第20話 賭け金は総取り
ガラスが砕け散るような甲高い音と共に、【ゴブリン・シャーマン】の体を覆っていた青白い魔力の外套が、完全に消滅した。
それと同時に、シャーマンがこれまでとは比較にならない本物の引き裂くような絶叫を上げる。
「ギシャアアアアアアアアアッ!?」
隼人の長剣が、無防備になったその脇腹を深々と切り裂く。
確かな生々しい肉の感触。
そして、視界の隅に表示されたシャーマンのHPバーが、初めて意味のある長さだけごっそりと削り取られた。
(ビンゴだ)
ようやく、このイカサマテーブルの本当のルールを暴いてやった。
シャーマンのその知性的な瞳から、王者の風格は完全に消え去っていた。
そこにあるのは、自らの絶対的な護りを失ったことへの、純粋な驚愕と屈辱。
そして、目の前の格下であるはずの人間の子供に対する、剥き出しの恐怖。
もはや、それは玉座に鎮座する尊大な王ではない。
ただの、追い詰められた卑小で哀れなモンスターの姿だった。
だが隼人は、一切攻撃の手を緩めなかった。
彼は、この戦いがまだ終わっていないことを誰よりも理解していたからだ。
10秒。
奴にわずか10秒の猶予を与えれば、あの忌々しい見えない壁は再び再生してしまう。
そうなれば、またあの不毛なジリ貧の戦いを繰り返すことになる。
(――させるかよ)
隼人の思考は、勝利へのただ一点に収束していた。
彼はもはや、周囲でうごめく強化されたゴブリンの雑兵たちを障害とすら認識していなかった。
「グルアアッ!」
一体のゴブリンが横から棍棒を振り下ろしてくる。
隼人は、それを避けない。
彼はその攻撃を、左腕の【万象の守り】と胴に巻いた【焼け焦げた胸当て】で、半ば強引に受け止めた。
ゴッという鈍い衝撃が、彼の体を揺らす。HPバーがわずかに削れる。
だが構わない。
彼はその被弾を必要経費と割り切り、前進を止めない。
彼はただひたすらに、シャーマン本体へとその距離を詰めていく。
長剣を薙ぎ払うように振るい、前方を塞ぐゴブリンたちをまとめて吹き飛ばす。
彼の瞳に映っているのは、もはや後ずさり、距離を取ろうと必死になっている、ただ一体の「ボス」の姿だけだった。
視聴者A: 「いけええええええええ!」
視聴者B: 「休ませるな!シールドを回復させるな!」
視聴者C: 「JOKERさん、完全にバーサーカーモード入ってる!」
コメント欄も、彼のそのあまりにも苛烈で攻撃的な戦術の転換に熱狂していた。
守りに入った王者をひたすらに追い詰めていく若き挑戦者。
その構図は、最高のエンターテイメントだった。
隼人はその熱狂を背中に感じながら、勝利への道をただひた走っていた。
だが王は、ただやられるだけの無能な存在ではなかった。
追い詰められ、後がなくなったゴブリン・シャーマンは、ついにその最後の、そして最も厄介な切り札を切った。
「ギ…!グルガ…!ジャアアアアアアアアッ!!」
シャーマンは、それまでの命令を下すための甲高い声とは違う、呪詛を吐き出すかのようなおぞましい絶叫を上げる。
そして、手に持っていた骨の杖を力任せに地面へと突き立てた。
ドンッという地響きと共に、杖の先端にある頭蓋骨の眼窩が、不気味な病的な紫色の光を放ち始めた。
