第一話 帰郷
ねえエコー。
元気で暮らしているかい?
いまでも窓際で煙草を手にして
ぷかーっと煙を吐いているのかな。
もう随分会ってないから顔もうまく思い出せないよ。
そんなの嫌かい?
*
第一話 帰郷
大学の授業が終わると僕は京都駅へと急いだ。混雑したホームには今にも発車しそうな東京行きの新幹線が小さく震えながら停車している。座れるなら何でも良いと乗り込んだ車内にはムッとした空気が充満していて、軽い吐き気がした。狭い通路を挟んで並ぶシートの列からは、歩き疲れたようなだらりとした人の足やら角のすり減った旅行バッグらがはみ出していた。なんとか空いた席を見つけた頃には既に車両は東京に向けて走り出そうとするところだった。
一息ついた車窓からは、駅の近くの学校の古く汚れた校舎が見えた。新幹線の小さな窓ガラスに切り取られた景色だけを見ていると見慣れた風景すら美しく見えた。校舎の脇に大きな銀杏の木が一本だけまっすぐ伸びていて夕日に照らされている。そうだ京都に引っ越してくるときにも、この窓から銀杏の樹を見つけたっけ。京都と東京を行き来するのに何度か東京行きの新幹線に乗ったけど、それを思い出したのは初めてだった。僕が通った東京の中学校にも同じように天に突き出したような高い銀杏の樹が有った。だから京都の見知らぬ学校にも同じような樹が有った事が妙に嬉しくて印象に残っていたのに。
記憶とは曖昧なもので、すぐに暫く見ぬうちにどこかに見失ってしまう。
景色は直ぐに茜色が差し込む痩せた鴨川ののんびりとした流れに切り替わる。古いコンクリートの土手のひび割れた少しの隙間から沢山のセイタカワダチソウがひしめき合う様に延びていた。
車内のざわつきに交じって聞こえるキーンと言う走行ノイズが高くなりと共に車両は徐々に速度を上げていく。
あまり急ぎすぎないでくれと僕は思う。この速度のままで溶けていく車窓からの景色を見ていたかった。この川沿いの混み合った住宅街を、その先の今熊野の坂道に並ぶ商店の何の変哲もない、その変哲の無さ加減を漫然と眺めたかったのに。しかしゴンッと窓を震わす衝撃音と共に突如風景がブラックアウトする。東山トンネルだ。空気の塊を突き破り、ビリビリ小刻みに震えた車両は更に速度を上げつつひと息に暗闇からジャンプするように違う街に抜け出した。次のトンネルを過ぎれば大津へとジャンプする。
彼女からのメールがポケットの中で震えた。
”マサ君、気を付けて行って下さいね。お父様とは今夜お話しするのかな?”
”うん”
僕は彼女に簡単に返事をした。すると心配性の彼女から直ぐに返ってくる。
”でも無理しなくていいよ。私は赤ちゃんを堕す覚悟は出来ているから。どちらにしても早く決めなきゃいけないね”
僕は彼女に、”何も心配しなくてもいいよ”と返信する。弱気になった彼女を一人置いて行く事を悪いと思った。
市街地とトンネルを交互にやり過ごして車両はあっという間に近江の帳を走っていた。
僕の急な帰省は彼女とも話し合った結果だった。
帰省の理由は同棲している彼女が孕んでしまった事が原因だった。僕達は話し合って、卒業を諦めてでも結婚して産まれてくる子供を育てる事に決めた。
大学に入ってからの僕は同じゼミの仲間達とキリギリスのように遊び暮らしていた。まず1年留年した。その後も夜の街で見知らぬ女に手を出したり、危ない店に出入りしたり、自分でも転げ落ち始めたなと思った時にはどうしようもなくなっていた。仲間達が将来とか就職とか言い出すころに、まだ僕は箍が外れたままで、ふわふわと漂うように生きていた。引っ張るだけ引っ張って掠れてきた絵筆の様に僕は未来に向かって何も描けないでいた。
進学したとき、僕に一人暮らしをする事を父が許してくれたのは、僕が養子で貰われてきた子供だからだと思う。子供のできなかった両親のところに来る前の僕は、知らない街の母子家庭で暮らしていた。小さかった僕は今では産みの母の顔も住んでいた場所がどこだったかもはっきりと覚えていなかった。
僕を育ててくれた今の父と母は、やっと手に入った跡取り息子だからか、それとも貰われ子を不憫と思ったからなのか、いつもは厳しい父も最後には大抵の僕の希望を認めてくれた。
だから、今を楽しむ。これが僕の書いてきた設計図だった。お腹に赤ちゃんがいると、そう彼女が僕に言ったときまでは。
ゼミで偶然知り合った彼女とアパートで同棲を始めたのは去年の夏の事だった。世話好きな彼女が僕をまともな学生に戻してくれた。おかげで僕は単位を取り返し始め、卒業すら現実的に感じられてきた。僕のそれまでの気ままな暮らしが充実した生活になったのは彼女のおかげだった。彼女は僕との結婚が適わないなら子供を堕す覚悟でいた。私生児を産む事も自分の両親を頼る勇気も無いと彼女は僕に言った。子供が出来たと聞いたときから本心では迷いは尽きない。でも貰われ子供の僕には、子供を堕ろす事に嫌悪感すら感じていた。子供を物の様に捨てたりできるものだろうか。
”いつ帰ってくるの?”湖東の痩せた田畑が見える辺りで彼女から届いたメールに、僕は "2,3日かかるかな" と返した。
