最終話 幻影歩行(げんえいほこう)
÷ ÷
結局、事態は何も変化せず、俺は『ヒカル』の身体のまま変わらぬ変わった世界の毎日を過ごしている。
「ヒカルンおはよーにゃ!」
教室に入れば、いつもと同じくクラスみんなが声をかけてくる。
前園はいつも通りの猫キャラで、しかしそれは猫を被っていない前園として、まえにゃんとして挨拶してきた。
「ああ、おはようまえにゃん。今日も可愛いね」
「にゃにゃにゃ、照れるにゃー」
頬を赤く染め照れる彼女を見て、前園という女子生徒が敗北したことを改めて思う。いや、言葉は正確に使おう。前園という人格は、まえにゃんに殺され、それを促したのは、他でもない俺だったということを。
前園は失敗したのだ。名前の事実に気づいたこともそうであり、またキャラクター創るという、新しい自分を内に生み出してしまった。最初からまえにゃんというキャラクターを持っていたのか、それとも俺と出会った後に創ったのかは解らない。
けれど、キャラクターを持ててしまったことにより、前園は解らなくなった。
まえにゃんというクラスで確立された自分と、前園という普通の女の子、どちらが元から居た自分なのかを。
当てにならない名前だけじゃ、自我を保つのが不可能であり、ならば周囲の評価で客観的に自分を証明すればよかったのだが。
他人に相談した時、もし否定されれば、と考えてしまった。
前と雰囲気が変わった、そんな言葉でも恐怖なのだ。
自分とは誰か、自分とは何か。
答えが出るはずもなく、同時に存在しない問いかけに囚われてしまったのだ。
あれから何日経っただろう。
前園の変化を、変わらない変わった前園を見て、反応らしき反応をしたのは数人だった。教室内で観察した、交友関係で解ったのは、数人だった。数人もいたのだ。
だが、その数人も結果的にいつもと同じ態度で接する。
変化を恐れるように、何も変わりはなかったと思い込んでなかったことにするように、彼らは誤魔化し欺き過ごしていた。
そして昼休み、俺は海城と昼食を摂るため屋上へ行く。
誰もいない屋上。本来なら立ち入りが禁止されているが、教師に隠れて鍵を持ってきた海城がドアを開ける。話をするにはうってつけの場所だった。
誰にも聞かれず、本音を聞き出すには最適な場所だった。
「……良い天気ね」
海城が髪を抑え、そんなことを言った。目を細め、それこそ本音か解らない態度で。
嫌になるほどの青空。
雲が空を疎らに彩り、優しく静かな風が流れている。
校舎から聞こえる生徒達の雑音が遠く、風が木の葉を裂く音が耳に入る。
緩やかな午後。
穏やかな午後。
平日の昼間の、ひと時を感じさせる瞬間。
そんな彼女を見て、俺は単刀直入に問う。
「俺は、何人殺したんだ」
突然の問いに、海城は顔を向けることはせず、ただ前を向いて答えた。
「貴方が殺したんじゃないわ」
そんな、初めて『ヒカル』ではなく、俺に向けた優しさの言葉を返してきた。
もっとよく考えれば良かった、なんて思ったが、もっともっと考えても良かったのだ。
そうすれば、きっと前園は犠牲者にならずに済んだ。
「どこまで解ったの?」
海城が相変わらず前を向いて、俺を見ずに言葉を紡ぐ。
意固地に頑固に。
「全然。解ったことと言えば、俺が多くの人の死に加担してるってことくらいだ」
「……貴方は誰も殺してないわ。人殺しなら、警察に捕まるわよ」
この世界でも、と続けた。
気休めの言葉を聞き、思ったよりも海城は俺のことを見ているんだなと思った。それかもしくは……前園の有様を見て思い出したか、だ。
「今、生き残っているのは何人いるんだよ」
「だから、誰も殺してなんか……」
「気休めはいいから教えてくれ。俺は、何人の心を消したんだ」
心を消す。
それは、前園と同じ結末という話だ。
前園だけが特別じゃない。誰だって考えるはずだ。
そして同時に、誰だって行動するはずだ。
「……きっかけはほんの些細なことだった」
海城が空を見上げ、遠くを見つめ思い出すように言う。
「高校に上がって、今のシステムが作られて暫く立ったある日、一人の女子が情緒不安定になったの。恐らく、貴方を見て、前園さんと同じように不安になったんでしょうね。自分を自分と証明する方法が、ないことを。その時は『ヒカル』という前提があったから、私たちも間違えてしまったのよ」