その光は波紋のように洞窟全体へと広がり、一つの巨大な魔法陣を地面に描き出す。
視聴者D: 「なんだ!?新しい魔法か!?」
視聴者E: 「やべえ、これデバフ系のスキルだぞ!」
経験豊富な視聴者たちが、警告の声を上げる。
だがその警告よりも早く、紫色の波動は隼人の体を完全に捉えていた。
「くっ…!?」
隼人の体が突如として、鉛を飲み込んだかのように重くなった。
これまで移動速度アップのブーツのおかげで羽のように軽やかだった足が、まるで泥沼に囚われたかのようにまとわりつく。
長剣を振るう腕も、水中のように凄まじい抵抗を感じる。
視界の隅に、忌々しいデバフアイコンが表示されていた。
『衰弱の呪い』: 移動速度-30%、攻撃速度-30%。効果時間30秒。
最悪のタイミングだった。
シールドを剥がし、これから一気に畳みかける、というまさにその瞬間に、この致命的なデバフ。
その絶好の好機を、シャーマンが見逃すはずがなかった。
「ギシャアアアアッ!」
シャーマンは、勝利を確信したかのように歓喜の奇声を上げた。
そして信じられない行動に出る。
彼は地面に突き立てていた骨の杖を引き抜くと、それをまるで原始人が使う棍棒のように両手で力強く握りしめた。
そして、自らその玉座から駆け下り、動きの鈍った隼人へと殴りかかってきたのだ。
それはもはや、後方から魔法で攻撃する魔術師の戦い方ではない。
ただ生き延びるためだけ。
目の前の敵を叩き潰すためだけ。
知性もプライドも全てを捨て去った、ただの獣の捨て身の攻撃だった。
視聴者F: 「うわあああ!接近戦仕掛けてきた!」
視聴者G: 「JOKERさん動きが遅い!避けきれないぞ!」
コメント欄が悲鳴で埋め尽くされる。
シャーマンが振り下ろす骨の杖。
それはただの杖ではない。
レベル5のボスモンスターが、その全霊を込めて振るう凶器。
隼人はそれを長剣で受け止めようとする。
だがデバフによって彼の反応は、コンマ数秒遅れていた。
ガギンッという嫌な音と共に、長剣が杖の猛攻を受け止めきれず弾かれる。
がら空きになった彼の肩口へ、シャーマンの骨と皮ばかりの拳がめり込んだ。
「ぐっ…はっ…!」
凄まじい衝撃。
肩の骨が軋む音を立てた。
だが、悪夢はそれだけでは終わらない。
隼人が体勢を崩したその隙を、これまで彼の圧倒的な力の前にただうろたえることしかできなかった強化ゴブリンの生き残りたちが見逃さなかった。
「グギャッ!」
「ギギッ!」
背後から、側面から、数体のゴブリンが最後の好機とばかりに一斉に隼人へと襲いかかる。
それは再び絶体絶命の乱戦だった。
前には捨て身の猛攻を仕掛けてくるボス。
後ろには憎悪に満ちた雑兵たち。
そして彼の体は呪いによって思うように動かない。
視聴者H: 「ああああああ!完全に囲まれた!」
視聴者I: 「まずいまずいまずい!これは死ぬぞ!」
誰もが、彼の敗北を、その「死」を覚悟した。
だが、その絶望的な状況下で、
神崎隼人の口元には笑みが浮かんでいた。
それは獰猛で不敵で、そしてどこまでも楽しそうなギャンブラーの笑み。
(…面白い)
彼は心の底からそう思っていた。
(これだ。これだよ。これくらいリスクがなくっちゃあギャンブルは面白くねえんだよ!)
