*第二十一話 過ぎ去りし過去の傷跡
完全に忘却するのは記憶するより難しい
十年前―――五月五日
その日は、雲ひとつない青空だった。
“シ―ンっと静まり返る新緑の世界で心を落ち着かせませんか?”
郵便ポストに入っていたそんなキャッチコピ―を掲げた、岳山のパンフレットに心を魅かれ、癒しを求めぼくの父さんはハイキングにこの地選んだ。近場だったし、妹も生まれたばかりだったので母さんも賛成した。
『ねぇ、ママ。あれなぁに?』空を駆ける鳥をさしてぼくは訊ねた。
『ん?』
『あれ、あれ。あれなぁに?』
淡いようなべ―ジュの―――母さんにとてもよく似合う―――上着の裾を右手でぐいぐい引っ張りながら遠くの方回る何かを指差した
『鳥さんのこと?』
『うん、そうあれ何てお名前?』
母さんの顔を覗き込みながら、返事を待った。
少し嬉しそう、でも何か遠くを見るように笑う。
その屈託の無い笑顔が眩しくてその顔がとても好きだった―――
『鳶っていうのよ、夾くん』
『とんび?』
母さんはぼくの手を引いて『うん、そうよ』と短く言った。
そして、何か気付いたように立ち止まってぼくの好きなあの顔でまた笑った。
『耳、澄ましてみようか』
『え?』
母さんは目を閉じて薄く笑いながら手を耳にかざす。
でも次の瞬間ぽかんとして見ていた僕を見て笑いながら言った
『ほら、夾くんもはやく』
目を閉じて
『う、うん・・・』
子供みたいにはしゃぐ母さんにおずおずと瞳を閉じる
微かに届いた音は耳の中で綺麗な旋律を奏でた。
ピーヒョロロロロ…ピーヒョロロロロ…
『――聞こえた?』
あの笑顔で、母さんは笑う。
『うんっ』
もう一度、空を仰ぐ
回る何かは母さんの歩調に合わせて見えなくなった
少し嬉しそう、でも何か遠くを見るように笑う
その屈託の無い笑顔が眩しくて
その顔がとても好きだった―――
歩いていると、何だか気分がうきうきしてきて幼稚園で習った歌の歌詞を思い出した。
ぼくは今度は父さんの元に近寄り、母さんのような屈託のない笑みを浮かべた。
『パパ、ぼく幼稚園でお歌習ったんだよ。』
『そうか・・・』
父さんは疲れたような顔をしていたのに、ぼくは気付かなかった。
『“さんぽ”って、お歌なんだけどね―――』
傾斜は少しずつ緩やかになっていた。ぼくが“さんぽ”を歌い終えた頃、ぼくたちは開けた河原に着いた。
『少し休もうか。』父さんは笑顔を見せず無愛想に言った。そして、手に持っていたパンフレットに眼を落とす。『ここは、水蛇河原っていうんだそうだ。此の地に伝わる昔話もあって地域住民には神聖なる場所として、“水蛇様の河原”呼ばれているみたい。』
『だってさ。夾くん、汚しちゃ駄目だよ?』
『うん!ねぇ、ママ、シンセイナルバショってなぁに?』
『神様がいる場所のことよ。ほら、向こう岸を見てごらん?』
母さんに促され向こう岸を見ると小さな社が目に入った。
『あそこが、スイジャサマのお家なの?』ぼくは社を指して母さんに訊ねた。
『うん。』母さんは頷いた。『そうだよ。あそこが神様が祭ってある場所。水蛇様のお家だよ。』
『そうなんだ。ねぇ、遊んできていい?ママ』
『いいわよ。でも、神様のお家に触れちゃ駄目よ。』
『なんで?』
『向こう岸に渡らなければならないし、お家を触られたら神様も嫌がると思うから』
『そっか〜。じゃぁ、ママも一緒に着て。』
『それはできないわ。私は美奈ちゃん見なきゃいけないから。ごめんね。夾くん。でも、夾くんもうお兄ちゃんでしょ?』母さんはぼくのしゃがみこみ頬に触れた。
『うん。ぼくお兄ちゃんだよ。一人で遊べるよ。』
『よし、いい子。じゃぁ、いってらっしゃい。あんまり遠くへ行かないようにね』母さんはぼくの背中を軽く押した。
『うん』ぼくはまた頷いた。
岳山は別名桜山とも呼ばれ、標高1000Mほどの休火山で富士山に似た成層火山である。生えている木々の大半が広葉樹林で桜の季節になると花見客が多く訪れ、新盛市の一大観光スポットでもあった。また、山の斜面を流れる礒辺川は、魚たちが数多く棲む綺麗な川として知られていて、山の七合目と八合目の間ほどにある巨大な滝(名前は付けられていない)が春に水を落とすその様は江戸時代のかの大詩人も絶景と褒め称えるほどだったという。
何故、滝がその場所にあるかといえば、七合目辺りから急勾配になっているからで、 “水蛇様の河原”があるここは丁度、十合目辺りから落ちてくる水が滝を下りストンと落ちる流が急な場所であった。昔話も急な川の流れに足をとられた青年がこの地で称えられている水の神様、“水蛇様”に助けられたという事実か嘘かわからぬ話から派生していた。
『ねぇ、パパ。危ないかしら、夾くん、一人にしたら。』父さんに借りたパンフレットの文章を見て母さんは言った。『詳しくは載ってないけど、川の流れ急そうだし・・・』
『心配ないだろ?水蛇様が見守ってくださっているんだから』お父さんは無愛想に答えた。『それよりママ、あのこと考えてくれたかい?』
『私は嫌よ。離婚なんて。』母さんは言った。『夾に―――それにこの子になんと言ったらいいの?』
母さんは美菜の頭を撫ぜた。
『夾にはぼくが納得させるさ。』
『でも――――』
『本当は俺だっていやさ。でも―――俺がいると、金を喰うだけだろう?』
『そうかもしれないけど――――』母さんは言った。いつのまにか声が大きくなっていた。『美菜は?美菜は生まれたばかりじゃない。』
彼は―――こんな子にまで淋しい思いをさせようとしているのだろうか?
『美菜は元気だ。これといって病気を抱えているわけでもない。俺がいなくても一人で生きていけるさ。』
『答えになってないわ。』
『とにかく―――もう、決めたことなんだ。あとは、きみが認めてくれればいい。』
不意に水が頬をうった。涙かと思った。
『パ・・・・―――』
轟音が母さんの声に重なるように鳴り響いた。母さんの頬に大粒の水滴が流れ落ちた。
『・・・え?』思わず母さんは後ろに振り向く。『夾!』
母さんはぼくの名前を叫んだ。
再び、水が頬をうった。
母さんの目からは大粒の涙と、天から降り注ぐ大粒の雨が流れ落ちた。
中途半端ですかね?
次号・*第二十二話 予期せぬ裏切りデス。
予想GUYですが、完結するまであと一万文字ぐらいいきそうです。あと、3・4話あるのかな?
次かその次にはまた、真衣さんたちが出てくるのでお楽しみに。