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第十三話 続 二人の母の事

 僕は捨てられたのではなく、母がエコーから奪い取った?

「だけど、僕の養子縁組はお祖父さんが決めた話でしょ?母さんじゃないよね」

 母は僕に本当の事を言うと言った。父は自分に気を使って本当の事を言わないだろうというのだ。

「私とお父さんとの間にはついに子供が出来ませんでした。あなたが家に来る前にお祖父さんが跡取り息子が欲しいと何度もいうので、私は申し訳ない気持ちでいっぱいだったのです」

 母は女性として、子供が出来ない事への責任感を自分ひとりで背負っていた。今ほど不妊治療なども一般的ではなかった時代だ。もっと言うなら子供が出来ない事で肩身の狭い思いをするのは嫁いできた女性の側だった。

「そんなとき、青野あずささんの存在を知ったのです」

「二人で居るところを見つけちゃったんだ…」

「いいえ、もうその時には貴方が産まれていたの。お父様は青野さんにお金を渡してこっそりと青野さんとあなたの生活の面倒を見ていた」

 それは、あのアパートで暮らしていた頃の事だろう。隣のおばさんが僕やエコーを知っていたあの頃だ。

「でもそれがどうにもならなくなって、お祖父さんに相談したの?」

「大騒ぎになって判っちゃったんだ?」

「そうよ、お祖父さんがものすごく怒ってね。田中家の恥だとかなんとかものすごい剣幕だったわ」

「でも、お金を渡しているだけでは駄目になったのはどうしてなの?」

「青野あずささんはご病気を患われたの」

 母はさっきからエコーの事を悪く言わない。というか病気を患ったとか丁寧な表現で説明している。本当なら憎い仇のような存在ではないのだろうか。

「白血病だったの。入院と療養が必要になった。青野さんもいろいろと事情を抱えていらっしゃって御自分の御両親を頼る事も出来ないでいた。それをお父さんがお祖父さんに相談されたのよ」

「でも、お祖父さんは、そんな事情を利用して跡取り息子を手に入れるため僕を養子に引き取ろうと決めたんだね」

「そうよ」

 母さんは僕が父さんと血が繋がっていると知っていたという事になる。

「みんな酷いじゃないか。誰も母さんの気持を考えていない。僕はこの家に引き取られるべきじゃなかったんだ」

「いいえ違うわ。私もあなたを引き取る事に賛成したの」

「母さんは優しすぎるよ。いつも我慢して家の事とか全部一人でやってて。僕は父さんが母さんを裏切って産まれてきた子供なのに、それを引き取る事まで賛成するなんて」

「それも違うのよ。優しいからじゃないの。ここからが本当の話しよ」

 母の顔がいつになく怖かった。家の中で一番優しくていつも僕を守ってくれた母。家族のために働き続けた献身的な母。でも目の前の母はまるで別人だった。

「条件付きだった。あなたを引き取って私が母親になる事を最初から望んでいたけど。お祖父さまに私は、わざと二つの条件付きなら良いって言ったの」

「え?」

「一つ目は、青野さんをあなたに二度と会わせない。そしてもう一つは本当の母親が誰でどんな人か、父親が本当は誰なのかを貴方に絶対に教えない事。どうしてか判る?」

 段々と判ってきた。母の言っている事は養子縁組をするときに当たり前に行う事に過ぎない。でもそれをどんな風に徹底したのか。僕を一時的に預かるのではなく養子にした意味を祖父の考えだけではないと言う母の当時の想いを考えると恐ろしさを感じた。いま母は母の顔をしていない。一人の女性の顔をしている。だから怖いのだ。

「私は子供が出来なくて苦しかった。だから完全にあなたを自分の子供にしてしまいたかった。そして青野さんからお父さんとあなたの両方共を奪い取りたかったの」

「それって…」

「あなたという子供をもって育てる事が出来て私は本当に幸せだった。あなたのためなら死んでもいいと思っている。仕事ばかりで家に帰ってこなかったお父さんも病気になってからはずっと家にいてくれる。それも嬉しいのよ。掃除をして洗濯して料理をして。毎日繰り返せる事が本当に幸せ」

 母の言う幸せは女性の勝利宣言なのだと僕は思った。一度は父に裏切られた母が見事に逆転して勝利者になったという物語。母はいまそれを語っているのだ。

「青野さんが捨てたのはあなたではないわ。あの方は自分の未来を捨てたのよ。あなたのために」

 母は同じ母親同士の連帯感のようなものをエコーに感じているのかもしれなかった。父を奪われた憎しみと並行して同じ方向に同じ分だけの母親同士として認める感情を持っているように見えた。

「こんな話を聞いたら、青野さんの方が母親だったら良かったと思う?」母は僕に尋ねた。

「いや…」僕は正直いって母を嫌いにはなれなかった。この話を聞いてエコーの事を母親だと認識し直すにはエコーと過ごした時間はあまりに短すぎた。母は僕を愛してくれて守ってくれて、その事に僕は慣れきっていてそしてその事に支配されているのだ。僕にそう思わせるために母は泣きながら努力した。僕はそれを覚えている。例え僕が母の幸せのシナリオの1ピースだとしても、それは僕にとっても幸せのシナリオだったのだ。

