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第4章 群衆の預かり知らぬところで、物語は帰結に向かう(2)

 奇襲当日、朝。

 イズミ達は病院のロビーに集合していた。

 病院のロビーとは言っても、違法・無許可というだけあって、一般の病院とは異なり、オフィスビルと同じような様相だった。

 ブロンズで出来た幾何学的な彫像や、観葉植物がポツリと一つ置いてあるだけで、他には上に上がるエレベーターと外に出る自動ドアしかない。

「それじゃ、行ってくる」

 イズミは横に並んだダーシェンカとともに、両親とキリコに向かって軽く頭をさげた。その口調は、学校に行くときに交わすモノとなんら変わらない。

 普段の表情と変わらないイズミに対して、送り出す者達の顔はどこか重々しかった。

 あの常にどこか飄々とした雰囲気を醸し出している幸也でさえ、口を固くつぐみ、押し黙っていた。

「気をつけて、行ってくるのよ」

 雪はイズミとダーシェンカを交互に見やり、どこかぎこちなさを感じさせる微笑みを浮かべた。

 イズミは雪の言葉に黙って頷くと、踵を返し、外に歩み出る。ダーシェンカもそれに続いた。 


「……しっかし、よく黙ってられましたね。幸也さん」


 二人の姿が見えなくなったのを確認したキリコは息を吐き出し、隣に立っている幸也を見上げた。

 キリコの視線を受け止めた幸也は真剣な表情を崩し、肩をすくめ苦笑した。

「余計なことは言うなっていう母さんの命令なんだから仕方ないさ」

「私は別に一言も口を聞くなとは言ってませんよ? 何か思いつかなかったんですか? 息子に掛ける言葉」

 雪は呆れ果てたとばかりに深いため息を吐き出す。

「考えてはみたけど……出てこなかった」

「だと思いましたよ。どうせ思いついたのは下らない言葉ばかりでしょうしね」

 雪はお手上げのポーズをする幸也に、肩を落としながら微笑み、続ける。

「まぁ、言葉を掛けようが掛けまいがあの子たちはやると信じてますけどね」

 イズミ達が歩いていった方向を遠い目で見ながら、雪はポツリと呟いた。

「でなかったら、母さんがヴェルナールを始末しに行きそうだもんね」

「えぇ、当然です。誰がなんと言おうと、ね」

 雪は悪戯な微笑みを浮かべながら呟いた。

 そんな雪の言葉に、幸也とキリコは顔を見合わせ苦笑した。

 雪は、こう言ってるも同じなのだ。

 たとえ魔術師全てを敵に回しても息子を守る、と。

 それを思えば、必死に自衛の手段を身につけたイズミはなんと親孝行なのだろう。

「まったく……最高に恐ろしくて面白い夫婦ですよ、あなた達は」

 キリコは肩をすくめながら呆れたように微笑んだ。


 * * *


 眼前にそびえ立つ巨塔を前に、イズミは固い唾を飲み込んだ。

 なんてことはない、市街を歩けばなんとなく視界に入り、単なる一風景としか映らないちょっとした高級ホテルだというのに、今のイズミに対しては重々しさすら感じさせた。

 ヴェルナールがいるという、ただそれだけの理由で。

「気負う必要はない。訓練したとおりにやればいい」

 表情を固くするイズミに、ダーシェンカは優しく微笑みかける。

 相も変わらずダーシェンカは体中包帯だらけだったが、目をとめるものは誰ひとりとしていない。

 それはまさしく、ヴェルナールが健在ということの証左。

 それを再認識しながらも、イズミは柔らかい笑みをダーシェンカに返す。

「分かってる。しくじる訳にはいかないからね」

 イズミはそう言うと、ホテルの最上階を見上げた。

 あそこにヴェルナールがいるということは、幸也達の調査で確認済みだったのだが、イズミは自分の力でそれを確認した。

 エーテルを周囲に飛散させ、レーダーの役割を果たさせるという能力。訓練のさなかで付随的に身につけたものだったが、これが案外役に立つ。

 半径三百メートル圏内なら、特定の人物を探し出すことができる。もっとも、イズミの力では、特殊なエーテルを纏う魔術師の類しか探り当てられないのだが。

「急ごう。弱ってるとは言っても、ここまで近づいてしまえば、ヴェルナールも勘付くだろう」

 ダーシェンカの言葉に頷いたイズミは、しっかりとした足取りで、ヴェルナールが待ち受けるホテルに足を踏み入れた。

 ホテルのロビーは平時と変わらず、宿泊客や従業員がせわしなくいきかっていた。

 イズミとダーシェンカはその中を、少しだけ警戒しながら進んでいく。だが、周囲の人間たちは、街中の人々と同じように、イズミとダーシェンカを不自然に避けるだけだった。

「父さんの、言った通りだね」

 周囲の人間を横目に見ながら、イズミは呟く。

 幸也の見立てでは、ヴェルナールは余計な小細工はしてこないということだった。向こうとしても役に立たないモノのために無駄なエーテルは消費したくないということなのだろう。

「そうだな。だが、油断しない方がいい」

 ダーシェンカはエレベーターのスイッチを押しながら、険しい表情で呟く。

 ゆっくりと、エレベータの扉が開いた。

「シューティングゲームとかだと、エレベーターからゾンビが飛び出してきたりするんだけどね」

 イズミはエレベーターからゆっくりと降りてきた人の好さそうな老夫婦を見やり、苦笑した。

「そんな冗談が言えれば上出来だな。あとは、ヴェルナールの部屋までエレベーターが無事にたどり着くことを祈ろう」

 ダーシェンカはエレベーターに乗り込みながら苦笑を返した。

 イズミもダーシェンカに続き、エレベーターに乗り込む。

 そして、十階のボタンを押した。

 ヴェルナールがいる階はそれよりさらに上の十三階なのだが、十階より上のスウィートルームがある階に行くためのボタンは付いていない。十階でエレベーターがいったん停止した時に、コンソールにパスコードを打ち込むことで、それより上の階に行けるという仕組みになっている。

 無論、幸也の手引きの元、パスコードは入手済みだ。

 そこまで手伝っても大丈夫なのか、という疑問は当然浮かんだのだが、幸也曰く「ヴェルナールから助けてしまったことと比べたら、大したことはない」だそうだ。

 そんな幸也の取り計らいに感謝しているうちに、エレベーターは十階で一旦停止する。

 イズミは教えられたとおりのパスコードをコンソールに入力した。特にエラーが出ることもなく、エレベーターは再び上昇し始める。

「それじゃ、予定通りに」

 イズミはダーシェンカに向かって言うと、瞼を閉じた。

 ダーシェンカもイズミに習う。

 精神を極限まで集中させ、二人の間にあるエーテルの繋がりを認識する。その繋がりにさらに意識を集約させていく。

(繋がった……!)

