山嶺のプロポーズ と平行線の恋
【やおた:第4話】山嶺のプロポーズと、平行線の恋
1990年代後半、やおたは30代半ばに差し掛かっていた。
世の中が不景気の波に飲まれ、効率や生産性を叫ぶ声が大きくなる中、彼は変わらず週末になるとジムニーを駆って山へと向かっていた。
そんなやおたにも、実は三年間交際していた女性がいた。
地元の図書館で働く、物静かで読書好きな彼女だ。やおたが語る「UMAのロマン」や「古代の謎」を、彼女は否定することなく「不思議ですね」と微笑んで聞いてくれる唯一の理解者だった。
「やおたさん、いつになったら……その、私たちは『落ち着く』んでしょうか」
ある新月の夜、観測に向かう車中で彼女がポツリと零した。
やおたはハンドルを握る手に力を込めた。彼は彼女を愛していたし、彼女との穏やかな時間は何物にも代えがたいと思っていた。
しかし、彼にはどうしても譲れない「聖域」があった。それは、自分の全収入と全時間を注ぎ込んで追い続けている、あの目に見えない「ロマン」だ。
やおたは彼女を、自分が一番大切にしている山頂の観測ポイントへと連れて行った。眼下には街の灯りが広がり、頭上には吸い込まれそうな星空がある。
「……ここで、一緒に暮らそうとは言えないんだ。俺は、いつかこの山のどこかにある『真実』を見つけたい。それが、俺の生きている意味なんだ」
彼は不器用にも、山の一部を買い取るための頭金を貯めている通帳を見せながら、彼女に想いを伝えた。それは、彼なりの精一杯のプロポーズだったのかもしれない。
だが、彼女は悲しそうに首を振った。彼女が求めていたのは、山の上の幻ではなく、温かいリビングと、子供の笑い声が聞こえる「普通の生活」だった。
「……私たちは、見ている世界が違いすぎましたね」
二人は、その夜を境に別の道を歩むことになった。
独りになったやおたは、今まで以上に深く、深く山へと潜り込むようになった。寂しさがないわけではない。夜、テントの中で、ふと彼女が淹れてくれた温かいお茶の味を思い出すこともある。
ふと、風の便りに聞いた仲間たちの噂が頭をよぎる。
きよぴこは、子供を背負ってスーパーで買い物をし、パパとしての顔を見せているらしい。
ちくは、守るべき家庭を持ちながら、同時に現場の若手たちの「親父」として君臨している。
ケメ子は、東京で一人の自由を謳歌し、キャリアの頂点を目指して戦っている。
「みんな、それぞれが選んだ『大切なもの』に命を懸けてるんだな」
やおたは、双眼鏡を構え直した。
1982年、裏山を駆けずり回っていたあの日。自分たちは、この世界がこんなにも複雑で、選ぶことがこんなにも苦しいものだとは知らなかった。
やおたの30代は、愛した人との別れを糧に、より純度の高い「孤独な探求者」へと姿を変えていった。
57歳になった自分が、再びこの山嶺に立った時、「後悔はしていない」と静かに言えるように。




