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第4章 群衆の預かり知らぬところで、物語は帰結に向かう(1)

「お父様、今日はどんなどんなお話をして下さるの?」

 どこか舌足らずな、可愛らしい少女の声がイズミの耳朶を打った。

 イズミはその声に、目を開けた。

 そこは、イズミの知らない部屋だった。

 壁には分厚い辞典類が収められた背の高い本棚が立ち並び、床には見るからに高級そうな絨毯が敷き詰められている。

 部屋は、窓から差し込む穏やかな月明かりと、天井から吊るされているシャンデリアの明かりによって照らされていた。

 そんな優しい明りが、壁に二つの影を作り出している。

「そうだね……ダーシェンカはなんの話が聞きたい?」

 部屋の中央でロッキングチェアに腰掛けた、いかにも人好きのする初老の紳士が頬の皺を深めながら言った。

「えっとねぇ……お父様が話して下さることなら、なんでもいいですわ」

 老紳士の前に行儀よく座っている亜麻色の髪の少女――ダーシェンカは、朗らかに微笑んだ。

 気品と利発さを兼ね備えた、そんな微笑。

(ダー、シェンカ?)

 イズミは、目の前で繰り広げられている光景に首を傾げた。

 確かに、言われてみれば少女にはダーシェンカと似通った点がある。いや、似通っているというよりも、ダーシェンカを幼くしたらこうなるだろう、というのが目の前にいる少女だった。

 ここはどこだろう、という疑問より、これはなんだろう、という疑問がイズミの頭の中を駆け巡った。

「そうだねぇ……それじゃあ、」

「ダーシェンカ! 子供はもう寝る時間ですよ! それにお父様も! ダーシェンカを甘やかさないでください!」

 老紳士が口を開くと同時に、扉が開き、イズミと同年代の少女が部屋に入ってきた。

 その少女は、イズミの記憶の中にいるダーシェンカそのものだった。

「ダー、シェンカ?」

 イズミは思わず呟いていた。

 だが、部屋の中の者は誰一人としてイズミに視線を向けない。

「でも、ラズお姉様……」

「でもじゃありません! いいから部屋に戻って寝なさい、ダーシェンカ!」

 ダーシェンカ、ではなくラズと呼ばれた少女は、渋る幼いダーシェンカを引っ張り上げ、

強引に扉まで引きずっていく。

「お父様も! ダーシェンカが可愛いのは分かりますけど、甘やかすのはこの子のためになりませんからね!」

 部屋から出る間際、ラズは老紳士に向かって釘をさす。

 そして、口調とは裏腹に丁寧にドアを閉め、渋るダーシェンカを引き連れ立ち去って行った。

「……やれやれ、ラズの奴め。年寄りの楽しみを奪いおってからに」

 老紳士は溜息を吐き、ロッキングチェアに寄り掛かった。

 椅子は、キィキィと音を立て、緩やかに揺れる。

「そうは思わんかね? そこの少年」

 老紳士の言葉にイズミは肩をビクつかせた。

 先ほどイズミの呟きに全く反応しなかったというのに、老紳士はしっかりとイズミを見据えていた。

「僕が、見えていたんですか?」

「あぁ、見えていたとも。ラズとダーシェンカには見えないようなので見えないフリをしていただけだ」

 老紳士はロッキングチェアに揺られながらのんびりと言う。

「あの……ここは、なんなんですか?」

 イズミは率直な疑問を口にした。

 明らかにおかしな状況だ。

 だんだんと思いだされる。先ほどまで自分は街中でヴェルナールと戦っていたハズだ。そして、ダーシェンカを庇って傷を負った。

 そこまでは覚えている。そこから先の記憶は、ない。

 気がつけば見知らぬ所にいた。

 幼いダーシェンカと、ダーシェンカそのものの容姿をしたラズという少女、それに二人の父親らしい老紳士。

 どれもこれも存在しようがない存在だ。

 ダーシェンカの家族は二百年前に、ヴェルナールの手に掛って命を落としているのだから。

 だとしたらここは死後の国?

 答えは否、だ。

 それでは幼いダーシェンカについて説明できない。 

「ここは何か、と問われれば、私としては返答に窮するのだが……至極まっとうに答えるとするならば、ダーシェンカの記憶だ」

 老紳士は顎をさすり、イズミの問いに答えた。

 だがイズミはその答えの意味が今一つ理解出来ず、眉をひそめる。

「おかしなものでな、少年。私はダーシェンカの記憶の一部でありながら、そのことに気付いているのだよ。夢の中で、これは夢だ、と気付いているのと似たようなモノだろうな」

「は、はぁ……」

 イズミは老紳士の言葉に曖昧な返答しかできなかった。

 何を言っているのかまるで理解できない。ここ数週間、魔術というものに触れてきたイズミをして、今の状況はさらなる怪異だった。

「自分で言うのもなんなのだが、私があまりに優れた魔術師“だった”からそのことに気付いているんだろうな」

 老紳士は遠くを眺めるような視線でイズミを見据えた。

「だった、って……あなたまさか」

「すでに死んでいるのだろう? 生身の私は」

 老紳士は力ない笑みを浮かべ、椅子の背もたれに体を預ける。

「……えぇ。あなたは、ヴェルナールという魔術師に殺されたらしいです。ダーシェンカ以外のオルリック家の人達は、みんな……」

 イズミは苦々しげに言いながら、先ほどの光景を思い出す。

 魔術師だとか一般人だとか、そんなこと関係なしに繰り広げられる温かなやりとり。現在のダーシェンカと瓜二つな、ダーシェンカの姉である面倒見のいいラズ。今のダーシェンカからは想像もできない甘えん坊のダーシェンカ。二人を温かく見守る老紳士。

 こんな場所を、ヴェルナールは奪ったというのか。

「ほぅ、魔鏡の……。まぁ、記憶の私が知ったところでどうにもならんか」

 悲しげに微笑む老人に、イズミはかける言葉が見つからなかった。

「ダーシェンカがどのような生を辿っているのかおおよそ想像はついている……時々感じるのだよ。ダーシェンカの苦しみを。あの子にとってこの記憶は、暖かな悪夢なのだろうな」

「そんなことは、」

「あぁ、気にせんでくれ。年寄りの戯言だ。それより、少年。ここにいるということは、キミはダーシェンカにとって大切な存在のようだ」

 老紳士は沈痛な面持ちを隠し、穏やかに微笑む。

 それがまた、イズミの心をえぐった。

「僕が、大切な、存在?」

 イズミはひとり言のように呟く。

 自分がダーシェンカにとって大切な存在かと問われれば、それはもちろんイエスだ。何と言っても、イズミがいなければダーシェンカは活動出来ないのだから。

 だが、老紳士の“大切な存在”というのはそういうものを指してではない。

 もっと別の、利害関係を取り払った所での大切さだ。

 そう問われると、どうなのだろう。

「フフフ、その様子、キミにとってのダーシェンカも大切な存在なのだろう。大切かどうかも分からないほどに、ね」

 老紳士は悶々と悩むイズミを見、微笑んだ。

 そんな老紳士に、イズミは「はぁ」と生返事を返す。

「キミがダーシェンカとどのような関係なのか、などという無粋なことは聞くまい」

 老紳士は意地の悪い笑みをイズミに向けた。

「あ、あのっ! 別にそういう関係じゃ、」

「ホッホ。冗談だよ、少年。だがな」

 老紳士は表情をグッと引き締め、イズミを射抜くように見据えた。

 その様に、イズミは思わず固唾を飲み、姿勢を正した。

「ダーシェンカを救ってやれるのは恐らく、キミだけだ。過去の苦しみを完全に消すことは不可能だろう。だが、暖かな記憶を思い出すときに苦しむというのは悲しすぎる。だからせめて、暖かな記憶は暖かな記憶として思い出せるようにしてやってくれ。頼む」

 老紳士の言葉に、イズミは何と答えればいいのか分からなかった。

 自分がダーシェンカを救う姿がまったく想像できない。

 いつも助けられてばかりで、ダーシェンカにしてあげられることと言ったら、衣食住の提供ぐらいだ。それすらも、ほとんどが親の力によるものだが。

(僕に、出来ること?) 