彼の瞳の奥で、最後のそして最強の切り札が、静かにその輝きを増していた。
彼のユニークスキル。
【運命の天秤】が、今静かに傾き始めていた。
絶望。
神崎隼人の視界に映る光景は、その一言で全てを表現できた。
【衰弱の呪い】によって、彼の体はまるで分厚いタールの中に沈められたかのように重く鈍い。
自慢の移動速度は見る影もなく、長剣を振るう腕も、もはや思うように上がらなかった。
前方には知性を捨て獣と化した【ゴブリン・シャーマン】が、骨の杖を狂ったように振り回している。
その一撃一撃は、無職である彼の脆弱な防御力とアメ横でかき集めたガラクタの防具がなければ、即死していてもおかしくないほどの凄まじい質量を伴っていた。
そして彼の背後や側面からは、生き残った強化ゴブリンたちが、ここぞとばかりにその汚らしい武器を、彼のわずかな隙間へと叩き込んでくる。
彼のHPバーは、じりじりとしかし確実に、その赤い領域を広げていた。
視聴者A: 「ああああもうダメだ…!」
視聴者B: 「完全に動きを封じられてる…!」
視聴者C: 「JOKERさん回復薬は!?持ってないのか!?」
視聴者D: 「無職の掟を忘れたのか!回復薬をケチるなって!」
コメント欄はもはや悲鳴と絶望、そしてわずかな叱咤の声で埋め尽くされていた。
誰もが、この新人離れしたあまりにも鮮烈なデビューを飾った配信者の、最初にして最後の瞬間を覚悟していた。
だが。
その絶望のまさにその中心で、
神崎隼人の心は、不思議なほど静かに、そしてどこまでも冷徹に研ぎ澄まされていた。
痛みも疲労も、死の恐怖すらも、今の彼にとっては思考をクリアにするためのただのノイズでしかなかった。
彼はギャンブラーだった。
そしてギャンブラーとは、場の流れが最悪であればあるほど、相手が勝利を確信すればするほど、その真価を発揮する生き物なのだ。
彼のギャンブラーとしての「眼」が、目の前で勝利の雄叫びを上げながら猛攻を仕掛けてくるゴブリン・シャーマンの、その魂の奥底を見抜いていた。
(…見えた)
隼人は確信した。
シャーマンのその捨て身の攻撃、それは力の誇示ではない。
恐怖の裏返しだ。
それはかつて彼が、裏社会の高レートのポーカーテーブルで対峙したある男の姿と完全に重なって見えた。
あの男もそうだった。
テーブルの上にはありったけのチップが山のように積まれている。
彼は最強の役が揃ったと豪語していた。
だが隼人には見えていたのだ。
チップを積み上げるその男の指先が、テーブルクロスに隠れるか隠れないかのそのギリギリの場所で、ほんのわずかに小刻みに震えているのを。
あれは自信の現れではない。
恐怖の発露だ。
最強のブラフは、常に最大の恐怖心から生まれる。
今のこのゴブリン・シャーマンも全く同じだった。
その狂乱の奥に隠された致命的な「癖」。
骨の杖を握るその指先に力が入りすぎている。
杖を振り回すその軌道が怒りに任せているようで、その実隼人の左腕…【万象の守り】だけを巧妙に避けようとしている。
そして何よりも、その知性的な瞳の奥。
そこには、決して隠しきることのできない色濃い「焦り」と「恐怖」の色がべったりと張り付いていた。
なぜこいつは焦っている?
なぜこいつは恐怖している?
答えはあまりにも明白だった。
俺が奴の唯一のイカサマの種…【エナジーシールド】のカラクリを見破ってしまったからだ。
もう奴には、俺を確実に殺せるカードは残されていない。
この捨て身の猛攻も全ては、俺をこの場に釘付けにし、あの忌々しい10秒というシールド回復の時間を稼ぐための、最後のそして最大のブラフなのだ。
(…だがもう遅いんだよ)
勝負はもうついている。
隼人は動いた。
隼人は背後から迫るゴブリンの一撃をあえてその背中に受けた。
「ぐっ…!」
衝撃で前のめりになるその勢いを、彼は殺さない。
彼はその力を全て前進する推進力へと変換した。
デバフで重くなった体を無理やり引きずりながら、彼はシャーマンとの距離をゼロにした。
シャーマンがそのあまりにも予測不可能な動きに、驚愕の表情を浮かべる。
隼人はシャーマンが防御のために振りかぶった骨の杖を、長剣で真正面から受け止めた。
キイイイインッ!!
