エピローグ
八月も終わりの頃、イズミの部屋。
「ダーシェンカ、もう終わった?」
扉の外から掛けられたイズミの声に、ダーシェンカは「あと少しだ」と返す。
(そう、あと少しだ……)
ダーシェンカは目の前の鏡を覗き込みながら、どこか寂しげに心のうちで呟いた。
そんな寂しげなダーシェンカの呟きとは裏腹に、鏡の中にはめかしこんだダーシェンカの姿があった。
しなやかな亜麻色の髪は結いあげられ、体は清廉さを感じさせる浅葱色の浴衣に包まれていた。顔には薄く化粧が施され、ダーシェンカの美しさを普段よりもいっそう際立たせていた。
化粧や着付けのような知識はダーシェンカには備わっていなかったのだが、雪から教わった――というより教え込まれたのだが。
ヴェルナールとの戦いのあと、幸也と雪は騒動などの事後処理をこなし、あっという間に“表”の仕事の都合で海外へと旅立っていった。
旅立つ数日ほど前に雪がダーシェンカに「どうしても教えておかなければならないことがある」などと真剣に言うものだから、ダーシェンカは思わず身構えてしまったのだが、蓋を開けてみればなんてことはない。
「もうすぐ夏祭りがあるから、おめかしの仕方を覚えなさい」
ということだった。
かくしてダーシェンカは縁のなかった化粧の仕方と浴衣の着方を叩き込まれ、夏祭り当日の今日に至っているというわけだ。
「変じゃ、ないよな?」
ダーシェンカは体を動かし、帯の結び方や髪の結い方を再度確認する。
(うん。どこもおかしくない)
とは思うものの、表情は優れなかった。
「あと、少しだな。本当に」
ダーシェンカは手を握ったり開いたりしながら自嘲気味に呟いた。
「ダーシェンカ、まだ時間掛るなら下で待ってるよ?」
「あぁ、すまない。もう済んだよ」
ダーシェンカは顔に浮かんでいた影をサッと隠し、扉を開ける。
そこには、現われたダーシェンカの姿に呆けているイズミの姿があった。
ダーシェンカとは対照的にイズミはジーンズにTシャツという、ありふれた格好だった。
もっとも、Tシャツから覗く、ヴェルナールとの戦いで出来た傷跡の数々はありふれたとは言い難かったが。
「どうした? 呆けた顔をして。そんなに似合っているか?」
ダーシェンカは痣の心配を口にしようとしたのだが、そんなことはいつもしているので今日ばかりはと、からかうような笑みをイズミに向けた。
「う、うん。想像以上に、似合ってるよ」
イズミは若干夢見心地な調子で呟く。
「フフ、そうか。ありがとう」
ダーシェンカは柔らかな笑みを浮かべ、イズミの脇を通り過ぎる。
「ほら、行くんだろ? 夏祭り」
ダーシェンカは振り返り、動かないイズミに微笑みかける。
「あ、あぁ、そうだね。早く行かないと道が混み出しちゃうね」
イズミは頬を赤らめながら言い、ダーシェンカの横に並んだ。
* * *
「思った以上に、混むんだな」
ダーシェンカは道行く人々を避けながら、不愉快そうに眉をよせた。
道行く人達は皆ダーシェンカに一度は視線を向けるのだが、幸か不幸か傷だらけのイズミが幸いして、ナンパの類は一度もなかった。
「これくらいはまだマシだよ、あと一時間もすればこの倍になるよ」
しかめっ面のダーシェンカとは対照的に、イズミの顔は楽しげだった。
イズミの街で毎年夏に行われる夏祭りは、地元企業や商店街がスポンサーとなって行われる地元民しか訪れないようなささやかなモノなのだが、それでいて祭りの最後に打ち上げられる花火はなかなか見ごたえのあるものだった。
イズミとダーシェンカは人混みを縫いながら、出店が立ち並ぶ場と打ち上げ会場とを兼ねているグランドに向かっていた。
時刻はまだ花火打ち上げ開始二時間前の午後六時だというのに、グランドへ向かう道は家族連れやカップルなどで賑わっていた。
(僕とダーシェンカも恋人に、見えるのかな?)
