折れたヒールと風の吹く方向
【ケメ子:第5話】折れたヒールと、風の吹く方向
2000年代半ば。東京の空は、かつての狂乱を忘れさせるほど整然としていた。
40代を迎えたケメ子は、広告業界で「鉄の女」の異名をとるほどの敏腕プロデューサーになっていた。部下を率い、数億円規模の予算を動かす毎日。プライベートを後回しにし、30代で選んだ「自立」の道を、彼女は全速力で走り続けてきた。
しかし、運命の歯車は、最も忙しい瞬間に音を立てて狂い始めた。
大きなプレゼンを翌日に控えた夜、ケメ子は激しい眩暈と共に倒れた。
診断は「過労による心身の不調」。医者からは「最低でも数ヶ月の休養」を言い渡された。
「……冗談じゃないわ。私がいないと、あのプロジェクトは止まるのよ」
病室のベッドで、彼女は力なく笑った。鏡を見る暇もなかった数年間、いつの間にか肌は荒れ、あれほど誇りだったエネルギーが枯渇しかけていた。
追い打ちをかけるように、会社は彼女の不在を埋めるために若手への引き継ぎを決定した。彼女が必死に築いてきた椅子は、驚くほど簡単に誰かのものになった。
「……私の20年って、何だったのかしら」
退院後、ケメ子は数週間の休みを取り、導かれるように故郷・愛知へと戻った。
1982年、中学の校舎。あの日、プールサイドで「漏れ姉」と呼ばれて泣いていた自分。あの頃の自分なら、今のこの挫折をどう見た道だろうか。
実家の整理をしていた時、古い段ボールから一冊のノートが出てきた。中学時代の自分が書いた「将来の夢」のページ。そこには、広告代理店なんて言葉ではなく、ただ一言、
『広い世界を見て、面白い人たちをたくさん笑わせたい』
と書かれていた。
ケメ子は、込み上げてくる涙を拭おうともしなかった。
会社のため、予算のため、数字のために戦っていた自分。でも、本当の夢はもっと自由で、もっと「人間臭い」ものだったはずだ。
ふと、風の便りに聞いた仲間たちの噂が胸をよぎる。
きよぴこは、営業の仕事を辞め、自分でお店を出すために修行を始めたらしい。
やおたは、ついに念願の山の一部を手に入れ、週末だけの「山主」になったという。
ちくは、怪我で一線を退いた職人のために、新しい雇用の場を作ろうと奔走している。
「みんな……変わっていくのね。でも、止まってはいないんだわ」
ケメ子は、決意した。
東京に戻ったら、辞表を出そう。
大きな会社の看板を捨て、自分の名前だけで、本当に自分が「面白い」と思えるものを発信する。40代にして初めての「起業」だ。
窓を開けると、懐かしい愛知の風が、少しだけタイトにまとめた彼女の髪を優しく揺らした。
57歳になった自分がこの「立ち止まった時間」を振り返った時、「あの挫折があったから、今の自由がある」と誇れるように。
ケメ子の第2章。
それは、折れたヒールを脱ぎ捨て、裸足で新しい大地を踏みしめるところから始まった。