 イズミが心で叫び、目を開けるのと、ダーシェンカが目を開けるのは、寸分違うことがなかった。

 開けた視界は、これまでと一変している。二人が見ている光景は、まだ大差のないものだからそれほど違和感はないのだが、視野が格段に増しているというのは確かだった。

 イズミはそれを確認しながら、今度はエーテルの可視領域を調節する。高すぎてもダーシェンカの視野を阻害するだけだし、低すぎてもなんの役にも立たない。絶妙なさじ加減が要される作業だったが、イズミは難なくそれをこなす。

 エレベータの扉の外にいる人間の位置さえも、大まかではあるが分かるようになった。

 そうして、エレベーターは目的の十三階に停止した。

 チーン、とスウィートルームには釣り合わない音が鳴り響き、扉がゆっくりと開く。

 扉が開くと同時に、ダーシェンカが力強く飛び出した。

 視界が激しく揺れ動くが、訓練で耐性を付けたイズミは慌てなかった。

 ダーシェンカとは対照的に、ゆっくりとエレベーターを降りる。

 そして、ゆっくりと、忌々しいモノを見る視線を、対象へと向けた。

「おやおや、礼儀知らずな御客人だ」

 繰り出されたダーシェンカの回し蹴りをバックステップでかわしたヴェルナールは、さして慌てる様子も見せずに呟いた。慌てる様子がないどころか、その佇まいには余裕すら感じられる。

 ヴェルナールに回し蹴りをかわされたダーシェンカは素早く飛び下がり、イズミの横に戻る。

「自分の命を狙うようなヤツに礼儀を通せるほど、心が広くないのでね」

 ダーシェンカが戻った事を確認したイズミは一歩前に踏み出し、不遜な笑みを浮かべた。

 本来ならば口もきかずに状況把握に努めたいイズミではあったが、多少なりとも牽制の意味を込めて口を開いた。

 前回の戦いよりは格段にイズミの能力が向上しているとはいえ、ヴェルナールの実力が上回っているという事実は揺るがない。

 それを補うために、多少のブラフは必須だった。

「ずいぶんといいお部屋にお住まいじゃないか。あなたには薄暗い地下墓所カタコンベがお似合いだと思うが?」

 イズミは悠然と部屋を見渡しながら肩をすくめた。

 事実、ヴェルナールの住まう部屋はあまりに豪勢だった。十一・十二階のスウィートルームとも異なり、十三階は、一階層まるまるがヴェルナールの部屋となっている。

 外に面したところは全面ガラス張りとなっているらしく、見晴らしもよさそうだった。もっとも、今は窓全てに遮光カーテンが張り巡らされており、室内を照らしているのは無機質な蛍光灯の光だけだったが。

「カタコンベは少々住み飽きてね。たまにはこういう陽気なトコロもいいだろうと思ってさ」

 ヴェルナールはイズミの安い挑発に乗ることもなく、ミイラじみた顔に苦笑を浮かべた。

「遮光カーテンを閉め切っといてよく言う。まぁ、どうでもいいか。とりあえず、あんたを殺さなきゃ、僕が殺されちゃうらしいんでね……その命、貰います」

 イズミは、感情を込めずに滔々と語る。

「ふん。こちらとしても、キミが来てくれたことはありがたい。何と言っても、不死殺しに挑む前に完璧な不老不死が手に入れられるのだからね」

 ヴェルナールはニヤリと笑い、手をゆっくりと掲げた。

 それに呼応し、部屋のあちらこちらから水晶玉が浮かび上がる。その数は、街で見せたモノの比ではなかった。

 イズミはその光景に少しだけ気圧されながらも、たじろぐ様子は微塵も見せなかった。ばかりか、無数の水晶玉に一瞥をくれ、あざ笑うように鼻を鳴らした。

(怖いくらい、予想通りの展開だ)

 イズミは胸中に呟き、水晶玉が飛びかかってくるのを待った。

 ヴェルナールは掲げていた腕をスッと下ろす。

 同時に、無数の水晶玉がイズミとダーシェンカ目掛けて飛来した。いや、正確には全て、ダーシェンカに向かっている。

「イズミ、頼む」

 ダーシェンカは回避動作を取ることもなく、ヴェルナールを見据えたまま呟いた。

 その言葉にイズミは黙って頷き、周囲に自分のエーテルを振りまいた。そして、水晶玉一つ一つのベクトルを修正する。

 イズミは払い落すでもなく、全ての水晶玉のベクトルを自分自身に書き換えた。

 全ての水晶玉がダーシェンカを避け、イズミに襲いかかる。止まる気配は、ない。

「なっ!? 馬鹿なっ!」

 ヴェルナールは目を見開き、慌てて水晶玉のベクトルを、ダーシェンカに再変更する。

 だが、ダーシェンカは水晶玉が自分の脇を通り抜けていくのと同時に地面を蹴り、ヴェルナールの眼前に迫っていた。

「馬鹿じゃないのか?」

 ダーシェンカはヴェルナールに向かって冷たく言い放つと、鋭い拳打をヴェルナールの左肩に叩きこんだ。

 ただの拳打とは言っても、リビングデッドの放った一撃となれば威力がまるで違う。

 それは、千切れ落ちたヴェルナールの左腕が証明している。

 ダーシェンカはヴェルナールにさらなる一撃を加えることもなく、そのまま前方に飛んだ。

 取り残されたヴェルナールに、無数の水晶玉が襲いかかる。そのすべてが、ヴェルナール自身がダーシェンカに仕向けたもの。

「くっ!」

 ヴェルナールは忌々しげに顔を歪め、残った右腕を振るって水晶玉を地面に払い落した。

「無様だな、ヴェルナール」

 イズミは体中から沸き起こりそうになる震えを必死に押さえつけ、払い落された水晶玉を睥睨しながら吐き捨てた。

 ギリギリのところで戦っていると悟られてはいけない。あくまで、淡々と圧倒しなければいけない。少なくとも、最初のうちは。

 イズミのして見せたことは至って簡単だ。ヴェルナールが最初にダーシェンカを潰しに掛ることは予想がついていた。だから、ダーシェンカの周囲にエーテルを多めに配置し、空間把握の精度を向上させた。

 あとは、その空間に入り込んできた水晶玉に込められたエーテルのベクトルを、地面にではなく、自分自身に向けるだけ。

 ヴェルナールも水晶玉が払い落されることは予想出来ても、イズミに変更されるとは予想できなかっただろう。

 だから、イズミを殺すわけにはいかないヴェルナールは慌てて水晶玉のベクトルを変更したという訳だ。

 ダーシェンカはその隙を逃さず、見事にヴェルナールの片腕を落として見せた。

 すべて、筋書き通り。

 幸也が役立たずと切って捨てたエーテルのベクトル変更ではあったが、使いようによっては役に立つ。

 例えば、エーテルのベクトル変更を基軸にヴェルナールに傷を負わせ、あたかもこれで勝負を乗り切る、と思わせたりするのに。

「……少しはやるようになったじゃないか。少年」

 イズミとダーシェンカに挟まれる形になったヴェルナールは、二人を交互に見やりながら呟いた。

「なに、簡単な詰将棋みたいなもんですよ」

 イズミは微笑み、肩をすくめた。

 そう。イズミがやったことは詰将棋に限りなく近かった。

 ヴェルナールの操る水晶玉は、一見すると自由自在に飛びかかって来るように見えるが、実際はそうではない。あらかじめ定められたコースに従い飛ぶのだ。途中で変更できるにしても、またコースを定めなければいけない。要は“少しだけ”便利な弾丸に過ぎない。

