プロローグ 幻影投映(げんえいとうえい)
朝起きたら知らない部屋にいた。
「……え?」
思わず間の抜けた声を上げてしまったが、人は事態がまったく解らない状況に陥った時、物語だけの言動だと考えていたことを実行してしまうモノらしい。
身体を起き上がらせ、周囲に目を配る。整理整頓された綺麗な勉強机の上にノートパソコンがあり、右手の壁にはどこかのバンドのポスターが貼られている。本棚には参考書や漫画、それに新書など一般的な人が読むであろう種類の本が置いてあり、申し訳程度にある小さな洋服ダンスは引き出しが半開きだった。背後を向けば突き出る形の窓があり、モノを置けるスペースには目覚まし時計やスマホが置いてあった。
「……え?」
もう一度同じ言葉、反応を繰り返す。
ここが何処だかまったく解らない。明らかに自分の部屋ではないことは解る。こんなにも小奇麗にしていないのもそうだが、自分の部屋はもっと本が山積みの状態で倉庫かと親から叱られるのだ。それ以前に、煎餅布団がベッドに変わり、我が家には存在しない清潔の代弁しとも言える真っ白のシーツに身を包んでいることが何よりの証拠だった。
そんな普段と違い過ぎる現実を目の前に、俺は未だ夢の世界で冒険をしている途中なのだと気がつく。まったくいつまでも寝てないで早く起きなきゃそうかこれは夢なのかと考え、試しに思いっきり頬を抓ってみると激痛が走り涙が零れた。
痛みを感じ、痛みを覚え、痛みを知る。
ここが現実の世界だと、痛みが教えてくれる。
寝ぼけた頭が起動し始め、やっと逃避ではない状況の把握に努めることが出来た。
「まさか……」
見知らぬ、妙に小奇麗な部屋。
室内にはモノが多いわけではないが、整理整頓がきちんとされていて、まるで自分の、男の子の環境とは思えない光景。
「これ、は……っ!?」
心臓が早鐘る。まさか、だ。もしかして、だ。
これはいわゆる、今では物語の描写でも少なくなってきて、さらに現実には雀の数が減っているせいでなかなかお目にかかることができない『朝チュン』というやつではないだろうか。つまりはつまり、ここは異性のお部屋であり、そのベッドを使用しているということは大変な人間的に男的に階段を何段か登ったというファイナルアンサーでいいとも!
「そんな……くそっ、なんで俺は覚えてないんだ……っ!!」
昨夜の出来事を必死に思い出そうとするが、記憶のタンスには未成年が買ってはいけない二次元の書物と、バカでアホな友人との輝くしくも恥ずかしい下らない思い出が詰まっているばかりで今すぐ粗大ゴミに出したいモノだった。
頼りにならない自分の脳味噌を探るのは中止し、一先ずはベッドから降りようと、心なしか良い匂いがするベッドである、布団を捲ればパンツ一枚のあられもない姿がそこにはあった。
布団を捲り自らの姿にぎょっと驚くと同時に、
「おーい、いつまで寝てんだー」
部屋のドアをノックもなしに開ける女性が登場した。
「き……」
思わず悲鳴を上げそうになったのだが、覗く女性は平然とした様子で頭をかきながら「さっさと着替えて降りてこいバカたれー」と言うとドアを開けたまま去って行く。
「き、や……ああ……?」
声に成りきれなかった悲鳴が空中をさ迷い纏わりついてくる。パンツ一枚という夢のようで悪夢な姿を見られたのだが、それに何の反応も返されないというのは少しだけ傷ついた。いや、見せたいわけではないので面倒なことにならずに済んだのは僥倖と考えた方がいいかもしれない。かもしれないじゃないかもしれない。
とにかくまずは軽装と呼ぶにも烏滸がましい自分の姿をどうにかするべく服を着たかったのだが、自分が持っている服は何処にも見当たらない。学校の制服がハンガーにかけられているのだが、見慣れた母校のモノじゃない。半開きのドアからは早く降りてこいと催促がかかっている。下手をすると戻って来る危険性があり、パンツ一枚で出るか服を借りるかの二択を強いられた。選ぶ必要もない二択だった。