凄まじい鍔迫り合い。
火花が散る。
互いの吐息がかかるほどの至近距離。
隼人は恐怖に歪むシャーマンの瞳を真っ直ぐに見据えた。
そして彼はその口元に、最高に獰猛で美しい、勝利を確信したギャンブラーの笑みを浮かべた。
「イカサマの種さえ分かれば、もう怖くはねえんだよ」
その声は静かだったが、シャーマンの魂を直接握り潰すかのような絶対的な響きを持っていた。
「俺はここに命をオールインするぜ?」
隼人の瞳が爛々と狂気の光を放つ。
「――そっちはどうする?」
その全てを見透かし、全てを嘲笑うかのような悪魔の問いかけ。
それがゴブリン・シャーマンのかろうじて保っていた王としての知性の、最後の糸を完全に断ち切った。
「ギシャアアアアア!」
もはやそれは呪文でも威嚇でもない。
ただの意味のない恐怖と絶望が入り混じった断末魔の金切り声だった。
シャーマンは全ての防御を捨て、知性のかけらもないただの獣の最後の一撃を、その骨の杖を力任せに振りかぶるという、あまりにも愚かな一撃を放ってきた。
ゴブリン・シャーマンが最後の全てを賭けて放った捨て身の一撃。
それはあまりにも単調で予測しきった敗者の攻撃だった。
隼人は、その怒りと恐怖だけに支配された大振りの一撃を、最小限の動きでひらりとかわした。
まるで熟練の闘牛士が、猛牛の最後の突進を赤い布で優雅にいなすかのように。
シャーマンの骨の杖が空しく空を切る。
そして、そのがら空きになった心臓部。
そこに隼人は、彼の勝利を決定づける渾身の一撃を叩き込んだ。
彼のユニークスキル【運命の天秤】が脈動する。
それは目に見える力ではない。
ただ世界の確率を、彼の勝利へと、ほんのわずかにしかし確実に傾ける神の見えざる手。
彼の渾身の一撃が、ありえないほどのクリティカルヒットとして、シャーマンのただ一点の急所へと深々と突き立てられた。
ズグシャアアアッ!!!
これまでとは比較にならないほどの重く、そして確かな手応え。
肉を断ち、骨を砕き、そしてその生命の源流たる心臓を確かに貫いたという絶対的な感触。
「ギ…ア……」
ゴブリン・シャーマンの知性的な瞳から光が急速に失われていく。
その体はひときわ強く、そして美しいまばゆい光を放ち始めた。
それはまるで小さな超新星爆発。
ボスモンスターがその存在を、この世から抹消される最後の輝き。
シャーマンが完全に光の粒子となって霧散したその瞬間、
巣にいた残りのゴブリンたちの体を覆っていた狂気の赤いオーラが、まるで嘘のように晴れていった。
彼らは我に返ったように、目の前で起こった信じられない光景と、
傷だらけで血塗れになりながらも仁王立ちする隼人の姿を見て、本能的な恐怖に支配された。
「ギ…!」「ギギッ!」
彼らは意味のない悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすように洞窟の暗闇の奥深くへと逃げ出していった。
しんと。
あれほど喧騒と狂気に満ちていた広大な巣の中に、
勝者である隼人の荒い、しかし確かな息遣いだけが響き渡っていた。
彼は傷つき、消耗しきっていた。
HPバーはもはや赤く点滅し、いつ意識を失ってもおかしくない状態だった。
だが、その心は、これ以上ないほどの達成感と、勝利の陶酔に満ちていた。
勝ったのだ。
この絶望的なテーブルで、俺は勝ったのだ。
やがて、シャーマンが完全に消え去ったその玉座があった場所に、
これまでのゴブリンのドロップとは比較にならないほどの豪華な戦利品が、後光が差すかのようにゆっくりと出現した。
ひときわ大きく、そして濃い紫色の輝きを放つ【ゴブリン・シャーマンの魔石】。
そして、赤青緑とそれぞれの色で微かな光を放ついくつかのスキルジェム。
さらに、その中央には一つだけ禍々しくも美しい、ユニークな形状をした血のように赤い石が、妖しくはめ込まれた首飾りが静かに横たわっていた。
それは、彼がこの死闘のテーブルで勝ち取った、あまりにも大きな「配当」だった。
隼人はその宝の山を前に、満足げに息を吐いた。
そしてARカメラの向こうで熱狂し、彼の名を神のように連呼する数千人の観客たちに向かって、こう言い放った。
その声は勝者の余裕と自信に満ち溢れていた。
「――賭け金は総取りだ」




