二話 夢幻劇(むげんげき)
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「朝になったら、ヒカルの身体にねぇ……」
胡散臭い瞳を向けながら、彼女、海城天都は俺の話を最後まで聞いてくれた。包み隠さず、自分の身に起こった出来事を最初から最後まで話した。こんな話、こんな荒唐無稽な話、誰に言ったとしても信じてもらえないのは解っていたが、それでも話したかった。理解されないと解っていながらも、それでも俺は聞いてほしくて、知ってほしくて堪らなかったんだ。
もう、限界だったのかもしれない。
表面上は大丈夫に、順応したように見えたが、それはただの現実逃避でしかなく、心を守るための防衛手段でしかなく、とっくのとうに俺は限界を迎えていたのかもしれない。相手が『俺』の彼女でなく、また同級生でなく年上だったら、泣いていたかもしれない。実際、身の上話をしている最中に意味もなく涙が零れそうになったのは一度や二度じゃない。
俺を疑う海城は、一通り話を聞いて、相変わらず他人を見る視線と態度を取りながら、腰かけた椅子で足を組む。
「まぁいいわ、信じてあげる」
「えっ!?」
「何よ、嘘なの?」
「い、いや本当だけど……」
本当だが、信じるのか、こんな話を。
自分で言ってても古臭い映画の話をされている気分にしかならず、信じる証拠になるようなものは何一つないのだが、それでも海城は信じてくれると言う。
俺を信じてくれると、そう言ったのだ。
またも涙が出そうになり、慌てて袖で拭く。泣きそうなのを悟られたくなく、場を繋ごうと適当な言葉を口にした。
「と、ところで、なんで俺がヒカルじゃないって解ったんだ?」
思わず口にした言葉だったが、気になっていたと言えば気になっていた。
何故、海城は解ったのか。他人が他人に成り代わるなんて非現実的なことを、多少の疑いはしても、それを相手に伝えるまでに確信を持てたのは不思議でならなかった。普通なら、妄想だ電波だと言われてしまう。
俺の疑問に、海城は右の眉をぴくりと反応させ、浅いため息を吐いて答えた。
「解るわよ。だって貴方、答えられなかったじゃない」
「答え……って、あの質問に?」
それは、どうだろうか。
質問に答えられないからと言ってイコール別人とは、いささか飛躍しすぎだろう。言い方は悪くなるが、発想が子供と言うか、漫画と現実の区別がないと言うか。あの程度の質問なら、度忘れしてしまった場合も考えられる。そもそも、そういった恋人の記念日を覚えているのは女子の方が多い。男子はあまり覚えていないものだ。それが原因で喧嘩し別れてヨリを戻したと惚気話をしてくる友人がいた。
しかし、短絡的とは思ったがそれを口にするほどバカじゃない。せっかくの理解者を手放すような真似はしたくなく、俺は曖昧に頷くだけにした。
「そ、そっか。でも凄いな、それだけで解るなんて。愛の力……とか言っちゃったりして」
愛想笑いにおべっかの軽口。敵に回したくなく、卑屈とも取れる相手を持ち上げる言葉のセレクト。そんな態度が気に喰わなかったのか、海城は無表情までいかない不機嫌な顔をしながら否定する。
「そんな良いもんじゃない。カマをかけただけ」
「え?」
「そもそも、告白したのは私だし」
と、そんな愛も恋も向けられるけれども向けるのは苦手そうな海城が、恥ずかしげもなく、照れる様子もなく、さりとて自慢げにすることも苛立ちそうに言うでもなく、ただ何でもなく、なんてことでもない口ぶりで言った。
なかなかの策士だ。大した策ではないが。そう思ったが、それではすべての疑問の答えにはならない。納得することはできない。
本人が別人なんていう、オカルトを超えた非現実を容認する理由にはならない。
だから、海城は続けた。
ある種それは奇跡的に幸運的なことであり、
ある種それは現実的に普遍的なことであり、
「それに」
だから、それは、
「それに、これが初めてじゃないから」
こんな状況下の中で、唯一俺にあった『モノ』を壊すのに、十分な一言だった。
初めてじゃない。
繰り返されたことである。
それを聞いて、締め付けられる痛みを一瞬感じるも、すぐに言葉の意味に気を取られる。忘れてしまう。
「……へ?」
この時、俺は何も考えていなかった。いや、正確には考えられなかった。突然の情報に、脳の理解が追い付いていなかった。思考は空白となり、空白というよりも透明となって海城の言葉の意味を必死に取り込もうとしていた。