 イズミは自分の両手を見つめ、自問した。

「自信がないのかね? 少年」 

「……はい。正直、僕がダーシェンカにしてあげられることなんて」

 イズミの言葉に老紳士は微苦笑し、言った。

「ならば、今までキミがしてきたことを変わらず続けてくれ。それが、娘に何もしてあげられなかった駄目な父親からの、最後の願いだと思ってくれ」

「それはもちろ、っ!?」

 イズミが老紳士の頼みに答えようとしたとき、部屋がグニャリと歪んだ。

 壁が歪み、床が歪み、老紳士さえもが歪んだ。一つ一つが、乱雑に掻きまわされた絵の具のように混じり合っていく。

 イズミもその例外ではなかった。

 少しづつ、意識が薄れていくのを感じた。

「もうキミはお目覚めのようだ、少年。ダーシェンカのこと、よろしく頼んだぞ」

 薄れゆく意識の中で、老紳士の声だけはハッキリと届いた。


 * * *


 遮光カーテンで締め切られた真っ暗な一室。何も見えないほどのその場所で、男の荒い呼吸音だけが響いていた。リズムも一定でなく、定期的に途切れるその呼吸は、まるで死に瀕した野獣のようだ。

「おの、れ、不死、殺しめ、次、こそは、必ず」

 暗い部屋で、何かが蠢いた。

 野獣とは違い、知能を持ち合わせているらしいソレは、立ちあがり、遮光カーテンを乱暴に開いた。

 部屋の中に夏の強い日差しが降り注ぐ。

 夏の陽光に照らし出された一室は思いのほか豪勢で、テーブル、ベッド、床に敷き詰められた絨毯に至るまで、一級の調度品。

 そこは、とあるホテルの最上階にあるスウィートルームだった。

 だが、そんな上品な部屋には到底釣り合わない者が窓辺に立っていた。

 皮膚はミイラのように黒く変色し、顔は肉という肉を削げ落した頭蓋骨のような形、目玉は剥き出しになっており、少し動くだけでもギョロついて見えた。

 その姿はまさしく、如月幸也が完膚なきまでに葬ったはずの男、ヴェルナールだった。

「次は、必ず」

 ヴェルナールは遥か下方に行き交う人々を見下ろしながら憎々しげに呟き、そのまま床に倒れ込んだ。


 * * *


 消毒薬の匂い漂う病院の廊下で、ダーシェンカは二人の男と向かい合っていた。

 四十代半ばの、ベージュのスーツに身を包んだ紳士・如月幸也と、病院では絶対に避けるべき服装、喪服に身を包んだ十代半ばの少年・キリコ。

 キリコの姿を咎める者は誰一人としていない。

 何せこの病院にはダーシェンカと如月一家とキリコしかいないのだから。ちなみに、イズミは応急処置を終えて病室のベッドで眠っており、雪はそれに付き添っている。

 医師や患者が一切いないというありえない光景も、蓋を開けてみれば単純なこと。

 この病院が、正規の医療機関ではない。ただそれだけ。

 ここは、何の変哲もないオフィスビルに、如月幸也が秘密裏かつ非合法的に作り上げた闇医院だった。

 街中になんの違和感もなく存在しているこの病院にダーシェンカを運び込んだ幸也は「簡単なオペなら出来る設備が揃ってるよ」と笑顔で説明してくれた。

 それからは、幸也と雪がイズミの怪我の手当てをした。世界的名医だけあって、その手当は的確かつ迅速だった。

 そして、普通の人間とは治療の方法が異なるダーシェンカは、幸也が呼び出したキリコによって治療された。

 キリコはここの設備を使って何やらアルシェラも治療していたようだが、ダーシェンカはその辺りについて詳しく知らなかった――知ろうともしなかった。

「どうして、私も助けたんですか?」

 ダーシェンカは伏し目がちに幸也に尋ねた。

 ダーシェンカには幸也達の行動の意図が分からなかったのだ。

 イズミはネクロマンサーとして覚醒した。それは、並の魔術師では到底届かない領域に立ったということ。

 ヴェルナールには敗北したが、それもダーシェンカを庇っていなければどうなっていたか分からない。

 皮肉なことに、イズミを守るはずのダーシェンカが原因で、イズミは傷ついたのだ。

 それを無様と思うよりも、イズミが庇ってくれたことを涙が出るほど嬉しく思っている自分がいるということが、何よりもダーシェンカを苛んだ。

 覚醒したネクロマンサーにリビングデッドは不要というのは、魔術世界の常識。

 エーテルを無限に汲み出せる永久機関が起動したからといって、それをリビングデッドに分け与えることは出来ないのだ。永久機関が作り出すエーテル量は力任せに使う分には使い勝手がいいのだが、繊細な作業には全く向かない。

 あまりに莫大な量で、制御がきかないのだ。

 そんなものをリビングデッドに注ぎ込めば、リビングデッドの魂が崩壊してしまう。

 だから、リビングデッドを使用し続けるには、一般人の総量と変わらない自身の魂を削るしかない。

 そんな酔狂なことをする者は、いないだろう。

 最低限の礼節を整えて送るという形をとってはいたが、自分自身のいたあの温かなオルリック家でさえ、そうだった。

 そして何より、幸也自身もリビングデッドを連れていないというのが、何よりの証拠。

「どうして助けたと聞かれてもねぇ……まだキミには役目があるし」

 幸也はめんどくさそうに頭を掻きながら苦笑した。

「役目? もうイズミだけで十分じゃないですか。私など……」

「まぁ、大抵の輩ならイズミで十分だろうね。というか覚醒後のネクロマンサーを狙う馬鹿はいないだろうし。でも、相手がヴェルナールなら、どうだい?」

 幸也は苦笑を消し、真面目な表情でダーシェンカを見据えた。

「確かに、ヴェルナールレベルなら苦戦するでしょうが、私がいたところで……」

「あぁ、もう! 何ウジウジ言ってんだよ! そんなに廃棄処分スクラップになりたいなら今すぐしてやるよ!」

 言いよどむダーシェンカに、黙って会話を聞いていたキリコが堰を切ったように怒鳴り始めた。

「いいかっ!? 幸也さんはな、初めからお前の能力にはそんなに期待してなかったんだよ! 

 お前が、歴代キリコ随一の奇作、あるいは、魔術が使えない出来損ないと呼ばれているのを知ってて買ったんだ。なんでか分かるか?」

 優しげな顔に似合わぬ、気迫だけで子供を殺せそうな剣幕に、ダーシェンカは少なからずたじろいでしまった。

 たじろぎながらも、なんとか首を横に振る。

「お前の覚悟を買ったんだよ。ネクロマンサーを狙う者達への並々ならぬ闘争心を、そして何よりヴェルナールへの恨みを、な」

「どういう、ことですか?」

 ダーシェンカは呆然と幸也を見つめた。

 自分が出来損ないだなんだと思われることに抵抗はない。当時のキリコにもそれを理由に、リビングデッド化を散々断られ続けたのだから。

 だが、分からない。ネクロマンサーを狙う者達への闘争心というのはまだ、分かる。

 では、ヴェルナールへの恨みという、ひどく限定的なものはなんなのか。

「幸也さんは、イズミくんが覚醒するまで平和に過ごせるようにと、あらかたの危険因子は秘密裏に処分してたんだよ。不死殺しという忌み名は、これの副産物だ。でも……ヴェルナールだけは巧妙にその網を抜け、生き残っていた。だから、イズミくんを狙うのはヴェルナールだろうと見当が付いていた訳だ」

 黙りこくっている幸也を見かねたキリコが嘆息混じりに説明する。

「つまり、ヴェルナールと因縁のある私なら……適任だと?」

 ダーシェンカの問いに、キリコは頷いた。

「でも……ヴェルナールが死んだ今となっては、私の利点など」

「ダーシェンカちゃん。キミはそんなにイズミが大切なのかね?」

 黙りこくっていた幸也が不意に口を開く。

 優しげな、しかしどこか厳しさを併せ持った幸也の瞳が、ダーシェンカを見つめる。

 ダーシェンカは、幸也の問いになんと答えればいいか分からなかった。

 だから、うつむき、沈黙せざるをえなかった。

「イズミの寿命を気にして、死に急いでるのかい?」

 続けられた幸也の言葉に、ダーシェンカはハッと顔をあげた。

 幸也は相変わらず、優しくも厳しい表情をダーシェンカに向けている。

「わたしは……」

 言いよどむダーシェンカに、幸也は嘆息を漏らした。

「本当はね、ダーシェンカちゃん。僕は、イズミを見殺しにしなければならない立場だったんだ」

 幸也は力なく微笑む。

 ダーシェンカはそれを聞き、雪の『“形式上”死んだことにしたほうがいい』という、いまいち要領を得ない言葉を思い出した。

「アクロマ機関は、魔術が一般世界を侵食しないように見張る役割と、魔術世界の掟を守らせる役割がある。掟なんて言うと聞こえはいいけど……それは必ずしも弱者に優しいものじゃない」

