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第3章 転がりはじめた物語は、群衆を巻き込む(3)

「醜いだろう? これが二百年前に魔術に失敗し、不完全な不老不死を手に入れ、二百年間生き恥を晒し続けた男の姿だよ」

 ヴェルナールは手にしていたハットを放り投げ、自嘲気味に肩をすくめた。

 醜い外見と紳士的な声が、ヴェルナールに対する印象を酷くチグハグに植え付けてくる。

「私の言ってること分かるよね? 不完全な不老不死なんて、つまるところは長寿に過ぎない。そして私はそろそろ寿命のようなのだよ。動くのも辛くてね」

 言葉を失っているイズミとダーシェンカをよそに、ヴェルナールは続けた。口元がヒクヒクと動いているのは、ひょっとすると微笑なのかも知れない。

「だからね……今度は失敗するわけにはいかないのだよ」

 ギョロリとヴェルナールの眼がイズミを捉える。

 イズミはその視線に気圧され、思わずあとずさってしまった。

 だがダーシェンカはたじろがない。それどころか、前に歩み出てみせる。

「……そんなことはさせない。二百年前、私が原因で失敗したというなら、今度も私がお前を叩き潰す!」

 ダーシェンカはアルシェラとの一戦でところどころ金属が剥き出しになっているナイフの柄を強く握りしめ、地面を蹴った。

「浅はかだな、オルリックの亡霊よ」

 ヴェルナールはさして慌てる様子も見せず、瞬時にポケットから何かを取り出した。

 夏の陽光に輝くそれは、何も知らないイズミの目には、さして珍しくもないビー玉のように見えた。

 事実、ビー玉と大した差はない。材質が安物のガラスか、磨き抜かれた水晶か、ただそれだけの差なのだから。

 だが、たったそれだけの差も、持つ者によっては大きな差が現れる。磨き抜かれた水晶はエーテルの伝導率が非常に高い。それを一流の魔術師が振るうとなれば、ただのビー玉も十分すぎる殺傷能力を持つ。

「格の差を思い知れ」

 ヴェルナールはそれだけ呟き、たった一つのビー玉をダーシェンカに向かって投げた。まるでダーツでもするかのように、たいした動作をすることもなく。

「なめるなっ!」

 ダーシェンカはビー玉の軌道を読み切り、軽々とかわし、ヴェルナールの間合いに入り込んだ。

 左足を軸に、フックを繰り出す要領で、ヴェルナールの喉元にナイフを走らせる。

「だから浅はかなのだよ、オルリック」

 ヴェルナールは剥き出しの目玉をダーシェンカに向け、嘆息を漏らした。

「なっ!?」

 ダーシェンカが思わず目を見張る。

 ヴェルナールは“素手”でダーシェンカの攻撃を受け止めていた。リビングデッド以外には受け止められないような攻撃を、いとも容易く。

 ダーシェンカは身を引くことも忘れ、呆然とした。

「ダーシェンカっ!」

 受け止められた腕を見つめているダーシェンカの意識を、イズミの声が引き戻す。

「か、肩に喰らってるよ!」

 イズミがかすかに震える声で述べたことを聞いたダーシェンカは、それだけで自分の身に起きたことを理解した。

「そういうことだ」

 ヴェルナールは満足げに述べ、あまつさえ掴んでいたダーシェンカの腕を放した。まるで暴力を振るおうとした子供を諌めたあとのような穏やかな動作で。

 ダーシェンカはそのことに怒りを覚えるよりも先に、飛び退き、ヴェルナールから距離をとった。

 飛び退くときに、握っていたナイフを落としてしまった。

(正確には、握っていられなくなったというべきか)

 ダーシェンカは垂れ下った自分の右腕を見つめながら、胸中で自嘲気味に呟いた。

 自分がやったことと同じことをやられた。結局はそんな単純なことだった。

 避けたと思った水晶玉は、魔術によって軌道を変え、背後からダーシェンカの肩口を射抜いた。

 本来その程度で、ダーシェンカの肉体は傷を負わないのだが、水晶玉に魔術無効化が施されていたとなれば話は別だ。

 ダーシェンカの肉体強化を無視し、組織を軽々と破壊できる。

 奇しくも、ダーシェンカがアルシェラに行ったときと同じように。

「痛覚がないというのは利点ばかりじゃない、ということは理解して頂けたかな? いいや、そんなことよりもキミは私の二つ名をお忘れかな? 魔鏡のヴェルナールという、今一つ頂けない二つ名を、ね」

 ヴェルナールは肩をすくめ、かぶりを振った。

 魔鏡のヴェルナール。

 その二つ名をダーシェンカが忘れられるハズがなかった。死んだと聞かされた相手とはいえ、ダーシェンカはその存在について余すとこなく調べ抜いたのだから。

 資料曰く、ヴェルナールは一度見た魔術を瞬時に解明し、鏡映しのように己が物とする。

 それは、他の魔術師は誰一人として為せないヴェルナール唯一の技術だった。

 魔術とは、師から弟子、親から子などによって伝承されていくものだ。ある程度系統化も為されているから、似通った系統なら術式を真似ることもできる。

 だがそれは、ある程度の研鑽を経て為せるものだ。瞬時に為せるものではない。たとえ、

術式の効果や組み方を解明できたとしても、自分でその術式を成す為には、思考錯誤を重ねなければならない。

 自分のエーテルの総残量把握、エーテルの伝達・圧縮率の補正。そのような機械的な計算を経た上で、少しのミスも許されない、それでありながら感覚のみで行わなければならない術式の発動に挑戦する訳だ。

 そんなことをヴェルナールは瞬時に為すというのだ。魔術系統の垣根すら飛び越えて。

 ダーシェンカは魔術を学べば学ぶほど、魔鏡のヴェルナールの二つ名は眉つばモノと思うようになっていた。

 実際に見せつけられた、このときまでは。

「さすが魔術の素養のない者にでも扱えるだけあって、実に容易い術式だった。なんてことはない。要は一次元の魔術を突き詰めただけだ」

 ヴェルナールは肉の削げ落ちた頬をさすりながら、退屈そうに吐き捨てる。

 その言葉に、ダーシェンカは憎々しげに顔を歪め、ヴェルナールを睨みつける。

 事実ダーシェンカの術式は、魔術の素養がないダーシェンカのため、当時のキリコが作りあげたモノだった。

 四次元まで存在する魔術の中で初歩の初歩に位置する一次元の魔術。

 エーテルの流れを利用し、物体にベクトルを生み出す“だけ”の魔術。魔術師を志す者が最初に通る道で、最も早く収め終える道。

 結局のところ、一次元の魔術は物体を動かす程度にしか役に立たないのだ。

 先ほどヴェルナールがおこなった、僅かな動作でビー玉を素早く投げたたり、途中で軌道を変えたのも一次元の魔術だ。

 だが、その程度のことは、ダーシェンカが生きていた一八世紀末においてすら、役に立たないモノと化していた。強い力が欲しければ重火器を頼った方がよっぽど便利で代償も少ないのだから。

