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第十四話 あの夏の日のこと

 ねぇエコー。あの夏の日の出来事を覚えているかい。

 人混みが嫌いな君が遊園地に行きたいと言い出した。その日、仕事を休みにした君は慣れない遊園地にそわそわしながら海のように青いワンピースを着ていた。白い帽子もかぶっていたね。

若草色の路線バスを乗り継いで、君は僕の手を引いて歩いた。陽に焼けた真っ黒な欄干の橋をわたって、こつこつと坂道を登って、少し息が切れるかどうかの頃に、決して新しくもなく丁度良い大きさの遊園地があったね。

 日差しが眩しくて振り返るとキラキラと光りながら流れる川と、に沿って抜けていく風に身を任せてゆらゆら枝を鳴らす木々が一列に並んでいたんだ。

 お店から君がそれを借りてきたので僕たちは写真を撮った。君はありったけの笑顔を惜しげもなくポケットから取り出して、僕と並んで丁寧に写真機に納めていった。君は心のままに燥いでいてまるで少女のようで、そんな君と一緒に僕は観覧車に乗ってメリーゴーラウンドにも乗って、そして二人でアイスを食べたんだ。僕達は片時も離れなかった。

夕暮れの頃、火照った体を木陰で冷ましながら君はとても小さく呟いた。でも僕には聞えていたんだ。君は確かに”もうすぐ終わっちゃう”と言ったんだ。

 次の日の朝、君はいつもより早く目覚めていたね。目覚めていたのに眠っているような少し赤い目で、君は僕に初めて見る真新しい服に着替えるよう促した。珍しく急いでいるようだった。事務的な口調はまるで怒っているかのようで僕は何度も君にどうしたの?と尋ねたのさ。

僕は君に連れられて電車で遠くの駅まで行った。その初めて降りた駅の前に車が待っていて、そこには僕が初めて会う男の人がいたんだ。君はそのメガネを掛けた男の人が僕のお父さんだって、そう紹介したんだ。エコーよりもずいぶん背が高く上から少し困ったような顔で僕を見下ろしていた。

”久しぶりだね、覚えているかい?”父だという男の人がそう言ったが僕はさっぱり覚えていなかった。”無理よ。もう3年以上も会ってないんだから”

 エコーがそう言うと父はばつの悪そうな顔をしてそれきり黙ってしまい、そのまま僕たちに車に乗るように促した。車の中はとっても狭く感じて息苦しかった。そして車が走り出すと最後まで誰も一言も話さなかったね。

 僕達は大きな大きな門と庭と高い壁に囲まれた家に着いた。そこが父の家だった。

”ここに来るのはママも初めてなの”

 震えながら君はそう言ったね。君がこれ以上怯えないように僕はエコーの前に立ち、何があってもエコーを守ろうと、そう思ったんだ。

 門から玄関まで、そして玄関から客間まで、あまりの広さと大きさを見て、アパートに慣れていた僕達はその一つ一つの目を奪われていたね。つい僕は”すごい”と言ってしまった。

 先に立って歩いていた父と名乗る人はまず僕達をこれも初めて会う祖父と祖母だという人達に会わせた。客間に通されると、ずっと無口だった父と違って祖父と祖母は僕の顔を見るなり笑顔で近寄ってきた。そして代わる代わる僕の名前を呼び、僕の顔が父と似ているとか、背が高くなりそうだとかともかく外見上の話をし始めた。でも僕は祖父とも祖母とも上手く話が出来ず、皆が僕の名前を既に知っている事をただ不思議に思っていた。

 最後に入ってきたのはエコーより少し歳上な感じの女の人だった。その女の人はエコーを一度睨みつけるとそのまま誰とも目もあわさずにソファの一番端っこに座った。その人が誰なのか、誰も僕に教えようとしなかった。

 僕は早く帰ろうと君に言ったけど、君は俯いて口を堅く閉ざして一言も答えなかった。僕達の目の前にいる知らない人達は僕とエコーを水槽の金魚のように眺めていた。僕はここからすぐにでも離れなければいけない気がしてならなかった。


 エコー。これが僕達のお別れの日だったね。 


 エコー、あの日のやって来るたった一日前まで僕達は二人だけで暮らしていた。

君は僕にとって守ってくれるママで、何でも言える親友でもあった。君にとって僕は世界の全てだったし、僕は君のいない世界を見たことが無かった。僕は君のどんな事でも判っているつもりだったけど、た幼い子供でしかなかった。

 昔、君は父と世間では許される事の無い結ばれ方をして僕を身篭った。それは父だけでなく父の奥さんにも祖父にも祖母にも知れてしまったのだが、君は追っ手から逃れ逃れ僕を産んだ。そんな事情を僕はまるで知らないで育ったんだ。

”皆でお話があるからね”そう言うと祖母は僕を違う部屋に連れ出した。あのとき君が、”そうよ”ってとても静かに頷いたから僕は隣の部屋に行ったけど、本当は何だか心配でドアの隙間から中を覗いていた。あの日ずっとしゃべっていたのは祖父だった。僕をこの家の子として引き取ると言ったのだ。

 父と母の間にはもう子供の出来ない事が判っていた。祖父が父の血を引く僕を跡取りとして養子にする事を決めた。この当時、祖父の言う事は絶対だった。エコーは祖父の話の内容を予め知っていたたようでただ黙って時々コクリと頷いていた。部屋は息遣いすら聞こえてしまう程に静かだったけど、声はさらに低く抑えられてほとんど僕の耳には届かなかった。

エコーは何枚かの紙に色々書き込んでいて、それはきっと親権ってやつに関わる用紙だったに違いない。 父も父の奥さんも、結局最後まで一言も話さなかった。祖父は君に細かな事を指示しながら書き上げられた書類を1枚1枚丁寧に見直して確かめていた。