「幸也さんなら何かやらかすとは思ってましたが……本当に掟を破っちゃうとはねぇ」

 キリコは苦笑いながら言った幸也を見やり、心底楽しそうに微笑んだ。

「掟を、破った?」

 ちょっとした失敗談でも語っているようなキリコと幸也を交互に見ながら、ダーシェンカは呆然と呟いた。

 魔術世界の掟とは、一般世界のそれよりも遥かに厳しい。

 一般世界では違法となっているようなことも魔術世界では合法という場合も多いのだが、

その分、魔術世界の違法はそれだけで“死”を意味する。

 幸也がいつそんなことをしたのか、ダーシェンカには皆目見当がつかなかった。

 少なくとも、二百年前までなら掟破りに該当するものはなかったハズだ。

 そんなダーシェンカの考えを察してなのか、幸也が口を開く。

「今は少しばかりネクロマンサーへの風当たりが強くなっていてね……自分の身を守れないネクロマンサーは、処分されるんだ。共闘すらも基本的には認められていない」

 幸也は相変わらず、なんてことないとばかりに言う。

 だがそれは、ダーシェンカを絶句させるには十分な言葉だった。

 自分の身を守る。

 それは、ネクロマンサーに当てはめられる場合には矛盾を孕む。何せ、覚醒するまでのネクロマンサーはリビングデッドに頼りきらなければならないのだから。

 リビングデッドを蘇生させるのが自身の能力によるものだとしても、そこから先はリビングデッド次第。つまり、生き残りたければ強力なリビングデッドを蘇生させるしかない。

 ダーシェンカは、自身が他のリビングデッドに引けを取らないと自負しているし、イズミの協力はあったもののアルシェラとだって対等に渡り合った。

 だがそれでも、如月幸也の神経を疑う。

 出来損ないと揶揄されるダーシェンカを“覚悟”などという非常に曖昧な理由で愛息にあてがうなど。

 それはつまり。

「最初から助けるつもりだった?」

 ダーシェンカは呟いていた。

 幸也への問いかけではなく、自身への問いかけとして。

 だが、答えは否だ。

 最初からイズミを助けるつもりならば、もっとタイミングがあったハズだし、第一ダーシェンカを助ける必要がない。

「おいおい、ダーシェンカちゃん。見損なわないでくれよ。僕はこれでも掟に従順なんだ。

イズミが息子だから助けた訳じゃない」

 幸也はやれやれとばかりに頭を振る。

「では、どうして……?」

「イズミが身を挺してキミを庇ったからさ。あそこでイズミがダーシェンカちゃんを見捨てていたら、間違いなく僕もイズミを見捨てていたね。イズミだけじゃ本気のヴェルナールには歯が立たないだろうしね」

 幸也は真剣な表情で言った。

 そこには、幸也が本気でそうしていただろうということが見て取れた。

「そんな、こと、だけで?」

「そんなことじゃない。とても重要なことだ。自分のために必死に戦ってくれている者を一人の人間ではなく道具としてしか見れないようなヤツは生きる価値がない。それに、僕はまだ完全にキミ達を助けていないしね」

 幸也の言葉に、ダーシェンカは首を傾げる。

 完全に助けていないとはどういうことなのか。ヴェルナールを葬った以上、当面敵がいるとは思えなかったし、何よりも、覚醒したイズミを狙うヤツなどそうそういないはずだ。

 ましてや、危険因子を排しているとなればなおのこと。

「実はね、生きてるんだよ。ヴェルナール」

 幸也はサラリと言った。本当になんてことのない、日常の一言のように。

「なっ!? だって確かに、」

「街の人の意識操作は解けていたかい?」

 ダーシェンカの言葉を遮り、幸也は諭すように言った。

「……解けて、なかった」

 ダーシェンカは呆然と呟いた。

 何故今まで気付かなかったのか。自分が幸也に抱き抱えられながらここまで来る間、誰一人として視線を向けてはこなかった。

 いや、もっと早くに気付くべきだったのだ。

 ヴェルナールがバラバラになったあの時に死んだというのなら、魔術は解け、街は大混乱に陥っていたはずだ。

「ヴェルナールは、キミの家族を犠牲にして、表現としてはおかしいけど、不完全ではあっても不老不死を手に入れている。ダーシェンカちゃんは不老不死がどんなものか知っているかい?」

 幸也の問いに、ダーシェンカは首を横に振った。

 魔術世界では不老不死は実現可能なものとして捉えられているし、不老不死を手に入れた者達の名前もいくつかは知れ渡っている。

 だがその実、不老不死を手に入れた者を見ることは、まず、無い。

 禁忌を犯したから身を隠さざるをえないからだ。

 だから、まっとうな魔術世界にのみ生きる者は、不老不死者には絶対に出くわさない。

「不老不死とは何も今ある肉体がそうなる訳じゃないんだ。不老不死者の肉体も、放っておけば老いるし、心臓だって止まる」

「じゃあ何が不老不死なんですか?」

「四次元魔術の永久施術。つまりは、自己の肉体の永久喚起」

 ダーシェンカの問いに、キリコが答えた。

 ダーシェンカはその内容に息を呑んだ。

 四次元魔術。

 最高位に位置する魔術で、これを行える者は一流と呼ばれる者達の中ですら稀有。それは技術面での難しさもさることながら、大量のエーテルを消費しなければ術式が発動しないという欠点があった。

 四次元魔術とは、エーテルを媒体にエーテルを込め、エーテルを受肉させることを言う。

それは物質を作り出すことと同義であり、三次元魔術を組み込めば生命を作り出すこととも同義となる。

 自己の肉体の永久喚起とは、自分自身のエーテルを媒体に、永久機関を利用して受肉させ続けることを指すのだろう。と、ダーシェンカは推測する。

 そして、ヴェルナールの肉体が醜い姿なのはそのプロセスのどこかに欠陥があるからなのだろう。

 そこをして、幸也は不完全な不老不死と表現したのだ。

「……では、ヴェルナールは再び肉体を喚起し、受肉している、と?」

 ダーシェンカの問いに、幸也は頷く。

「いつもなら、媒体となるヴェルナールのエーテルごと消し去るんだけど……今回はしなかった。何が言いたいか、分かるよね?」

「もう一度ヴェルナールと戦い、自分の身は自分で守れることを証明しろ、ということですね」

 ダーシェンカはその一言一言に強い意志を込めた。

 覚醒したといっても、イズミだけでは、ヴェルナールには敵わないだろう。ダーシェンカだけでは、ヴェルナールには敵わないだろう。

 だが、二人なら、勝算はある。

(ならば自分は、戦うだけだ。家族の仇を討ち、イズミの未来を作ってみせる)

 ダーシェンカは拳を強く握りしめ、自分自身に宣言した。

 たとえそれが、自分からイズミへ最後のはなむけになるとしても、迷いはなかった。

「それでこそ歴代キリコの作品だ。ダーシェンカ! そうそう、エーテル量の心配なら要らないからな。さっきの治療の時に俺のエーテル込めといたから。イズミくんのエーテルじゃなくても“キリコ”である俺のエーテルなら問題ないしな」

 キリコは快活にダーシェンカに言う。

「どうして、そこまで……?」

「アルシェラ奪還に協力してもらった礼だよ。まぁ、これで貸しはチャラだから二度目はないがな」

「……礼を、いう」

 ダーシェンカは、なんとかそれだけの言葉を絞り出した。

 眼前の少年に、どこか、当時の、二百年前のキリコを垣間見た気がしたのだ。

「さて、話が済んだのならダーシェンカちゃんはイズミに付いてやっててくれ。起きた時にキミがいないと、不安になりそうだからな」

 幸也はダーシェンカの肩にそっと手を置き、優しく言った。

 ダーシェンカは黙って頷き、ゆっくりとイズミの病室へ歩いていった。


「……驚いた」

 ダーシェンカがイズミの病室へ入ったのを確認したキリコは、呆然と呟いた。

「何が?」

「ネクロマンサーを狙うやつを殺すためなら、ネクロマンサーを利用すると断言していたダーシェンカが、あんなにしおらしくなるなんて。イズミくんって、恐ろしい女殺しだな」

