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第十五話 やっぱり僕のこと

 どうしてママがいなくなったかという不安よりも、ママをを待つ事の方が何倍も辛かった。

いつ解決されるのか判らない寂しさ程やっかいなものは無いんだと僕は知った。

 そんな僕の気持ちも知らず、祖父や祖母、父も母も次の春から僕が通う小学校の話を楽しそうに僕に聞かせた。

「たくさんお友達ができるよ」「夏にはプールに入るのよ」「たくさんお勉強してりっぱな大人になるんですよ」「ランドセルを買いにいこうね」

 まわりの誰もが僕の幸せな未来のために一所懸命だった。だけど家族のみんなの笑顔が優しければ優しいほど僕は笑顔を失っていった。新しい世界が僕の前に在るのかと思うだけで辟易としていた。この大きな屋敷は広大な荒れ野だ。暗くて道の先には何も見えず、乾いた風がずっと吹き続けている。僕は一人でこの荒れ野で迷い震えていた。

 母は前にも増して花壇の花を懸命に増やそうとしていた。僕が見たことのない珍しい花を買ってきて植えたりした。僕は珍しい花の名前を教えてもらいながら、世話を手伝ったりしていた。それはとても仲の良い母と子のようだった。でも内心では花が咲いたらエコーにまた会えるような気がしていた。この頃から僕はそんな残酷な気持ちを母に隠して笑顔で母と花を愛でていた。

 エコーの事は忘れなかった。だから心配しないでいいんだ。そう伝えたかった。


 ねぇエコー、あの川べりの桜はもう咲いたのかなぁ。


「うん」「そうだね」「大丈夫」僕は大抵この3つの言葉で僕に起こる全ての出来事を処理する。それが荒れ野で生きる小動物の知恵なのだ。

 もし僕がもう少し器用に笑えていたならば、荒れ野での暮らしはもっと楽なものになっていたかもしれない。だけどママと同じ様に僕は笑うのが苦手だった。というより苦手になってしまったのだ。だから僕には俯いたままでいる癖が付いた。人と目を合わせなければ笑顔を見せなくて乗り切れるものだと覚えたからだった。ママが帰ってくるまで。僕の中でママの帰還を信じる心と、あの日感じたもうずっとママがいない、という予感めいたものとが止まる事の無い時計の振り子のように揺らいでいた。

 「なぁ、正将。今度の日曜日にお父さんと山登りに行かないか?」

 ある日父は近くの山に僕を誘った。高尾山というポピュラーな山で山登りというよりハイキングに近く、低い山のため老人や子供にでも無理なく登れる。

「そうですよ正将。たまにはお外に出かけてらっしゃい」祖母も笑顔で僕に高尾山に行く事を促した。

 僕はどう答えるのが正解なのか判ずに黙っていた。

「どうしたのんだ?山登りは嫌いか?」父は僕の俯いた顔を覗き込むためにしゃがみこんだ。

「違いますよ。マサちゃんはこれまで山登りなんかした事がないのよ。そうよね?」

 隣から口を挟んだ母が完璧な微笑でその場を包むように話した。

「・・・うん」

 僕は小さくうなずいた。この頃から父は祖父の前以外では威張った態度を取る人だと判ってきた。山登りに行くなんて優しく誘われて、もし父と二人で行ったら、きっと僕に意地悪をするに違いない。うっかりと返事は出来ない。

「そうか。じゃぁ正将は何をするのが好きなんだ?」父は僕に尋ねた。僕は答えに窮した。

「この子はあまり外に出かけるのが好きじゃないのよ。気が小さい子ですもの」

 母はまるで僕の事を何でも知っているかのように父に説明した。

「正将、そうなのか?」

「そうですよ。マサちゃんはいつも私とお庭でお花の世話をしているんですから」

 母は僕が答えるよりも先に答えを決めて父に説明してくれるので助かった。僕がこの家で頼れるのは母だけだった。祖父は僕からママを取り上げた大悪人だし、父は威張ってばかりいて嫌だった。祖母ともあまりうまくやれず、僕は母の庇護を受ける事が一番うまくやる方法だと思っていた。