 恐ろしく長い時間息をひそめて待っていたような気がする。とにかく早く家に帰りたかった。何度も何度も願っていた。何も悪い事が起こりませんようにって。

 きっと全てを終えたときに君が最初にした事は僕を見つける事だった。祖父達はまだ紙の中身を読み直していたけど、君はただ僕を探してくれた。それがとても嬉しかったんだ。

 エコー、君が門の外に待っているタクシーに乗り込むとき、不意に僕はそれが”ずっと”という意味だって事に気がついたんだ。あの広すぎる庭をエコーと僕と父と祖父が歩いて、誰もが黙って時が流れるのに任せていた。

 僕は庭に植えられた花の名前を君に尋ねたね。その時だけ時間が止まったように君は振り返り僕にその花の名前を教えてくれた。”ねぇ、こっちの花の名前は何?”僕は隣の花壇に走っていき君を呼び止めた。”こっちにも見たことが無い花が咲いているよ”。君は微笑むと僕のそばまで歩いてきて、新しい花の名前を教えてくれた。僕は次々と隣の花壇に足を運んでは君を呼んだ。父も祖父も困ったような顔をしていたが僕は君に花の名前を尋ね続けたんだ。庭は充分に広く僕のささやかな抵抗に答えてくれた。

これは----------?

こっちは----------?

じゃぁ、これは----------?

 僕は必死で新しい種類の花を探し続けた。そして最後の花壇の端っこまでたどり着いてしまった。君は僕を一度だけ抱きしめた。そのとき、それが合図だと僕は判ったんだ。あぁ終わっちゃうんだ。

 そのとき”ごめんね”と言ったのは僕だったね。もう行かなくちゃいけない君をこれ以上邪魔してはいけないと、僕は君の手を引いて門の外へ出た。君の役に立ちたかったんだ。乗り込んだ君のタクシーが走り出す最後のその瞬間を見て僕はやっぱり後悔したけれど、君はまるで僕にお手本を示すようにしっかりと前を見て、決して僕を振り返らなかったね。


 君と別れて暮らすようになっても僕は君との再開を待ち続けていた。やっぱり僕は子供だったんだ。

 この大きな家には僕のためにひとつの部屋が準備されていて、まるで大人のような眠れない夜ってものを初めて知った。そして僕の周りには何でもあった。服も靴も、パジャマも歯ブラシも何もかも新しいものが用意されていた。僕は塗り替えられようとしていた。あのアパートに有ったもので僕の手元に残ったのは、大切な青い自転車だけだった。なぜそれだけが残されたのか判らなかったけど僕の宝物だった。僕は少しずつ自分がこの家でずっと暮らす事になると判ってきたけど、それでもエコーが迎えに来るという奇跡が心の隅っこに消えずに残った。その頃の僕にとって毎日は我慢の時間だった。きみは迎えに来なかったけど。

 この家では君の事を口にする事は許されなかった。祖父は、祖母や母や父にも固く約束させていたのだった。そして僕の新しい生活は悪くなかった。幼稚園にも通うようになって友達もすぐに出来たからだ。それは悪いことではなかった。ただ毎晩どうしても寝ることが出来なかった。眠ってまた明日が来るのが何だか怖くて眠れなかったんだ。だからなのか皆がおもちゃを沢山買ってくれたり、子供心に自分が甘やかされていると判る程だった。たしかに家の人はみんな優しかった。ただ父や祖父は君があの線路沿いのアパートにはもういないと言っていた。君が今どこにいるか誰も知らないと言って絶対に教えてくれなかった。

 その頃、母は僕を毎晩寝かせる事に懸命になっていた。僕が眠れない日に母は童話を読んでくれた。お話が最後まで進む前に僕は寝なきゃいけないって思ったけど、ぎゅーっとつむった瞼は、我慢した息が切れるように開いてしまい。やっぱり薄ら明るい僕が暮らす事になった家の天井が見えた。

 ある晩に母が読んでくれた『みにくいあひるのこ』。眠れないまま最後まで聞いてしまって、また僕は目を開けた。

「ねぇ、どうしてあひるは、はくちょうになっちゃったの?あひるのままでいれたら、みんなとはなればなれにならなくてもよかったのに」

 それを聞いた母が、しくしく泣き出したのが悔しくて僕もいつのまにか大声で泣いていた。気が付くと部屋の明かりがついて祖父や父が周りに座っていた。そのとき皆の前で僕は”ママに会いたい”と言ってしまった。母は俯いてしまい、父は黙って厳しい顔をしているだけだった。祖父が怖い顔をして言った。

「あの人はお前を捨てて行ってしまったんだ。もう会えないんだ」

 「うそだ!」そう言ったとき僕は体中が熱くなったんだ。目の前の祖父を睨み付けて目を離さなかった。これが憎むって事だったんだろうな。

 その後祖父と僕はずっと仲が悪いままだった。祖父が死ぬ時まで僕は祖父と殆ど口をきかなかった。それ以外は何も変わらない毎日が続いた。

 ただ変わったのは母が前にも増して花壇の花を懸命に増やそうとした事だった。僕が見たことのない珍しい花を植えたりしていたんだ。僕は珍しい花の名前を教えてもらいながら、世話を手伝ったりしていた。それはとても仲の良い母と子のようだった。でも内心では花が咲いたらママにまた会えるような気がしていた。この頃から僕はそんな残酷な気持ちを母に隠して笑顔で母と花を愛でていた。

 エコーの事は忘れなかった。だから心配しないでいいんだ。そう伝えたかった。

 ねぇエコー、あの川べりの桜はもう咲いたのかなぁ。






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