第35話 死の円舞曲(ワルツ)と薄氷の勝利
神崎隼人は、自らが足を踏み入れた空間のその異質さに、思わず息を呑んだ。
これまで彼が進んできた、狭く湿った洞窟の通路ではない。
そこは、まるで古代の円形闘技場を思わせる、巨大なドーム状の地下空洞だった。
天井は遥か高く、そのてっぺんには、かつては光を取り込んでいたであろう巨大な亀裂が、闇に口を開けている。
壁際には、何本もの鍾乳石と石筍が、まるで巨大な獣の牙のように天と地から突き出し、互いを求め合うかのように伸びていた。
そして何よりも異様なのは、その空気と匂いだった。
これまでの通路に満ちていたカビと土の匂いは完全に影を潜め、代わりに彼の鼻腔を突き刺すのは、ツンと鼻を突く酸っぱい腐敗臭。
そして、魔素の密度が違う。
これまでの場所がただの「濃い霧」だとするならば、ここはもはや「水の中」だ。
呼吸をするだけで、肺が魔素の重圧に軋むような感覚。
空洞の中央には、一つの巨大な「沼」が広がっていた。
不気味な緑色の液体が、その表面張力を保っているのが不思議なほど盛り上がり、そのあちこちで、ぶつぶつと有毒の泡が弾けては消えていく。
ここが、このE級ダンジョン【毒蛇の巣窟】の最深部。
ボスの間。
その事実を隼人は、誰に教えられるでもなく、その肌で理解していた。
彼の配信のコメント欄も、そのあまりにも不気味で荘厳な光景に、これまでの雑談ムードから一変していた。
視聴者A: うわ…なんだここ…
視聴者B: ついにボス部屋か…! 空気が違うな…
視聴者C: 毒蛇の巣窟のボスは確か…E級の中でも屈指の初見殺しで有名だぞ…
視聴者D: JOKERさん、一度引いて準備を見直した方がいいんじゃないか?
視聴者E: いや今のJOKERさんならいける! 俺は信じてるぜ!
一万を超える観客たちが固唾を飲んで、画面の向こう側を見守っている。
その緊張と期待が、まるで物理的な圧力となって、隼人の背中を押していた。
隼人は、長剣の柄を強く握りしめると、警戒しながらその空洞へと、最初の一歩を踏み出した。
その瞬間だった。
ゴボッ、ゴボボボボボボボッ!!!
中央の毒の沼が、まるで沸騰したかのように、激しく泡立ち始めた。
そして、その緑色の水面がゆっくりと持ち上がり、一つの巨大な影が、そのおぞましい姿を現した。
それは、ダンジョンの名が示す通り、巨大な一匹の毒蛇だった。
全長は10メートルではきかないだろう。
大型バスほどもあるその巨体。
ぬらぬらとした深緑色の鱗は、洞窟の僅かな光苔の明かりを反射して、不気味な光沢を放っている。
背中には、まるで剣山のように、無数の毒々しい紫色の棘が生えそろっていた。
だが、何よりも恐ろしいのは、その鎌首をもたげた頭部だった。
そこには、ただの蛇のそれとは思えない、残忍な、そして狡猾な「知性」を宿した、六つの血のように赤い瞳がぎらりと輝いていた。
その全ての瞳が、侵入者である隼人ただ一人を、正確に捉えていた。
ARシステムが、その新たな脅威の情報を、隼人の網膜に表示する。
名前: 【古龍蛇バジリスク】
レベル: 8
種別: 竜亜種 / 魔獣
脅威度: E++(最要注意対象)
E級ダンジョン【毒蛇の巣窟】の主。
その圧倒的な存在感を前にして、隼人は思わずゴクリと喉を鳴らした。
だが、彼の瞳には恐怖の色はなかった。
