営業スマイルと小さな薬指の重み
【きよぴこ:第4話】営業スマイルと、小さな薬指の重み
1990年代半ば、大阪。
かつて「キヨ」と自称し、ショッキングピンクのシャツをなびかせていたきよぴこも、30代の門を叩いていた。
世の中は「失われた10年」の真っ只中。派手な広告予算は削られ、彼が勤める代理店でも、かつての勢いはどこへやら。きよぴこは今や、薄くなった財布と睨めっこしながら、泥臭いドブ板営業を繰り返す毎日を送っていた。
「……はぁ。昔なら、一発ギャグ一つで契約取れたのになあ」
そんな彼の生活を支えていたのは、行きつけの居酒屋で知り合った一人の女性だった。
彼女は、きよぴこのスベり倒すギャグを「全然おもんないわ」と一蹴しながらも、彼が仕事のミスで落ち込んでいる時には、黙って冷めた味噌汁を温め直してくれるような、芯の強い人だった。
「なあ、いつまでそんなフラフラしとるん。あんた、もうええ歳やろ」
ある夜、彼女にそう言われたきよぴこは、喉まで出かかったジョークを飲み込んだ。
1982年の中学時代、ひたすら女子にモテることだけを考えていた。でも、目の前にいるこの人を笑わせ続けることが、今の自分にとって何よりの「仕事」であることに気づいたのだ。
きよぴこは、なけなしの貯金を叩いて買った指輪を、震える手で差し出した。
「……俺、オチのない人生やけど、一生かけて君を笑わせる努力はするわ。だから、一緒におってくれへんか」
プロポーズは、彼らしく少し不器用だった。でも、彼女は「……しょうがないなあ」と、少しだけ涙を浮かべて笑ってくれた。
結婚して間もなく、小さな命を授かった。
かつて自分のためだけにブランド物のスーツを買っていたきよぴこは、今やスーパーの特売品を買い、子供のオムツ代のために趣味のゴルフもやめた。
ふと、風の便りに聞いた仲間たちの噂を思い出す。
ケメ子は、東京で一人の道を切り拓き、凛として戦っているらしい。
やおたは、相変わらず誰にも理解されないロマンのために、人里離れた場所で孤独を楽しんでいる。
ちくは、現場の若手たちを怒鳴りつけながら、地図に残る大きな構造物を造り上げている。
「みんな、それぞれの『正解』を見つけとるんやな」
夜泣きする赤ん坊をあやしながら、きよぴこは独り言を漏らした。
中学の時、あんなに自由だった自分たちが、今はそれぞれの場所で、目に見えない重荷を背負って生きている。でも、その重みこそが、自分がこの世界に生きている証拠のように思えた。
きよぴこの30代は、派手なスポットライトこそないが、家族の笑い声という最高の「拍手」に包まれて、ゆっくりと、確実に進み始めた。
57歳になった自分がこの日々を思い出した時、「あの時、家族のために踏ん張って良かった」と、優しい顔で言えるように。