 それをどうにか対魔術師用の戦闘でも役に立つように工夫したのがダーシェンカの術式だった。

 魔術の素養がないダーシェンカでも扱える、エーテルを高速で走らせるだけの魔術。たったそれだけの魔術でありながら、ダーシェンカ以外に扱うものはいなかった。

 扱う価値のない、ただそれだけの魔術だったから。

 いかなる魔術をも無効化するという素晴らしい効果を持ちながらも、その代償は魔術師にとってはあまりにも致命的かつ不合理だった。

 魔術無効化以外の魔術が使えなくなるという、代償。

 エーテル体を高速で走らせるためには、その為だけに肉体をチューンしなければならなかったのだ。

 もともと魔術を使えなかったダーシェンカにとってはどうということのない代償でも、普通の魔術師にとっては自分自身を根本から否定することとなんら変わらないことだった。

 そんな、術式自体は単純でも、扱い得ない魔術を、ヴェルナールはいとも容易く披露して見せたのだ。

 ダーシェンカが衝撃を受けない筈がない。

 術式を見抜かれた衝撃は全くない。エーテルを見ることができる魔術師なら簡単に看破し得るのだから。実際、アルシェラにも看破されている。

 だが、その術式を使われるとなれば話は別だ。ましてや、磨きあげた己が魔術に人生を掛けているような魔術師という人種に使われたとなれば。

「おや、大層驚いているようだな。よもや、こう思っているのではあるまいな。どうして魔術師がこの術式を扱えるのだ、と」

 押し黙っているダーシェンカに気付いたヴェルナールは、口元を歪に吊りあげる。

 そして続けた。

「ふむ……なるほど確かに、一流の魔術師ですら出来ない術式ではある。だが、私にはさしたる問題ではない。ようは自分の肉体以外を媒体として、エーテルを高速回転させ続ければいいだけの話だ」

 ヴェルナールはごく当然のように語る。

「そんな、ことが……」

 出来る筈がない、その言葉をダーシェンカはグッと飲み込む。現に、見せつけられてしまったのだから。

 ヴェルナールが言った内容は、当時のキリコが何度も試し、失敗し、諦めた術式だった。

 魔術とは、エーテルを媒体の中で循環させるということ。

 その原理からすれば、魔術無効化の術式を、ヴェルナールが為したことはなんら驚くことではない。

 だが、格が違う。

 普通の魔術ならば、ある一定の公式の元に組み上げれば発動してくれる。それがどんなに複雑な公式であれ、魔術師の技術さえ卓越していればなんの問題もない。

 だが、魔術無効化の術式はそうはいかない。

 エーテルを高速で循環させ続けるだけでなく、状況に応じて速度を補正しなければ効果をなしてくれない。

 だから、思考を持たないただの媒体では発動しえない。

 もし仮に、発動させるには、媒体に一流の魔術師並の思考速度を兼ね備えさせなければならない。

 そんなコトは不可能だ。

 しかし、ダーシェンカには一つだけ思い当たる節があった。

 それは、当時のキリコも着目し、研究したモノ。結局は失敗に終わったのだが。

「まさか……三次元の魔術を応用して、」

 三次元の魔術。

 言ってしまえば魔術に意志を宿らせること。

 意志とは言ってもお粗末なモノで、所詮はプログラムに過ぎない。

 山中でイズミに襲いかかった家族に掛けられていた魔術も三次元の部類に入る。おそらく、この街の人間の意識操作も三次元の魔術だろう。

 ようは、一定の思考パターンをプログラミングするということ。

 だが、三次元の魔術の究極は、五歳児と並ぶ程度の思考を植え付けるのがせいぜい。それも長い時間を掛けて、という条件付きでだ。

 一流の魔術師に比肩する思考パターンを瞬時に植え付けるなど、到底不可能だ。

「三次元の魔術? ハハハハハ! 思いあがるなよ、オルリック。三次元はおろか、私は貴様に対して二次元の魔術すら使う気が起こらない。一次元の魔術のみで十分事足りる」

 ヴェルナールはダーシェンカの言葉を高らかな嘲笑で切り捨てた。

「教えてやろう、オルリック。要は魔術的道パスを利用したに過ぎないのだよ。パスを通じて私の思考を伝達すれば媒体に意志を形成する必要などないからな」

 ヴェルナールの言葉にダーシェンカは歯噛みする。

 ヴェルナールがさも当たり前のように言っていることは、魔術師にとって信じられないことである。いや、普通の人間にも通ずるところで信じられない。

 ヴェルナールが言ったこととは要するに、媒体と肉体の両方で、並行して高度な思考を行うということである。交互に思考するのですら困難なのに、完全並行で思考するなど人間には不可能だ。

 それこそ、二人分の思考回路が必要になる。それも、ズバ抜けて優れた二人分の、だ。

 そんなヴェルナールの圧倒的としか言えない力量を見せつけられてもなお、ダーシェンカは臆さなかった。

「だから、どうした?」

 ダーシェンカは不敵に微笑みながら身構える。

 肩の傷口から血を滴らせている使い物にならない右腕をヴェルナールに向け、左手を眼前に掲げ、サウスポーのスタイルを取る。

 もともと、魔術云々の話ではないのだ。

 ダーシェンカというリビングデッドは卓越した体術が武器。いかに魔術の技術で圧倒されようが、関係ない。

(力で、ねじ伏せる……!)