イズミは横を通り過ぎて行ったカップルに視線をやりながら、ふと考えてしまう。
(いや、ないないない。どうせ留学生を案内してるホストファミリーだよ、せいぜい)
イズミは頭を軽く振り、思い浮かんだ想像を排した。
の、だが。
不意にイズミの右腕が少しだけ重く、そしてほんのりと温かくなった。加えて言うならば少しだけ痣も痛んだのだが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。
「こうも人が多くては……はぐれてしまう」
ダーシェンカが不愉快そうに眉を寄せながら、イズミの腕にその細い腕を絡ませていた。
「う、うん、そうだね」
イズミはダーシェンカの行動に動揺を覚えつつも、冷静に言葉を返した。顔が赤くなるのは止められなかったのだが。
イズミは火照り出した顔をダーシェンカから背け、ゆっくりと歩き続ける。人混みは好きではないが、ゆっくりと歩く大義名分をくれるなら、少しだけ好きになれそうな気がした。
我知らず口元を綻ばせ、イズミはダーシェンカの顔をチラと盗み見る。
瞬間。ダーシェンカも同じことをしていたのか、二人の視線がぶつかり、即座に逸らされた。
「お腹、空いたな……」
「そ、そうだね。夜店で何か買おうか」
顔を赤らめながら呟いたダーシェンカに、イズミは頬を掻きながら応じる。
ヴェルナールとの戦いの前と後では明らかに違う、二人の距離感。関係性とも言い換えられるそれを、イズミもダーシェンカもなんと形容すればいいか判断できずにいた。
違う。判断したくなかったのだ。このあやふやな、それでいて心地いい関係を壊したくなかったから。二人がそれぞれ違う言葉で形容してしまえばいともたやすく壊れてしまうそれを、手放したくなかったから。
二人はそんな薄暗い不実を胸の内に抱えながら、祭りの夜に繰り出して行った。
胸に抱く感情に関係なく、祭りは二人をもてなしてくれた。
二人は射的やら金魚すくいやら日本の夏祭りの基本をおさえながら出店をいくつか回った。そのあとはダーシェンカの気の向くままに食べ物類のお店を回った。イズミよりもダーシェンカの食べ物の方が三倍は多かったのだが、慣れっこのイズミは特に突っ込まなかった。
焼きそばの屋台を出していたおばちゃんに「買い出しかい? 大変だね」などと言われたとき、ダーシェンカは笑顔で「はい。人数が多くて大変なんです」などと答えていたのだが、そのときはさすがのイズミも「一人で食べるんでしょ」と突っ込みたくなった。が、
ぐっと堪えた。
そしていま、イズミは両手に焼きそばや大判焼きなどが入ったビニール袋をぶら下げ――そのほかにちっぽけな覚悟も胸に抱いて――ながら階段を上っていた。
「おいイズミ、花火の打ち上げはグランドなんだろ? どうしてわざわざ離れた神社に向かうんだ」
ダーシェンカは不思議そうにイズミを見つめた。
「花火は適度な距離で見るのが一番なんだよ。それに、ダーシェンカ嫌いだろ? 人混み」
――それに人がいないほうが都合がいい、と密かに胸の内に呟きながら、イズミは微笑んだ。
「まぁ、人混みは好きではないが……」
「ほら、もう着いたよ」
唇を尖らせるダーシェンカに、イズミは優しく微笑みかける。
登りついた先は、薄暗く、本当に人気のない神社だった。人がいないのは結構なのだが、周りを背の高い針葉樹に囲まれているせいで、花火など見えそうになかった。
「これでは、花火など見えないのではないか?」
ダーシェンカは怪訝な視線をイズミに向ける。
だがイズミはそんな視線を意に介す様子もなく肩をすくめ、微笑んだ。
「花火が簡単に見られそうだったら人がたくさん集まっちゃうでしょ? だからここは穴場なの。付いてきて」
イズミはそう言うと、堂の裏の林にズイズイと足を踏み入れていく。
ダーシェンカは一瞬首を傾げたのだが、仕方なくイズミの後に続いた。
「これは……凄いな」
ダーシェンカは林を抜けた先に広がる光景に、そんな呟きを洩らした。
それを聞いたイズミは得意そうに微笑む。
堂の裏は切り立った崖になっており、そこからは花火の打ち上げ会場だけでなく、街全体を見渡すことが出来た。
