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第十話 茶飯事

 部屋の窓から見える庭の花壇を暮れていく黒い影が覆っていく。見ている僕はさっきから一歩も動けずにいる。

 さっきの母の様子がおかしかったのは、やっぱり僕が産みの母を探しているって事を知ってしまったからじゃないかと思って、ずっと足が床に張り付いている。ひょっとして祖母から何かを聞いたのかもしれない。祖母に話したのは迂闊だったかな。僕が楽をして家族を説得しようとしたからだ。

 この後の夕食を取る時に母とちゃんと話さなくてはならない。僕はなんとか重い心を引き剥がして階下に降りる。

 夕食を作るのは母だけの役割だった。母の師匠だった祖母がそれを手伝うことはなかった。祖父が生きていた頃だってそれに誰も異を唱えたりしなかった。元気だった頃の父は仕事ばかりしていて家に帰らない日もあった。だから夕飯は生きていた頃の祖父と祖母、そして母と僕の四人で取ることが多かった。

 ふと見るさっきまで疲れ切った顔で寒々しかった母がいつもの優しい微笑を浮かべて台所に立っていた。十分すぎるほどに広いシステムキッチンはよく整頓されており、趣味で集めている海外の香辛料や調味料、健康に良さそうな天然の塩のボトル。特に父が病気になってからは醤油すらも遠くの店から取り寄せた特別な品物を使っていた。それらを置く専用のラックは掃除が行き届いている。暖かく食欲を刺激する芳醇な香りが僕を食卓へ向かう様に促す。広いテーブルには既に祖母が着いており、僕達の前には湯気を昇らせた味噌汁の碗が並べられていた。サラダとご飯。メインには白身魚だった。父や祖母の健康を考えたようなメニューだ。料理好きだった母はいつも僕の好きなメニューばかり作ってくれていた。僕のために作ってくれる母の料理が本当に好きだった。

 ところが嬉しい気持ちで椅子に座った僕を待っていたのは母の叱責だった。

 「あなた、お付き合いしている方との間に子供が出来たんですって?」

 僕は祖母を横目で睨んだ。こともあろうに祖母は舌をだして楽しそうに笑った。やはり祖母がしゃべったのだろう。

「急に帰ってくるなんて言うから変だと思っていましたよ」

「ごめん、母さんにはきちんと話をするつもりだったんだけど」

「そういう事ではありませんよ、相手の方はいまどこにいるの?」僕は母は彼女を置いて東京に来たことをまず叱った。当たり前のことだった。僕の彼女は今、たった一人で僕の部屋で僕の帰りを待ち続けている。それだけでなく、もう疲れてしまい体調も悪くて僕達の仲は崩壊寸前なのだ。でもそんな事を言える雰囲気ではなかった。「明日、すぐに京都に帰りなさい」今夜の母は厳しかった。横で祖母は薄らと皮肉な笑いを浮かべて座っていた。どういうつもりなのか想像もつかない。

「だけど、父さんに話しても判ってくれないんだ。それまで京都には戻れないよ」

「もちろんお父さんの許しが出る事が条件です」さっきまでの僕は母や祖母を味方につけて父を説得しようと考えていたはずだった。もはやそれどころではない。ここにきても母は父に従う妻の立場を崩さなかった。状況がおかしくなってきたのは、やっぱり祖母のせいに違いない。

「どうせこの子には人を説得できるなんてことできやしないよ。病気してる父親に気苦労をかけ続けて挙句にこれだからねぇ」やっと口を開いた祖母にずばりと言われて僕は返す言葉もなかった。

 そのとき父が遅れて部屋に入ってきた。

「騒がしいじゃないか」

 父の弟、つまり僕の叔父さんに副社長として社業を任せて事実上のリタイヤをした父である。ところが腎臓を患ってるとはいえその迫力は衰えていなかった。とにかくどんどん僕の形勢は不利になる一方なのだ。

「正将、お前は母さんに何も言ってなかったのか?」

 父にまで強い口調で言われて、これでは僕の反省会になってしまいそうだ。だけど、そんな話があるかって言いたくなる。はじめは二、三日で話を纏めて京都に戻るつもりだったのだ。それが父の変てこな条件を満たすためだけにもう三日間を浪費している。けれど何も纏まってやしない。