 ダーシェンカは心の中で叫ぶと同時に地面を蹴った。

「ふん。馬鹿の一つ覚えが」

 ヴェルナールは飛びかかってくるダーシェンカに蔑むように一瞥をくれ、先ほどと同じようにビー玉大の水晶を放り投げた。

 水晶は先ほどと同じようにダーシェンカに襲いかかる。

 だがダーシェンカは避けなかった。瞬発的にエーテルを走らせ、魔術無効化を相殺し、水晶を砕く。

 水晶を軽々と砕いたダーシェンカはヴェルナールの間近に踏み込み、体を捩じる。

 ヴェルナールを葬り去る、その一撃を生み出すために。

「あぁ……本当につまらない」

 ヴェルナールは間近に迫っているダーシェンカを気に留める様子もなく天を仰ぐ。

「死ぬには、いい日和だな。オルリック」

 ヴェルナールは空を見上げたまま呟いた。


 ダーシェンカの拳はヴェルナールに届かなかった。


 それどころか、ダーシェンカの背中は真っ赤に染まっていた。

 ダーシェンカがヴェルナールに拳を突き刺そうとしたその瞬間、地面から数十個の水晶が飛びあがり、ダーシェンカに襲いかかったのだ。

 それはあらかじめ、ヴェルナールが仕掛けていたモノ。何気なく放り投げたハットの中に。

 ダーシェンカは警戒を怠っていなかった。砕け散った水晶の破片や、最初に体を射抜いた水晶の位置だって確認していた。ヴェルナール自身に対する警戒は言わずもがなだ。

 ハットにだって警戒を払っていた。

 だが、ものの見事に回避不可能の領域まで誘い込まれてしまった。

「ぐ……かはっ!」

 ダーシェンカは憎々しげにヴェルナールを見つめながら、咳き込む。咳には真っ赤な血が混じっていた。

「ダーシェンカ!」

 咳き込むダーシェンカにイズミが駆け寄る。

「く、来るな」

 ダーシェンカはそれを途中で押しとどめた。その声は余りに弱々しく、聞くに堪えないほどのもの。

「に、逃げろ。わ、たしが引きとめるから」

 ダーシェンカはイズミに向かって弱々しく微笑みかけた。

 その笑顔はイズミを安心させるためのものではなく、自分への嘲笑だった。

 出会ったころのイズミならいざ知らず、今のイズミがこの言葉を信じる筈がない。

 何せ、ダーシェンカの両腕は力なく垂れ下がり、足も立っているのがやっとなほど激しく震えているのだから。

「で、でも……」

 案の定イズミは不安げな視線をダーシェンカに投げかけてくる。

「嘘はよくないな、オルリック」

 空を見上げ続けていたヴェルナールが視線をダーシェンカに戻して呟く。その口元には、

これ以上ないというほどに歪な微笑みが称えられていた。

 ヴェルナールはダーシェンカを見下ろし、溜息を一つ吐く。

 そしてつまらなそうに、ダーシェンカの足を払った。

「ぐっ!」

 うめき声を上げながらダーシェンカが地面に倒れ込む。

「ダーシェンカっ!」

 今度こそイズミは迷わなかった。

 地面を力強く蹴って、倒れたダーシェンカの元に駆け寄る。

 そして、悠然とヴェルナールの前に立ちはだかった。否、悠然ではない。ヴェルナールに向けている表情は険しいものだったが、足はガタガタと震えていた。

「イ、イズミ?」

 ダーシェンカはイズミの行動を咎めるよりも先に、呆然と呟く。

「キミは、何をしているのかね?」

 ヴェルナールは、ダーシェンカよりも何倍も呆然とした口調で呟いた。本当に信じられないものを目の前にしている、と言わんばかりに。

「じ、自殺行為です」

 イズミは上ずる声で述べた。

 イズミは別に、ヴェルナールの圧倒的な魔術的能力に対する恐怖は抱いていない。目の前で魔術の高等技術を披露されようが、イズミにはほとんど理解できないのだから。

 まず、そのミイラじみたヴェルナールの容姿が怖かった。

 そして何より、人を簡単に傷付けられる精神が怖かった。

 それでもイズミは恐怖を押し殺して、ヴェルナールの前に立ちはだかる。

「自殺行為? 何がだね? 何か君たちには隠し玉がまだ、」

「ぼ、僕の今現在取っている行動が、です」

 イズミはヴェルナールの言葉を遮り、言った。

 ヴェルナールはその言葉に、口をポカんと開けて呆けた。

「ハ、ハハハハハハハハ! なんだ! そういうことか! 君は私の質問に答えただけなのか!」

 ヴェルナールはイズミの言葉の意味を理解すると腹を抱えながら笑い始める。

 怪訝な表情を向けるイズミとダーシェンカを気に留めることもなくヴェルナールはひとしきり笑った。

「キミは面白いな! 立場が立場でなければ良き友人になれただろうに……残念だっ!」

 ヴェルナールは心の底から残念そうに言うと、迷いのない蹴りをイズミに叩き込んだ。

 イズミの体は三メートルほど飛ばされ、地面に叩きつけられる。それでも勢いは収まらず、何回か転がるハメになった。

「イズミっ!」

 ダーシェンカはなんとか体を起こし、立ちあがろうとするが、ヴェルナールが軽々と蹴り伏せる。

「本来ならばキミの行動に敬意を表し、キミから処分するのだが……オルリックの出来損ないには大きな借りがあるのでね」

 ヴェルナールは地面にうずくまっているイズミに向かい、恭しく言った。

「させ、ない」

 イズミは地面にうずくまったまま呻くように呟く。

 それを聞いたヴェルナールは少なからず驚きを覚えた。

 イズミに対して、気を失ってもおかしくないはずの打撃を加えたはずなのだ。訓練された者ならいざ知らず、平凡な日々を送る少年があの蹴りで気絶しないハズがない。

 それだけでも驚きを覚えたというのに、ヴェルナールはさらに驚くことになった。

 イズミがゆっくりと立ち上がったのだ。ばかりか、その手には少年の華奢な体には不釣り合いとしか思えない無骨なナイフが握られている。

 それはダーシェンカが取り落とした、サバイバルナイフ。

「なるほど。蹴られたのはワザと、と言うわけか。ならば立ち上がってもなんら不思議はない」

「えぇ。飛ばされるのがナイフの方向でなかったら、避けていましたよ。あなたの蹴りなんかより、ダーシェンカの蹴りの方が数倍速いのでね」

 イズミは沸き上がる恐怖を押し殺し、先ほどまでの気弱な態度が演技だったと見せかけるため、出来るだけ不遜に聞こえるように言葉を紡いだ。

 脚はかすかに震えているし、気を抜いたらナイフを握っている手も震えだしそうなのだが、必死に抑え付ける。

 イズミの目で見る限り、ヴェルナールはプライドの高い男だ。

 ダーシェンカに対する態度は元より、その戦闘方法もあえて相手のステージに立ち、相手の得意分野で圧倒することにこだわっていた。

 ならば、真人間のイズミにコケにされては黙っていられないだろう。

 そこから先、ヴェルナールが魔術を使うか否かは全くの賭けなのだが。

「……ふむ。どうやら私はキミを見くびっていたようだな。私の想像よりもはるかに面白い」

 ヴェルナールはダーシェンカから視線を外し、イズミに向き直る。

 イズミはヴェルナールをしっかりと見据え、固い唾をのみ込んだ。

 なんとなくではあるが、分かった。イズミがヴェルナールという男に恐怖していたのは、異質な外見などではなく、身にまとっている雰囲気だったのだ。周囲とは決して相いれない、静かで穏やかだが、狂気に満ち満ちた雰囲気。

「キミは術式に必要な贄だから今は殺さんが……いま邪魔なのもまた事実。良かろう。キミの愚かしさに敬意を表し、お相手しよう」

 ヴェルナールは極めて紳士的に言った。

 だが、今のイズミには見えていた。

 不気味に膨れ上がる、ヴェルナールの純黒のエーテルが。

 それでも不思議と恐怖は増幅しなかった。自分でも信じられないほどに、落ち着いていた。ある程度の恐怖はあっても、それとは全く違う場所に、冷静なもう一人の自分がいるような感覚があった。

