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第十二話 二人の母の事

 僕は、改めて母にはもう一度僕が結婚する事をきちんと伝えてるつもりだった。誰よりも母に賛成してもらいたかった。自宅に戻ると僕はまず祖母を探した。エコーを探していた事を母がどこまで知っているのかを先に祖母に問いただしておくべきだったのだが、祖母は家のどこにもいなかった。母をどのように説得したものかと思案ばかりしたせいで気が付かなかったが家の中には父の姿も見えなかった。祖母にしても父にしても出掛けることなど滅多にないこの頃ではないのか。

 仕方なくそのまま 母の部屋には誰にもいなかった。それどころか、手前の廊下のど真ん中に掃除機がコンセントにつないだまま放置されていた。考えてみると玄関は開いていたのに家の中には人がいる気配がしない。まるで急な出来事が起こった後の様だった。うっかりしていたが、玄関脇のガレージに父の車も無かった事にようやく気が付いた。何かあるとすれば病気の父の具合が気になるくらいだ。昨夜あれほど祖母に責められた父の具合が悪くなったとか。そのときリビングで電話のベルが鳴った。

 タイミングの悪さに慌ててしまった僕は小走りにリビングに駆け込んだ。

「もしもし」

「正将か?」予想外にそれは父の声だった。

「何してたんだ。早く府中市民病院に来なさい。母さんが救急車で運ばれたぞ」

 父は母が運ばれた府中の病院から電話を掛けてきた。

「わ、わかった」父との電話を切ると僕はすぐにタクシーを呼んだ。具合の悪かった父では無く、ずっと元気に働いてきた母の方が倒れた。冷や汗がでる僕の脳裏にエコーの事を捜したりしたからとか、父が自分の携帯電話の番号を知らないせいで家の電話に掛けきたのだろう、などと下らない事ばかり思い浮かんだ。

 府中市は梅が丘から西に数キロ程行った街で、エコーのアパートがあった国分寺と梅が丘との間にある。その病院は父の会社にも近く、病気になってからの父が通っている病院でもあった。そもそも府中市はエコーが働いていた夜の店があるという街であった。

 エコーが働いていた店はこの辺りにあるのだろうか、僕はタクシーの窓から府中の街を眺めた。ビルに掛けられた不揃いの看板の数が多すぎて店がどこかだったかを探し当てる事は不可能だろう。

 病院は駅前通りから少し外れたところにある。受付で名前を告げるとすぐに母の病室を教えてくれた。

病室は3階だった。エレベータを降りたらクランク状に廊下が伸びていてすぐに迷った。病院の中は大抵どこでも殺風景だ。大学の実験室よりももっと生きている心地がしない。到るところが白や薄いピンク、もしくは緑色掛かった人工的な色の壁と床で囲まれていて、雑菌の1gでも生存できない厳格な清潔さを保っていた。消毒薬の臭いのする廊下を進んで、点滴が3つも掛かったハンガーを押しながらよたよた歩くパジャマの着崩れた老人とすれ違い、無愛想な看護師や職員ともすれ違い、迷路のような院内を一回りした挙句、結局エレベータを降りたすぐ脇の死角に病室があった。

 個室のドアをあけると最初に見えたのは機嫌が悪そうな顔でこちらを見る祖母だった。

「やっと来たかい、このあほすかポンたん」

 祖母は取るものとりあえず病院まで来た様子で、髪も服装もボサボサだった。昨日より背中が曲がって小さい体がもっと小さく見えたのは気のせいだろうか。

「来たか…」驚いたことに安どの声を吐いたのは情けない顔で椅子に座っている父だった。その傍らには、髪の毛を頭の後ろで留めただけの母がベッドに腰かけてこちらを見ていた。

「ごめんね、心配かけちゃって」母は申し訳なさそうに僕に言った。

「大丈夫なの?母さん」

「えぇ、少し気分が悪くなってうずくまっちゃって。救急車をお父さんが呼んでくれたのよ」

 母は昨日、久しく放置していた庭の花壇の世話をしていた。途中で雨が降って来たから中断すればよかったものを、持ち前の働き者の癖が出て無理に作業を続けてしまったという。今朝は起きるのが辛いほど気分が悪かったみたいだが、僕が出かけた後には母も起きてきたのだという。そう報告してくれた母はまた僕や父や祖母に頭を下げていた。

