一話 幻痛肢影(げんつうしえい)
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俺は学校にいた。
教室に入ればみんなが声をかけてくる。
「お、いつもより遅いな」
「おっはよーヒカルっち! あれ? なんか顔色悪いよ?」
「なんだ腹でも痛いのか?」
「うにゅにゅ? どうしたにゃヒカルン! 大丈夫かにゃ?」
「あの、前園さん、それ凄く気持ち悪いから止めてって言ったよね?」
「貴様! まえにゃんの可愛らしさが解らぬとはそれでも」
「いてまうぞメガネ? そんなんよりジュース買うてこいや」
「すみませんっ! 行ってきます!」
「まえにゃんは~こうやってると先生がとっても困った顔をするから止めないの~」
「お前ドS過ぎるだろ……」
「それにメガネみたいな奴も釣れるしな。あ、釣れるにゃし~」
「男子ぃー、メガネにキャバ嬢がいるって教えてあげなよー」
「え? メガネなら廊下で倒れてたよ?」
「メガネええええええ!?」
喧噪というには些か奇妙を超えて恐怖を覚えるやり取りが広がる中、そんな現実的ではない様子に突っ込みを入れる気にもなれず、かけられる声に俺は愛想笑いで答えることしかできなかった。
みんなが俺を知っているが、俺は俺を知らない。
お姉さんが知らない俺の名前を呼んだ後、混乱した俺は逃げ出した気持ちで家を飛び出しそうになったが、運が悪いことにドアに小指をぶつけて動けなくなった。激痛過ぎる苦痛を味わっていると、お姉さんは呆れた様子で笑いながら「大丈夫か? まだ寝惚けているのか?」と濡れたタオルで冷やしてくれた。そのままズルズルと朝食を摂り、見知らぬ学校へと気が付いたら着いていた。
まるでいつものルーチンワークをこなすが如く、慣れ親しんだ行動故に意識することなく無意識に動いたように。
現実感を欠いた気持ちで、俺は迷うことも戸惑う事もなく、知らない学校の自分の席に座っていた。この時になると、さすがに気づく。気付かされる。
俺は『俺』を知らないが、知らない『俺』の身体は覚えているんだと。
学校になんか通っている場合ではなく、今にも逃げ出したい気持ちはある。
だが、学校に来るまでの間、俺は見てしまった。
この世界を、違いすぎて似すぎている、この世界を。
カレンダーは俺の見間違いか悪戯でお姉さんが作った可能性はある。目的とか理由は後回しにして、とにかくそういった俺を驚かすためだけのモノだったと考えることはできる。鏡に映ったイケメンだって、何かのトリックを使えば不可能じゃないはずだ。ホログラムとか、マジックミラーとか、解らないけどそういうマジックで使うような道具さえあれば出来ないことはない。
けれどダメだ、ここまで、こんなにも世界にそれらが広がっていては、否定する気力さえ奪われる。
街中を歩けば、見た事のある見覚えのないモノが数多く存在した。
今週の己曜日は雨だとか、来月の三十七日が終戦記念日とか、街中で聴こえる会話の中に様々な既視感と違和感を織り交ぜた言葉が襲ってくる。あまりにも違いながら同じである風景に、最初は怯え混乱していた俺も、学校に近づく中で、少しずつ冷静というモノを手に入れ始めた。
ここは異世界だ。そう思うようにした。
漫画とかで見るパラレルワールドというやつかもしれない。とにかくそういった、同じだけども違う世界に俺はいる。いや、正確には俺という精神があるのだ。身体は見知らぬ他人のモノで、パラレル世界の俺かとも思ったが名前が違う。俺に弟はいても姉はいないし、一軒家ではなくマンション住まいだ。少しどころがだいぶ違う環境で、違う世界の俺だと認めるには証拠が少なすぎだ。
だからこそ、諦めの境地で俺は学校に来た。
見知らぬ友人、見知らぬ知人。
誰一人知り合いはおらず、誰もかれもが俺を知っている。