 ヴェルナールは飛びかかってくるでもなく、一歩一歩ゆっくりとイズミとの距離を詰めてくる。ジワジワと、プレッシャーをかけるように。

「なに、魔術は使わんさ。少なくとも今の君にはね」

 ヴェルナールは口元に愉悦を浮かべ、拳を構えた。

 イズミもそれに習い、構える。

 とりあえず、魔術を使われなかったのは僥倖だ。だが、イズミは避ける術は心得ていても、倒す術は心得ていない。いや、ヴェルナールを倒せるなんてこれっぽちも思っていなかった。

 もし仮に、体術でヴェルナールに勝ち得たとしても、その危機的局面にヴェルナールが魔術を使わないはずがない。

 もともとイズミ“には”勝ち目などないのだ。ヴェルナールの注意を引きつけ、なんとか隙を作り、そこをダーシェンカについて貰う以外に勝機はない。

 それを理解しているからこそ、ダーシェンカも押し黙ってイズミとヴェルナールの戦いを見つめているのだ。

 最初に仕掛けたのはヴェルナールだった。

 鋭い拳打がイズミの顔面めがけて襲いかかる。

 イズミはそれを軽々と避け、ナイフを横薙ぎに払う。それも結局はヴェルナールの軽いバックステップでかわされてしまうのだが、気にしない。

 イズミは地面を蹴り、ヴェルナールに迫る。回避一辺倒では隙は生まれない。だから攻めた。攻撃の術は習っていないが、ダーシェンカの動きを嫌というほど見せられたからか、

ある程度様にはなっていた。

 イズミの拳打では当たったとしても致命傷にはなり得ないので、ナイフでの斬撃を中心に繰り出していく。

 どれもヴェルナールに巧妙に捌かれてしまうが、イズミもヴェルナールの攻撃を捌いているので、攻防は一進一退だった。

(また、だ)

 イズミはヴェルナールの蹴りをバックステップでかわしながら胸中で呟いた。

 また、青い靄が視界に掛りはじめたのだ。キリコの説明によって、青い靄がエーテルであるということは直感的に理解した。基本的にはヴェルナールやダーシェンカが発しているものとなんら変わらないのだ。自分の眼が空気中に漂うエーテルを捉えている、ただそれだけのこと。

 それだけの、ハズだった。

「グハっ!」

 イズミはヴェルナールのボディブローをものの見事に喰らった。

 あまりの衝撃に膝を折り、地面に倒れ込む。

「どうした? 少年。今のもわざと喰らったのか? 回避する様子がまるでなかったぞ?」

 ヴェルナールの傲慢な声が、イズミの耳に届いた。

 姿は見えない。

 イズミは再び暗闇の中にいた。茫洋と広がる、心に不安しか生み出さない暗闇。どこかから、ダーシェンカの叫ぶ声が聞こえる。が、何と言っているのかはよく聞き取れなかった。

「もう終りなのか? ツマランな、少年」

 不思議とヴェルナールの声はよく聞こえた。

 ヴェルナールの声が響き、脇腹に激痛が走った。おそらく、蹴られたのだ。

 イズミにとってその激痛はむしろありがたかった。ぼんやりとしていた体の輪郭がはっきりと感じられるようになった。

 イズミはなんとか立ち上がる。体中から悲鳴が上がるが、気に留めない。その悲鳴はむしろ、体の輪郭をより一層はっきりさせてくれる感謝の対象だった。

「終わらないよ、ヴェルナール。終わるのは、お前だ」

 イズミは見えないはずのヴェルナールを、はっきりと見据え、断言した。

 イズミの目に、相変わらずヴェルナールは映っていない。だがハッキリとどこにいるのか分かった。何をしようとしているのかさえ、予想できた。

 何故か。そんなことはイズミにも分からなかった。

 ただ、ありありと見えているのだ。ヴェルナールの姿などではなく、その本質たるエーテルが。身にまとったエーテルなどではなく、その体に流れるエーテルが。

 何も見えない暗闇の世界だが、自分の位置はしっかり掴める。ダーシェンカやヴェルナールの位置だってハッキリと理解できた。通行人たちの動きはいまいち判別がつかないが、

おおまかには掴んでいる。死角であるはずの真後ろまで。

 イズミは体に走る激痛など気にも留めず、地面を力強く蹴った。

 ヴェルナールの迎撃を警戒することなく、懐に潜り込む。

(ここで打ち下ろしの右が来る)

 イズミは胸中に呟きながら、口元を我知らず緩めた。

 イズミが胸中に呟いた通り、ヴェルナールは持ち前の長身を活かした打ち下ろしを繰り出していたのだ。

 すかさずイズミは必殺のカウンターを放つ。拳などと言う生易しいものではなく、ナイフによる斬撃で。

「な、に!?」

 ヴェルナールは上げたこともないような素っ頓狂な声をあげ、辛うじてイズミの攻撃をかわした。

 かわしたとは言っても致命傷は避けられたというだけで、傷は負ってしまっている。ヴェルナールの右頬はパックリと裂け、ミイラじみた皮膚には似つかわしくない鮮血がしたたっていた。

 平時のイズミがそんな光景を見たら卒倒しかねないが、このときは問題なかった。何せ、

滴る血もエーテルの光としてしか捉えていなかったし、何よりも精神が異常に昂っていた  。

 自分が自分でないと思えるほどに。


 * * *


「っ!」

 アルシェラを抱え、雑踏を歩いていたキリコは雷鳴の如く突然走った頭の痛みにうずくまった。

 意識を保つのも厳しいほどの痛みを受けながらも、キリコは何故か薄ら笑いを浮かべていた。

「俺の抑えがもう効かなくなったのか……さてはて、鬼が出るか蛇が出るか。あーあ、アルシェラがこんなにされなきゃナマで見れたのに」

 キリコは自分の腕の中で息絶えている片腕の美女を見やり、心底残念そうに呟いた。

 そして何事もなかったように立ち上がり、鼻歌混じりに歩き出す。

 そんな奇妙な光景だというのに、誰ひとりとして目を留めない。

 必然、キリコの鼻歌の内容に気付くものはいなかった。

 キリコの口ずさんでいたそれは、鎮魂歌。

 その歌が誰に向けられたものなのかは、キリコ自身にも分からなかった。


 * * *


「……油断した、つもりはないのだがね」

 ヴェルナールは頬を伝う血を拭いながら呟く。

「正直者で結構なことだな、ヴェルナール」

 イズミは感情の籠らない瞳をヴェルナールに向ける。

 イズミはもはや人を見ているという感覚をなくしかけていた。エーテルの光だけを見ていると、あたかも自分がコンピューターのプログラミング言語だけを見ているような気さえしてくる。