 だから、飛来するコースを数手先まで読み、コースを書き換えていけば相手に一杯食わせることもできる。

 幸也は笑いながら「まぁ、ちょっとだけデンジャラスなテニスだね」と言ってのけていたが。

 案の定ヴェルナールはイズミの球を返すことが出来ず、地面に落とすという選択をした訳だ。

「……まったく、私はキミを甘く見過ぎていたようだ。愚かしいな、本当に」

 ヴェルナールは顔を俯けて呟き、クツクツと喉を鳴らし始めた。その音は徐々に激しさを増し、高笑いの域に達する。

 その狂気じみた様に、イズミとダーシェンカは息を呑む。

 この展開も、予想通りではある。慢心を突かれて遅れを取ったヴェルナールが猛り狂うという展開。

 むしろそこからが真の意味でヴェルナールとの戦いなのだが、イズミは恐怖を感じずにはいられなかった。

「よかろう。殺すつもりでお相手しよう」

 ヴェルナールは俯けていた顔を上げた。そこにはもはや、なんの感情も宿っていなかった。

 ヴェルナールの言葉は、事態が幾通りか想定されたパターンの中でも最悪の部類に移行したことを示していた。

 ヴェルナールがイズミを殺傷することを厭わないとなれば、ダーシェンカを前面に押し立て、イズミは後方支援に徹するという理想の形が崩れてしまう。

 必然的にイズミは、傷を負った体を動かさなければならないということだ。

 最悪のパターンを想定しながら訓練してきたとは言っても、実際にヴェルナールを相手 に、どれだけ動けるのかという不安はあった。

「最初からそうこないから片腕を失うんですよ?」

 それでもイズミは心の中でのたうち回る恐怖を押さえつけ、あくまで不遜に言い切った。

 イズミが固めた覚悟は、こんなことで揺らぐほどちゃちなものではない。たとえ、恐怖が湧きおころうが、絶望が押し寄せようが、退きはしない。

「腕? あぁ、そういえば千切れ飛んでいたね」

 ヴェルナールは床に転がった自分の腕をつまらなそうに眺め、続けた。

「それに、無いのなら……造ればいいじゃないか」

 ヴェルナールは不敵に微笑んだ。

 ヴェルナールが微笑むと同時に、失った腕の部分にヴェルナールのエーテルが収束していく。

 ヴェルナールの闇を映したような漆黒のエーテルがみるみる腕を形作っていく。そしてソレは最終的に、質量を持った腕となった。

「……肉体、喚起」

 イズミは先程までと寸分違うことないヴェルナールの腕を見やり、呆然と呟いた。

 部分的に肉体喚起が出来るということは、幸也から前もって聞かされていたし、ヴェルナールがそれを使ってくることも想定はしていた。

 それでも、目の当たりにした衝撃は大きかった。なんと言っても、無から有が生まれる瞬間を目撃してしまったのだから。

「これで、片腕を失った失態はチャラだ」

 ヴェルナールは、感覚を確かめるためにか喚起した左腕をグルグルと回している。

「まぁ、魔術師に腕なんて不要なんだがね……!」

 ヴェルナールは怒りに顔を歪めながら吠えるように叫ぶ。

 叫ぶと同時に、部屋中に転がっていた水晶玉が跳ね上がり、イズミとダーシェンカに襲いかかった。その速度は、目視不可能な域まで達している。

 それでもイズミは慌てない。周囲に振りまいたエーテルで水晶玉の群れの動きを察知し、

コンマ以下の速度でベクトルを書き換えた。少し離れたダーシェンカに迫る水晶玉のベクトルさえも、変更してみせた。

「……コレはもう通じないと、言われなきゃ分からないんですか?」

 地面に余すことなく払い落した水晶玉を見やり、イズミは悠然と呟いた。

 不遜な口調はなんとか保つことができたが、額から流れ落ちる一筋の汗だけはどうにもならなかった。

 イズミが口にしたことは嘘ではない。水晶玉を何千何万と差し向けられようが、捌き切ることはできるだろう。だがそれと、なんの圧迫感を感じることもなく作業がこなせるかという話は別だ。

 ミスしなくなるまで訓練を積んでいようが、エーテルの書き換えにはプレッシャーが掛る。

「ほんの数日でここまで成長するとは……ネクロマンサーの覚醒とはかくも恐ろしいものなのか。だが、私の敵でないことには変わりない」

 ヴェルナールがニヤリと笑った。同時に、部屋中の水晶玉が再び浮かび上がる。

 先ほどまでと、なんら変わらない動き。それでもイズミは警戒を強めた。

 ヴェルナールのエーテルの質が変わったのだ。絶望すらも感じさせるような、重厚な漆黒。間違いなく、ベクトル変更し損じるようなエーテル量が部屋中の水晶玉のいくつかには込められている。

 だがそれは、訓練前のイズミなら、という話だ。今のイズミになら書き換えられないレベルではない。あくまでも、一次元の魔術ならば、という条件が付きだが。

「なに、死にはせんさ。せいぜい瀕死だよ」

 ヴェルナールは喉をクツクツと鳴らしながら愉しそうに言い、指をパチリと鳴らした。

 部屋に指が鳴る音は響かなかった。代わりに、凄まじい爆音が響き渡った。

 音だけでなく、衝撃が部屋中を駆け回り、窓という窓は甲高い音とともに砕け散っていった。部屋中の装飾品も、原形を微かにとどめる程度まで破壊されている。

「……ほぅ。今のも防ぐか」

 ヴェルナールは目を細めながら呟いた。

 その視線の先には、地面に片膝をつきながらも、確かに意識を保っているイズミと、ヴェルナールからイズミを庇うようにダーシェンカが悠然と立っていた。

「今のは、かなり危なかった」

 イズミはゆっくりと立ち上がり、ヴェルナールを見据えた。

 イズミの服は所々破れ、焦げ付いていた。体のあちこちにもかすり傷が走っている。

 一方のダーシェンカは全くの無傷だった。

「また、道具を庇ったのか? 愚かしいな、少年」

 そんな二人の様子を見比べヴェルナールは、つまらなそうに鼻を鳴らす。

「本当に愚かしいと思っているならば、愚かしいのはあなただよ。ヴェルナール」

 イズミは体中に纏わりついた埃を叩き落としながら、つまらなそうに吐き捨てた。

 そして、感情の籠らない――正確には、努めて籠っていないように見せかけた――表情でヴェルナールを見据えた。

「僕じゃ、あなたに決定打を放てない。だからダーシェンカを庇うのは当然でしょ?」

 イズミは肩をすくめて微苦笑する。

 それは、あらかじめ設定された通りの言動。ヴェルナールを少しずつ、しかし確実に破滅へと追いやるための。

 先ほどヴェルナールが水晶玉を媒体として雷――一瞬のことで爆音としか感ぜられなかったが――を放つ二次元魔術を発動させたとき、イズミはすぐさま自分とダーシェンカの周辺にエーテルを配置し、主にダーシェンカに迫る雷のベクトル変更に努めた。イズミの加護によって雷の脅威から逃れたダーシェンカはイズミの元に駆け寄り、雷によって砕けた家具の類がイズミに襲いかかるのを防いだ。

 その程度の二次元魔術ならば完全に防ぎ切ることも不可能ではないのだが、イズミはあえてそれをしなかった。

 すべてはヴェルナールの油断を誘うために。

 ヴェルナールはいまだ実力の底を見せていない。なんだかんだと言いながらも、自尊心の強いヴェルナールは、格下のイズミとダーシェンカ相手に本領を発揮すること渋っている。それは、手札を隠したいなどという計算じみたものではなく、ヴェルナールの本質から来ていることだった。

