第十一話 エコーの事
翌朝、いつも早起きの母が起きてこなかった。働き者の母がいないだけで家の中は時が止まったようで、空気も重く沈みこんでしまう。僕は自分が母にショックを与えたからに違いないと思っていた。母は何も悪くないのにまたこの家で苦労するのは母なのだと思った。それでも母は誰かを悪く言ったりする人ではなかった。変わらぬ毎日のようにそこに居てくれた。だから僕は遊び呆けている事が出来たのだ。その母が参ってしまった。僕はなんだか怖くなって母の様子を見に部屋に行く事が出来なかった。
こんな事になったのは本当にこじらせ屋の父のせいだったのだろうか。自分の体力に自信がなくなったと言っても僕は使う必要なんてないはずだった。というより引き受けた僕のなかにまたエコーに会いたいという気持ちが無かったと言えるだろうか。彼女と生まれてくる子供のためという理由はもっともだけど、そこに乗っかって僕はエコーに会いに行こうとしたのではなかったか。母よりもエコーを、などと考えたわけではないが、自分のルーツとして、自分を捨てた母だとしても確かめたかったのではないか。きっと顔を見ても話しかけたりなんかできなかっただろうけど。もう一度くらい顔を見るくらいは、それくらいは許されるのではないか。きっと僕は自分がそう思っていると決めておきたいのだろう。
しばらく、その場で棒切れのように突っ立っていた僕は、簡単に身支度をして、その足で梅ヶ丘駅へと向かった。
目的はアパートのおばさんに見せてもらった遊園地で僕とエコーが写っている写真に写る遊園地に行く事だった。少しだけ見えていた観覧車だけではどこの遊園地かなんてわからない。だけど僕の推理はこうだ。エコーと僕のアパートは国分寺にあった。車を持たないエコーが遊園地に行こうとすれば電車やバスを使うはずだ。だから僕は国分寺から日帰りできる手短な遊園地の中から路線の繋がりの良い場所を探した。多分ここだろうと思えたのはよみうりランドだった。ここなら交通機関を乗り継いで1時間弱で行ける。写真には笑顔のエコーと僕。端っこにエコーの伸ばした細い腕が見える。携帯で自分撮りをするときのようにカメラを自分で構えて撮ったに違いない。僕の姿の背景に特徴的な観覧車が写っている。ゴンドラが取り付けられる円状の本体のまさに中心が赤い花のようなデコレーションで飾られている。この観覧車のある遊園地なら間違いない。
梅ヶ丘から八王子方面行きに乗った。途中から僕はエコーと二人で乗ったそれと同じ路線を進むことになる。昔はきっと車両も旧型だったろうし、きっと駅舎だっていまとは違うものだろう。そういえば、梅ヶ丘駅だってそうだったかもしれない。でも僕は時間を遡る旅に出る。もうどこにいるか判らないエコーと会えないとしても、会う事に最も近い方法はこれだと思った。
写真を何度思い起こしても、あの時の事が思い出せない。写真に撮っている事からもやっぱり大切な思い出の場所に違いないのに、考えるほど記憶が縺れて判らなくなった。写真の中のエコーはとても楽しそうで、僕も嬉しそうだった。それなのに思いだせない記憶だって事に何か秘密がある気がした。ふと、そこからエコーが僕を捨てた理由に辿り着けたるような気がした。その理由を知っている祖父はもういない。そして父もまたその理由を当然知っているはずだ。父との間に僕を授かったエコーは何らかの理由で僕を養子に出した。父と母の間に子供はいなかった。だから跡継ぎとして祖父が手配した養子縁組だったという話は至極全うだけど、母がそれを承服するだろうか。父が余所で作った子供を育てるだなんて残酷過ぎる。きっと母は僕が父とエコーとの間にできた子供だと知らないに違いない。
電車に揺られて、僕はとりとめもない事を考えながら向かった先はY駅だった。駅は比較的新しく、きっと僕とエコーが来た時から変わってしまったようだった。駅の前からバスに乗り込み遊園地方面に向かった、通りに出るとすぐに山の斜面にそって作られた遊園地の全体がよく見えた。でもまだ遠いな。僕は手に持った写真と車窓からの風景を比べながらそう思った。バスはその後も何度も赤信号に捕まったりしながら微々たる深度で前に進んでいった。僕はともかくもっと早く進んでほしいとそう思った。昨日の雨に洗われた混じり気のない青色の空に春の山がくっきりと映えていた。 この時、エコーが何を考えていたのだろうか、本当の理由は祖父と父しか知らない事だろう。父から聞き出すのは難しく、あまり騒ぎ立てると母に知られる恐れがある。だから僕はエコーの写真とか数少ない手がかりから僕の記憶を取り戻す方が良いんじゃないかと思った。