とりあえず俺は「すみません! 服借ります!」と大声で階下に向け伝えておく。いくら緊急事態とはいえ、勝手に人の服を着るのは気後れしてしまう。借りる服もどれがいいか迷い、結局、自分の学校と似ているブレザーの制服を着て部屋を出る。
部屋の外は右手側に階段があり、左手には突き当りに窓があり、斜め前方向にもう一つ部屋があるようだ。構造的に一戸建てらしいということは解ったが、やはり見覚えはなく、未知の空間であることには変わりない。酒でも飲んだのかと不安を覚えるが、元々飲酒の趣味はないし、自分から飲むような真似はしない。お酒は二十歳になってから、というのが母親の教育方針であり、それは社会のルールでもあった。
恐る恐る階段を降りていき、リビングらしい部屋に行けばそこではお姉さんが朝食の用意をしていた。先ほどは突然のことだったのでよく見ていなかったが、お姉さんは気だるげな目線で全体的に多少やさぐれた雰囲気を醸し出しながらも、眼鏡でもかければ知的な美人と言える割と好みなタイプだった。理系女子と言えば解りやすいか。
テーブルにはサラダにパンとスクランブルエッグというこれまた典型的な洋風の朝食であり、普段なら母親が放ったコインの弾丸を額でキャッチしてコンビニで使用するか、適当に昨晩の残り物を口にするかの自分としては、豪華絢爛な一種の芸術とも言える風景に絶句するしかない。
それにしても、だ。朝チュンに朝飯である。これはもう確実に一線という何かの境を飛び越えてしまったに違いない。そうじゃなくては男が廃る。ここで手を出さないような男は軟弱以前のヘタレを超えた残念な男子だ。まるで手を出さないのが紳士たる佇まいと勘違いしている男子諸君が多い世の中だが、家に上げるとはすなわちそれだけ心を開いていることでもあり、むしろ何もしないのは相手を傷つける結果になるのだ。これはよく覚えておいた方がいいと、心の中で誰かに語りかけながら俺は挙動不審な態度で声をかけてみた。
「あ、あの」
「何してんだ、早く顔を洗って来い」
「あ……は、はい」
妄想の中ではいつだってヒーローな俺でも、現実ではちんけな若者に過ぎなかった。リビングを出て洗面所らしきところに入れば、すでに先客がいた。
可憐で美麗、綺麗で秀麗、眼を疑うような見たこともない美少女がいれば最高だったのだが、やはり現実はそう甘くはなく、出会ったのはこの家の者と思しき男子高校生だった。何故男子高校生と解ったかと言うと、単純な話で彼も制服を着ていたからだ。整った顔立ちは女子を魅了するには十分の効果を持っており、無意識に自分と比べてしまった俺は思わず目を背けてしまう。劣等感というのはどんな状況でも顔を出し、心を貶めてくるものだった。しかし、よくよく考えれば今自分が着ている制服は彼のモノである可能性が非常に高く、いくら緊急事態とはいえ勝手に着たのを考えると一言謝罪を伝えておくべきだ。俺はなけなしの度胸と勇気を振り絞り、絞りかすしかないので眼を合わせず頭を下げて謝った。
「あ、あの、すみません! 服借りてます!」
やはりこの時の俺はまだ混乱していたのだと思う。発言もそうだが物事を正しく捉えられていなかった。そもそも普通、いくら着るモノがないからといって他人の服を勝手に着るだろうかいや着ない。さらに言うなら何故それが制服なのかということである。多少似ているとはいえ、明らかに自分のモノとは違うと理解しているにも関わらず、制服という通常なら手を出しづらい分野を選んだのは、まるでいつもの流れ作業のような行動だった。
いつもの行動と言えば確かにそうなのだが。学校に通っている身の上としては、すでに意識なく無意識に取る行動かもしれないが、それでもだ。
そんなことを謝罪した後に気が付き、後悔と怒られる恐怖から顔を上げられずにいると、相手の男子は何の反応も返してこない。怒りが頂点に達して言葉もないのか、それとも不審者と思われているのか、ああそういえば記憶にないから考えてなかったけど、お姉さんは俺のことを知っていたが彼は俺のことを知らない可能性がある。お姉さんと一夜を共にした、何度も言うが記憶にはないが状況証拠的に、行きずりの男と思われたかもしれない。