 そう思えるほどに、エーテルの本質は正確な情報をイズミに与えてくれていた。

「“覚醒”していないキミに魔術を使うのはいささか不本意なのだが……この傷の礼だ。受け取りたまえっ!」

 ヴェルナールは右腕を振り上げながら叫ぶ。

 ヴェルナールが声を上げると同時に、無数の水晶玉が地面から浮かび上がり、イズミに襲いかかった。

 イズミは眼を細め、襲いかかる水晶玉の群れを見据えた。

 状況を把握する。導き出される結果は、絶対不可避という絶望的なモノ。頼みのダーシェンカも体の機能が回復せず、身動きが取れない。

 だというのに、イズミは微笑みを浮かべていた。

「つまらないな、ヴェルナール」

 イズミはそう吐き捨て、ナイフを軽く一振りした。

 子供が小枝を振るうような、何気ない、そんな一振り。

 だが、そんな一振りで、イズミは全ての水晶玉を払い落して見せた。イズミの振るったナイフは、ただの一度たりとも水晶玉に触れなかったというのに。

「なっ!? ……なるほど。すでに“覚醒”していたという訳か。キミのエーテル量に変化が無いから気付かなんだ。ハハッ! 眼を凝らせば見えるぞ! まさか空気中に漂ってるエーテルが“全て”キミのものとはな!」

 ヴェルナールは諸手を広げ、歓喜するかのように叫んだ。

「何を、言っているんだ?」

 イズミはヴェルナールの言動が理解できず、呆然と呟いた。

 本来ならばこの機に追撃しない手はないのだが、イズミはそう出来ずにいた。ヴェルナールが奇妙な言動を発した瞬間に、ヴェルナールのエーテルが一気に膨れ上がったのだ。体積が増した、というよりは密度がこれまでの比ではなくなっていた。目を背けたくなるほどの重厚感がそこにはあった。

「イズミっ! 今のキミは際限なく魔術を使える状態なんだ! 水晶をエーテルで払いのけたのがそうだ!」

 必死に体を起こし、ダーシェンカがイズミに告げる。

 普段のイズミなら何を言われているのか半分も理解できなかっただろうが、この時ばかりは違った。

 すべてを理解できたわけではないが、重要なことはしっかりと理解した。

 ようは、魔術という攻撃手段が増えたということだ。

 水晶を払い落したときの感覚は残っているから、もう一度やってやれないことはないだろう。

「ほぅ、覚醒について知らなかったのか。オルリックめ、余計なことを教えおって……まぁ、いい。どうせならば私からも説明してあげよう」

 ヴェルナールはゴミでも見るかのような一瞥をダーシェンカにくれ、視線をイズミに戻した。

 エーテルを見ているイズミには窺い知れなかったが、その表情は愉悦に浸っている気味の悪いものだった。

「人には魔術師か否か関係なしに、大なり小なりのエーテル貯蔵庫が一つある。だが、ネクロマンサーにはそれとは別にもう一つの機関がある。ネクロマンサーの覚醒とはね、エーテルを無限に生み出す機関が起動することをいうんだよ。これを我々は永久機関と呼んでいる」

「際限なく魔術を使えるってのはそういうことか……」

「あぁ、その通り。まぁ、厳密には魔術らしい魔術などネクロマンサーには使えないんだが、そんなことはどうでもいい。君にとって朗報なことを言うと、だ。覚醒したネクロマンサーに勝てる魔術師は、いない」

 ヴェルナールは、自身にとって絶望的なことを快活に言い切る。

「いない、って割にはえらく楽しそうじゃないか」

 イズミは頬を伝う冷たい汗を自覚しながら呟いた。

 ヴェルナールが言っていることが本当なら、ここは攻めに攻めた方が得策だろう。エーテルの残量を気にしなければならない者と、気にせずとも良い者とでは後者が圧倒的に有利だ。少なくとも手数の上では。

 だが、質という問題も絡んでくる。それに何より、ヴェルナールの態度がイズミの警戒心を掻き立てた。

 ヴェルナールが嘘を付いていないと感じるからこそ、迂闊に仕掛けられなかった。

「あぁ、魔術師では勝てないだろうな。だが、私は違う。私も二百年前の儀式で手に入れているからね……永久機関を!」

 ヴェルナールは手をイズミに向かって振りかざしながら叫ぶ。

 同時に、ヴェルナールのエーテルが膨れ上がった。その圧倒的な密度を保ったまま。

「覚醒したネクロマンサーを贄にするのは二度目だが、覚醒したネクロマンサーと闘うのは初めてだ。血沸く、というのはこういうことをいうのだろうな! 少年っ!」

 ヴェルナールは一つの水晶玉を取り出し、イズミに向かって放り投げる。否、放り投げるという表現は適切ではない。

 それはもはや、射出。

 水晶玉は目視するのが厳しいほどの速度でイズミに襲いかかる。イズミの気のせいでなければ、その水晶玉には電撃が走っていた。

「ちっ!」

 イズミは再びナイフを振るい、水晶を払い落とす。しかし、たった一つの水晶を払い落すだけというのに、先ほどよりも大きな動きを要した。

 イズミはその理由を瞬時に察する。

 水晶玉を払い落すという動作は、エーテルで壁を作って払い落すといったた類のものではなかった。

 先ほどは何気なく払い落せたので気が付かなかったが、ようは一つ一つの水晶玉に、ヴェルナールが込めた以上のエーテルを込めて、軌道を変えるという動作なのだ。

 イズミが何気なく行っているこの動作が、魔術師にとっては高等技術だといったことは今のイズミには全く重要なことではなく、今は何よりも、ヴェルナールが本領を発揮し始めたということの方が重要だった。 

 それは、イズミが払い落した水晶玉が如実に物語っている。最初に払い落した水晶玉が地面に転がっているだけというのに対し、二度目の水晶玉は地面にクレーターを作り出している。そしてやはり、イズミの気のせいでもなんでもなく、その水晶玉には電撃が走っていた。

「これがお前の本気ってわけか? ヴェルナール」

 バチバチと音を立てている水晶玉を横目で見ながら、イズミは尋ねる。

「本気? 軽い挨拶だよ。気に入ってもらえたかな? 媒体に属性を付加する二次元の魔術は」

 ヴェルナールは二ヤリと笑い、肩をすくめ、続けた。

「二次元の魔術は攻撃に最も特化している。そして私はこの二次元の魔術が最も得意でね……いくらでも射出出来るのさ、こんな風にね!」

 ヴェルナールの叫び声とともに、無数の水晶玉が浮かび上がる。

 イズミはエーテルしか見えない世界でその様を見、言葉を失った。

 エーテルの本質を視ていたイズミには予期出来てしまったのだ。無数の水晶玉の群れが向う先が。

「ダーシェンカっ!」

 イズミは叫び、地面を蹴った。

 イズミからダーシェンカまでの距離は僅かに五メートルほど。

 たった、たったそれだけの距離を転がるように駆けた。

 イズミは走りながら、宙に浮かんだ水晶玉にエーテルを込め軌道の修正を試みた。だが無理だった。自分の間近にあるものでなければ、いまいちうまくエーテルの上書きが出来なかった。

