二話 夢幻劇(むげんげき) 1-2
÷ ÷
単純な話だ。
俺と海城の意識の違い、思い違いでしかなかった。
海城が言った他にもあるとは、俺と同じように意識だけ誰かの身体に入る現象のこと、ではなく。それだけではなく、それ以上に、このヒカルという人物が今まで幾度か同じように他人の精神を内包することがあった、ということだった。
「いつからかしらね、ヒカルがそんな体質になったのは。バカみたいな話だけど、いえ、バカみたいな話だからこそ始末が悪い」
海城は、俺と話す時よりも感情的にヒカルの話をする。
苦々しい、苦渋に満ちた表情ではあったが、それでも海城の心を動かしているのは、このヒカルという少年なのだ。
「人が変わったなんてよく聞く言葉だけど、周囲の大人は思春期とか反抗期とかそんな言葉で片付けようとしたけど、違った。誰も気が付かない内に、ヒカルがヒカルじゃなくなっていく。ヒカルが別世界の人間の反応をする度に、恐ろしかったわ。このまま、ヒカルがヒカルじゃなくなったらどうしようって」
海城の話はヒカルについてだった。そりゃそうだ、これがもし小説なら、名前も解らない俺じゃなく、身体を乗っ取られ恋人を奪われ続けてきた海城とヒカル、二人の物語だ。
ああ、そうか、だからか。
だからさっき、この事態が初めてじゃないと言われ、過去にあった出来事だと言われて、俺は少しだけがっかりしたのだ。
こんな状況の中で、俺が持っていたのは不謹慎にも『特別感』だった。
ヒーローみたいに、物語の中心みたいな立場にいると考えてしまっていたのだ。無意識に、これから俺が色んな問題に直面して、解決して、そして元の世界に帰っていくという、そんな幻想を、少しばかり抱いていたのだろう。
まったく、バカらしい。何から何まで、バカみたいな話だった。
「私が気が付いたのは小学校六年の時。それまでもたまに、一定期間ヒカルが別人の振る舞いをする時があったけど、気が付かなかったわ。さすがにね、そんなファンタジーなお話、憧れはしても現実に見ることなんてなかったから」
そんな幼い頃から、彼女たちは戦ってきていたのだ。
誰にも言えず、誰にも話せず、伝えればそれこそ頭がおかしいと思われてしまう現象を前に、懸命に戦ってきたのだ。
「確信を持ったのは中学一年の時。放課後の教室で、何もせずただぼーっと残るヒカルに話し掛けた時、言われたのよ」
顔を上げ、視線を上げ、海城は俺を見る。
真っ直ぐに、お前のことだと言うように。
「『君は誰?』ってね。解るかしら、貴方に。ずっとずっと、子供の頃から好きだったヒカルが、ヒカルの口で、今までずっと一緒にいたヒカルから、他人扱いされたこの気持ちが」
憎々しげに、敵意を持って、悪意を持って、海城は言葉を垂れ流す。ドロドロに煮詰まった、タールの如く粘り気と重苦しい感情を。
被害者だ。被害者なのだ、彼女も。
この精神が移動した現象が、何らかの人為的な手段に寄るものかは解らないが、それでも今この場には被害者しかいない。
誰も彼もが苦しみを受け、誰も彼もが痛みを伴う。
「……ごめん」
俺は謝罪を口にしていた。
卑怯、だと思う。ここで謝るのは卑怯だ。だって、こんなところで謝られたら、海城は許すしかない。被害者しかいないこの場で、俺が勝手に罪悪感を抱いているだけだ。
ここは謝る場面じゃない……なら、だ。
この場面で、何を言うのが正しいのだろうか。
そんなことも、名前も思い出せない俺は解らなかった。
「……別に、貴方に謝られても嬉しくないわ」
海城は、それでも視線を逸らし、意思を俺から外した。
瞳に宿っていた敵意と悪意を、俺から逸らした。
「それよりも」
海城は椅子から立ち上がると、俺の胸倉を掴み上げ、顔を近づける。
殴られると思った俺は抵抗するのも忘れ身構えるのだが、何とも情けない対応だが、海城の思惑は違って、まったく違うことだった。
それからはコマ送りの景色。
一秒一秒が一枚一枚の写真の様に。
暮れる教室、無人の室内。
近づく二つの影。
校舎に蔓延していた生徒たちの煌びやかな声は鳴りを潜め、あるのは緩やかで寂しいくらいの静けさと居場所を奪われる感覚。
生徒の昼間から、校舎の夜間へと。
舞台が切り替わる。
重なった影はほんの数秒、数枚。
気が付けば離れ、目の前には蠱惑的に、小悪魔的に微笑む海城の深い笑み。
「……うふ」
裂けた口は白く赤く、切り取られた額縁の如く。
漏れた悦のある声は不気味に喉元を通り過ぎていく。
「貴方がヒカルじゃないってバレないよう、恋人らしく振る舞いましょう」
海城はどこまで深い、深い、底の見えない笑みと声で、感情が読めるにも関わらずどこまでそれが広がっているのか解らない態度で、言った。
恋人の身体を持つ俺へ、言ったのだった。
「さ、帰りましょ」
÷ ÷