「やっぱり週末の高尾山はやめておくか」

 父は少しへそを曲げたように横を向いてそう言った。

「本当は何をしたいんだい?」祖母は僕の目を射るように見ながら言った。しわで細くなった瞼の奥がぎろりと光っていた。僕の本心を見抜こうとしてるのが判った。怖くなって母の顔を見ると、即座に母が僕に助け舟を出した。

「ほら、新しく花壇を一つ増やしたから。そこに植えるお花の苗を買いに行きましょうね」

「うん、そうだね」

 僕は即座に反応した。それで祖母の機嫌も損ねてしまったのが判った。

「本当にそれでいいんだね?」祖母は確認するように最後の”ね”の部分に力を込めて言った。

「それで大丈夫」

 田中の家に慣れる事ができないでいた僕は母に甘やかされながら、来る日をただ安全に過ごした。

 そこに希望はあまり無かった。

 ママと暮らしていた時よりも僕は口数が少なくなり、部屋の窓から見える電車を眺めてばかりいた。あのアパートから見えたのとは形も音もまるで違っていた。なにより二階の窓から見える街の景色が広くて明るくて、僕は何よりそれが怖かった。

 仕事から帰った祖父が母に僕の様子を尋ねるのをときどき見かけた。どう言ったのかあまり判らなかったけど、母は笑顔で祖父にうまく取り繕ってくれている事は感じていた。だんだんと祖父も父も僕に関心を持たなくなってきたけど、それは僕が望んでいた事だった。一人の時間が増えて僕はママを思う時間を増やす事ができる。ただ祖母は相変わらず僕を訝しげに見る目線を変えてくれなかった。この頃の祖母は僕が最も警戒した相手だった。

「一人で窓から電車ばかり見てるんだねぇ」祖母は男の僕が近所に出かけてって服を汚すような遊びをしてくる事を望んでいた。だけど僕はあの川べりの道をママと歩きたかった。そんな事ばかり考えているのだと祖母に見抜かれてやしないかと、祖母の目を見ることが出来なかった。

 ママが帰ってくるのか、やっぱり帰ってこないのか。誰かに確かめてみたかった。誰もが怖いくらいママの話題に触れなかった。もうこの世のどこにもいない気がしてとても恐ろしかった。そこ頃から僕は、夜になっても眠れない子供になった。

 それからは夜になると、母が必ず僕を寝かしつけてくれた。いつも長い時間が必要だった。冬になると母は寝る前にココアを淹れてくれた。僕がそれで寝つきが良くなった事が一度だけあったからだ。

「もっと昼間に表に出して疲れるまで遊ばせなさい」

 祖父は母にそう指示をしたみたいだったが、母は僕が望まない事を無理にさせなかった。だからいつも長い時間をかけて僕が眠るまで布団の脇で寄り添ってくれていた。

「無理して眠ろうとしなくてもいいのよ」母はギュッと目をつむった僕の髪を撫でて言ってくれた。

「自然と眠れるまで、ここに居てあげるから」

 僕のために苦労している母はそれでも優しくて、僕は母が可哀そうだと思った。自分が悪い事をしているみたいで、僕はもっとうまく眠らなきゃと、母の言葉に反して余計に目を固く閉じたのだった。

 いつか、やっぱり眠れなかった夜の事だった。母に悪い気がして、僕は自分が癇癪を起してしまった。添い寝をしてくれていた母が驚いて僕の手を握った。その手を振りほどいて暗い部屋で布団から跳ねるように起き上がった僕は目の前にあったココアのカップを掴んで暗い部屋の奥の虚空へ放り投げた。カップは割れたりはしなかったがガツンと部屋の壁にぶつかった音がした。

 母が部屋の明かりを灯けて僕は正気に返った。悲しそうな母の顔の後ろの壁に黒く茶色く乱雑にココアの染みが付いていた。

 うーっと、僕は呻くような声を出してその場に跪くようにして顔を布団に埋めた。

母はただ「大丈夫よ。マサちゃんは何も悪くないのよ」そう言って顔を上げない僕の肩を抱いてくれていた。そして朝になっていつの間にか眠っていた僕の脇には母の寝顔があった。僕は母にもっと甘えたり、母を好きになったりしなくてはいけないんじゃないかと、そんな事を朝の青い光の漏れるのを眺めながらぼんやり考えていた。