初めてじゃない。俺が、俺以外にも同じことが起きた。
それは、前例があるということは……戻る方法があるかもしれないということだ。
「そ、それって!」
「説明するから待ってなさい」
身を乗り出す俺を窘め、海城は慣れた対応で進めていく。
まるでもう何度もやってきたことみたいに。
まるでもう何度も繰り返してきたみたいに。
「その前に一つ、貴方に聞きたいことがあるんだけど、いいかしら」
振る舞いは緩慢にして洗練された動き。舞台に上がる女優が如く、海城の指先から筋肉の反応まで、ついつい見惚れてしまう魅力があった。
独壇場だ。この教室は、彼女のための舞台。
海城は人差指を立て、それをゆっくりと俺に向け―――聞く。聞いた。
「貴方の名前は、何ていうの?」
「お、俺の名前?」
芝居がかった仕草をし、大仰な動作をするからどんな質問がくるかと思えば、名前である。何故そんなことを今更、と思わなくもなかったが、恋人であるはずのヒカルと呼ぶには抵抗があるのかもしれない。いくら身体が彼氏のでも、中身はまったくの別人、見ず知らずの他人なのだ。告白したのも海城からだと言うし、そこは乙女心的なモノを察してあげるべきかもしれない。
「名前を言ったら、ちゃんと説明してくれるんだろうな」
「ええ、むしろこれも説明の一環よ」
名前が説明の一環?
疑問符しか浮かばないが、それを言うなら朝起きてから今の今までずっとだ。今更新しい疑問が増えたところで問題はない。問題はあるかもしれないが、もう自棄だった。どうにでもなれ、である。今はそれよりなにより、説明が欲しい。教えてほしい。
何がどうしてこうなって、俺が他人になって、それがどうしてどうなるのか。
そのことを、知りたかった。
「解ったよ。俺の名前は……」
名前。
生まれた時に勝手に決められる、決定権のない一生モノの所有物。
人生がスタートする出発点で、まず最初に他人から施されるモノ。
選ぶ権利はあろうとも、それを拒む権利は難しい。
気が付けば当たり前となり、意識しなくとも見ることも聞くこともなくとも問題なく、ずっと死ぬまで纏わり続ける姿なき自身を証明する存在。
名前、それを指す言葉であり、それに意味を付与するモノ。
人はどんなモノにも名称を求める。例えそれが現象であろうとも、名前を付けることによってそれを常識に当てはめる。知っているモノの括りに仕舞い込み、未知のモノを既知のモノに造り替える。
「俺の、名前は……」
だからこそ、名前がないモノを人は恐れる。
道端の暗闇。
部屋の隅。
無言で無音、姿なき『ナニ』かに人は恐れる。
名前があれば調べられる。名前があれば対処が解る。
名前があれば、どんな絶望が待っていようと、『ナニ』が起こるのかが解る。
「お……れの、名前は……」
人は名をつけ魔を払ってきた。
解らぬモノに名を付けて、『お前はこういうモノだからこうすれば良い』、『お前はこういうモノだから心配いらぬ』と、闇に名を付ける、妖怪だろうと幽霊だろうと現象だろうと、例えそれがオカルトでも科学でも、等しく平等に名前を付けて実体化させたのだ。
だから、
「俺の名前は……なんだ……」
だから、人は一番最初に名付けられる。
「俺の名前は、何なんだ……?」
自身を見失わぬために、自身を疑わぬために、名前を付けられる。
混乱する、混乱する。
混沌とする世界。常識から外れ、非常識さえズレているこの世界。
あり得ないということさえ解らない、何故それがそうなるのか理屈も理由も繋がりのない、記憶とまったく整合性が見当たらない世界に投げ込まれた俺。
そんな俺は、唯一知っているはずの俺自身を忘れていた。知らなかった。
身体が震える。両手は小刻みに、しかしその手さえ俺のものじゃあない。
俺の手じゃなく、『ヒカル』の手だ。
「いいのよ」
俺が俺自身に恐怖している中、海城は言った。
いい、と。
それで問題ないと。
しかしてそれは、決して俺のためではなく、俺を想って向けられた言葉ではなかった。
「別にいいの、それでいいから」
「いいって……だって、自分の名前が解らないなんて……そんな……」
「だからこそいいのよ」
強い言葉で遮る。
それでいいと、そんなことを。
海城は、遮って言った。
「今までヒカルの身体に入ってきた奴らは、みんな同じだったんだから」
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