様々な思考が交錯するが、三分程経過しても反応が返ってこないのはさすが訝しんでしまう。恐々と面を上げてみるが、なんとそこには俺と同じように頭を下げるイケメンがいたのだ。相手も同じように顔を上げる最中で、なんとも情けない顔をしていた。
事態が呑み込めない、なんてことはなく、俺はすぐ理解する。
俺と同じ行動を取ったイケメン、彼は三次元の存在ではない。否、正しくは三次元の存在なのだが、俺の視界に入る彼は二次元の空間にいるのだ。
すなわち、鏡に映った俺の姿だった。
「なんだ、鏡か……」
ほっとして胸を撫で下ろし、さっさと顔を洗おうと凍り付く。
誰だ、こいつは。
知らない。こんな顔の奴を、俺は今まで見たことがない。
見知らぬ他人。記憶にない顔。
それが、俺だった。
「だ……だれ、だ……」
震える手を伸ばし、鏡へと触れてみる。もしかしたら鏡は存在せず、悪ふざけて向こうが同じ動作をしただけかもしれない。淡く拙い希望は指先の感触に否定され、俺は次に自分の顔に触れてみる。
頬を摘めば皮膚が伸び、鏡の誰かの顔が変化する。
端正な顔立ちのそいつは、驚愕の表情を浮かべていた。
「な、なにが……」
ふらふらとよろめき、ふらつきながら、足に力が入らない。立っていられない。
訳が分からない。こんな時、物語ではどうしていただろうか。カッコイイ顔に変わって喜ぶのだろうか。何処の誰かも解らずに、何処のどこにいるのかも解らない状況で、俺はまず、どうしたらいい?
思考が追い付かない。
時間に置いてかれる。
考えなどまとまる以前に出来るはずもなく、ぐるぐると意味のない何かが回り続けている。現実の把握どころか何を掴めばいいのかさえも曖昧だった。
「おーい、早く食えー。遅刻するぞー」
リビングの方から見知らぬ声が聞こえて来る。
俺は知らない。お姉さんが何者なのか、一体どうしてここにいるのか解らない。
しかし、向こうは俺を知っている。
知っているからこそ、呼んでいるのだ。
俺は声に呼ばれるまま、虚ろな足取りで必死に前へ進む。
今にも倒れそうな身体を支えながら、一歩一歩踏みしめてリビングへと到達した。そこには先ほどと同じ光景が広がっていて、違うとすればお姉さんがだらしなく胸元を開けたままパンを齧っているところだった。
お姉さんは茫然とする俺の様子を不審に思ったのか眉を潜める。
「どうした? 早くしろ、遅刻するぞ」
「ちこ……く……?」
ある意味慣れ親しんだ単語に少しばかり思考が戻り、言葉の意図を考えることができた。とは言っても、単純に学校かと考えたのだが、記憶が確かなら、こんな何が起きたかも理解できない自分の脳を信用するのは難しいが、今日は日曜のはずだ。
平成二十六年の七月十三日。
期末テストが終わり、後は夏休みを待つだけという、そんな予定のはずだった。
見知らぬお姉さんは顎で壁にある時計を指し示し、その時計の下にはカレンダーが掛けられていた。
カレンダーだと、思った。
そして、そして。
―― 始まる崩壊 ――
―― 砕ける現実 ――
「う……あ……」
「どうした?」
カレンダーは七月であり、そして日にちが四十日まで記載されていた。
曜日も月曜から日曜までではなく、日曜日の次に己曜日と書かれている。
在り得ない欠陥。
有り得ない欠如。
「なん、なん……で……」
「ん?」
次から次へと襲い掛かる混乱。
俺が誰で、それは何だ。どれが正しく、何が間違っているのか。
認識か、現実か、視界か理解か知識か歴史か。
カレンダーを指さし、言葉にならない声を発していると、お姉さんは心配そうな顔を浮かべ、言った。
言ったのだ、俺の、俺を、呼ぶ。
さらなる混沌を片手に、近づいて来た。
「今日のお前なんかおかしいぞ? 熱でもあるんじゃないか? なぁ―――」
――― なぁ、ヒカル ―――
と、名前を呼ぶ。
馴染みなく覚えのない名で、俺じゃない俺を呼んだ。