「おいおい、人の息子をそんな風に言うなよ。というか今は“当代”のキリコでいいんだよな?」

「さぁ? どうでしょうね」

 幸也の問いに、キリコはいたずらな微笑みを浮かべる。

「……まったく。変な形で年食ってるヤツらはみんなこれだから嫌いなんだよ」

 幸也は深い溜息を吐き出し、肩を落した。

「まぁ、そう言わないで下さいよ。それよりも俺らは楽しもうじゃないですか。若い二人の行く先を、ね」

「まったく……親としては気が気じゃないんだがね」

 幸也はまんざらでもなさそうに苦笑し、ダーシェンカが消えていった病室を眺めていた。


 ダーシェンカが扉を開けて病室に入ると、イズミに付き添っていた雪が振り返った。

 ダーシェンカは何か言おうと口を動かすのだが、言葉が出てこなかった。それどころか足も病室の入り口で止まってしまう。

「こっちにいらっしゃいな。ダーシェンカちゃん」

 雪は微笑み、壁に掛けてあったパイプ椅子を広げて指し示す。

「は、はい……」

 ダーシェンカはおずおずと頷き、パイプ椅子に腰をおろした。

 それでも雪と向かい合うことは出来ず、伏し目がちにイズミの様子をチラチラと見るのが精一杯だった。

 イズミは穏やかな寝息を立てて眠っている。

 傷自体は肩口と腹部の二か所で、幸い臓器などに欠損は見受けられなかった。普通なら眠り続けるような怪我ではないのだが、極度の緊張の反動でこの状態になっている、というのが手当をした幸也の見立てだった。

 とても、緊張したのだろう。

 ゾンビのような攻撃をかいくぐり続け、感覚を共有してダーシェンカに助力し、あまつさえヴェルナールとも戦って見せた。

 そして、自分を庇って傷を負った。

 ダーシェンカはそのことを思い、唇を噛みしめる。気を抜けば、涙も溢れてきそうだった。

「……気にすることないのよ。ダーシェンカちゃん」

 顔を俯けるダーシェンカを不意に、雪が抱き寄せた。

 ダーシェンカを雪の温もりが包み込む。

 ダーシェンカは雪の唐突な行動に目を見開いたものの、その温かさを突き離すのは躊躇われ、そのまま雪に身を任せた。

「イズミがこうなったのはダーシェンカちゃんのせいじゃないわよ。イズミが自分の意思でダーシェンカちゃんを庇ったんだから。なんならこう言ってあげてもいいわ。悪いのはイズミよ」

 雪はダーシェンカの肩をポンポンと叩きながら、優しく、囁くように言った。

「で、でも、私さえ、私さえ、しっかりしていれば」

 ダーシェンカの声は震えていた。

 雪から何か罵倒される、という類の恐怖ならばどれだけ良かったことか。罵倒され、殺されかける恐怖のほうが何倍優しかったことか。

 ダーシェンカは、雪の優しさが怖かった。雪から漂う温かな空気が、ただただ恐ろしかった。

 涙が出そうなほどに恐ろしく、嬉しかった。

「……そうね。確かにあなたがイズミのエーテルを搾取して、万全の状態でヴェルナールと戦っていれば、もっと違う結果になっていたかもしれない。けどね」

 雪は語気を強め、ダーシェンカの両肩に手を置き、ダーシェンカとしっかりと視線を絡ませる。

 ダーシェンカも、雪から視線を外すことが出来なかった。外したら、二度と向かい合えなくなる気がしたから。

「私はイズミのリビングデッドがダーシェンカちゃんで、本当に良かったと思う。自分のことよりもイズミのことを考えちゃうような甘々のダーシェンカちゃんで、本当に良かったと思う」

 雪は、ダーシェンカは見据え、断言した。

「わ、私は……」

「そんなに難しく考える必要はないし、気に病む必要もないわよ。イズミは自分の意思でダーシェンカちゃんを庇った。それに忘れたの? イズミはあなたを庇いながら微笑んでたのよ? そこに後悔があるはずないわ」

 雪はダーシェンカの肩から手を放し、明るい微笑みを浮かべる。

「……あ」

 ダーシェンカはイズミが倒れていく瞬間のことを鮮明に思い出した。

 あの瞬間のことは、はっきりと覚えている。全てがスローモーションとなって頭の中に再生される。

 確かに、イズミは微笑んでいた。体に血を滲ませながらも、満足そうに。

「ね? ようはダーシェンカちゃんが、庇いたいと思えるほどのいい女だったってことよ」

 雪は微笑み、念を押すように首を傾げた。

 ダーシェンカはなんと答えればいいのか分からず、頬をほんのりと赤らめた。

 それでも、先ほどまでの陰鬱な表情は消えていた。

「あとはイズミが起きるのを待ちましょ。……まったく。たかだか二か所の傷でいつまで眠ってるつもりなんだか」

 雪は愛おしそうな視線をイズミに向け、呟いた。

 ダーシェンカも、切実さを秘めた瞳で、イズミを見つめた。


 ダーシェンカと雪が見守ること三十分。

 イズミの瞼がピクピクと動いた。そして、ゆっくりと目が開かれる。

「やっと起きたみたいね。私はお父さんを呼んでくるわ」

 雪は寝ぼけ眼のイズミを見て微笑み、部屋を出て行った。呼んでくるとは言ったものの、

父親とキリコは先ほどから部屋の前で待機しているのだが、ダーシェンカはそれを知らなかった。

「ん、あれ、ここ、は……?」

 扉の閉まる音でハッキリと目覚めたのか、イズミは目をしばたかせながらあたりの様子を窺っている。

「病院だ。イズミが私を庇って倒れたあと、イズミの両親に助けられ、私共々運び込まれたんだ」

「父さんと母さんが? それより、つっ!」

 イズミは体を起こそうするが、肩と腹に走る痛みに顔を歪め、再びベッドに体を沈めた。

「無理をするな。そのまま話してくれて構わない……いや、それよりも先に言っておきたいことがある」

「言って、おきたいこと?」

「あぁ。私を……庇ってくれて、その、ありがとう」

 ダーシェンカは顔を俯けて言った。横たわったままのイズミにとってはその方が、ダーシェンカの表情がよく見えたのだが、ダーシェンカはそれに気付かなかった。

 雪との会話がなければ、ダーシェンカは真っ先にイズミに対して謝っていただろう。だが、そうしなかった。それはきっと、イズミにとっては嬉しくない言葉だと気付かされたから。