――― ああ、この子も『ヒカル』と同じか ―――
「それが失敗。その子はただ、思春期によくある悩みを抱えていただけで、貴方の存在がそれを加速させただけで、普通だった。けれど、私たちから見たら同じだったのよ」
別の精神が入っているなんて、バカげた考えに辿り着いてしまった。
『ヒカル』という、前例がいたから。
「あとは簡単よ。その子は別段特別に可愛いってわけじゃなかったけど、『ヒカル』と同じようにみんなのモノにしようってなったの。だって『ヒカル』がみんなのモノなら、同じその子はみんなのモノだって。今考えればバカみたいな話だけど、その時は疑いもしなかった」
それで、そして。『ヒカル』と同じように誘導し先導し、指導し教育しようとした。
ただのクラスメイトを、毎日肩を並べる友人を。
まるで物のように扱った。
「凄かったわ、あれは。人が壊れる様を見るのは初めてだった。知ってる? 人ってね、本当に壊れると見れるもんじゃないのよ」
あまりに痛々しくて、泣きたくなるのよ――と。
心に来ると、胸に刺さると。
人が壊れていく様は、人が見てはいけないモノだと言った。
「今でも覚えているわ。忘れることなんて出来やしないじゃない。絶対に消えないのよ、あの子の姿が、叩きつけてきた言葉がね……」
――― 違うっ! 私はマトモだっ! ―――
――― やめて……いやっ、壊さないでっ! お願い、友達でしょっ!? ―――
――― あ、あ、あ…………ちがう、わたしは、わたしなの ―――
――― おねが い か えして なま え を わた しを ―――
ふと見れば、海城の瞳は潤んでいた。
だが、それは偽善に過ぎない。やってきたことを考えれば、偽悪と言ってもいい。
海城自身も理解しているのか、唇をきつく噛み締める。
一度、瞼を閉じた。
一度、瞼を開けた。
そこにはもう、涙の残滓は残っておらず、ただ物憂げな空気を纏わせる海城がいた。
「そこからはあっという間よ。むしろ、よく高校に入るまで同じことが起こらなかったって感じね。まだ子供だったのかしらね、中学生じゃ。善悪を考えることなく、無邪気にできたのが、不幸中の幸いかしら」
まぁ、結局成長してしまえば同じだけれどね――海城は、他人事のように呟く。
哀愁さえ思わせるその姿。
それでも俺は、確認する。
再度、何度でも。
「あと、何人残ってる」
「……それを聞いて、どうするの?」
どうする?
心を壊さず、未だ自己を保っている奴らを、どうするか。
恐らく、俺の周りの大部分の奴らはもう死んでいる。心を壊され、自分が解らなくなり、上書きされた役割をこなすだけの、前園のような人間に成り果てているだろう。
バカなことを言う奴は何も考えずバカなことを言い―――
真面目な奴は何も疑わず真面目なことを言い―――
嫌な奴も、良い奴も、どんな奴らもそのまま変わらない。
変化なく、変化した。
人形と同じだ。
そこに居るだけでいい存在。
意思も自己もなく、だからこそ成長も変化も起こらない。
何もかもがなくなった存在に成り果てる。
ああ、まったくなんて怖い話なんだ。
幽霊とか妖怪とか、人間が怖いなんて教訓めいた話よりも、本質的に本能的に怖いことじゃないか。
人は名前のないモノに名前をつけてきた。
暗闇で蠢く何かに、名前を与えて姿を与えて役割を与えた。
そうしてやっと、人は闇に蓋をすることが出来たのだ。
解らないモノに、解らない名前と特徴があるモノに変えることが出来たのだ。
だからこそ、人は自分が一番恐ろしいのだ。
名前は他者から与えられたモノ。
他人を名前で呼ぶのと、自分を他人の名前で呼ぶのとでは全然違う。
自分が解らない。解らないモノが、すぐ近くに、内にある。
何者なのか、何物なのか、それを決めることができない。
そして、だからこそ、名前で決まるからこそ今回のような悲劇が生まれる。
荒唐無稽な出来事が、出来てしまうのだ。
恐れる闇に名前を付けて、解るモノにしてしまう。
蓋をされる。解らない自分に、解らない他人が。
こういう役割だと、前園は語尾ににゃんと付ける女の子だと特徴と名前を与えて、蓋をする。してしまう。殺してしまう、心を、人格を、消せてしまう。
俺は一歩海城に近づいた。
海城は空を見上げ黙っている。