 ならば、そこを突かない手はない。

 イズミ達の計画は、ヴェルナールの慢心を突き、イズミが止めを刺すということだった。

今まで取ってきた全ての行動は、最後の一撃への布石に過ぎない。

 布石を盤石のものとするためには、ダーシェンカが積極的に攻めなければならない。

 それこそ、ヴェルナールを殺せる一撃があるかのように。

「ふむ。確かにリビングデッドは攻撃の要だ。だが、先の戦いでオルリックの娘は使い物にならなかったではないか」

 ヴェルナールは顎をさすりながら悠然と呟く。

「イズミが成長したように私も成長しているのだよ、ヴェルナール」

 ダーシェンカはそう言い、ゆっくりと拳を構えた。

 拳は軽く握られ、ほとんど力は込められていないようだった。肩にも全く力が入っていないように見える。 

「ふん。道具が成長できるわけがないだろうに。よもやまだ自分を人間と思っているのではあるまいな、オルリック」

「お前の言うとおり、私は道具に過ぎない。だがな、道具だって改良は出来るだろ?」

 ダーシェンカは不敵に笑い、地面を力強く蹴った。

 今までとなんら変わらない速度に、変わらない軌道。それでも、明らかに異なっているモノが、一つだけあった。

 それは、視覚情報。

 今のダーシェンカには、イズミが捉えている視野もある。ヴェルナールのエーテルは勿論のこと、イズミが周囲に張り巡らせたエーテルによる部屋全体の姿もある。

 それだけで十分心強いというのに、加えてイズミの援護もある。

 そのおかげでダーシェンカは攻撃に集中することができた。

 ダーシェンカはヴェルナールの間合いに潜り込み、顎の先目掛けて鋭いアッパーを放つ。

 それは当然の如く回避されてしまうのだが、ダーシェンカは気にも留めない。そのまま何度か拳打や回し蹴りを放ちヴェルナールを翻弄していく。

「ッ! 小賢しいわ!」

 痺れを切らしたヴェルナールは舌打ちしながら声を張り上げる。

 同時に、ダーシェンカの周辺に水晶玉が出現した。

 浮かび上がったのではなく、出現。無から有の発露。それはまさしく、四次元魔術の一つだった。

「砕け散れ!」

 ヴェルナールが叫ぶと同時に、爆音とともに激しい稲光がダーシェンカを包み込んだ。いや、ダーシェンカを中心として、部屋中が稲光に包まれた。

 その雷に込められたあまりのエーテル量に、イズミの視界も真っ暗になる。だが、イズミは慌てなかった。慌てないどころか、ダーシェンカを襲った雷のベクトル変更すらも行わなかった。

 それでも。

 稲光が止んだ室内には、無傷のダーシェンカが悠然と佇んでいた。

「やっぱり馬鹿だな。お前」

 ダーシェンカは、ヴェルナールの腹部に鋭い回し蹴りを叩きこみながら吐き捨てた。

 ヴェルナールの上半身と下半身は無様に千切れる。

 地面に叩きつけられる数瞬の間ヴェルナールは、呆気にとられた表情でダーシェンカを見つめていた。

「な、ぜ……?」

 地面に叩きつけられたヴェルナールは虚空を見つめたまま呆然と呟く。

 ダーシェンカはそんなヴェルナールを追撃することもなく、ヒョイと地面を蹴り、イズミの元に舞い戻った。

 ヴェルナールは呆然とした表情のまま、四次元魔術によって下半身を再喚起し、立ちあがった。

 片腕だけの喚起とは異なるのか、その表情には疲労が色濃く滲み出ていた。

「……ほぅ。てっきりアメーバのように二体に増えるのかと思ったら一体だけなのだな」

 ダーシェンカは立ち上がったヴェルナールに冷たい視線をぶつけながら吐き捨てた。

 イズミのソレとは違い、ダーシェンカの言葉は演技でも何でもなく、心の底から吐き出されているものだった。 

「……そうか。すっかり失念していたよ。貴様には魔術無効化という虎の子があったのだったな」

 ヴェルナールは顔に手を押しあてながら、呻くように声を漏らした。

 手を顔にきつく押し当てたまま、ヴェルナールはクツクツと笑い始める。

 その様は、余りに狂気じみており、イズミの背筋は微かに震えた。

「確かに、この私といえども二次元魔術に魔術無効化を施すことはできないし、仮に一次元魔術で試みようとも、少年にことごとく打ち破られる。本当に、キミたちには驚かされてばかりだ。だがそれもここまで」

 ヴェルナールは肩で呼吸しながらも、はっきりと宣告する。

 その言葉に、イズミとダーシェンカは息を呑んだ。

 二人はヴェルナールがいかに大仰なセリフを吐こうが、たじろがない覚悟の下にいた。それでも僅かな恐怖が沸き上がるのは、厳然たる現実が目の前に喚起されようとしているからに他ならなかった。

 イズミとダーシェンカの前に、ヴェルナールのドス黒いエーテルが渦巻いていく。エーテルは密度を増していき、凄まじい速度で集束する。

 そしてソレは、最悪のカタチを成した。

 身の丈二メートルほどの巨大な犬。いや、大きさだけなら熊とでも言い表した方がしっくりくるだろう。

 それでもイズミは犬と判断した。それは、目の前の生物が、聞き知っている空想上の化け物と同じ姿をしていたから。

 三つ首の魔犬・ケルベロス。

「……馬鹿、な」

 イズミは眼前の光景に、ただ呆然と呟いた。

「馬鹿なことがあるかね。召喚術は四次元魔術のもっともオーソドックスな使用法だよ? 

 さて、狩りの時間だ」

 ヴェルナールは芝居がかった口調で言うと、ケルベロスの脇腹を思いきり叩いた。

 ケルベロスは凄まじい咆哮を上げながら地面を蹴り、ダーシェンカへ体当たりをかました。

 ダーシェンカの体は吹き飛ばされ、エレベーターの扉に叩きつけられる。扉はあまりの衝撃に、ひしゃげていた。

 ケルベロスは再び地面を蹴り、ダーシェンカに追撃を掛ける。

「ダーシェンカ!」

「心配ない」

 イズミの叫びにダーシェンカは平然と答えると、追いすがってきたケルベロスの鼻に鋭い回し蹴りを喰らわせる。

 ケルベロスの肉体はリビングデッド並に頑丈なのか、砕け散ることはなかった。それでも確かにのけ反りはした。

「この犬畜生は私が引きとめる。イズミはヴェルナールの相手を頼むっ!」

 ダーシェンカは宙高く舞い上がり、ケルベロスに盛大な飛翔回転かかと落としを決めながら言った。

 そんなダーシェンカの姿に安堵したイズミは、視線をヴェルナールへと戻す。

「これで二対二だな、少年。ここからはフェアプレーの精神にのっとって勝負しようか」

 ヴェルナールは口元を不気味に歪めながら肩をすくめた。

「フェアプレー、ねぇ……まぁ、疑問はさておき、僕も全力で行きます」

 イズミはため息とともに呟くき、精神を研ぎ澄ませた。

 ケルベロスとの戦闘に集中し始めたダーシェンカとの視覚共有を断ち切り、エーテルの可視領域を最高レベルまで引き上げた。

 イズミの視界は闇に覆われる。正確には、エーテルの光に覆われて何も見えていない状態なのだが、そんなことはどうでもよかった。重要なのは、エーテルの本質が視えているか否かということ。