「あ、いや、どういたしまして……なのかな?」

 案の定、イズミは照れ臭そうに笑いながら頬を掻いていた。

 傷を負ってなお変わらぬイズミの態度に、ダーシェンカは心の底から安堵した。冷たく当たられることも心のどこかでは覚悟していたのだが、要らぬ覚悟だったらしい。

「本当に、ありがとう……」

 ダーシェンカの声は震えていた。

 先ほどよりもより深く、顔を俯けている。

 温かいしずくが、頬を伝い、流れ落ちていく。

「え!? ちょっと! どうしたの!? ダーシェンカ! ぼ、僕なにかした!?」

 イズミは体の痛みなど忘れて起き上がり、ダーシェンカの肩に手を置いた。

「なんでも、ない。ただ、ちょっと……」

 ダーシェンカは必死に涙を止めようとするのだが、止まってはくれなかった。次から次へと溢れ出てくる。

 雪の優しさはなんとか耐えられたのだが、イズミの優しさは、どうしても、耐えることが出来なかった。

 イズミはなんとかダーシェンカを落ち着けようといろいろと言葉を掛けるのだが、それは全く逆の効果を発揮してしまった。

 ダーシェンカは「大丈夫だから」とほほ笑むのだが、涙は止まらない。

 そんなときに、扉がガチャリと音を立てて開いた。

 そこから姿を現したのは、いやらしい笑みを浮かべた幸也と、口元に微笑を称えたキリコ。少し遅れて、呆れ顔を幸也とキリコに向けた雪が現れた。

「その歳で女の子を泣かせたとなると、案外キリコの言う通りなのかもな。ウチの息子は」

 幸也はシゲシゲと頷きながら、キリコを見やる。

「ですよね。まったく、末恐ろしい、いいえ。既に恐ろしいですよ」

 キリコも幸也を見ながらワザとらしく頷いた。

「父さん、母さん。それに……キリコ、さん?」

 イズミは部屋に入ってきた者達を視界に入れ、呆然と呟いた。

 ダーシェンカも慌てて涙を拭い、幸也達に視線を向ける。

「二人きりのところを邪魔して非常に申し訳ないのだが……正直、時は一刻を争うのでな。

手短に説明させてもらうぞ」

 幸也はニタついていた顔を引き締め、口火を切った。

 幸也は要点だけをまとめ、自分の立場、ヴェルナールの生存、イズミが為すべきことなどを説明する。

 その言葉には親としての情は一切含まれておらず、アクロマ機関の“審判者”としての淡白な言葉だった。

「……分かった」

 それでもイズミはぼやき一つ漏らさず、力強く頷いた。

 それにはダーシェンカを除いた部屋の者全員が、少なからず驚きを覚えた。

 だが、ここ数週間のイズミを間近で見てきたダーシェンカにはなんら驚くことではなかった。

 イズミという少年は、こういう強さを持っているのだ。

 何の仕掛けもないような肝試しにさえビビろうと、回避術の訓練中になんど情けのない言葉を吐こうとも、やるときは、やる。

 ゾンビのような男達の攻撃だけでなく、ヴェルナールの攻撃にすら立ち向かっていく。

 咄嗟に、ダーシェンカを庇うことだってする。

「しばらく見ないうちに、いい表情をするようになったな……まぁいい」

 幸也はしみじみと言いながら頭を振り、続けた。

「とにかく、お前たち二人はヴェルナールを倒す必要がある。だが正直、普通に戦っても勝算は低いだろう」

「そんなの、」

 やってみなきゃ分からない、と言いかけたイズミを、幸也は手で制する。

「だから、普通に戦わなければいい」

 幸也はニヤリと笑い、イズミ達に秘策を伝えた。

 それを聞いたイズミとダーシェンカは顔を見合わせ、二人同時にゴクリと固い唾を飲み込んだ。

 幸也の秘策は王道中の王道である、奇襲。

 イズミとダーシェンカが固唾を飲んだのは、奇襲という作戦ではなく、その決行日時。

 奇襲の日時は、二日後。

 傷を負っているイズミにとってはなかなか厳しい日時。だが、そこに明確な理由がある以上、それ以外の案は思いつけなかった。

 不老不死者が肉体の喚起を行うには、多大な疲労が伴うらしく、攻めるには早い方がいいというのが第一の理由。

 そして、第一の理由だけならば今すぐにでも奇襲を仕掛けるのだが、そこには問題があった。

 イズミの、魔術に対する防御・回避能力がまだ低いということと、身に負った傷。

 だから今日は体を休め、明日は魔術の訓練に費やすというのが幸也の狙いだった。

 本来一朝一夕で魔術に対する防御・回避能力は身にかないのだが、ダーシェンカとの訓練である程度の基礎能力を身につけていたイズミは学ぶことが少ない、というのが幸也の弁。

 何よりも、感覚的にではあるが、ヴェルナールの水晶玉を退けていたのが大きかった。

「とりえず今日は体を休めて、」

「必要ないよ」

 幸也の言葉をイズミは遮る。

 皆一斉に、目を見開き、イズミを見つめる。

「どうせ怪我は今日一日じゃ治らない。だったら、今日から訓練を始めたほうがいい」

 イズミは皆の視線を気にすることもなく言い切り、ベッドをするりと抜け出し、立ちあがった。

 イズミは少しだけ顔をしかめたが、立つ分には問題ない程度の苦痛だった。動くにはどうか、と考えると若干問題がありそうだったが、気にしている場合ではない。

「お、おいイズミ。無理はよくないぞ」

 ダーシェンカは立ち上がったイズミに歩み寄り、不安げな視線を向けた。

「大丈夫だよ、ダーシェンカ。キミの傷と比べたら大したことない」

 イズミはダーシェンカの姿を見やり、微苦笑する。

 ダーシェンカは体中に――首から下全部と言っていいほど――包帯が巻きつけられていた。

 ダーシェンカの負った傷は、生身の人間ならばショック死しているほどのもの。だが、リビングデッドには致命傷の一歩手前という程度で、キリコの迅速な手当によってことなきを得ていた。

 エーテルを注ぎ込み、身体組織の復旧を終えてしまえば、リビングデッドとしては完治も同然で、包帯もあまり意味をなさないのだが、傷が塞がるまでは巻いておけという幸也の指示でこのような姿になっていた。

 ダーシェンカは何を無駄なことを、と考えたのだが、今にして思えば、傷だらけの姿を見せるよりは、包帯まみれの体の方がイズミを傷付けずに済むという幸也なりの配慮があったのだろう。

 ダーシェンカもいまは幸也の判断に感謝していた。

「私は……大丈夫だからいいんだ」

 ダーシェンカは白のワンピースから覗く包帯だらけの体を見ながら苦笑した。

「僕も大丈夫だからいいんだよ……それに、頼まれたから」

 イズミは微笑みながら言う。最後の言葉は、誰にも聞き取れないほどの声量で。

「大丈夫って……ん? 何か言ったか?」

「え? 何も言ってないよ?」

 不思議そうに首を傾げるダーシェンカに、イズミはとぼけた返事を返す。

「本当に、大丈夫なんだな?」

 黙ってイズミの様子を窺っていた幸也は、念を押すように尋ねた。

 イズミはその問いに、力強く頷いた。

「よし。ならついてこい」

 幸也は真剣な表情で言い、部屋を出ていく。

 幸也につき従う形で、イズミ達も部屋を後にした。


 イズミ達が行き着いた先は、病院の屋上だった。

 バスケットコート半面ほどの広さの屋上は、割と高い位置にあるらしく、周囲のビルの屋上をいくつか見下ろすことができた。

 吹きぬける風も心地よく、照りつける陽光を差し引いても、夏にはなかなか過ごしやすそうな場所だった。

 いつものイズミならば、ここでお昼を食べだたら気持ちいだろうなぁ、などと考えていただろう。

 だが、今は違った。

 緊張した面持ちで、眼前に立っている幸也の背中を見つめている。その額には、びっしりと脂汗が浮かんでいた。

 大丈夫とは言ったものの、歩くたびに鈍痛が体を苛み、何度も歯を食いしばることとなった。

 だがそれでも、立ち止まるわけにはいかない。ヴェルナールとの戦いは自分自身の問題でもあり、同時に、ダーシェンカの父から託された願いも絡んでいるのだから。

 ダーシェンカの父との邂逅が、痛みに浮かされて見た夢なのか、感覚共有の延長で垣間見たものなのかは、どうでもいいことだった。

 ヴェルナールを倒せば、全て解決するのだから。

 イズミ自身の問題も、ダーシェンカに絡みつく因果も、全て断ち切ってみせる。

 そんな覚悟を秘め、イズミは幸也が口を開くのを待った。

「……正直、ヴェルナールはイズミにとって強敵中の強敵と見て間違いないだろう」

 幸也は、背中を見せたまま語り始める。

「普通の魔術師ならば、エーテルに限界があるから、ネクロマンサーとして覚醒してしまえば圧倒的エーテル量と力技で押し切れる。だが、ヴェルナールはそれが通用しない。それがどういうことか分かるか?」

 幸也は振り返り、並び立っているイズミとダーシェンカを見据えた。

「技術で競り勝つしかない、ということですか?」

 首を傾げるイズミに代わり、ダーシェンカが答える。

「それも選択肢の一つではある。だが、そんなことは一朝一夕でイズミに出来るようになる筈がない」

「そもそも、どうやってヴェルナールを消滅させるのさ? 普通に倒しても何度でも再生するんだろ? それもその場でじゃなくて、他の場所で。逃げられたら面倒じゃないか」

 思案顔のイズミは、独り言のように呟いた。

「逃げることはないから安心しろ。ヴェルナールの体はもう限界に近い。肉体喚起は、出来てあと数回だろう。だから、確実にもう一度イズミを狙ってくる。いや、父さんを狙っていると見るべきかな。大方ヴェルナールはイズミの前には父さんが立ち塞がっているの思ってるだろうし」

 幸也は肩をすくめ苦笑し、続けた。

「とにかく、ヴェルナールに勝つ方法はただ一つ。一撃必殺しかない」

 幸也は至って真剣な表情で言い切る。

 その言葉に、イズミとダーシェンカは同時に首を傾げた。

 自分より遥か上の技量を誇る相手に、一撃必殺など望める筈がない。

「ねぇ、父さん。本気で言ってるの?」

「本気さ。あ、でも一撃必殺という言葉は適切ではないかもな。いくつかの手数を繰り出しつつ、必殺の一撃で仕留める、と言った方がいいかもしれない」

「……余計に分からないんだけど」

 イズミはこの上ないジト目を幸也にぶつける。

 幸也はその視線を軽い嘆息で受け流し、微笑んだ。

「まぁ、実際に訓練した方が早いかもな。ところでイズミ。お前いま、エーテルが視えてるか?」

 幸也の問いにイズミは首を横に振る。

 エーテルを視る、ということがどういうことなのか、イズミはいま一つ分からなかった。

 淡い光がエーテルらしいということは分かったが、どのような条件下でそれが視えているのかが分からなかった。

 靄のように見えることもあれば、視界を完全に覆うこともある。

 結局のところ、イズミ自身としては自分の何が今までと変わっているのかが分からなかった。

 ヴェルナールとの戦いのさなかに感じたエーテルを操る感覚も、あまりに自然に操っていたせいで、どのように操っていたのか覚えていなかった。

「……ふむ。キリコ、どう思う?」

 幸也は思案顔をキリコに向ける。

「そうですねぇ……正直イズミくんのエーテル可視領域は異常ですからね。脳に負担を掛けないように身に危険が及ばないと視えない、とかですかね。ま、そんな事例は聞いたこともないでけすどね」