 しかし、無駄ではなかった。辛うじて水晶玉の速度を落とすことだけには成功した。

「くっ!」

 イズミはダーシェンカに襲いかかる水晶玉の前になんとか立ち塞がり、水晶玉の群れにエーテルを込め、軌道を書き変えた。

 だが、響き渡ったのはダーシェンカの悲痛な叫びだった。

「イ、イズミっ!」

「や、やっぱり、傷付くって、い、痛いね。ダーシェンカ」

 肩口と腹部に血を滲ませたイズミは、ダーシェンカに向かって微笑むと、そのまま目を閉じて地面に倒れ込んだ。

 結局、イズミは全ての水晶玉の軌道を書き換えきれなかった。たった二つの水晶玉の軌道修正が間に合わず、その身に傷を負ってしまった。

 その傷は無情にも少年の意識を刈り取ってしまう。ピンと張り詰めていた集中の糸が切れてしまったのだ。

「よもや、と思って試してみたがこうも見事に掛るとは。愚かしいな、少年。使い物にならない武器のために身を挺すなど、愚の骨頂」

 ヴェルナールはつまらなそうに吐き捨て、倒れ伏したイズミに歩み寄る。

「近づくな! 来たら、殺す!」

 ダーシェンカはイズミが握っていたナイフを手に取り、ヴェルナールに向けた。

 だが、立ちあがることもかなわず、辛うじて上半身を起き上がらせているダーシェンカなど、ヴェルナールにとっては意識する必要などないものに他ならなかった。

「殺す? よくそんなことが言えるな。本来なら貴様を殺してから少年を贄にした儀式を行うつもりだったのだが、気が変わった。貴様の目の前でこの少年を贄にした方が面白いものが見れそうだ」

 ヴェルナールは口元を歪に吊りあげ、イズミの体にエーテルを込めた。

 イズミの体が浮かび上がり、ヴェルナールの元に手繰り寄せられるように近づいていく。

「イズミっ!」

 ダーシェンカは懸命にイズミの体を掴もうとするが、届かない。

 イズミの体はヴェルナールの間近まで引き寄せられ、足もとに横たえられた。

「さて、術式に取り掛か、」

「ネクロマンサー如月イズミの絶命を確認。これより、アクロマ機関“審判者”如月幸也が、禁忌を犯せし者、魔術師ヴェルナールへの審判を開始する」 

 ヴェルナールの言葉を遮り、雑踏から声が上がった。

 抑揚のない、それでいて街の雑音に掻き消されることのない、よく通る男の声。

「誰だっ」

 ヴェルナールは声の上がった方向に弾かれたように視線を向けた。

「きちんと名乗ったはずだ。アクロマ機関“審判者”如月幸也、と」

 人混みの中から現われたのは、ベージュのスーツをまとった四十代半ばと見える紳士。

 すなわち、イズミの父・如月幸也、その人だった。

「な、アクロマ機関だと?」

 呆然と呟いたのはダーシェンカだった。

 蘇生した時に一度会っただけのイズミの父だったが、ダーシェンカはその姿を記憶していた。どこか軽い雰囲気の漂う人間として。

 だというのに、目の前に現われた男は、雰囲気がまるで違う。

 重々しい、見る者を圧迫する雰囲気をまとっている。

 だがそれよりも気になったのは、幸也が口にした「絶命」という単語。

 ヴェルナールがこれから贄にする人間を誤って殺すとは考えられなかったが、それでもその言葉は重くのしかかった。

 イズミには「ネクロマンサーが死んだらリビングデッドも死ぬ」とは説明したが、エーテルさえ残っていればリビングデッドはネクロマンサーが死んでも、多少なりとも活動ができる。

 かつては利点として捉えていたそのシステムも、イズミの生死がハッキリと確認できないため、今のダーシェンカにとってはもどかしいものに他ならなかった。

 他のネクロマンサーならばいざ知らず、イズミが死んで自分が永らえるなど、ダーシェンカには耐えられないことだった。

 ダーシェンカはそのことを思いやり、顔を歪める。

「安心して。イズミは生きてるわ。ただ“形式上”死んだことにした方がいい、ってだけだから」

 不意に後ろから声が上がり、ダーシェンカは肩をビクつかせた。

 全く、気配を感じなかったのだ。

 ダーシェンカがゆっくりと振り返ると、そこには黒髪の女性が佇んでいた。

 肌の白い、三十代半ばに見えるその女性は、ダーシェンカの記憶の中にもいる、イズミの母・如月雪だった。

「あ、あの」

「喋らない方がいいわ。痛みを感じていないだけで、あなただって割と危ないんだから」

 雪は気まずそうに口を開いたダーシェンカに微笑みを向けた。

 それは、ダーシェンカにとって少なからず衝撃だった。

 雪にとってダーシェンカは、愛する息子を守り切れなかった役立たずの道具のはずなのだから。

「今はあの人を信じて見守りましょう。とりあえずは、ね」

 雪はもう一度ダーシェンカに微笑みかけ、視線をヴェルナールと対峙している幸也に向けた。

 ダーシェンカもそれに習い、視線を雪から幸也に移した。

「一般人に対する三次元魔術の施術、並びにネクロマンサーを犠牲にして不老不死を手に入れたことは罰して余りある。なれば、極刑」

 幸也は、悠然とヴェルナールに歩み寄りながら告げる。

「……ほぅ。大層なことを言うな、不死殺し」

 ヴェルナールは目の前に現れた者が何者かを察し、警戒を強めた。

 “不死殺し” 

 どう考えても矛盾を孕んでいるその呼称は、ここ十年の間に、裏の魔術世界に広まった忌み名。

 しかし、その矛盾に異を唱える者はいなかった。

 それは、厳然たる事実があるから。過去に禁忌を犯し、完全な不老不死を手に入れたハズの者達が、次々と不可解な死を遂げていったのだ。

 不老不死の者達が死ねば死ぬほど、その名は広まっていったが、その実“不死殺し”が何者であるかは不明だった。何せ、その姿を見て生き残った者は、誰一人としていないのだから。少なくとも、禁忌を犯した者達の中には。

 それでもヴェルナールは目の前に現れた男が“不死殺し”だと直感する。

 身にまとっているエーテルの質が、一流中の一流であるとともに、その歩き様ですらそら恐ろしいモノを感じる。

 データでは知っていたハズの男だ。

 如月幸也。今回の標的・如月イズミの父親にして、世界を叉に掛ける名医。無論ネクロマンサーとして覚醒しており、狙うには難易度が若干上がるので、標的からは除外した。

 だがまさか、ここまでの曲者であるとは想像していなかった。

「私を“不死殺し”と察したことは褒めるべきかな。まぁ、褒めたところで何も変わらんのだがね」

「しかし……何故今出てきた? それは表の魔術世界の掟に反しているのではないか?」

「掟を守ろうともしない輩から掟について説かれるのは非常に不本意なのだが、私の何がいけない? 貴様は私の愛息、イズミを犠牲にして完全な不老不死を手に入れた。だから私は貴様を葬り去ろうとしているのだ」