 暗闇の中でエーテルの本質を視ていることを確認したイズミはニヤリと嗤った。その笑みはもはや演技ではなく、本能から漏れ落ちたモノ。

「フェアプレーの精神で……殺し合おうか」

 イズミは瞳孔の開き切った瞳をヴェルナールに向けながら断言した。

 その表情は、普段のイズミからは想像もできないような酷薄な表情。

 多大なエーテルの情報を脳で処理する反動から起こる理性の低下。それがこの表情の原因だった。

 すなわち、人間のもっとも原始的な欲求の一つ。

 破壊衝動。

「その表情……本当に面白いな、キミは」

 ヴェルナールはイズミの表情に気圧されるどころか、その声には恍惚としたものすら感じられた。

「面白すぎて、壊したくなってしまうよ!」

 ヴェルナールは目を見開きながら叫んだ。

 叫ぶと同時に、イズミに向かって雷が走る。

 イズミはさしたる動作を取ることもなく溜息をついた。

 雷はあたかもイズミの溜息に退けられたかのように、イズミの脇を通り過ぎていく。

「こんなんで壊せるほど、僕は安くないんですけどね」

 イズミは首を傾げながら微苦笑し、ゆっくりとヴェルナールに歩み寄る。

 あと半歩ほどでヴェルナールの拳が届くという間合いで、イズミは立ち止まった。

「あなたがケルベロスを召喚したとき、どうして僕が『馬鹿な』って呟いたか分かりますか? それはね、あなたの壊れかけた永久機関にそこまでの余力があったのか、って驚いてたんですよ。だというのに」

 イズミは残念そうに頭を振ると、ヒョイと地面を蹴ってヴェルナールの間合いに滑り込んだ。

 ヴェルナールは雷をイズミめがけて放つのだが、ことごとくベクトル変更され徒労に終わる。

「本当に……この程度のエーテルしか残っていないなんて、拍子抜けです」

 イズミはゴミに向ける視線の方がまだ温かいのではないかという視線をヴェルナールに向けると、ヴェルナールの腹部に拳を押しあてた。

 そして、ヴェルナールに反撃の隙を作らせる間もなく、膨大なエーテル量を自身の永久機関から汲み出し、ヴェルナールに流し込んだ。

 イズミのエーテルが、ヴェルナールのエーテルをかき消していき、ヴェルナールの肉体は一瞬の閃光を放ち消え去った。

 あまりにも呆気ない幕切れ、それでも、それはイズミとダーシェンカが心から願ってやまないものだった。

 それでも、喜びの叫びなどが上がることはなかった。

 代わりに漏れ響いたのは。

「……どうして?」

 というイズミの呆然とした呟きだった。

 イズミの視線の先には、ダーシェンカと凄まじい攻防を繰り広げているケルベロスの姿があった。

 ヴェルナールが消滅すれば、ヴェルナールが施した魔術は効果を失う。街の住人の意識操作はもちろん、ヴェルナールが召喚したケルベロスだって消えうせるはずだ。

 だというのに、ケルベロスは健在。

 イズミは暗闇の中で、ケルベロスのエーテルに目を――正確には脳を――凝らした。

 イズミはケルベロスの正体を見抜き、今度こそ額面通りの意味で漏らした。

「……馬鹿、な」

 イズミは唖然とした表情で、ケルベロスを見つめた。 

「イズミっ! これはどういうことだ!? なぜヴェルナールを葬ったのにケルベロスが消えないっ!」

 ダーシェンカは唸るような風切り音とともに繰り出されるケルベロスの爪牙をかわしながら叫んだ。

「ソイツが……ヴェルナール、なんだ」

 イズミはゆっくりとケルベロスを指さし、ボソリと呟いた。

 イズミの言葉にダーシェンカも、顔色を失っていく。

 ダーシェンカは普段よりいっそう白くなった顔を、ふいに動きを止めたケルベロスに向けた。

「……ほぅ。こうも迅速に見破られるとは思わなんだ。よっぽどいい眼を持っているようだな、少年」

 ケルベロス=ヴェルナールはダーシェンカとイズミの視線を一身に受けながらも、気負う様子もなく声を発した。

 その声はまさしくヴェルナールのもので、ケルベロスの口からではなく、体全体から響いているような感じだった。

「キミ達には何か奥の手があると踏んで自分の姿を変えて喚起してみた訳だが、まさかあれほどの隠し玉を持っていたとはな、少年」

 ケルベロス=ヴェルナールは楽しそうな声を上げ、ドスの利いた声で「だが」と続ける。

「おそらく先ほど少年が放った一撃がジョーカーにして唯一の切り札。さて、手札を暴かれた以上、キミ達に勝機はあるまい」

 ケルベロス=ヴェルナールの表情が変わることはないが、声音から歪な笑みを浮かべているだろうと推測する。

「……手札を暴かれたところで問題ない。ようはお前にもう一度さっきの一撃を叩きこめばいいだけの話だ」

 イズミはさも当たり前のことであるというように言った。

 だがその頬には一筋の汗が伝っている。

 エーテルの情報処理により理性が低下して気が大きくなっているとはいえ、冷静な判断力は消えていない。

 その判断力は再大音量のアラームでイズミに告げている。

 目の前の化け物は危険だ、と。

 そもそもケルベロス=ヴェルナールの身体能力は並外れている。ダーシェンカの攻撃でほとんどダメージを受けない肉体強度に、イズミの体程度ならば一撃で肉片に変えられるような攻撃力。

 そんな化け物相手に、ダーシェンカならともかく、イズミがどうやって触れればいいというのだ。

 イズミは幾通りかのパターンを頭に思い浮かべるが、どれも成功率が三十パーセントを割っている。

 成功率三割ともなれば高いと取ることも出来なくはないが、残りの七割が即死亡を意味するとあっては選択するわけにはいかない。さらに絶望的なことに、ケルベロス=ヴェルナールの体に触れることができたからとしても、殺し切ることができるかは甚だ怪しい。

 それほどまでに、ケルベロス=ヴェルナールのエーテル密度は高かった。

 ヴェルナール本体よりもケルベロスのエーテル密度が高いという時点で、ヴェルナールの企みに気付くべきだったのかもしれない。

 それでも気付けなかったのは、ヴェルナールの巧妙な隠蔽だけでなく、イズミの心に油断が生まれてしまっていたからだろう。

 それを思いやり、イズミは歯をギリリと軋ませながらケルベロス=ヴェルナールを睨めつけた。

「二対一ではフェアプレーとはいかないが、いいだろう。ちょっとしたハンデと考えればフェアプレーだ」

 ケルベロス=ヴェルナールは悠然と言い放つと、床がえぐれるほど力強く地面を蹴り、ダーシェンカに飛びかかった。

 ダーシェンカは背にしょった壁を蹴ってその直線的な攻撃をかわすと、さらにはケルベロス=ヴェルナールの背後を取って見せた。

「退がって!」

 そのままケルベロス=ヴェルナールに攻撃を仕掛けようとしたダーシェンカを、イズミが引きとめる。

 ダーシェンカは疑問の表情を数瞬浮かべたものの、すぐにイズミの横に戻った。

「魔術無効化はヤツには無駄だよ」

 イズミはダーシェンカの不満げに燻ぶるエーテルを感じ取り、淡々と告げる。

「なっ……そうか」

 ダーシェンカはイズミの指摘に目を丸めるが、すぐに元の表情を取り戻した。

 ダーシェンカは試みようとしたのだ。魔術無効化によってケルベロス=ヴェルナールにダメージが与えられないかと。あの並々ならぬ肉体強度が魔術によるものならばあるいは、

と。

「本当に目ざといな、少年」

 ケルベロス=ヴェルナールはのっそりと顔をイズミとダーシェンカに向けると、どこか楽しそうな声を発した。

「お前のその肉体は肉体強化でも何でもない。“ただ単に”頑丈なだけだ。だからこそ手に負えない」

 イズミは無表情のまま吐き捨てるように言う。

 だがその実、心の中では勝機をつかむ策を探り続けていた。

 ケルベロス=ヴェルナールの肉体は物理的ダメージをほとんど受け付けない上に、その肉体強度が魔術的強化でない生粋の強靭さであるから、ダーシェンカの魔術無効化によるダメージも望めない。