ここだ。バスが遊園地に着いた。平日だからなのか人はまばらにしかいなかった。チケットを買て入場した僕の目の前にすぐに写真と似た景色が広がった。だから僕はもう一度、ここかと呟いた。入場口から歩いてすぐのところ。ゴミ一つ落ちていない綺麗なアスファルトの路上から確かにあんお観覧車が見えた。観覧車は何も変わっていなかった。僕をどんな気持ちで見ているのか楕円形のゴンドラはあの時からずっと変わらぬスピードで回り続けていたに違いなかった。
僕はもう一度国分寺からこの遊園地に来る道程について思い起こしてみた。アパートであったおばさんの話からしてここに来た頃というのは僕が捨てられるほんの少し前のことだろう。不思議なことに僕もエコーもとっても楽しそう表情で写っていた。エコーは本当に僕を捨てたのだろうか?エコーは僕と手を繋いで少しかがんでいた。僕と目線の高さを合わせるようにして、ちょうど脇のサルビアのはなが咲いているのが写っていた。だとすれば春だったはずだ。この時、エコーはどんなことを考えていたのだろうか、エコーにどんな理由があったにせよ祖父に説得されて僕を養子に出したことは事実だ。自分の子供を捨ててエコーは今どこで何をしているのだろうか。仮に僕を捨てる仕方のない理由、例えば借金とかエコー自身が誰かと結婚するのに邪魔だったとか?それにしてはあの幸せそうな表情が解せないと思いが頭のなかを占める。
そよそよとした柔らかい風が首筋から頬に向けて流れていく。遊園地でエコーと遊んだ事がいまつぼみが花弁を広げるように静かに動き出した。閉じ込めていた殻は祖父や父の思いだったのだろうか。錆びついていた記憶の扉が開く音が聞こえてくるようだ。記憶が羽を広げていく。
あぁ、そうか。振り返ると人の心に共通して持っている懐かしい原風景の象徴の様な多摩の丘陵地帯が視野いっぱいに広がっている。観覧車から見た風景だ。エコーと手をつないでいた。しっかりと繋ぐ手に力が入っていたのはむしろエコーの方だったんじゃないか。その事に意味がある。子供の頃に気が付かなかったエコーの小さなサイン。丘陵地帯に作られた遊園地の高低差のある敷地内にはいくつかの階段がある。歩いていくと、はしゃぐ僕に手を引かれるエコーの嬉しそうな顔を思い出す。写真で見た以外のエコーの表情を思い出した。どうして忘れていたのだろう。こんなに仲が良かったエコーの事。すっかり古くなったメリーゴーラウンドの脇、二人でアイスクリームを食べながら歩いた。大きいと思っていた噴水。本当はこんなに小さかった。僕はいまエコーとの時間を後追いしている。忘れているはずのエコーの声。忘れたはずの一日。どの順番で乗り物に乗ったのか。もう一度体験しなおすかのように僕はトレースしていく。この遊園地はまるで懐かしい絵本のようだった。いや実は正確にトレースしているという錯覚をしているだけかもしれない。だが例えそうだとしても繋いだ手の温もりだけは錯覚ではない。僕が錯覚しているのだとしてもこの手が正確に覚えている。だからこれだけは錯覚ではないのだ。
本当ならエコーはあのアパートに戻って来るはずだったと。そう言っていた父だった。父らしいと言えば父らしと思う。養子に出した息子にもう一度会う事が簡単に叶うと思う方がおかしい。エコーはきっと最初から会うつもりが無かっただろう。どんな理由だったにせよ、最初からもう二度と会う事はないと判っていて僕を手放したのだ。写真の中の笑顔から安堵できる何かがあったのだろうと想像がつく。それで充分だ。この遊園地での一日の数日後、僕は田中家に連れてこられた。だからこの遊園地がエコーと幼い僕にとってどんな意味を持っていたのか今なら判る。あの写真の一日は、エコーと僕の最後の思い出として用意されたのだ。
そうして記憶の整理をつけていくと、もうエコーに拘らなくていいと思える。だってエコーも今、どこかで静かに暮らしているだろう。それでいい。僕はエコーを思いだせるし、それが適切な僕とエコーの距離だ。
僕は遊園地を後にした。ここに来ればエコーに会える。 そういつでも。
ある凍りつくような寒い夜。僕は一人で君を待っていた。君がお店の仕事から帰ってくるのはいつも夜中だった。君は僕に帰りを待たずに先に寝ているようにと決め事をしたね。だけどある夜、僕は君が心配だったから魔法の手袋をはめて駅まで迎えに行ったんだ。でも既に駅の灯りは消えていて誰もいなかった。仕方なくアパートの前で震えながら待っているとタクシーに乗って君が帰ってきた。僕を見つけた君は氷が割れた様に驚いた顔をして、でも直ぐにぽかぽかした笑顔になった。お酒と煙草の匂いのする君のコートの中に体を差し込んで、僕は君の笑顔の後ろの夜空に真っ青な三日月を見つけたんだ。
エコー。だけど君より素敵なものなんてこの世にはないんだ。