むしろその瞳は、最高の獲物を前にした狩人のように、そして、最高のカモを前にしたギャンブラーのように、妖しく爛々と輝いていた。
「シャアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
バジリスクが動いた。
その巨大な顎を、まるで裂けるかのように大きく開くと、そこから扇状に数十発の緑色の毒液の弾丸を、隼人へと吐き出してきたのだ。
一発一発が、人間の頭ほどの大きさを持つ、質量の塊。
それが凄まじい速度で空間を引き裂き、隼人へと殺到する。
だが隼人は、動かなかった。
彼は、これまでの雑魚戦の経験から、自らの防御能力に絶対的な自信を持っていた。
彼はあえてその場から一歩も動かず、その毒の弾幕を正面から受け止めることを選んだ。
彼の全身を覆う青白いオーラ…【元素の盾】が、その輝きを増す。
そして彼は、ベルトに差した一つのフラスコを起動させた。
紫水晶の霊薬…【アメジストのフラスコ】。
彼の体を、気高い紫色のオーラがさらに包み込んだ。
混沌耐性+50%。
神の護り。
これさえあれば、どんな毒も恐るるに足らず。
「見せてやるよ、大蛇。格の違いってやつをな」
彼はそう嘯いた。
そして、その慢心は次の瞬間、致命的な結果となって彼に跳ね返ってくる。
ドッドッドッドッドッ!
数十発の毒液の弾丸が、彼の体に次々と着弾する。
そのほとんどは【元素の盾】と、アメジストのフラスコがもたらす圧倒的な耐性によって、ジュッという音を立てて蒸発し、消えていく。
彼のHPバーはほとんど動かない。
やはり大したことはない。
彼がそう確信しかけた、その瞬間だった。
彼のステータスウィンドウに、一つの忌々しいアイコンが表示された。
『毒状態(強)』
そして悪夢は、そこから始まった。
彼の体を貫いた数発の毒液。
それらがもたらした毒のアイコンが、彼のステータスウィンドウに次々と追加されていくのだ。
『毒状態(強)×2』
『毒状態(強)×3』
『毒状態(強)×4』
『毒状態(強)×5』
『毒状態(強)×6』
「…なんだと…?」
隼人の顔から、余裕の笑みが消えた。
そして彼は気づいた。
自らのHPバーが、これまで経験したことのない異常な速度で削られていくのを。
HP: 337... 321... 305... 289...
彼の指にはめられた【混沌の血脈】が、毎秒15のHPを回復してくれているはずなのに。
その緑色の回復の数字が、まるで焼けつくような赤いダメージの数字に、完全に飲み込まれていく。
彼は瞬時に計算した。
毎秒15回復している。
それなのに、秒間16ずつ減っていく。
つまり、この毒のスタック一つ一つが、秒間16ダメージ。
それが今、六つ積み重なっている。
秒間96ダメージ。
それに俺のリジェネ15を引いても、秒間81ダメージが俺の体を内側から蝕んでいく。
10秒経てば810。
彼の最大HPは337。
つまりこのまま何もしなければ、わずか4秒で彼は死ぬ。
「クソが…!」
隼人は、初めて心の底からの悪態を吐いた。
これがE級のボスの洗礼。
これが、雫が言っていた混沌属性の本当の恐ろしさ。
毒は「スタック」するのだ。
視聴者A: まずい! 毒がスタックしてる!
視聴者B: リジェネが追いついてない! HPの減りが早すぎる!
視聴者C: JOKERさん逃げて! 距離を取ってフラスコを!
視聴者D: だから初見で突っ込むのは無謀だって言ったんだ!