 キリコは苦笑しながら肩を竦めた。

「エーテル可視領域って、なんですか?」

「まぁ、エーテルに関する視力と考えてもらって構わないよ。普通の視力がどれほど遠くのものを見渡せるか、なら、エーテルの可視領域ってのは、どれだけ密度の薄いエーテルを見ることができるかってことかな?」

 イズミの問いに、キリコは即座に解説を加える。

「はぁ……異常ってのは、良い方向にですか? それとも悪い方向に?」

「うぅん……一概には言えないかな。イズミくんは可視領域が異常に高いんだ。確かにそれは戦闘には有利だけど……あの暗闇を覚えてるでしょ? あれは、空気中に漂う微量なエーテルも捉えることによって起こるんだ。つまり、普通の視界はゼロになっちゃう」

「一長一短、ってことですか……」

 キリコの言葉は、イズミの背中に寒いものを走らせた。

 あの暗闇は、とてもじゃないが、心地いいものではなかった。ただ瞼を閉じるのとはまるで違う。陽の光の届かない深海にいるような、とても寂しい、茫洋とした恐怖を感じるのだ。

「まぁ、イズミがエーテルを操れなければ話にならない。まずはそこからだな」

 暗く顔を俯けたイズミを励ますように、幸也は明るく言った。

「そうだね。やることをやろう」

 イズミは心の底に渦巻く不安を振り払うように、力強く、自分に言い聞かせた。

 やることをやるとは言ったものの、何をすればいいのか、イズミにはまったく見当がつかなかった。

 回避術の訓練、などならばいくらでもイメージがつかめるのだが、魔術の訓練など想像することも出来ない。

 エーテルが視えていないこの状況で何が出来るのか、という疑問すら持っていた。

 イズミは幸也に、率直に疑問をぶつけてみることにした。

「僕は、何をすればいいのかな?」

「簡単だ。まずはエーテルが視えるようにならなきゃいけない。それも、自分の意思で自由自在に。まぁ、まずは強制的に見えるようになって貰うけどね」

 幸也は意地の悪い笑みを浮かべる。

「そんなこと、出来るの?」

 不安げに、イズミは呟く。

 イズミの中では、自由自在にエーテルを視えるようにするということは、幽霊を視えるようにするのと同じくらい難解なことだった。ようは、想像が追い付かないということ。

「出来るさ。なんてったってここには人体改造のスペシャリスト様がいらっしゃるんだから」

 幸也はニヤリとほほ笑み、傍らに立つキリコを親指で指し示した。

「人体、改造……」

 イズミはいかがわしいモノを見る目つきをキリコに向けた。

「おいおい、そんな目で見ないでくれよ。確かに、リビングデッドを作っているという点で、俺は人体改造のスペシャリストだが、なんかイズミくんは間違った想像をしてる気がする」

 キリコは苦笑いながら肩をすくめた。

「なにも俺は頭に電極刺したり、腕をドリルにしたりする訳じゃないよ? ただちょーっとだけ人としての限界を越えさせてあげるだけさ」

「……どの道、危ない気がするんですけど」

「まぁまぁ、案ずるより産むがやすしと言うじゃないですか」

 イズミの怪訝な視線を意に介する様子もなく、キリコは優しげな微笑みを浮かべながらイズミに歩み寄る。

「ちょっとごめんね」

 キリコはそう言うと、イズミの額に手を当てた。

 イズミが、キリコの手の冷やかな感触を感じたのも束の間、頭に衝撃が走った。

 激痛ともまた違う、衝撃としか言い表しようのない奇妙な感覚。

「はい、お終い。どう? 視える?」

 呆けているイズミの顔を、キリコが覗き込む。

 その言葉に意識を取り戻したイズミは周囲を見渡した。

 確かに、視界は一変していた。

 屋上にいる全員の体から淡い光が発せられている。それぞれに個性があるらしく、幸也は赤色、雪は白色、ダーシェンカは淡い青色、キリコは金色だった。

 そしてイズミ自身は、奇しくも、ダーシェンカと同じ淡い青色だった。

「視え、ます」

 イズミは初めてコンタクトを付けたかのような様子で周囲の景色を眺め続けた。

「無事成功みたいです。それじゃ、あとは幸也さん、お願いします。たぶん半日はその術式でもつと思います。運が良ければそのままコツ掴んで、自分で可視領域を調節できるようになるでしょうしね」

 キリコは微笑みながら言うとその場を離れ、屋上に張り巡らされたフェンスに寄り掛かり、腰をおろした。

「よし。それじゃあ始めるとしようか。基礎やらなんやらは時間が全く足りないので、実戦形式でいこう」

「実戦、形式?」

「そう、実戦形式。父さんをヴェルナールだと思って、イズミとダーシェンカちゃんの二人で掛ってきなさい。無論、本気でね」

 幸也は微笑みながら言い、拳を構えた。

 ダーシェンカも異を唱えることもなく身構える。

 だがイズミはすぐに身構えられなかった。

 ヴェルナールを退けたということは、父は確かに強いのだろう。だが、目の当たりにしていない者としては、父に二人掛かりで挑むのは躊躇われた。うち一人がダーシェンカとなればなおさらだ。

「イズミは見ていなかったから分からないだろうが、イズミの父上は強いぞ? それもかなり」

 すっかり臨戦態勢に入っているらしいダーシェンカはイズミを見据えたまま言った。

 イズミもその言葉に覚悟を決め、身構える。

 ダーシェンカと共闘するのは初めてのことだし、何よりも共闘するなどとは夢にも思っていなかったのだが、緊張はなかった。

 これまでの訓練でダーシェンカにみっちり叩きこまれたことは、何も回避術だけではない。そこには、ダーシェンカの呼吸や、思考の癖だって沁み込んでいた。

(なんとか、動きを合わせてみせる)

 イズミは胸中に呟き、幸也かダーシェンカが動くのを待った。

 最初に動いたのはダーシェンカだった。

 地面を力強く蹴り、一歩で幸也との距離をゼロにする。そのまま躊躇いのない拳打を幸也の顔面に放つ。

「初手としては悪くない」

 幸也は口元に笑みすら浮かべながら頭を振り、ダーシェンカの拳打を避ける。

 しかし、幸也が頭をずらした場所にはイズミの拳が迫っていた。

 ダーシェンカの動きから幸也の行動パターンのいくつかを割り出していたイズミは、正確無比な一撃を幸也に叩き込んだ。

 イズミの拳打に体勢を崩した幸也を、ダーシェンカの蹴りが襲う。

 幸也はそのまま吹き飛び、屋上のフェンスに叩きつけられた。

 フェンスがしなり、けたたましい金属音を上げる。

 呆気なく攻撃を喰らった幸也に、イズミとダーシェンカは互いに顔を見合わせた。

 こんなハズではない、と。

「ふむ。統率の取れたいい動きだ」

 ダーシェンカの一撃を喰らったというのに、幸也は何事もなかったように呟き、拳を構え直す。

「……だが、それだけでは足りないのは分かるよね?」

 ニヤリと、幸也は笑った。

 イズミは視た。幸也が笑みを浮かべた瞬間に、幸也のエーテルがザワザワと蠢いたのを。

「ダーシェンカ。父さんのエーテルの質、変わったよね?」

 イズミは幸也に視線を向けながらダーシェンカに問うた。

「私は魔術無効化を発動させてる時だけしかエーテルをハッキリ捉えることは出来ないんだが……それでも感じる。何か危ない」

 そう呟いたダーシェンカの顔には、緊張がありありと浮かんでた。

「どう、する?」

 動く様子を見せない幸也を見ながらイズミは呟く。

 イズミもある程度の判断能力は付いているが、攻めるとなるとダーシェンカに頼らざるをえなかった。

 ダーシェンカの判断力にはまだ劣るというのが第一の理由で、イズミの攻撃手段では相手に致命傷を与えられないというのが第二の理由だった。

「ほら、それ。それじゃ勝てないっての、わかるよね?」

 幸也は構えを解き、苦笑しながら肩をすくめた。

 そしてそのまま、イズミとダーシェンカに歩み寄った。

「攻撃の基軸は常にダーシェンカちゃん。イズミはあくまで陽動。まぁ、よしんばイズミの攻撃が当たったとしてもなんのダメージもないから陽動としての価値は低い。なんならイズミの攻撃なんて回避しなくてもいい」