 ようは、戦車を相手に生身で戦わなければいけないというような状況だ。

 それでもイズミは隙を見つけ出すためにケルベロス=ヴェルナールのエーテルを注意深く観察し続ける。

「ダーシェンカ。エーテルの可視領域を最大限にしたまま視覚共有しよう」

 イズミはケルベロス=ヴェルナールに視線を向けたまま、ダーシェンカへ囁くように告げる。

「っ! しかしアレはイズミに負担が、」

「ダーシェンカにだって負担はかかってるじゃないか。それに、僕のことは気にしなくていい。僕はこの戦いに覚悟をもって臨んでいる。それこそダーシェンカと同じくらい」

 不安な表情を向けるダーシェンカに、イズミは付き離すような口調で告げる。

 瞳孔が開き切っていることもあり、イズミの表情は冷酷そのもので、その温度は絶対零度に達しているといっても過言ではなかった。

「……分かったよ」

 ダーシェンカはイズミの表情に気圧されもせずに苦笑し、肩をすくめた。

 どんなに表情がなくても、イズミが何を考えているのか分かってしまうのだ。感覚共有などがなくても、はっきりと。

 イズミはこう考えている。

 自分がどうなろうとヴェルナールは打ち滅ぼす、と。

 イズミの言葉の端からそれを感じ取ったダーシェンカは心の中で強く誓った。

(たとえこの身に換えても、イズミは守る……!)

 誓いを立てたダーシェンカは隣のイズミに習い、瞼を閉じた。

 瞼を閉じた時間は一秒に満ちるか満ちないほどの僅かな時間。

 それでも、二人の視覚は確かに繋がった。

「行こう、ダーシェンカ」

 イズミは目を開き、暗闇と色彩が混濁する視界の中でダーシェンカに静かに告げた。

 ダーシェンカは力強く頷き、地面を力強く蹴る。

 イズミも地面を蹴り、ダーシェンカとは反対方向に駆けだした。

 そして、二人はケルベロス=ヴェルナールを挟む様な布陣を展開する。

 視覚共有が最も活きる位置取りにして、自分の身は自分で守らなければならない位置取り。

 互いが互いを信頼していなければ取れない布陣を、二人は言葉を交わすことなく選択した。

 イズミとダーシェンカの間にある信頼は、互いが絶対に自分の身は自分で守れるという力強いものでは決してなく、相手の身は自分が守ってみせるという、信頼と呼べるのか甚だ怪しいモノの上に成り立っているものだったが、それでも二人はこの布陣に一切の迷いも感じていなかった。

「……ふむ、挟み撃ちか。何がしたいのか分からんが無駄なことを」

 ケルベロス=ヴェルナールは値踏みするような視線をイズミとダーシェンカに交互に向け、大儀そうに呟いた。

 それでも警戒はしているのか、迂闊に動くようなことはしなかった。

 その間にイズミはケルベロス=ヴェルナールを観察し続ける。

 可視領域を最大限まで引き上げながらの視覚共有は、イズミとダーシェンカの視界の差が大きいせいで、脳への負担が尋常なものではないのだが、かまっている暇はなかった。

 脳みそをかき回されるような苦痛の中、イズミはケルベロス=ヴェルナールの綻びを見つけるため思考し続ける。

 ダーシェンカも同様のことをしていた。

 イズミがエーテル面での綻びを探しているというなら、ダーシェンカは肉体的な面での隙を探していた。

 ダーシェンカの役割はただ一つ。イズミの道を作り上げること。

 そのためには、止まっているだけでは役不足だった。

「シッ!」

 ダーシェンカは短く息を吐き出し、地面を蹴った。

 ケルベロス=ヴェルナールの間合いに潜り込み、痛烈な回し蹴りを放つ。

 ケルベロス=ヴェルナールの体は大きくのけ反るが、これといったダメージは全く見受けられなかった。

 その証拠に、ケルベロス=ヴェルナールはすぐさま、その巨大な牙でダーシェンカを噛み砕こうとした。

 ダーシェンカは牙を紙一重でかわし、噛み砕こうと迫った頭の下顎を蹴りあげる。

 ケルベロス=ヴェルナールは大きくのけ反り、たたらを踏んだ。

 それを見た瞬間に、イズミの中にある種の違和感が芽生える。

(ヤツは魔術を……使えない?)

 イズミは微かに眉を寄せながら胸中に呟いた。

 よくよく考えてみれば、ケルベロス=ヴェルナールはあの姿になってから一度も魔術を使っていない。

 イズミのベクトル変更に対抗できないから、という理由も浮かぶには浮かぶのだが、どうにも決め手に欠ける。先ほどまでヴェルナールが仕掛けてきた水晶玉を媒体とした魔術はどれも、手すさびに過ぎない程度のものだった。いわば、イズミの実力を測っていたにすぎない。

 だというのに、ヴェルナールはその上の魔術を発動させることなく今の姿になった。

 それが意味するところは、二通り。

 ともあれ、それを絞り込むために、イズミは行動を起こした。

 力強く床を蹴り、ケルベロス=ヴェルナールに攻撃を仕掛ける。

 無論、拳打や蹴りなどではなく、エーテルの上書きという一撃必殺。

 だが。

「甘いわっ!」

 ケルベロス=ヴェルナールの叫びと同時に繰り出された前足に、イズミは呆気なく吹き飛ばされた。

 床に叩きつけられ、反動で何度か体を跳ねさせるハメになった。

 体が跳ねて地面に叩きつけられるたびに肩と腹の傷に激痛が走ったが、イズミは苦痛に顔を歪めることはなかった。

 ばかりか、地面からのらりくらりと立ち上がったイズミは確かに、笑っていた。

 地面に叩きつけられたときにでも切ったのか、額からは一筋の鮮血が滴っていたが、イズミは全く気にしていない。

「気でも触れたか? 少年」

 イズミの不気味な笑顔を目にとめたケルベロス=ヴェルナールは、あざ笑うように言う。

 ダーシェンカでさえ、イズミを呆然と見つめていた。

「やはり僕を殺さないんだな、ヴェルナール。いいや、こう言いかえるべきかな? 殺せない、と」

 イズミは口元にうっすらと笑みを浮かべたまま呟く。

 鮮血を滴らせながら笑うその様は、狂気じみてすらいた。

 イズミの立てた予想は、ケルベロス=ヴェルナールが魔術を使えないというものと、使わないというものの二通り。

 今の一撃だけでそれを判断するのは不可能だった。実際、イズミはそれを決定していない。

 だがそれでも確かに、勝機は見えた。

 イズミが生きているというのが、その何よりもの証拠。

「ふん、なにを言いだすかと思えば、そんなことは当然だ。貴様は大切な贄なのだか、」

「違う、僕が言ってるのはそういうことじゃない。こう言っているんだ。殺す能力がない、

とな」

 イズミは不遜な笑みを浮かべ、続けた。

「おかしいと思ったんだよ。人間としてのお前は醜悪な姿なのに、ケルベロスとしての姿は様になっている。永久機関に不具合があるから肉体喚起が不完全らしいが……じゃあなぜケルベロスの肉体は綺麗に喚起できたんだろうな」