コメント欄が、阿鼻叫喚の悲鳴で埋め尽くされる。
隼人は慌てて、ベルトに差した最後の生命線…【ライフフラスコ】を呷った。
ゴクンという音と共に、彼のHPバーが半分ほど一気に回復する。
だが、それもただの気休めにしかならなかった。
回復したそばから、猛烈な勢いでHPは再び削り取られていく。
まるで、穴の空いたバケツに必死に水を注ぎ込むような、不毛な作業。
そしてバジリスクは、そんな彼の絶望的な状況を、その六つの赤い瞳で、愉悦に歪めながら見つめていた。
王者は、ゆっくりとその巨大な鎌首をもたげ、次なる必殺の一撃を放つべく、その準備を始めた。
それはもはや弾幕ではない。
全ての毒を凝縮した、一撃必殺のブレス。
あれを食らえば終わりだ。
隼人の脳裏に、初めて明確な「死」の一文字が浮かび上がった。
(…面白い)
絶体絶命の状況下で、しかし彼の思考はどこまでも冷静だった。
ギャンブラーとしての血が、この最悪のテーブルを前にして、歓喜に打ち震える。
(カードの相性が悪いなら、手札を全て捨てて、流れを変えるしかない)
彼は即座に思考を切り替える。
耐えきるという、これまでのセオリーは捨てる。
HPと耐性に頼る、あの『聖典』の教えだけでは、この王は倒せない。
俺は、俺のルールで戦う。
「――避けなければ死ぬ」
単純明快な結論。
だが、それこそがこの盤面における唯一の正解。
彼のプレイスタイルが、完全に変更される。
バジリスクが、苛立ちを隠せない様子で、その巨大な尻尾による薙ぎ払いを放ってきた。
それは広範囲をなぎ倒す、回避困難な一撃。
これまでの隼人であれば、大きく後方へ跳躍して避けるしかなかっただろう。
だが彼は違う。
自らその攻撃の懐へと踏み込んだ。
『なっ!?』
『JOKERさん何してんだ!』
『自殺行為だ!』
視聴者が悲鳴を上げる。
だが隼人の目は、冷静に薙ぎ払われる尻尾の、最も威力が乗るその一点を見据えていた。
彼は長剣で、完璧なタイミングでその一撃を【パリィ】した。
キィィィィィィィィィィンッ!!!
これまでこのダンジョンで響いたどの金属音よりも、甲高く、そして美しい音が、広間全体に響き渡った。
バジリスクの渾身の一撃が、信じられないというように明後日の方向へと弾かれる。
そして奇跡は起こる。
パリィが成功したその瞬間、隼人の体がふわりと優しい緑色の光に包まれた。
積み重なった毒でみるみるうちに削れていたHPが、確かな量回復していく。
(【ガード時にライフ回復】の効果)
それだけではない。
彼の長剣が、まるで意思を持ったかのように自動で、超高速のカウンター攻撃を、がら空きになったバジリスクの胴体へと叩き込んだ。
(【リポスト】の効果)
ザシュッ、という重い斬撃音。
「ギシャアアアッ!?」
バジリスクが、初めて明確な苦痛の声を上げた。
自らの攻撃が相手を回復させ、そして手痛い反撃となって返ってきた。
そのあまりにも理不尽な現実に、その六つの赤い瞳が困惑に揺れる。
『なんだ…今のは!?』
『パリィで回復したぞ!』
『しかも自動でカウンター入った! あれが鉄壁の報復か!』
ベテラン視聴者たちが、そのスキルの組み合わせの意味を瞬時に理解し、驚愕の声を上げる。
彼はその一撃離脱を繰り返す。
バジリスクの大振りな攻撃は、一度パターンを見切ってしまえば対処は難しくない。
毒の弾丸もブレスも、その予備動作はあまりにも大きい。
所詮はE級のモンスター。
動きの洗練度はまだ低い。
隼人は、バジリスクの全ての攻撃を紙一重でパリィし、回復し、反撃する。
そしてすぐに距離を取る。
毒のスタックが再び積み重なる前に離脱する。
その華麗な立ち回りは、まるで死の円舞曲のようだった。
猛毒の雨の中を、たった一人舞い踊り、確実に王の生命を削り取っていく死神のダンス。
攻撃と防御と回復が一体となった、完璧な永久機関。