「それは……そうだけど」

「父さんが二人に望むことは何も統率のとれた動きじゃない。二人がそれぞれに父さんを殺せるぐらいの一撃を喰らわせることだ。ダーシェンカちゃんも無意識のうちに蹴りの勢いを殺していた。安心しなさい、僕はキミの本気の蹴りを喰らったところで死なないから」

 幸也はダーシェンカに向かって微笑みながら、自分の胸を叩いた。

 ダーシェンカは幸也の言葉におずおずと頷く。

 ダーシェンカとしても、なんら魔術を施していない人間に本気の一撃を叩きこむのは抵抗があったようだ。

「それからイズミ。お前は自分がエーテルを視れるという利点を全く活かしていない。いいか? その能力は意外と役立つんだ。しばらくは戦闘に参加しなくていいから、ダーシェンカちゃんと父さんの訓練を眺めてなさい」

 幸也の言葉に、イズミは黙って頷く。

 それを見た幸也は満足そうに頷き、ダーシェンカとの戦闘訓練を再開した。

 ダーシェンカと幸也のやりとりは、戦闘訓練とは思えないほどの様相をなしていた。

 何も知らずにこれを見たら、確実に殺し合いをしていると判断してしまうほど、凄絶なやりとり。

 ダーシェンカの動きは最初よりも格段に鋭さを増し、ほんの少しかすっただけでも肉を削げ落せそうなものと化していた。

 対する幸也も全く引けを取っていない。ダーシェンカの動きを最小限の動きでかわしつつ、所々でカウンターを返したりしている。

 何よりもイズミを驚かせたのは、幸也がダーシェンカの攻撃を要所要所で受け止めていることだった。

 生身の人間には不可能なことを、幸也は軽々とこなしている。

 エーテルの視えないイズミならそう判断していただろう。だが、見えているイズミはそう判断しなかった。

 冷静に幸也のエーテルを観察し、その原因を探る。

 幸也は、ダーシェンカの攻撃が自身の体に触れる寸前に、何か小細工をしている。微かではあるが、幸也のエーテルが打撃点に集まるのを、イズミは見逃さなかった。

 だが、幸也が何をしているのかまでは皆目見当がつかなかった。もっとも、魔術の知識に乏しいイズミに術式の解明まで求めるのは、甚だ酷な話なのだが。

「幸也さんが何しているか、分かるかい?」

 いつの間にやらイズミの脇に立っていたキリコが口を開いた。

 その視線は、イズミにではなく、幸也とダーシェンカに向けられている。

「エーテルが集まってる、というのだけは分かるんですけど……あとは全然」

 イズミも戦闘から目を逸らさずに答える。

「今の状態でそれだけ分かれば合格、かな。まぁ、ヴェルナールと戦ってたときのキミなら直感で理解したんだろうけど……アレはね、キミがヴェルナールの水晶玉にやっていたことと同じだよ」

「僕がやってたこと? エーテルのベクトル変更、ですか?」

「そう。ダーシェンカちゃんの攻撃が触れるその刹那に、肉体強化のエーテルのベクトルを変更して力をいなしてるのさ。ま、あんな化け物的な技を使えるのは世界に五人といないんじゃないかな? 実際に見たことあるのは、幸也さん以外では一人しかいないけど」

 キリコはクスクスと笑った。

 何が面白いのかはイズミにはよく分からなかったが、幸也が只者でないということは嫌でも理解させられた。

 ダーシェンカの拳打をコンマ何秒の世界で捌くなど、イズミには一生出来そうもない。

「父さんが凄いってのは分かりましたけど……そんな化け物にどうやって一撃を加えろって言うんですか?」

「うーん……本気の幸也さん相手なら一撃なんて望むべくもないんだけど、これは訓練だからねぇ。きっと幸也さんはどこかにワザと隙を作り出してるからそこを突けばいいんじゃないかな」

 キリコはしばらく考え込んだのち、苦笑いを浮かべて肩をすくめた。

 キリコ自身も、幸也に隙は見いだせていないらしい。

 それを察したイズミは眉を寄せ、より一層幸也の動きを注視した。

 幸也が見ていろ、と言ったのはエーテルの流れを見るだけでなく、隙を見出せということなのだろう。

 だが、見つめれど見つめれど隙は見えてこない。

 分かったのは、幸也が状況を常にゼロに保っているということだけ。

 ダーシェンカがいつものようにチェックを掛けるための攻撃を仕掛ければ、幸也はそれを巧妙にいなして、攻め込ませない。かといって自分は攻めるでもなく、ひたすらにダーシェンカの攻撃をゼロに戻すことしかしていない。

 訓練だから、と片付けることもできる。だが何かが引っかかった。

「……あれは、僕?」

 イズミの頭の中で、今の幸也と、ヴェルナールと戦っていたときの自分の姿がぴったり重なった。

 戦闘のパターンこそ違えど、ダーシェンカの攻撃に応じ続け攻めに転じない幸也と、ヴェルナールの攻撃を捌き続ける自分の姿は同じものだ。ベクトルの変更という対処法もピッタリ重なる。

「そう、それだよイズミ!」

 イズミの呟きを聞き取ったらしい幸也は、眼前に迫ったダーシェンカの回し蹴りを何食わぬ顔で受け止め、満面の笑みを浮かべた。

 ダーシェンカが顔を赤らめながらスカートの裾をおさえたことに、イズミは思わず意識を持っていかれそうになったが、雪がことの重大性に気付いていないらしい幸也に駆け寄り、ボディブローをかましてくれたおかげで事なきを得た。

 幸也は腹を押さえながらダーシェンカに謝罪すると、顔を歪めながらも口を開いた。

「ようは、アレだ。今のイズミの能力は、フル活用したところで防戦一方にしかならないということに気付いてほしかった訳だ」

「そんなの口で言ってくれれば、」

「口で言ったところで、それがどれほど惨めで役立たずか伝わらないだろ?」

 幸也の容赦のない言葉に、イズミは渋々ながらも頷かざるをえなかった。

 確かに、百聞は一見にしかず、だ。だが、それでも納得がいかない。

 それを知らされたところで、どうしろというのだ。知ったところで、イズミにはどうしようもない。ばかりか、今のイズミにはエーテルのベクトル変更もままならないのだ。

 むしろ、こんな事を気付かせるよりも先にベクトル変更のやり方でも叩きこんでくれ、というのがイズミの考えたことだった。

「だから、エーテルのベクトル変更なんてみみっちぃコトは忘れなさい」

 幸也は、本当に、なんてことなく、サラリと、言いきった。

「なっ!? そんなことしたら僕は本当に役立たずになっちゃうじゃないか!」

 イズミは幸也の元に歩み寄り、今にも掴みかからんばかりの勢いでまくし立てた。

 だが幸也はそれを意に介する様子もなく笑みを浮かべ、続けた。

「イズミは役立たずでいいのさ。覚醒したてのネクロマンサーが、禁忌に手を染めているヴェルナールのような魔術師に対抗できるもんじゃない。奇襲の要はダーシェンカちゃんだ」

「……それじゃあ父さんは、僕は結局ダーシェンカのお荷物ってことを教えたかったのかよ」

 イズミは顔を俯け、両拳を、手の甲が痛くなるほどきつく握りしめた。

「イ、イズミ、私はそんなことは思ってない。キミがいるだけで私は……」

「イズミを慰める必要はないよ? ダーシェンカちゃん。だって僕はまだ一言もイズミがお荷物だとは言ってないもの」

 幸也は口元に微笑を浮かべながら、優しく言った。

 その言葉に、イズミは顔を上げる。

「どういう、こと?」

 イズミの目は微かに潤んでおり、声は震えていた。

 イズミのそんな姿に、ダーシェンカは息を呑んだ。

 イズミは、自分のことなどこれっぽちも考えていないではないか。普通の人間ならば、こうはなるまい。幸也の容赦ない言葉は、イズミが役立たずだとしても、ダーシェンカがイズミを守ってくれるということの証明なのだから。