 イズミは苦笑し、肩をすくめる。

 その言葉に、微かではあるがケルベロス=ヴェルナールはたじろいだ。

「そこから推測される答えは一つ。永久機関を使わなかったってだけの話だ。つまり、お前自身のエーテルを使って化け物の体を顕現させたということだ」

「まったく……恐れ入ったよ、少年。それすらも短時間で見抜くとは。だが、だからなんだというのだ? キミ達に勝ち目がないことに変わりはない」

 ケルベロス=ヴェルナールはとくに焦る様子もなく言葉を発する。

 イズミはそんなケルベロス=ヴェルナールに肩をすくめると、ダーシェンカに目配せをした。

 それを確認したダーシェンカは即座にイズミの横に舞い戻る。

「勝ち目がなかったらこんな態度はとれないさ、ヴェルナール」

 イズミはニヤリと笑い言いきると、続けてケルベロス=ヴェルナールには聞こえない程度の声量でダーシェンカに囁いた。

「僕達がとる行動は単純だ。僕はヤツのエーテルを掻き消すことだけを考えて、ダーシェンカはさっきまでと同じように」

「し、しかし、イズミが先ほどと同じような一撃を何度も喰らったら」

「それは心配いらない。ヴェルナールは僕を殺したら自分も死ぬしかないんだ。僕の判断を信じてくれ」

 心配そうな視線を向けるダーシェンカに、イズミは力強く断言する。

 ダーシェンカは戸惑うような表情を数瞬向けたものの、すぐにかき消し力強く頷き返した。

「相談は終わりかね? 少年」

 ケルベロス=ヴェルナールはイズミとダーシェンカを見据えながら悠然と告げる。

 自分の有利を信じて疑っていないのか、その声に弱気な部分はなかった。

 もっとも、イズミがケルベロス=ヴェルナールの立場だったとしても、弱気な態度は微塵も見せないだろうが。

 いや、実際にイズミは見せていない。

 勝ち目は見出したものの、確率的には決して高いものではない。それでもそれを確実なものと見せるために、自信に満ちた態度を演出していた。

 理性の低下はそんな傲慢な態度を演出するにはうってつけだったのだが、それもここまで。

 イズミはケルベロス=ヴェルナールに立ち向かうため、エーテルの可視領域を急激に下げ、戦闘開始時と同程度のレベルにしていく。

 可視領域を最大まで上げた方がなにかと便利なのだが、その状態で視覚共有しつつ激しく動くとなると負荷が高すぎた。

「行こう、ダーシェンカ。しがらみを断ち切りに」

 暗闇から靄の掛ったような視界に変わったことを確かめたイズミは、覚悟を秘めた声で言った。

 平時の理性を取り戻したせいで、眼前の三つ首の魔犬に対する恐怖が増大するが、不思議と体に震えは起こらなかった。

「あぁ、そうだな。断ち切ろう」

 ダーシェンカはイズミの言葉に応じ、頷く。

 そのままヴェルナールに凍てつくような視線を向け、続けた。

「家族の仇、討らせてもらうぞ!」

 ダーシェンカは叫び、ケルベロス=ヴェルナールに飛びかかった。

 間合いに潜り込み、真ん中の頭を鋭く蹴りあげる。

 イズミはダーシェンカが作ったわずかな隙を突き、ケルベロスの足の間をくぐり抜け背後に回り込んだ。

 すぐさま体を起こし、ケルベロス=ヴェルナールの後ろ脚に手を押し当てる。

 一瞬のうちに自分の体に流れるエーテルを把握し、その流れとは別の流れを察知する。

 そこにあるイメージはロダンの地獄の門にも似た巨大で禍々しい扉。

 そこを押し開き、無限に溢れ出るエーテルを汲み上げる。余りの膨大な量に、制御は全く効かない。ただひたすら力任せに汲み上げ続ける。

(喰らえ……!)

 イズミはエーテルを掌に収束させ、ケルベロス=ヴェルナールに流し込みながら心中に叫んだ。

「小賢しいっ!」

 ケルベロス=ヴェルナールは叫び、後ろ脚でイズミを蹴りあげる。

「ぐっ!」 

 ほぼノーガードの状態で攻撃を喰らったイズミは吹き飛び、再び地面を転がるハメになった。 

 だがそれも計算のうちとなれば気にはならなかった。

 イズミはすぐさま体を起こし、蓄積されたダメージを確認する。

 幸い、骨などに異常は無かった。やはり、ケルベロス=ヴェルナールは細心の注意を払ってイズミを攻撃しているのだろう。

 イズミの推測が正しければ、ケルベロス=ヴェルナールを構成している膨大なエーテルは永久機関のモノではなく、ヴェルナール本来のモノ。

 つまり、ケルベロス=ヴェルナールに余力など残っていない。残っているのは壊れかけか、あるいは既に壊れてしまっているかもしれない永久機関のみ。

 永久機関のエーテルは制御不能と断言して構わないほど扱いが難しい。イズミのようにエーテルの可視領域が高ければレーダーとしても機能するが、そうでなかったらそれこそ力任せに相手のエーテルを打ち消すかベクトル変更にしか使い道がない。

 となれば。

「警戒するのは物理攻撃だけで構わない……!」

 イズミは“あえて”口に出した。

 口に出し、再びケルベロス=ヴェルナールに飛びかかる。

 凄まじい速度で迫る後ろ脚を紙一重でかわし、再びケルベロス=ヴェルナールの体に触れる。

 やることは単純。

 地獄の門のイメージ、解放、エーテルの流入。

 刹那の間にその流れをこなし、ケルベロス=ヴェルナールのエーテルを少しずつではあるが、確実に掻き消していく。

 しかし一気に掻き消させてくれるほどヴェルナールも甘い相手ではなく、イズミは再び蹴り飛ばされた。

 先ほどよりも強力な蹴りに、イズミの呼吸が一瞬止まる。その呼吸は、地面に叩きつけられた際に苦悶の声とともに吐き出された。

「ぐっ!」

 イズミは地面に叩きつけられるように落ちた。叩きつけられたときに響いた音は先ほどまでとは比べ物にならないほど鈍く、重かった。

「イズミっ!」

 ダーシェンカは叫び、駆け寄ろうとするが、イズミは地面に顔をうずめたままそれを制した。

「……大丈夫だ、ダーシェンカ。言ったろ? ソイツは僕を殺せない」

 イズミは腹部を両腕で抱えながら、フラフラと立ち上がった。

 イズミの顔面は青白くなっており、額から流れる血がより際立っていた。ばかりか、唇もどこか紫色に変色していた。

「……まったく、魔術師が聞いて呆れるな、ヴェルナール。みぞおちに蹴りを叩きこんで酸欠チアノーゼを起こさせようとするなんて、どこの格闘家だよ」

 イズミは青白い顔に微苦笑を浮かべた。

 息を吸うたびに腹に激痛が走る。経験のないイズミには本数などは分からないが、あばらの何本かは持っていかれてるだろう。

 だがそれも構わない。酸欠を起こしかけているイズミはただひたすらに呼吸したかった。

が、慌てて息を吸い込んだところで今度は過呼吸に陥る。過度な呼吸を抑えさせてくれる痛みはありがたかった。

「……まぁ、一発でここまで酸欠気味になるのは十分魔術的かもしれないがね」

 イズミは言葉を紡ぎ続ける。

 今はただ時間を稼ぎたかった。酸欠によってぼやけた視界を鮮明なものに戻すだけの時間を。

「少年、そんなフラついた体で何ができるというのだ? それにキミは思い違いをしている。私は魔術が使えないんじゃない、使わなかったんだ!」

 ヴェルナールは雄叫びを上げた。

 次の瞬間、ケルベロス=ヴェルナールの眼前に、凄まじい量のエーテルが収束していった。

 エーテルは渦を巻きながらブラックホールのような球体をなしていく。そのエーテル密度は、エーテルが視えない者でもはっきりと視えるレベルまで達していた。

 言い表すなら、エーテルという物質そのものの喚起。

 圧倒的な光景に、イズミとダーシェンカは言葉を失った。迂闊に近づけば、消し飛ばされそうなほどの重圧がその球体には宿っていた。

「言ったハズだ、私は一度視た魔術は理解すると。これは君の父上から盗み、改良したモノだよ、少年!」

 ヴェルナールは叫び、その球体を射出した。

 動きを止めているダーシェンカ目掛け、凄まじい速度で。

「っ! 間に合わない!」

(間に合った……!)