「貴様の息子はまだ生き、」

「反論は認めない!」

 ヴェルナールの言葉を遮り、幸也は叫んだ。

 同時に、ヴェルナールに向かって無数の光の槍が降り注ぐ。

「なに!?」

 ヴェルナールは光の槍に目を見開いたものの、冷静にすべてをかわしてみせた。

 正確には、かわすように誘導された、というべきか。

「……あなた、イズミは確保したわ。あとはどうぞご自由に。でもハメを外しすぎないで下さいね? アレは見てて恥ずかしいですから」

 ヴェルナールが槍を避けている間に、雪はイズミを抱えていた。

 そして心配するような視線を幸也に向けると、たった一歩で三メートルほど離れたダーシェンカの隣まで戻っていった。イズミを抱えたまま、だ。

 結局、槍の降り注いだコースは全て、ヴェルナールをイズミから遠ざけるためのものに過ぎなかった。

 そのことに気付いたヴェルナールは顔を歪めるが、時既に遅しだった。

「了解、母さん。すぐに終わらせるよ」

 幸也は先ほどまでの険しい表情を一変させ、快活に微笑む。ばかりか、ヴェルナールに向かってまで微笑みを向けた。

「いやぁ、さっきから頑張ってシリアスな雰囲気を醸し出そうと頑張ってたんだけど……僕にはどうも無理みたいだ。だから、こっからが僕の本気だよ? ヴェルナール」

 幸也は長年の親友にでも向けるかのような笑みをヴェルナールに向け、言った。

 その笑顔は見た者を戦慄させるさせる、なんの意味もこもっていない、空っぽの笑顔だった。

「ふん、多くの不死者を葬り去った腕前、見せてもらおうか!」

 ヴェルナールは幸也の笑顔に気圧されるのを自覚しながら、それを隠すように仕掛けた。

 ポケットから新たに無数の水晶玉を取り出し、幸也に向かって射出する。その一つ一つの水晶玉は、イズミに差し向けた物の三倍ほどの大きさであった。

 水晶玉は、電撃を纏い幸也に襲いかかる。それも一直線にではなく、数多の方向から。

 幸也は特に表情を変えることもなく、嘆息を一つ吐いた。水晶玉を避けようともしなければ、防ごうともしない。

 ただ一つ、つまらなそうに嘆息を吐いただけ。

 だというのに、水晶玉はただの一つも幸也に触れることはなかった。

 幸也は、イズミのように動作を取ることもなく、水晶玉の軌道を書き換えたのだ。死角から迫っていた水晶玉出さえも。

「ヴェルナール。私をイズミと一緒にしてもらっては困るよ? しょせんイズミは覚醒したて、言わば足の震えるバンビちゃんってとこだ。それともキミは、その程度の相手を圧倒して悦に浸ってたというのかね?」

 幸也は地面にクレーターを作り出している水晶玉を見下ろし肩をすくめると、苦笑を浮かべた。

「今のは軽い挨拶に過ぎん。だが、お前の実力は嫌というほど分かった。次は本気で行かせてもらう」

 ヴェルナールは幸也の実力に若干の驚きを覚えたものの、自身の勝利を信じて疑わなかった。もし仮に疑っていたならば、この場からすでに逃げ出していただろう。

「本気本気というヤツはたいてい小人だと思わないかい? ヴェルナール」

 幸也は再びヴェルナールに苦笑を向けた。憐れむような、そんな微笑を。

 ヴェルナールがその言葉に異を唱えようとしたのも束の間。再び天から光の槍が降り注いできた。

 先ほどの数とは比べ物にならないほど、多くの槍が降り注いだ。それこそ、避ける隙間もないほどに。

「神槍グングニル、と呼ぶのは少々驕りが過ぎるかな?」

 幸也は、ヴェルナールが串刺しになっているであろう場所を見据えながら一人ごちる。 

 ヴェルナールの姿は見えない。何せ、半径三メートルに隙間なく光の槍が突き刺ささっており、確認のしようがないのだ。

 だが。

「少々、ではないだろう。大いに驕りが過ぎる」

 槍のくさむらと化しているその場所からヴェルナールの声が上がった。

 声が上がると同時に光の槍は砕け散り、その中から無傷のヴェルナールが姿を現す。

「……ほほぅ。グングニルを完全に防ぐか。魔鏡のヴェルナールという名は伊達じゃないらしいね。他の魔術師はよくて一、二本刺さっちゃうんだけどね」

「無理もない。私だって危なかったのだ。空気を媒体にした魔術など想像出来なかったからな」

 ヴェルナールは肩をすくめながら飄々と答えるが、内心では目の前にいる男の実力に少なからず恐怖を覚えていた。

 空気中に漂わせた特殊な煙などを媒体にする魔術師ならば珍しくもないのだが、空気を媒体にする魔術師など聞いたことがないし、可能とも思えなかった。

 魔術の媒体にはそれぞれ、エーテルの伝導率がある。水晶玉然り、動物の骨然り、魔導具然り、エーテルの伝導率の極めて高い物が媒体として多用される。

 だが、それはどこにでも存在するというものではなく、また多くが消耗品だ。

 だから太古の魔術師たちは、そこいら中に存在するものを媒体として利用できないかを試みた。

 石ころ、みず、木の枝、果ては塵芥まで。

 だが、どれもこれも十分な効力を発揮しなかった。エーテルの伝導率が低すぎたのだ。むしろ抵抗を持っていたといっても過言ではないだろう。そしてその中には無論、空気だって含まれていた。

 だというのに、いま目の前にいる男が放った魔術は、確かに空気を媒体としていた。

 そのことに、一切の恐怖を感じない魔術師など誰一人として存在しないだろう。

「別に大したことをしてるつもりはないんだけどね……大気ってのはエーテルの伝導率が極端に低いってだけで一切通さないってわけじゃないしね。エーテルを大量に込めれば魔術として発動するさ」