彼のプレイヤースキルが、今このE級ダンジョンというテーブルの上で、満開の才能を咲き誇らせていた。
長い長い攻防の末。
隼人は、着実にしかし確実に、バジリスクのHPを削り続けていた。
自らの攻撃がことごとくいなされ、逆にダメージを受ける。
その屈辱的な状況に、バジリスクはついに苛立ちを募らせ、その最大の攻撃を放ってくる。
口から巨大な毒のブレスを直線状に放射する大技だ。
それは洞窟の壁を溶かし、床を腐食させる必殺の威力を持つ。
その攻撃は強力だが、同時に巨大な「隙」を晒すことにもなる。
隼人は、その一瞬の好機を見逃さない。
彼はブレスのわずかな死角へと滑り込むように移動すると、この瞬間のために温存していた全てのMPを解放する。
彼の無銘の長剣が、天からの雷光を呼び込み、バチバチと激しい稲妻をその身に纏った。
「――これが俺の必殺技だッ!」
【必殺技】衝撃波の雷槌を、バジリスクの頭部へと全力で叩き込む。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
砦全体が揺れた。
着弾と同時に特大の雷撃がバジリスクの頭蓋を砕き、そこから放たれた半透明の力の衝撃波が、周囲の毒の沼を吹き飛ばし、壁を震わせる。
気絶効果を持つその一撃は、バジリスクの貧弱な精神を完全に刈り取り、その巨体を地面へと崩れ落ちさせる。
六つの赤い瞳から、光が消えた。
そして隼人は、その無防備な急所に追撃の【無限斬撃】を嵐のように叩き込み、その長い死闘に終止符を打つのだ。
ガキン、ザシュッ、キィン、ザシュッ!
もはやそれは、一方的な蹂躙。
彼の長剣が、何度も何度も致命的なダメージを与え続け、ついにバジリスクの巨体は、ひときわ強く、そして禍々しい光を放ちながら霧散していった。
静寂が戻る。
後に残されたのは、夥しい光の粒子と、その中心で荒い息をつきながら剣を杖代わりに、かろうじて膝をつく隼人の姿だけだった。
コメント欄は、勝利を祝福する絶叫の嵐と化していた。
バジリスクの最後の光の粒子が、洞窟の闇へと消えていく。
その静寂の中。
傷だらけで膝をついていた隼人の全身を、これまでにないほど力強く、そして温かな黄金の光が包み込んだ。
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
祝福のウィンドウが、彼の視界に立て続けに二度ポップアップする。
ゴブリン・シャーマンを倒した時とは比較にならないほどの絶大な経験値。
それが彼の魂と肉体を、一気に次のステージへと引き上げたのだ。
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神崎 隼人(JOKER) Lv.5 -> Lv.7
『勝ったあああああああああああああ!』
『神! 神! 神! 神!』
『あの絶望的な状況から一人でボスを倒すとか人間じゃねえ!』
勝利した隼人。
だが彼の心には、確かな「課題」が残っていた。
(今回の勝利は、あまりにも彼のプレイヤースキルに依存しすぎていた)
もし一度でもパリィに失敗していれば、死んでいた。
もし最後のブレスを避けきれなければ、死んでいた。
(今回の勝利確率は限りなく低かった。何度もダイスを振り直し、奇跡的に最高の出目を引き続けただけだ。こんな勝ち方、次も通用する保証はない…)
あまりにも危うい綱渡りの勝利。
もっと安定して勝つためには、何が必要か。
(もっと『期待値』の高い勝ち方が必要だ。プレイヤースキルという不確定要素に頼らない、もっとシステム的な確率を100%に近づけるための勝ち筋が)
プレイヤースキルに頼らない、もっとシステム的な絶対的な勝利の方程式はないのか。
彼は、ドロップしたボスの素材…ひときわ大きく、そして不気味な光を放つ【古龍蛇の心臓】を見つめながら、次なるビルドの強化へと思考を巡らせ始めるのだった。