 僕の母親になろうと必死だった頃の母を覚えている。昨日の雨の中に庭の手入れをしている母の顔もそのときと同じ顔だったのだろう。

「じゃ花壇の手入れをしたのも負けたくなかったから?」

「そうね、あなたが青野さんを探しているって聞いたから、私は自分が花壇の手入れを怠けていたせいだと思ったのよ。青野さんはお花を愛でていたと聞いていたから負けないように頑張っていたの」

母は誇らしげにそう言った。

 エコーは僕を捨てたのではなかった。エコーが僕を身篭ったとき、父は認知こそしなかったが密かに援助を続けた。それが僕とエコーがあのアパートで暮らした日々の事だ。しかし白血病を煩った事で状況は一変した。エコーは治療をしないまま死ぬまで僕と一緒に暮らすか、僕を施設に預けて僕と離れて暮らすかのどちらかを選ぶしかなかった。そこでエコーは父に相談し、資産家の田中家に養子に出すことで僕の未来を守ろうとしたのだ。

 おそらく父は僕を養子に引き取ってもいつか僕に会える日が来るとエコーに言っていたのではないだろうか。だからあのアパートに戻ってこられるように家賃を前払いしていた。でも祖父がエコーに二度と会わないという条件を告げたに違いない。エコーは僕の将来を想って僕を手放した。それが真相だろう。

 僕は戻ってこない父と祖母を探しに病室を出た。既に陽は傾き院内の廊下には窓から斜めに差し込む外の光で斜めに切り取られたような影が出来ていた。そのせいで廊下の奥は不気味なほど薄暗くみえた。そして院内はとても静かだ。死角を作るようなまねをするなんて変わった病院だなと僕は思った。不意にその奥には秘密の病室が有ってエコーが入院させられているような気がした。父と祖母がいないのは僕に内緒でその病室に行っているからではないだろうか。

 軽い眩暈がして僕は、なぜか廊下の奥に放置されたままになっている古びたベンチに倒れこむように腰を掛けた。ふーっと息を吐くと鈍い眠気が僕を襲った。疲れているのかな、などと思ったとき暗い廊下の奥から人の話し声が聞こえてきた。

 僕は聞き覚えのある声に導かれるように立ち上がり、けだるい体をで少し開いたそのドアの前に立った。ドアを開けると驚いたことにそこは僕の家の玄関だった。いつのまにか家に帰ってきていたのだ。玄関には沢山の靴が綺麗に並べられていてその中にはママの靴もあった。僕も履きなれたスニーカーを脱ぐと廊下に上がった。半ズボンの裾に泥が付いているのに気がついた。周りを汚すと怒られるかも知れないので僕は指の先で乱暴に泥を掃った。話し声は家のリビングから聞こえてくる。僕はリビングの隣の和室に入って息を潜めた。

「あとの事は全部、私達に任せて下さい」

 先ほどから聞こえていた声は祖父だった。祖父は僕をこの家に引き取れば将来も安心、大学にも行かせて行く末は会社を継いで社長になってもらいますから、と穏やかな笑顔を崩さずゆっくりと話していた。

「養子縁組後の事は今まで何度もご説明させて頂いきました。大丈夫、安心して正将君を任せてください」

 祖父はリビングのソファに腰を掛けていた。周りには祖母や父の姿もある。一番奥にうつむき加減で座っているのは母だった。それらと相対する向きで一人座っているのはママだった。祖父の声にママはただ小さく頷いていた。ママは何か言ったかも知れないが口元がここからではよく見えなかった。

「弁護士さんの方で準備いただいた書類に署名と捺印をお願いします」

 その場で声を発しているのは祖父だけだった。ただママはその指示に忠実に右手に持ったペンを書類の上で動かしていた。

「有難う御座います。書類を確かにお預かりします」

 ママは顔を上げずに小さく頷いた。他の誰も微動だにしない重苦しい光景を僕は障子の隙間から覗き見している。

「正将君は特別養子縁組ですので戸籍上も最初から田中家の子供として記録されます。そういう事もあって貴方様には大変お辛いでしょうが、お約束通り今日限り正将君と貴方が会う事はできません」

 祖父はゆっくりと言った。どのように聞き違えることも出来ない様なとても正しい伝え方だった。

 もう会えないとはどういう意味だろうか。帰ったらママに聞いてみなくちゃ。大事な事をこの人は言ったのだ。それだけは理解できた僕は盗み聞きしてたのが判らないようにそっと障子の隙間を小さく閉じた。そして何よりも早くママに抱きつきたかった。ママがこの人達にいやな思いをさせられている事だけはよく判った。僕がママを守らなくてはいけない。僕はもっと強くなってママをこれからも守るんだ。

 隣の部屋で僕はまだ小さい拳を握り締めた。その強さに僕は我に帰った。

「僕は眠っていたのか」うたた寝の鈍いだるさが体の節々を錆びたように軋ませた。気がつくと握った手のひらに僕の爪あとがはっきりと付いていた。滲んだ血は少しだけだったけど、まぎれもなく僕の体の中を流れる本当の赤い血だった。


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