 幸也は大したことではないと言わんばかりにサラリと言ってのける。

 その言葉はヴェルナールをさらに驚愕させた。

 大気のエーテル伝導率など、限りなくゼロに近い。そんなものにエーテルを込めるとなれば、それこそ天文学的数値になる。少なくとも、一般規格の魔術師には到底無理だ。

 永久機関を持つネクロマンサーならあながち不可能ではないのかもしれないが、同じく永久機関を持つヴェルナールに出来るかといえば、かなり厳しいものがある。

 一瞬で天文学的数値のエーテルを汲み出すなど、出来そうにない。

 如月幸也という男は、魔鏡のヴェルナールをしても為せないことを平然とやってのけているのだ。

 魔術無効化と同じように仕組みは単純。だが、あまりの力技に再現は不可能。

 ヴェルナールはこのとき初めて、再現できない術式に遭遇した。

「フハ、フハハハハハハハハ!」

 だが、ヴェルナールは恐怖に足を竦めるでもなく、歓喜の笑い声をあげていた。気でも触れたのかと疑いたくなるほど高らかな、笑い。

「おもしろい! おもしろいぞ! 不死殺し! 流石はあの息子の父親、息子の上を行くおもしろさだ!」

 ヴェルナールは天を仰ぎ、高らかに笑い続ける。

 幸也はそんなヴェルナールの隙を突くでもなく、ただ退屈そうに傍観していた。

「……僕は退屈だけどね」

「なん、だと?」

 幸也の言葉にヴェルナールの笑いが止まる。そしてヴェルナールは、射殺さんばかりの視線を幸也に向けた。

「退屈だと言ったんだ。僕の魔術を見るたび、どいつもこいつも同じリアクション。ステレオタイプ……もう、飽き飽き」

 幸也は顔を俯け、ブツブツと呟きだす。

 幸也のその様子を見た雪が「また悪い癖が……」と呟くのをダーシェンカは耳にした。

「私を愚弄するか、不死殺しっ!」

 ヴェルナールは手を振りかざし、地面に転がっていた水晶玉を浮かび上がらせる。

 威嚇の意味を込めてなのか、射出はしなかった。

「……それも、同じ。二言目には愚弄するな、馬鹿にするな。別に馬鹿にしてないよ、相手にしてないだけで」

「貴様!」

 ヴェルナールは叫び、一斉に水晶を射出した。

 先ほどと同じ轍は踏まない。水晶の一つ一つに、己が込められるエーテルの限界量を詰め込んだ。それだけ詰め込めば、体に到達するコンマ何秒の間には軌道を上書きできないだろう。

 だが、この時のヴェルナールは、怒りで正常な判断を欠いていた。平時のヴェルナールならば気付いていただろう。

 一瞬で天文学的数値のエーテルを込められる魔術師にとって、コンマ何秒などという世界はスローモーションに過ぎないと。

「……光牢」

 幸也は、一言呟いただけだった。

 その言葉が何を意味するのか、ヴェルナールには分からなかった。だが、すぐに理解させられることとなった。

「なんだ、これは……」

 ヴェルナールは眼前の出来事に目を瞬かせる。

 ヴェルナールが放った水晶玉は、一つ残らず消えていた。地面にすら転がっていない。

 代わりに、周囲には光の柱が無数に出現していた。それは水晶玉の行く手を一つ残らず遮り、あまつさえ水晶玉を消滅させてさえ見せた。

 それだけではない。

 光の柱はヴェルナールの周囲にも出現していた。身動きが取れないよう巧妙に、体に隣接して出現している。

 まさに、光の牢獄。

「空気を媒体にするってことはこういうことだってできるのさ。ヴェルナール、君がやるべきだったのは水晶玉で僕を攻撃するなんてことじゃなく、いかに周囲の空気を媒体にさせないかだったんだよ」

「そんなこと、」

 出来る筈がない、と呟こうとしたヴェルナールの口が止まった。

 出来るのだ。高等な技術を使う必要もなく。

 実際、魔術に関してほとんど素人のイズミが無意識のうちにやっていたことだ。

 周囲に自分のエーテルを振りまく。

 たったそれだけのこと。それだけのことをしていれば、幸也の攻撃を止められないとしても、術式速度は格段に下がっていたはずだ。

 そんなことにも気付けなかった自身の無能を、ヴェルナールは呪った。幸也の圧倒的な力量の前に驚愕し、歓喜し、安い挑発に乗って激怒した自分を呪い殺したかった。

 いつものヴェルナールならば、魔鏡のヴェルナールと呼ばれる男ならば、冷静に状況を観察し、危機的状況を打破しえたハズだ。

 だというのに、このザマだ。

 ヴェルナールはそんな感傷を振り払い、自分に残された最後の選択肢を確認した。

 そして、迷うことなくそれを実践した。

「私は、諦めん!」

 ヴェルナールは吠えるように叫び、自らを取り押さえている光の柱にエーテルを込め、消滅を試みる。だが、光の柱は消えてはくれない。

 そんなことは半ば以上承知だったヴェルナールは、次の行動に出た。

 ヴェルナールは、自身の体がどうなるかなどということは気にせず、光の柱に体を突っ込ませる。

「……それも、かつて僕が殺してきた者達が最期にしたことだ」

 幸也はヴェルナールの行動を容赦なく切って捨てた。

 ヴェルナールはその言葉に異を唱えない。

 否、唱えることも出来なかったのだ。

 ヴェルナールの体は光の柱によってコマ切れにされ、無残にも、地面に転がっていたのだから。


「思ったよりは自重できたみたいですね、お父さん」

 戦闘を黙って見守っていた雪は、ヴェルナールの凄絶な死を意に介す様子もなく幸也に声を掛ける。

「あぁ、イズミが見てたらもうちょっと派手に戦ったんだけど……そのザマじゃあねぇ」

 対する幸也も、何事もなかったかのように、雪の腕の中で穏やかな寝息を立てているイズミに苦笑を向けた。

 ダーシェンカはただただそんな不可解な光景を見つめるばかりで、口を挟む機会を見つけられなかった。

 というよりも、思考が停止していた。

 イズミとダーシェンカがあれだけ手こずったヴェルナールが、こうもあっさり倒されてしまったことが信じられなかった。

 恨んでも恨み切れない仇が目の前で死んでくれたというのに、心の中にあるのは、喜びよりも、言い表しようのないモヤモヤとした感情だった。

「イズミはともかく、ダーシェンカちゃんは危ない。キリコを呼んで手当てしてもらおう。

まだ近くにいる筈だから呼べばくるだろ」

「えぇ、そうね。イズミの手当ても必要だから、キリコくんには病院に来て貰いましょう」

 ダーシェンカのモヤモヤをよそに、夫婦はどんどんと話を進めていく。

「ちょっとごめんね」

 いつの間にかダーシェンカに歩み寄っていた幸也は一言述べると、ダーシェンカを抱えあげた。

「あ、あのっ」

「聞きたいことは色々あるのだろうが話はあとあと。今は治療が先だよ? ダーシェンカちゃん」

 珍しく狼狽した声をあげたダーシェンカを幸也が優しく諭し、歩き始める。雪もそれに続いた。

 幸也の言葉はダーシェンカを益々困惑させた。

 イズミはともかく、役立たずの、なおかつイズミが覚醒した今となっては、お役御免の自分に治療など必要ないはずだ。役立たずの自分に待っているのは、イズミにエーテルを返して、永遠の眠りにつくということだけ。

 それなのに、この夫婦は治療という。 

「それに……まだ、終わってないからね」

 困惑しきっているダーシェンカの耳に、幸也の呟きが響いた。

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