 それでも、イズミは涙を浮かべている。

 それは他ならぬダーシェンカのために。自分の命がどうこう以前に、ダーシェンカ一人に負担を掛けることが辛いと、心の底から思っている。

 なぜそこまで単なる道具の自分を気に掛けるのか、などということは、もはや考えなかった。

 イズミという少年はこういう存在なのだと、痛いほどに分かっているから。本当に、痛いほどに。

 だからダーシェンカは、イズミにそれ以上言葉を掛けず、胸のうちでイズミを守り抜く決意を固め、幸也の言葉を待った。

 イズミとダーシェンカが注視する中で発せられた幸也の一言は、恐ろしく単純で、恐ろしく難解なことだった。


 * * *


 幸也の発言内容に則した訓練もあっという間に最終日の二日目を迎えていた。

 二日目の今日、一日中ぶっ通しで訓練を受けたイズミは、今にも死にそうな表情で病室のベッドに倒れ込んだ。

「つか、れた……」

 枕に顔を埋め、イズミは呟く。死にそうな表情である反面、声は達成感が滲み出ていた。

肉体的には疲労の限界値まで追いつめられたが、自分にもやれることがあるということは、

イズミにとって何よりも救いとなっていた。

 ダーシェンカはそんなイズミに苦笑しながら、ベッドの横に置かれたパイプ椅子に腰を下ろす。

 陽はすっかり落ち切り、病室を照らすのは蛍光灯の明かりだけだった。白く無機質な光だというのに、やけに優しく感じられる。

「……大丈夫か?」

 顔を埋めたままのイズミを見やり、ダーシェンカが声を掛ける。

「大丈夫だよ。まだ少し頭がズキズキするけど……最初よりはだいぶマシになった」

 イズミは埋めていた顔を上げ、ダーシェンカに苦笑を向けた。

 その表情に、ダーシェンカも安堵の微笑を洩らす。

 実際のところ、幸也がイズミに貸した課題は苦笑で済ませられるほど生易しいものではなかった。

 幸也がイズミに貸した課題は、二つ。

 ダーシェンカもそのうちの一つをこなしたのだが、リビングデッドであるダーシェンカと、生身の人間であるイズミとでは、苦労の度合いが違っていた。

 二人がともに課された課題は、感覚共有。

 それも、アルシェラとの戦いで発揮されたあやふやなものとは比べ物にならないほど、精緻せいちなレベルの感覚共有。

 感情ではなく、視覚を共有するのが幸也の課した課題だった。

 確かに、戦闘を眺めているイズミの視界と、戦闘を行っているダーシェンカの視界を共有できれば、状況把握の精密度は格段に増す。なんと言っても、俯瞰と凝視を同時に行え、

さらには、イズミが視ているエーテルの流れを、ダーシェンカも視ることが出来るようになるのだから。

 しかし、それには代償が伴う。二つの視覚情報を一つの脳で捌くのだ。その負荷は生半可なものではない。下手をすれば脳が壊れてしまう。

 そのリスクをキリコの魔術で下げられるまで下げて感覚共有の訓練は行われたのだが、それでも、イズミを襲った頭痛は気を失いかけるほどのものだった。

 それでもイズミは泣き言一つ吐かず、訓練を終えた。

「ちゃんと、出来るかな?」

 イズミは体を起こし、窓の外に広がる星空を眺めながら、ポツりと呟いた。

 その出来る、というのが感覚共有を指していないことを、ダーシェンカは即座に察する。

 感覚共有は、キリコの助けがなくても、問題なく発動できるようになっているから。

 イズミが出来るかどうか不安なのは、イズミにのみ課された二つ目の課題のことだ。

「出来るさ。イズミなら」

 ダーシェンカはイズミの視線の先を見ながら、静かに答えた。

 幸也がイズミに課した二つ目の課題は、永久機関を使用した莫大な量のエーテル放出。

 莫大な量のエーテルを一秒以内に放出する、という課題。

 イズミは意外にも、その課題をいくつかコツを聞いただけで、いとも容易くこなした。

 魔術師としてもネクロマンサーとしても才能のないダーシェンカとは違い、イズミはその方面の才能が秀でている、というのはキリコの弁。

 それでもイズミが不安に駆られているのは、ヴェルナールとの戦いにおいて、それを行うのが最重要局面だからだ。

 イズミの大量のエーテルをヴェルナールに叩き込み、ヴェルナールのエーテル全てを消し去る。

 言ってしまえば、止めの一撃がイズミに課された課題だった。

 ダーシェンカは、イズミがその一撃を成功させられるかどうかということよりも、イズミが一人の人間を消し去らなければならないということの方が気掛かりだった。たとえそれがヴェルナールのような、人の道を外れた存在だとしても、イズミの心に重くのしかかってしまうだろう。

 本来ならばダーシェンカがトドメを請け負うのだが、不完全とは言え不老不死のヴェルナールに限っては、それが不可能だった。

 不老不死者を殺す方法はただ一つ。不老不死者のエーテルを完全に消し去ること。つまりは膨大なエーテル量をもつネクロマンサーにしか為し得ない業。

 ネクロマンサーの魂によって不老不死をえた者が、ネクロマンサーによってのみ殺されるというこの上ない皮肉。

 それがどうにも、今のダーシェンカには憎らしかった。

「ねぇ、ダーシェンカ」

 イズミは星空から視線を戻し、ダーシェンカを見つめた。

「ん? なんだ?」

「僕がキミのお父さんと話したことがある、って言ったら、信じてくれる?」

「な……信じられないが、信じよう」

 ダーシェンカは目を見開いたあと、口をとがらせながら呟いた。

「何それ、信じてるのかどうかよくわかんないよ」

 イズミはクスクス笑う。

「その発言は信じられないけど、イズミはその手の嘘はつかないと信じてるからな。その手の冗談なら言いかねないが……」

「安心して。嘘でも冗談でもないから。……ただ、夢の話かもしれないってのはあるんだけどね」

「夢の、話?」

「そう。夢かもしれない話」

 イズミは微笑み、自分の身に起こった不可思議な出来事をダーシェンカに包み隠さず語った。

 聞き終えたダーシェンカはただ呆然と目を見開き、何か言葉を発そうとはするものの、口がパクパクと動くだけだった。

 イズミの語った内容はあまりにも正確すぎたのだ。

 シャンデリアが照らし出す父の書斎、姉のラズの目を盗んで、父にお話をせがんでいた幼いダーシェンカ。

 イズミの語ったことは何もかも、ダーシェンカの記憶そのままだった。

 ダーシェンカがイズミに家族のことを語った事は一度もない。ましてや、父の書斎についてなど語る筈がない。

 それでも、イズミの言ってることは正確だった。

「もし、ダーシェンカの記憶を勝手に覗いちゃったんだったら、ごめん。でも、僕はダーシェンカのお父さんとの会話が夢であろうとなかろうと、ヴェルナールを“殺す”ことに迷いはないよ」

 イズミは“殺す”という言葉を強調した。

 イズミの中でもやはり、考えざるをえないところだったのだろう。覚悟を決めてリビングデッドになったダーシェンカとは違い、平和な時間を過ごしてきたイズミにとっては人を“殺す”ということは多くの苦痛を伴うことだ。

 それでもイズミは“倒す”などではなく“殺す”という言葉を使った。

「イズミ、キミは、どうして、そこまで優しいんだ……?」

 ダーシェンカはところどころ言葉を詰まらせながら、言った。

「優しくなんか、ないよ。ヴェルナールを殺すことだって、結局は僕自身のためってことで片付けられるんだから……迷いがないっていうのも、きっと嘘だよ。本当に迷いがなかったら、こんな話、ダーシェンカにしないもの」

 イズミは弱々しく微笑む。

「迷って、当然だ。イズミは私と違ってまっとうな人間なんだから」

 ダーシェンカは、そっとイズミの手に自分の手を重ねる。

 イズミの手は、微かに震えていた。

 こんな状態でも、イズミはダーシェンカのことを気にかけている。

 そのことが、ダーシェンカにとって何よりも嬉しく、切なかった。

「ヴェルナールを殺すという罪を、全て私に押しつけてくれても構わない。私は、最初からアイツを殺すつもりだったんだから」

 ダーシェンカはイズミの手をそっと握りしめる。

 願わくば、イズミの不安が、罪の意識が消えるように、と。

「それは……やっちゃいけないことだと、思う。だから、ダーシェンカに一つだけお願いがあるんだ」

 イズミはダーシェンカの手の上に手を重ね、ダーシェンカを見据えた。

 ダーシェンカもイズミを見つめ、イズミの言葉を待つ。

「僕と一緒に、罪を背負ってほしい」

 イズミは、静かに、力強く、言った。

 ダーシェンカはその言葉に、言葉を忘れた。

 言葉を忘れたダーシェンカは、ただ、黙って頷いた。

 その返答が、嘘になるということを知りながらも。

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