「そんな言い方しないでよ」僕は父に食って掛かった。「確かに大学は辞めるかもしれないけど、結婚したり就職しようとしたり、子供が出来たって事がそんなに悪い事なの?」

「お父さんに向かってそんな言い方はやめてください」

 母はそう言って必ず父の味方をする。昔からそうだ。

「僕が早く京都に戻れないのは父さんが青野あずさを探すようにって、そんな条件を出して僕を使っているからだろう。母さんはこんな人の味方のするの?」

「もういい加減にしろ」父が慌てて僕の言葉を遮った。顔を見合わせて絶句する母と祖母。この話だけは禁句だった。まさか僕自身がその扉を開ける事になろうとは。

「こりゃ、親子そろいもそろって。人の気も知らないでよくそんなことが出来るね。二人そろって、あほすかぽんたんだよ」曲がってたはずの背筋が伸びるほど大きな声で祖母が言った。言ってしまった僕自身も驚いた。父が珍しくばつが悪そうにしている。でも話してしまったものは仕方ない。

「会わせるつもりなのかい?」祖母が父に詰め寄った。

「いやいや決してそんなことはないよ」

「いったい何をするつもりだい。正将の母親はこの世に一人だけだよ」

 今夜の祖母はまったくぼけていなかった。「もうやめよう」母が困っているの見て僕はいたたまれなくなった。母はすっかり黙り込んでしまった。

「ごめん、母さん。だけどその人は行方知れずで、これ以上探しようがないんだ。だからもう探すのも終わりだよ」

「ううん、大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ。平気よ」

 食事もほとんど手を付けないままで母は足早にリビングを出て行く。僕の心に大きく後悔の塊が重く圧し掛かってそのまま床にへたり込んでしまいそうだった。

「我が子ながら情けないね。」祖母は父にそう言ってため息を吐いた。

「これは正将がしでかした事だ。自分の責任というものが判ってないんだよ」

 父は言い訳をするかのように祖母に向かって訴えた。

「いいかい」祖母は本当にに怒っていた。それは父が青野あずさとの間に子供を作った事にまで遡る長年の怒りだった。二人ともやってる事に大差がない。そう言っているように聞こえた。

「ほんとのところ、どうしてあの人を探そうと思ったんだい?」

「それは…」父は言葉を濁した。「はっきりと言いなさい」祖母は今、父の厳しい母であった。

「健康に自信が無くなったからだよ。やり残した仕事の様な気がしていたけれど自分では見に行けないから正将に頼んだんだ」

「僕に行かせたのは会わせようと思ったからではないのですか?」

「普通に暮らしていると判れば、それで良かった」

 あきれた事に父は僕がエコーと顔を合わせてしまったらどう思うかなんて気にも留めていなかった。ただエコーが無事に暮らしているとか、そういう事だけを考えていたのだ。祖母でなくても呆れてしまう。

「僕は父さんの条件を満たしたはずだ。母さんが言ったように京都にも戻らなければいけません。家に戻る事と結婚と子供の事と。全て認めてくれますよね」

 父はまだ素直に首を縦には振らなかった。跡取り息子が高卒になり、子供が出来て前触れもなく結婚するのだ、とても素直に喜べないという顔をしている。

「もういい加減にしなさい」祖母が父に向かって怒った。「正将の事だって、元々はも貴方の不始末の結果だと思って、自分が責任を取るつもりで認めなさい」祖母は立ち上がって言った。

 父がエコーとの間に僕が産まれてくる事を知った時、態度を決めかねた父を叱咤してエコーの生活が成り立つようにしたのは祖父だったという。そしてエコーが僕を手放してこの家に養子に貰われてくる事を決めたのも全て祖父だった。祖母は祖父が生きていればきっとそう言うだろう事を話している。

「貴方に比べたら、正将のしてる事はずっとましだよ」急に頼もしくなった祖母に対して父は何も言わずに席を立った。「結婚も子供もお前の思う様にやって構わない」父はついにそう言うと部屋を出て行った。

 あっけなく話しがついても僕はまだ頭の整理がつかないでいた。テーブルの上ではせっかくの母のメニューが湯気を出し尽くして立ちすくんだように冷め始めていた。

 「ありがとう」ようやく僕が祖母にお礼を言うと、祖母は僕のちょっと崩れた笑顔を見て苦虫を噛み潰したような顔をして言った。

「あほスカぽんたん」

「え、」

「本当のあほじゃねぇ。だらしないところばっかり遺伝して」

 祖母は僕を父を見たのと同じ目線で見ると、そんな言葉を残して部屋を出て行った。無計画な僕の中にどこか父と通じた部分を見たと言ったように聞こえた。







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