日の落ち切った暗闇の中に、人家の明かり達が瞬いている。百万ドルの夜景とは比べ物にならないが、これはこれで温かみのある光景だった。
花火を見物するにしても、間引かれた切り株などがあり、座る場所にも事欠かない。
「あ、あそこに座ろうか」
イズミは少し我慢すれば二人で座れそうな切り株をを見つけ、そこに腰を下ろす。
ダーシェンカもイズミに続いて腰をおろした。
イズミは切り株に腰をおろし、ぼんやりと街並みを見渡した。
一軒一軒の家の明かりを見つめながらも、イズミの頭の中には様々なものが渦巻いて、景色を見るような余裕はなかった。
ただひたすら、胸に去来すものを反芻し、反芻し、反芻する。
ややの沈黙ののち。
「……こうして平穏に過ごしてるとさ、ヴェルナールとの戦いが夢だったんじゃないか、って思うんだよね、たまに」
イズミはうっそりと口を開いた。
視線は街並みに向けられたままで、表情は相も変わらず心ここにあらずといった風。
ダーシェンカはイズミのそんな横顔を眺めながら苦笑する。
「……残念ながら夢ではないな、現に私がいる」
「まぁ、そうなんだけどさ」
イズミは初めて街並みから視線を外し、ダーシェンカの苦笑に苦笑を返した。
自信なさげな、それでいて不快ではない、人好きのする苦笑。
「ヴェルナールとの戦いが夢であったら、とは思うけど、僕はダーシェンカと出会えたことには心から感謝してるよ。僕はキミと出会えて本当に良かったと思ってる」
イズミははにかんだ笑みを浮かべながら、言う。
ダーシェンカはその言葉に息を呑み、嬉しそうな表情を浮かべ――たのも束の間。その表情はすぐさま曇り、苦々しい表情でに襟を手で握りしめる。
「……寿命を、削ったとしてもか?」
ダーシェンカは伏し目がちに問うた。
理解する。今がそのときなのだと。自らのうちにあった不実と向き合わなければならないときなのだと。
あたたかな、魔法のような時間の、終わりなのだと。
ダーシェンカはギュッと目を閉じた。これから訪れる未来を想像し、胸のうちが掻き乱される。他でもない、自分自身の心によって。
分かっていたことだ。覚醒したネクロマンサーに、リビングデッドは必要ない。最初からそれを知った上でこの道に足を踏み入れたハズだ。ネクロマンサーを利用するだけ利用する、そんな心積もりのはずだった。
だというのに、自分はそれをしなかった。
なぜ? そんな問い、立てるのも愚かしかった。
自分はイズミのことを――。
その先の言葉は努めて思い描かなかった。思い描けば今度こそ、耐えられなくなってしまうから。心の中で暴れる気持ちを言葉にしてしまいそうだったから。
「寿命なんか、関係ないよ」
暗闇の中で、ダーシェンカはそんな言葉を聞いた。自分の願望が聞かせた幻聴かと思った。
けれど。
「目を開けてよ、ダーシェンカ」
そっと、自分の肩にイズミの手が乗せられるのを感じる。
感覚のないはずの自分がそう感じるのはひょっとしたら、イズミの感覚のせいなのかもしれない。肩に乗った手は、とても温かい、いいや、熱いくらいだった。
ダーシェンカはゆっくりと目を開ける。
イズミがまっすぐ、自分の瞳を見つめている。いつもは頼りなさそうな瞳なのに、このときの瞳は、とても力強かった。
まるで、自分を庇ったときと同じような。
「僕は、キミのことが……好きだ」
イズミはダーシェンカの瞳をまっすぐ見つめ、言った。
その言葉に、ダーシェンカの双眸から温かいものが溢れだす。止めどなく、ただひたすらに。
その姿に、先ほどまでの表情が嘘のようにイズミが慌てだし、おずおずとポケットからハンカチを取り出して差し出す。
「あ、あの、ぼ、僕……ごめん」
イズミはハンカチを手渡しながら、それだけ言った。
「い、いや、謝ることじゃない……私は、嬉しくて泣いたんだ。きっと」
ダーシェンカは溢れ出る涙を拭うことも忘れ、手渡されたハンカチをぎゅっと握りしめる。
「じゃ、じゃあ」
「でもそれは駄目だ」
何かを言いかけたイズミを、ダーシェンカがキッと鋭い視線で制す。溢れ出る涙はそのままに。
「どうしてっ……!」
ハッキリと拒絶の意思を表示したダーシェンカに、イズミは顔を歪めた。今にも泣き出しそうな表情で。