 僕が投げたココアのカップの事は誰も知られないうちに母が片付けていてくれた。だから祖父や父、いつも僕を陰から見ている祖母に昨夜の事は知られないでいた。僕が使っていたカップは、台所の脇の食器棚のいつもと変わらない場所に置かれていた。

 それでも僕の不眠癖は治らなかった。夜になるとコーヒーカップを手の届く場所から遠ざけて僕は以前にも増して強く固く目を閉ざして、眠ろうとするようになった。母に申し訳なくて早く寝ようとすればするほどさらに僕の意識は強く覚醒するのだった。その強さに疲れ切ってしまうまで、僕が眠れる時のそれはまるで意識を失うかのように不快な墜ち方をする。そうなるまで僕の一日は終わらなかった。

 母は本当は僕の事を迷惑に思っているに違いない。僕のおかげで母もまた睡眠不足になっているはずだ。だから可哀そうな母のためにも僕はママの元に戻った方が良いんだと、僕はそう思う様になっていた。そして眠れない夜に恐怖するようになっていた。

 ある日僕は母に、僕一人で寝かせて欲しいと頼んだ。「どうして?」と驚く母。僕は母にもう迷惑をかけるのが嫌になっていた。だけどそうは言わず。「今日は一人の方が早く眠れるんじゃないかと思って」なるべく僕は母を安心させるように言うと、やんわりと母を部屋から追い出した。

 一人の布団の中にいると、いつもより広さを感じる。手の届かないところや暗くて見えない部屋の隅に大きな穴が開いていて、僕は眠っているうちにそこに落っこちてしまうという想像が頭の中を支配していた。また今日も眠れずにいるのか、それとも穴の中に墜ちるのか。寝返りを何度も何度も打ちながら僕の意識はいつの間にか僕の体を抜け出して部屋の中にこぼれ出して漂い、その暗くて深い穴ぼこの覗き込んでいるのだった。遠くから声が聞こえる。ふと、気が付くとそれは母の声だった。母はドアの向こう側のすぐの場所から「マサちゃん、大丈夫?」母は僕に声を掛けた。僕は息を殺してドアの向こうの母の動きを感じ取っていた。そのまま静かにしていると、母はドアを開かずにそのまま廊下の向こうに歩いていく足音が聞こえた。

 眠れないまま、それから暫く時間が経って僕は不意にママを迎えに行こうと思い立った。そう思うとすぐにでも行きたくなった。今が何時なのか判らなかったが、暗闇さえ怖くなくなった僕は暖かい服に着替えて、足を忍ばし僕は家をそっと抜け出たのだ。

 冷えた風に澄んだ空の中に、青くて丸い月がとても明るかった。星も見えない夜だった。ママがお家に帰るのはいつも夜遅くなってからだ。たぶん今頃ならママがアパートに帰る頃だ。僕はなんとなく覚えている道順を頼りに駅に向かって歩きだした。夜の街路は風の音ばかりが目立っていた。昼間よりも高く感じる建物の壁、あまり役に立たない暗い街路灯。鎖を引きずる音だけして吠えないどこかの番犬。月明かりが作り出すこの街角の陰影の奥に感じた不気味さに足が止まった。気を取り直して歩く僕の足元に剥がれたポスターが風に巻かれてまとわりついてくる。自動販売機の灯りにホッとしながら僕は駅への道を急ぐ。角を曲がると母と仲の良いおばさんが勤めているクリーニング屋さんがあった。看板の電気は消されていたが、目印になった。梅ヶ丘の駅はもうすぐだった。

 ほとんど誰にも出会うことなく僕は公園の脇を抜けて駅にたどり着くことに成功した。ママに会えると力強い足取りで歩いていた僕は、その道の真ん中でただ立ち尽くした。目の前の梅ヶ丘駅の灯りは消されおり、駅舎の入り口にはシャッターが降ろされていた。



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