暗くなり始めると闇に落ちるように走る車両。やがて車内アナウンスが名古屋に近づいている事を告げた。もう名古屋なのか。やっぱり僕は急ぎすぎないで欲しいと願う。
途中でダイヤの乱れがあったので遅くなってしまった。東京の実家に顔を出すのは一年ぶりだった。遅くまで電車を乗り継いで辿り着いた梅が丘駅。高架の上から階段を下りると少し離れただけでも懐かしく感じる。くすぐったい帰郷の気分だ。
すっかり梅の終わった羽根木公園の脇を通り過ぎると静かな住宅街へ抜けていく。都内のくせに街灯の少ない静かな夜道に自動販売機の灯りがやけに目立っていた。父はもう寝ているだろうか。彼女に言われるまでもなく大切な話なので今夜のうちに話したかった。いまから父の不機嫌な面を想像してはため息がでる。
羽根木中学校の重々しい、ところどころに黒く黴が生えた塀沿いの道。ふと僕はこの学校に銀杏の樹が無い事に気が付いた。塀から十分に体を離して、背伸びをして中を見てみるが、背の高い銀杏の樹など見当たらない。もしかして切り倒されたのだろうか。いいや、僕は最初から無かったのだと思い当たった。なんと言う事だろう。記憶というのはいとも簡単に形を変えるものらしい。現実の方も形を変えてくれれば楽なのに、僕達の事を父にどう説明するか、まだ僕の考えはまとまっていない。明らかな事は父が絶対に反対するって事だけだった。
最近では歳のせいか膝を痛めた母ならこの道のりは遠く感じるだろうな、等と思いながらようやく実家の黒い壁が見えた。
実家には父と母の他に父方の祖母が住んでいる。ガレージの脇の勝手口から中に入り庭を抜けると母屋の玄関まではすぐだ。ガレージには父が買い替えたらしい新しい四輪駆動車が停まっていた。車が趣味の父はこれまでも度々車種を変えていた。そしていつも躯体の大きな車を好んだ。暗い庭にある枯れた花壇の脇を過ぎると母屋がある。築数十年経っているはずなのに変わらない異様さと威圧感は僕が始めて見たときから何も変わっていなかった。
玄関で迎えに出てきてくれた母は一年見ないだけなのに何だか老けて顔も体も小さくなってみえた。目じりの皺がくりくりとした目よりも目立つ程になった母だが、久しぶりの僕の帰宅にほっとしたように表情を崩した。
「こんな時間まで起きていなくても良かったのに」そういう僕を見て母はまるで少女のように首をかしげた。
「そうね。無理に待ってると気を使わせると思って、もう寝ようと思っていたのよ」久しぶりに聞く母の声は何も変わらず海のように深かった。
「お腹すいてない?晩御飯は食べたのかい」
「うん」
いつも母は僕に何かを食べさせようとする。僕はもういつもお腹をすかしている育ちざかりの子供じゃないというのに。そして僕の靴をそろえ、上着を受け取ると居間へ続く廊下を歩いていく。昔、同じように父のコートを腕に掛けて歩く姿を何度も見てきた。その頃も帰りの遅い父を母は夜中まで待っていた。もう寝ようと思っていたと、その度に言うのがお決まりだった。
「昔より歩くのが遅くなったんじゃない?」僕がそういうと母は振り返って微笑んだ。
「ほんとう?まだまだ元気なつもりなんだけどねぇ」少し小走り気味に歩き出した母を慌てて止めた。「無理するなよ。また膝を痛くするよ」「平気よ。まだまだ若いんだから」母はそう言って何だか嬉しそうであった。そうか、久しぶりに帰るという事はこういう事なのだ。僕はきっちりと磨かれた廊下の感触を確かめた。目の前には母の小さな何も変わらない背中があった。
少し暗い気持ちで帰ってきたけれど母と話していると、全てが上手く進むような気がするから不思議だ。
母もいつの頃かに一気に老け込んだ。段々と老いていくのではなくあるとき老人に変わる。そんな時があったように思う。経営者だった父が病気になり第一線から退いた頃がそうだったと思うし、母にしてみれば僕が家を出て一人暮らしをするようになるのに合わせて元気がなくなったと思う。いつの間にか時間が流れている事に寒気がした。
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エコー。僕達は山の手でもなく海沿いでもない、昼間でも薄暗い狭い路地の奥のアパートで暮らしていたね。すぐ裏には錆色の線路が走っていて1時間に2度、3度貨物列車が通ってガタガタと床を震わしていたんだ。あのアパートが今どうなったのか判らないけど、茶色い畳の藁がうねる手触りや薄黒い木の柱を覚えているよ。
覚えているかいエコー。君と僕でアパートのおまけみたいに小さな埃っぽいベランダで薔薇を一輪咲かせたっけ。どこかで拾ってきたような灰色の所々が錆びた鉄のバケツに土手の土をいっぱいに詰め込んで、その中で薔薇は凛と咲いていたね。真っ赤だったよね。季節に合わせてアサガオや百日草なんかも育てていたね。僕も水をやったりしてね。でもエコーが教えてくれた沢山の花の名前はいつの間にか殆ど忘れてしまったよ。君は嫌に思うかな。
花が大好きなエコー。君が愛したのは花と僕。それ以外に君は何も持ってなかったんだ。