「……ここが俺のいた世界と違うのは解った。そして、お前らのせいで何人もの俺が殺されたことも」
俺は一歩海城に近づいた。
海城は一瞬身体を震わせる。
「元の世界に帰る方法なんて解らない。お前らはそれさえ考えてこなかったんだもんな。それに、お前らは解らないだろうけど、覚えてるみたいなんだよ」
俺は一歩海城に近づいた。
海城は視線だけ向けて来る。
「海城、お前が今回の俺を見破った時、あの時さ。俺は見破られて―――嬉しくなかったんだ。全然、嬉しくなかった」
あの時、世界に一人取り残されて、自分の存在があやふやな状態にも関わらず、嬉しくなかったのだ。拒否反応さえ出た。
推測の域は出ない。けれど、もしかしたら―――
「お前らの好きな『ヒカル』は、俺の中で生きているのかもしれないな」
俺は海城の目の前に立つ。
海城は今度こそ、涙を浮かべ震えていた。
さっき海城が言ったのと同じだ。クラスメイトに、友人に、お前は誰だなんて言われて、嬉しい奴はいない。それと同じで、『ヒカル』が反応したんだろう。
ただ、本当のところは解らない。俺の中に残る『ヒカル』なのか、それとも『ヒカル』の身体が反応したのかは、解らない。
それでも、きっともう『ヒカル』がまだ存在していたとしても、無理だろう。
『ヒカル』が戻って来るのは、精神が肉体を取り戻すのは不可能だろう。
出来る出来ないの問題じゃない。
もうここは、『ヒカル』の居場所じゃなくなってしまったのだ。
何度も友人から裏切られ傷つけられてきた『ヒカル』が、この世界に戻りたいなんて、思えない。思うわけがない。
むしろ、こう考えるはずだ。
「海城」
「待って……お願い、待って……」
力なく首を振り、懇願する。
『ヒカル』はどう思うだろうか。奴隷のような扱いを受けてきた『ヒカル』は、幼馴染とも言える古くからの知り合いである、今の海城を見て。
この時を見て、どう思うだろうか。
「本当に怖いよ。生きている人間が一番怖いなんて言うけど、そんな他人事みたいなもんじゃない」
「違う、違うの……お願い聞いて、待って……いや……」
とりあえず、まだ数人が自我を保っているのは解っている。ゆっくりと接して行けばいい。彼らにとって、俺という存在はもはや身を滅ぼすと解っていても、離れることが出来ない麻薬のようなモノなのだから。
何か解らないモノが近くにあるにも関わらず、目を背けることはできない。何か解らないということは、いつ自分に何かが起こるか解らないから。例えそれが、見続けることによって起こってしまう何かだと理解していても、人は本能的に、闇から目を逸らすことはできないのだ。
何か解らないモノから目を逸らす為に、安心する為に、名前を付けるのだから。
「本当に怖いのは自分自身だ。けれど、誰もそれに気づかない。気づかないフリをしている」
「おねがっ、お願い……嫌、嫌なの……わっ、私はだって、そんな……」
今にも倒れ座り込みそうな海城の肩を支える。立たせる。立たせる。
意思に反した、行為をさせる。
この世界は俺にとって住みにくい。知った常識が通用しないし、見知った物事が微妙に違う。細部がことごとくズレていて、異世界にやってきた登場人物のようだ。
俺は主人公なんかじゃない。そんな上等なモノなんかじゃなく、主人公に語られる、過去被害にあった名無しの一人でしかない存在だ。歴史の一ページどころか単語であり、重要性なんてない過去の出来事の一つ。
だったら、いいだろう。
希望はなく、絶望さえないかもしれないんだ。
だったら、住みやすくするくらい、いいじゃないか。
楽しい毎日を送れる、そんな周囲の環境を整えても。
俺は口を開ける。
それを見て、海城は綺麗な顔を涙と鼻水で汚し、醜悪なむき出しの本音を見せた。
「ご……ごめんなさ……ゆるっ……ゆるして……」
ああ、本当にそうだなと思った。
あまりに痛々しくて、泣きたくなる――と。
心に来ると、胸に刺さると。
人が壊れていく様は、人が見てはいけないモノだと言った海城の言葉を、思い出す。
本当にその通りだ。
人が壊れていく様は、こんなにも嫌な気分になるのか。
ああ、まったく。
あと何回もこの光景を見なくてはいけないと思うと、嫌になる。
俺は口を開ける。
俺は口を開けた。
「お前は、誰だ?」
END