学校に来て感じたのは、この『俺』は知り合いが多いということだ。顔がいいからなのか、それとも性格が良かったのか解らないが、歩く度に声をかけられる。それも上っ面の薄い繋がりとは思えない、親しい友人と言っても差し支えない関係を築き上げている。普段と違うであろう『俺』の態度に心配もしてくれた。そんな風に気持ちを向けられる度に優越感と虚無感が胸に宿る。どれだけ向けられても、それは俺のモノじゃないのだと。
授業は無難に終わらせることができた。この身体の持ち主が少女漫画のように完璧な王子様な人物だったらと内心気が気ではなかったのだが、周囲の話を聞いていると一般的な学力らしい。
そういった細かなところも、俺は得ようと考えた。
どうしてこんな事態になったのか解らないが、それでもただ時間が過ぎ去るのを待つよりは、行動して対処した方がマシだ。聞こえが良い言い訳を盾に、俺は本音を無理矢理に心の奥底に仕舞い込む。本当は怖い。怖すぎてどうにかなってしまいそうだった。何も考えず何もしないままでいれば俺は狂ってしまうんじゃないかと、そんな逃避に近い理由から俺は行動を与儀なくされていたのだ。
クラスメイトと話す時は、体調が悪いことを理由に自分から話すことはせず、さりとて情報を少しでも獲得するためには人の輪に入っていかなくてはならず、少しでも多くの級友と会話をする羽目となった。
会話が苦手というわけではないが、それでも初対面の相手だ。向こうが毎日会っていると認識しているのも問題だった。あまり普段の『俺』と違うことを言うわけにもいかず、気を使いながら接して、放課後になると俺は疲労でボロボロの状態だった。
日課の行動は身体が覚えていても、さすがに人物までは解らない。名前も手探りで誤魔化しながらであり、訝しむ奴もいたが体調不良で押し通した。
これだけ苦労して様々な人と話して得たモノは、ほとんどないと言ってもいい。
会話は大抵がバカ話で、友人間なのだから当然なのだが、解ったことと言えば『俺』の人脈が幅広いこととくらいだった。
「帰るか……」
俺は誰もいなくなった放課後の教室を見て、静かに呟く。
なんとなく、すぐに帰ることが出来なかった。
そもそも、何処に帰れと言うのだろう?
俺の家は何処にもなく、『俺』の家に帰るしかない。
そう考えると、俺は学校に残っていた。残るしかなかった。
この先どうすればいいのか、答えも問題も見つからないまま、暗雲たる気持ちを担いで椅子から立ち上がったその時、
「ちょっと、勝手に帰らないでもらえる?」
いつの間にか俺の目の前に、見知らぬ女子が仁王立ちで睨んでくる。
背中まである長い黒髪に、前髪を朱いピンで止めた女の子。鋭い目つきは相手を委縮させる空気を孕んでおり、怒っているのかと尋ねたくなる子だった。綺麗な顔立ちなのだが、やはり目つきの鋭さが前面に出てしまい印象はそちらが残る。
この身体じゃない俺なら一生お近づきになれなさそうな相手が、目つきだけでなく雰囲気で怒りを表現しているのが解る程度には、剣呑とした空気を醸し出していた。
「彼女を置いて帰るなんていい度胸ね。休み時間は一度も会いに来ないし、モテる男はお忙しいってわけかしら」
「わ、悪い……」
突然の出現に驚き、恋人がいたという事実に再度驚きを得る。
そりゃこれだけ顔が良ければ彼女の一人や二人、二人目以降は問題だがいるだろう。妙な納得の仕方をしてしまう。
どうやら怒っているらしい彼女の言動に、反射的に謝罪の言葉を口にしたが、それがいけなかった。
「……悪い?」
「え?」
彼女は何が気になったのか、気に障ったのか眼光を鋭く、俺を射抜く。
「ヒカル……よね? ……いえ」
『俺』の名前を呼び、一歩後ずさる。
まるで見知らぬ他人を見るが如く、頭の先からつま先まで見て、俺の挙動を見て。
狼狽することしか出来ない俺は、本日のMVP単語である体調不良を口にしようとした、が。
「……あんた、誰?」
彼女の言葉に、断ち切られた。