【ケメ子第7話】鏡の中の美学と手放す勇気
【ケメ子:第7話】鏡の中の美学と、手放す勇気
2020年代初頭。東京。
50代後半になったケメ子は、自身が立ち上げた事務所のデスクで、分厚い企画書を閉じた。
窓の外には、休むことなく形を変え続ける渋谷の街。かつてはその変化の最前線にいることが誇りだったが、最近は、新しく建つビルの名前さえ覚えるのが億劫になっていた。
身体の変化は、もう無視できないレベルに来ていた。
徹夜は物理的に不可能になり、老眼鏡なしでは繊細な色校正もできない。何より、かつては「研ぎ澄まされた感性」と称賛された自分のアイデアが、SNSを使いこなすZ世代のディレクターたちからは「クラシックですね」と、遠回しに時代遅れ扱いされる場面が増えていた。
「……クラシック、ね。悪くない響きだけど」
自嘲気味に呟き、彼女は化粧室の鏡の前に立った。
丁寧に塗り重ねたファンデーションでも隠しきれない目尻の皺。かつて「アフロ」とまで言われた髪のボリュームはすっかり落ち着き、今は手入れの行き届いたグレーヘアをあえて見せるスタイルに変えている。
ある日、大きなクライアントから「世代交代」を理由に契約の打ち切りを告げられた。
20代の自分なら、怒りに震えて代案を叩きつけたはずだ。40代の自分なら、人脈を駆使して裏から手を回したかもしれない。
だが、今の彼女は、驚くほど冷静に「承知いたしました」と、穏やかな笑みでそれを受け入れた。
それは諦めではなく、「執着」からの解放だった。
自分がいなければ回らないと思っていた世界は、自分がいなくても軽やかに回り続けている。その事実に、彼女は寂しさよりも、深い安堵感を覚えていた。
事務所の規模を縮小し、スタッフの多くを独立させた。
今は、六本木の喧騒を離れた静かなアトリエで、誰に頼まれるでもなく、自分が本当に美しいと思うものだけを形にしている。
ハイヒールを脱ぎ、履き慣れたフラットシューズで街を歩く。
肩の力が抜けた今のケメ子には、全速力で走っていた頃には見えなかった、道端の小さな草花や、空のグラデーションが鮮やかに目に映るようになっていた。
人生の午後は、思っていたよりもずっと静かで、そして自由だった。




