの街灯は夜を彷徨う死人の魂に見えたし、羽根木公園の梅の木は全て生ける巨人のうごめく姿だった。風の音は夜の叫び声に聞こえた。一人ぼっちの僕はママを思い出す事で頑張れるしかなかった。

 不意に暗闇の向こうから何かが近づいてきた。白くてふわふわしてしたクラゲのような物が風に流されるようにこちらにやってくる。幽霊か何かに違いない。僕をどこかに連れて行こうとしても無駄だ。僕は朝になるまで絶対にここから離れないと決めていた。たとえ悪魔でも死霊が相手でも。でも幾らそう思っても足は震えて僕は立ち上がる事さえできなくなっていた。

 ふわふわとした白い物体は近づくにつれ僕を見定めたように向かってきた。僕にはもう逃げる気力も無い。あぁ、ママ助けて。言葉にならないまま唇が動いた。

 連れて行かれる。そう思ったとき声が聞こえた。

「マサちゃん、どうしてこんな所にいるの?」

 白いコートを着た母が、冷え切った体の僕を抱きしめた。

「ばかね。こんな寒い夜にどうして出て行ったりしたのよ」

 母は白くて柔らかいコートの中に暖かく僕を包んでそう言った。ちょっと痛いくらい僕を抱いた。

「あ…」僕はどう言えばいいか判らずに、なんだか捉えられた動物の鳴き声のような声を出した。それでもただ声を漏らしただけでも母は嬉しそうに微笑んでくれた。

「笑ったりしてないのよ。お母さんは怒っているのよ」母はもっと強く僕を抱きしめていた。「こんな遅くに外に出かけたら、怒られるのが普通じゃないかしら?」母の眼からついに涙が流れていた。

「だけど怒ってなんかいないし、笑ってもいないよ」僕はようやく言葉を話すことが出来た。「お母さん、いま泣いてるじゃないか」

 白いコートの上に涙が零れ落ちた。それは一瞬綺麗に輝いた。

「そうね。でも違うのよ。私はいま怒ってるのよ。ほら」無理にふくれっ面をした母の顔が全然怒っているように見えなくて僕は笑った。母も泣き笑いの顔で僕を抱きしめた。

 風が少し弱くなって、月がまた雲から顔をだした。やっぱり街路灯は役に立たなかったけれど僕らは月の青白い灯りで迷うことなく家に帰った。繋いだ母の手が暖かかった。


 家では別の問題が僕を待っていた。母に連れられて自分の部屋に戻ってくるとそこには祖父も祖母も起きて待っていた。

「なぜ、一人で外へ行ったんだ」そう厳しい口調で言ったのは祖父だった。

「もう、いいじゃないですか。今夜は遅いのでもう寝かせます」母は必死に祖父と僕の間に立って訴えた。

「少し、正将を甘やかしすぎなんじゃないかね」祖父が呆れたように言った。丁度その時、玄関の方から人が入ってきた音がして廊下を走る足音が響いた。部屋に入ってきたのは紺色のジャンパーを着た父だった。

「なんて自分勝手なやつだ」

「少し眠れなくて、どうしようもなくて外に出てしまったんです。歩いて疲れたら眠れるんじゃないかってそう思ったんだと思います。ねぇマサちゃん」

 僕は何も言っていないのに、いつもみたいに母は必死に父に弁解してくれた。

「正将はどこにいたんだ?」父は母に怒鳴るように言った。

「大きな声を出さないでください。駅です、駅の階段に座っていたんです」

「心配ばかりさせる子供だな」父は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。

「寒くて震えていたんです。だから暖かくして今夜は寝かせます」母は布団に僕を隠すようにした。そして父や祖父、祖母に部屋を出るように促した。

「だがどうして、駅にいると判ったんだ」父が怪訝そうに言った。みんな不思議そうな顔をして母を見ていた。

「それはもう、判ったんです」普段はおとなしい母が顔を真っ直ぐあげて言った。「私には判ったんです。そういう力があるんです」

 誰も何も言い返せない、疑問の蓋すら力ずくで閉じてしまう力強い言い方だった。


 みんな部屋を出て行ったあと、眠れない僕のために母は童話を読んでくれた。話が最後まで進む前に僕は寝なきゃいけないって思ったが、ぎゅっとつむった瞼は我慢した息が切れるように開いてしまい、やっぱり薄ら明るい部屋の天井が見えた。

 母が読んでくれた『みにくいあひるのこ』。眠れないまま最後まで聞いてしまって、また僕は目を開けた。

「ねぇ、どうしてあひるは、はくちょうになっちゃったの?あひるのままでいれたら、おそらにとんでいかなくてもよかったのに。みんなとはなればなれにならなくてもよかったのに」

 後になって随分とんちんかんな事を言ったと思い返したが、その夜それを聞いた母は、しくしくと泣き出した。それが悔しくて僕もいつのまにか大声で泣いていた。

 気が付くと部屋の明かりがついていて、また祖父や父や祖母が周りに座っていた。そして皆の前で僕は”ママに会いたい”と言ってしまった。母は俯いてしまい、父は黙って厳しい顔をしているだけだった。祖父が怖い顔をして言った。

「あの人はお前を捨てて行ってしまったんだ。もう会えないんだ」

 「うそだ!」そう言ったとき僕は体中が熱くなった。目の前の祖父を睨み付けて目を離さなかった。

 「ごめんね。ごめんね」母は泣きながら僕に謝った。どうして判らないけど母を見ていると僕はもっともっと涙が溢れてきた。そして必死になって母の涙を拭おうとした。もうこれ以上母に泣いて欲しくないと僕は強く思った。

 生まれて初めて家出をしたこの日から僕の心の中で大きく変わった事が有った。母のために僕は、ママに会いたい気持ちを忘れようと決めた。もうこれ以上、母の悲しそうな顔を見ているのが嫌だった。僕と母はその夜、抱き合ったままいつの間にか眠ってしまった。

 

 僕は決断をした。僕は母を本当に好きになろうと思った。母が僕のお母さんなのだと決めたのだ。ただ心の中のママは消えてなくなる訳ではないし、居なかったという事には出来ない。心の中でママと言ってしまうだけでも母が可哀そうだ。だから僕は心の中のママには、ママをやめてもらい僕の友達になってもらう事にした。とっても自分勝手な事かもしれないけど他に思いつかなかった。

 もしもママがママではなく友達なら、時々友達として思い出したっていい。もしそうなら僕は母を悲しませないで済むのだ。そして僕はママの事をママと呼ぶ事もやめようと決めた。母親は一人だけなのだから、友達になったママをママと呼んではいけないはずだ。

 それで僕はまるで友達の様にママをニックネームで呼ぶことにした。もちろん僕の心の中だけでだ。もう誰の前でも僕はママの事を口に出さない。ただ心の中でママを思うとき、僕はこう呼ぶことにした。

 君の名はエコー。

 ママが吸っていたタバコの箱に書いてあった英語。ある日なんて読むのかって聞いたら、君はエコーと読むんだって教えてくれた。僕は君の事をこれからエコーと呼ぶことにするよ。僕の大切な友達として。

 ねぇエコー。僕は君の事を忘れる訳じゃないんだ。むしろ永遠に君を近くに感じるために、僕たちは友達になる必要があるんだよ。

 エコー、許してくれるかい、こんな僕の事を。

 

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