「どうして雨の日なんかに庭仕事なんかしちゃったの?そんな事するから・・・」

「もういいさ。大した事無くてよかった。折角だから今晩一夜泊まって明日退院なさい」

 つい厳しい言葉を選んでしまった僕を静止するように言った父は母をベットに横になるように促して、病院側と話をしてくると言って病室を出た。病院に対してホテルの様に簡単に宿泊希望と言って通用するのか判らなかったが、恐らく父なら病院相手にごり押ししてしまうのだろう。

 今日の父はそれにしても変わった。「なんだか今日の父さんは丸くなったっていうか優しい感じがするよね」僕は母にそう言った。

「そうかしら、お父さんは前からそういう人よ」母は枕に深く頭を沈めて天井をまっすぐに見ていた。天井には規則正しく並んだ蛍光灯が2列になって並んでおり部屋の隅々までを隙間無く照らしていた。

 祖母はトイレ行くといって部屋を出ると病室の中は僕と母だけになった。パイプ椅子をベットのわけに寄せて、僕はかばんを隅のテーブルに置いた。

「なんて言ったらいいのか判らないんだけど、雨の中で無理をした理由は僕と何か関係有るんじゃないかって気になっているんだ。僕が急に大学を中退して結婚したいと言ったり、子供が出来たりとかショックを受けるような事ばかりしたから?」

「関係ないわよ、そんなの」母は天井を見上げたままで言った。「でも知ってたんでしょ?この数日の間に僕が誰かを探していた事も」

 カチカチと聞こえて初めて部屋の壁に時計が掛かっていた事に気がつく。こうして”働いていない”母とゆっくり話すのはどれくらい振りだろうか?

「そうね、知っていたわ」

「やっぱり・・・婆ちゃんが話したんだろう?お喋りで困るよな」

「違うわ。立ち聞きしちゃったのよ。お父さんと話しているところ」

 母は父と祖母が話しているのを偶然聞いて父が僕にエコーを探せている事を知ったのだ。

「ごめん、母さん。僕が父さんの変な条件に従った事から始まって、母さんはショックを受けたんだよね」父から僕への条件について僕は説明した。父はエコーがもう一度僕に会いに来るためにそのアパートに戻ってくると思っていた。でもついに一度も戻って来なかった。

「やっぱり僕は捨てられたも同然だし、僕は僕の母さんは一人だと思っているから」

「ありがとう、でもねお父さんは貴方にやっぱり実の母親に会わせたかったのよ」

「そうかな」僕は納得がいかない。

「そうよ。ただやり方が悪いのよ」そう言って母は笑った。「お父さんはいつもそうよ。貴方と同じで不器用なのよ。素直に話せなくて、その代わりに変な作戦を立ててね」

 母はそこまで言うと、まぁおかしいと言って自分で吹き出した。「自分の作戦通りに全てうまく運ぶと思ってるみたいなのよ」

「だけど、母さんだってショックを受けたからあんな雨の中で…」

 母は少し神妙な顔つきに戻ると僕の顔を正面から見据えた。母のこんな表情は初めて見るような気がしたが、でも本当はすごく昔に見たような気がする。

「あなたのお母様は、決して貴方を捨てたりしていないのよ」こんな母の声を聴いたのは初めてだった。地の底から響くような、ちょっと怖い声だった。

「そりゃ、なんか借金とかいろいろ有ったんだろうって想像したけど、結果は一緒じゃん」

 僕は母の勢いに押されてやや声が上ずった。

「実の子を捨てる母親がいるもんですか」母はあの大家さんと同じ事を言った。母は僕の目をじっと見つめて言った。もうその言葉は僕を捉えて離さなかった。

「私があなたをお母さんから奪い取ったのよ」




 ねぇエコー。

君の僕は君を守っているつもりだったけど。君の悲しみを僕は何にも知らなかったね。

通りを歩く人達の中に君がいるような気がして・・・。

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