 イズミは口にした言葉とは真逆の言葉を思い浮かべながら地面を蹴った。

 鮮明な視界を取り戻したイズミは駆けながら、エーテルの可視領域を最大にする。同時に、ダーシェンカの視界によって、迫りくる球体も見据えていた。

 二つの視覚によってより正確な球体の情報を得たイズミは、一つの答えをはじき出した。

 ダーシェンカの方向に駆けだしながら、地獄の門をイメージする。続いて解放、流出。

 全快のイズミが掛けたところでダーシェンカに迫る球体には届くハズがなかった。ましてや満身創痍となれば間に合うべくもない。

 それでもイズミはダーシェンカに手を伸ばした。いや、正確に言い換えるならイズミは。

 ダーシェンカに迫る球体に手を伸ばしていた。

 その刹那。イズミの脳裏には縁起でもないことに、走馬燈が流れていた。

 しかしそれは生涯を振り返るようなものでなく、病院の屋上で行った訓練中の一場面。


『いいか、イズミ。ダーシェンカちゃんに迫る魔術的攻撃は全てお前が防ぐんだ。それは同時に、ダーシェンカちゃんが一切の回避行動を取ってはいけないということとイコールだ。攻撃にだけ集中してもらう』

 相も変わらず幸也は簡単に言ってのけていた。

『なっ! そんな危ない事! 避けられる攻撃はダーシェンカが避けた方が安全じゃ、』

『自分が楽しようとしているのか? イズミ』

『別にそういう訳じゃ!』

 ニンマリ顔で言う幸也に、イズミは掴みかからんばかりの剣幕で反論する。

『なら自分の力を信じろ。ダーシェンカちゃんはイズミを信じられるだろ?』

 幸也はイズミから視線を外し、イズミの横にいるダーシェンカを見据えた。

 ダーシェンカは幸也の問いに、力強く無言で頷いた。


(まったく……この状況でも動かないとはね。期待には応えなきゃね、男としてさ)

 イズミは口元に淡い笑みを浮かべながら、汲み出した膨大なエーテルを球体に注ぎ込んだ。

 次の瞬間、球体は弾け、散弾銃の弾のように無数に散らばった。

 だがイズミは慌てなかった。それはイズミ自身が組み込んだプログラムだから。

 無数の弾丸は部屋中を穿ち、削り取られた床や天井が砂埃を上げる。

 砂埃が風に乗って窓の外に流れていったあと、そこには無傷のダーシェンカと傷だらけのイズミが並び立っていた。

「なん、だと……?」

 その光景に、ケルベロス=ヴェルナールは息を呑んだ。

 信じられないとばかりに。

「まさか、想像できなかったんですか? 僕たちを鍛えたのはあなたが敗北したあの“化け物”ですよ?」

 イズミは肩をすくめ苦笑する。

 そしてゆっくりとケルベロス=ヴェルナールに歩み寄る。

「ち、ちがう! キミは今何をしたんだ!」

 対するケルベロス=ヴェルナールはイズミが足を進めるたびに後ろに退いていく。

「何って……単純なコトですよ。エーテルのベクトル変更ですよ」

 イズミはなおもゆっくりと足を進め、今度はケルベロス=ヴェルナールに手を伸ばした。

「ち、違う! 先ほどのあれはそんな次元じゃなかった! 明らかにエーテル内部でエーテルの消失現象が、」

「なんだ分かってるじゃないですか。まぁ、父さんのように動作なしには出来ないけど……この程度の距離なら十分変更できますよ? 有から無へのベクトル変更も、ね。ましてや、最後の一撃を使ったあなたに対してなら……容易い」

 イズミは無表情に言い切り、伸ばした手をグッと握り締めた。

「ぐっ! グォォォオオォ!」

 ケルベロス=ヴェルナールが苦悶の声を上げる。しれは苦悶の声というよりもいっそ、その姿に似つかわしく、獣の咆哮と言い表した方がいいモノだった。

 ケルベロス=ヴェルナールの四肢はあらぬ方向に曲がり、三つ首も互いがねじれあって一つの物体と化していた。

 イズミはそんな残虐な光景を意識することなく、ヴェルナールのエーテルに上書きを掛けていく。残虐な光景から目を背けているわけでは決してなく、ただ単に景色を見る余裕がなかったのだ。

 “計画通り”ヴェルナールのエーテルを消費させたとはいえ、残っている量も馬鹿にならない。少しの油断が命取りだった。

 ましてや、体中の傷のせいで意識を保つのがやっととなればなおのこと。

 それでもイズミは地獄の門をイメージし、膨大なエーテルを汲み出し続ける。

 ヴェルナールという存在の消去に、全意識を傾ける。

 それは、言ってしまえば最大の油断だった。

「ゴ、ドォ、ゥ! ゴロズ! コロス!」

 もはや原形を留めず、ただの球体と化したケルベロス=ヴェルナールは、禍々しい声を上げた。

 同時に、球体からエーテルの弾丸がイズミに向かって射出される。無数に、容赦なく。

 イズミならば何気なく書き換えられる量ではあったが、エーテルの上書きに集中している今のイズミには不可能な話だった。

 弾丸が射出されるやいなや、ダーシェンカは地面を蹴り、弾丸の前に立ちふさがった。

「シッ!」

 ダーシェンカは短く息を吐き出し、魔術無効化を発動させる。

 身を何度も翻し、イズミに向かってくる弾丸をすべてその身で打ち消した。

 もし弾丸にあ術無効化の術式が込められていたら、という懸念もあったが、余裕のないヴェルナールはそんなこと考えつきもしなかったらしい。

 もっともダーシェンカは、その身を何度貫かれようがイズミを守り切るつもりだったが。

「コロス! コロス! コロス!」

 ケルベロス=ヴェルナールの球体は怨嗟の言葉を吐き出し続けながら縮小し、終いには完全に消え去った。

「……終わ、った」

 ケルベロス=ヴェルナールが消え去った事を確認したイズミは安堵の息を吐き出し、倒れ込む。

「お、おい! 大丈夫か?」

 倒れ込んだイズミをダーシェンカが咄嗟に抱きかかえた。

 ダーシェンカの腕の中でイズミは、弱々しげに微笑みながら。

「……ありがとう、ダーシェンカ」

 と言い、穏やかな寝息を立て始めた。

 そんなイズミにダーシェンカは苦笑とともに溜息を洩らし、呟く。

「ありがとうを言うのはこっちだよ、まったく」

 ダーシェンカは廃墟と化したといってもいいほどボロボロになった室内から、晴れ渡った空に視線を移す。

 窓がことごとく割れているおかげで、窓の外には綺麗な空をはっきりと見ることが出来た。

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