「イズミには、これから明るい未来が待っている。その未来に……私は必要ない」
ダーシェンカはそう言うと、寂しそうに微笑んだ。
自分の感情を必死に押し殺し、ただひたすらに、イズミのことを想いながら。
「どうして……どうしてそんなこと言うんだよ」
イズミは視線を落として言った。その声は震えていた。悲しみに、あるいは怒りに。
「私がイズミと一緒に居るためには、イズミの寿命を削らなければならない……そんなことは、嫌だ」
「じゃあなんで嬉しくて泣いてるんだよ……嬉しいなら、僕と一緒に居てくれていいじゃないか」
「それは……駄目だ。嬉しいから、駄目なんだ」
ダーシェンカは駄々をこねる子をあやすように、優しい声音で言う。
「分からないよっ! そんなの!」
イズミは顔を上げ、腕を振るった。その瞳にはジワリと涙がにじんでいる。
「僕は……きちんと考えて答えを出したんだ。寿命が縮んだって構わない。僕は、僕はキミと一緒に居たいんだ、ダーシェンカ」
イズミはすがるような思いで、言葉を振り絞る。
それでもダーシェンカはゆっくりと首を横に振る。
「その気持ちだけで、私は安らかに逝ける。リビングデッドとしてではなく、人として」
ダーシェンカはそこで初めて涙を拭い、微笑んだ。寂しそうにではなく、どこか満ち足りた微笑みだった。
「一緒に背負ってくれるって言ったじゃないか、罪を」
「すまない。あれは……嘘だ」
「初めから、このつもりだったの?」
「……あぁ」
ダーシェンカはイズミから顔を背ける。
「そう。分かった……なら、いいよ」
イズミが引き下がるのを感じたダーシェンカは、再び視線をイズミに戻し。
唇に、熱いものが押し付けられるのを感じた。
それがイズミの唇だと気付くのに五秒。イズミの左手がその心臓の上に添えられていることに気付くのにもう三秒。それが何を意味するか気付くのにさらに三秒。
気がつけばものの十秒もの間、そうしていた。
「ば、ばかっ! 何をしている!」
ダーシェンカは慌ててイズミを突き飛ばす。
加減はしたつもりなのだが、イズミは思い切り背後の木に叩きつけられていた。
「何って……エーテルの補充を」
イズミは打ちつけた背中をさすりながら、悪びれる様子もなく言う。
「気付いて……いたのか?」
ダーシェンカは微かに残った唇の感触を思い出すかのように、手を唇に添えていた。
「気付かないはずがないだろ。僕とキミは繋がってるんだから……だから、キミが死ぬ気なんじゃないか、っていうのも薄々気づいてた」
「ならどうしておとなしく死なせてくれなかった! どうして! どうして……こんなことを」
ダーシェンカは言いながら、ぼろぼろと涙をこぼす。
「最初は分からなかった。どうすべきなのか。キミを死なせてあげるのが正しいんじゃないか、なんて考えもした」
「ならどうして!」
「嬉しいって、言ったから。キミが、嬉しいから泣いたって言ってくれたから」
イズミは静かに、それでいてよく通る声で言った。
「キミが僕と居たいって思ってくれてるなら、僕はどんなことをしてでもキミと一緒に居る道を選ぶよ、ダーシェンカ」
「私は……リビングデッドなんだぞ? 道具なんだ、ネクロマンサーの。それも、覚醒したキミにとってはもう必要のない」
ダーシェンカは自分の肩を抱きしめ、イズミから視線を逸らす。
「確かに、そうなのかもしれない。けど、だからって……人間としてのキミが必要ないってことにはならない。絶対に」
イズミはダーシェンカに歩みより、その肩に手を添える。
「僕とずっと一緒に居てよ、ダーシェンカ」
ズイと向けられたその視線にたじろぎながらも、ダーシェンカは目を逸らすことが出来なかった。
しばらく見つめあったのち、ダーシェンカはゆっくりと首を縦に振った。
「私は……イズミと一緒に居たい。ずっと」
ダーシェンカは泣きだしそうな顔で言った。
その瞬間。夜空にいくつもの花火が瞬き始めた。轟音が二人のほかには誰もいない神社に木霊する。
花火の明かりが二人の顔を映し出すなか、どちらからともなく、イズミとダーシェンカは唇をそっと重ねた。
それは、今までのどんなキスとも違う、なんの意味もない、それでいて重大な意味が籠ったキスだった。
fin