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第3章 転がりはじめた物語は、群衆を巻き込む(2)

 目の前は真っ暗だ。何も見えない。

 いきなり目の前で閃光が走り、何も見えなくなった。

 自分に何が起こったのか、全く分からない。

 息が、苦しい。一呼吸するたびに鼻を、喉を、鉄の臭いと味が通り抜けていく。

 ここは血の海の中なのだろうか、などという考えも湧き出てくる。

 イズミは暗闇の中で喘ぎながらも、浮かび上がった愚考を一笑にふした。

 そうだ。自分は先ほどまでゾンビめいた男達と、街中で戦闘を繰り広げていたハズだ。

 繰り広げ、それからどうなったんだ?

 イズミはそこから先を思い出そうとして、猛烈な吐き気に襲われた。

 呼吸が、より一層困難になる。一呼吸することすら容易ではなかった。

「たす、け、て……」

 老婆のようなかすれがすれの声がイズミの口から洩れる。

 暗闇の中でその声に答えるものはいない。イズミは今度こそ死を覚悟した。

 自分が何者であるのかという記憶が薄れていき、自身の存在が暗闇に蝕まれていくような感覚を覚え始めてさえいた。

「目を閉じるんだ」

 暗闇に声が響く。イズミのものではない。

 若い、まだ少年と思えるような、しかしその落ち着きぶりは青年のものとも取れそうな、

なんとも不思議な声。

「目を、閉じる?」

 誰のものとも知れない声ではあったが、他に頼れるモノのないイズミは不思議な声にすがった。

 目を閉じろ、と声は言う。

 今、自分は目を開いているのだろうか。それがイズミには分からなかった。だから、目の閉じ方が分からなかった。

「そこまで重症か……なら仕方ない。俺が閉じてあげるよ」

 声は心なしか呆れているようだった。

 自分はまだ目を閉じられていないということなのだろう。

 目の閉じ方が分からない、などということは呆れられても仕方ないのだろうが、この状況下で呆れられることは、イズミにとって少し不愉快だった。

 イズミがムっとしていると、不意に、暗闇に温もりが宿った。

 温もりが暗闇を、イズミを包み込んでいく。温もりが広まるにつれて、暗闇が小さくなっていくのを、イズミは感じ取っていた。

 暗闇が小さくなるという表現は何とも珍妙だが、イズミにとってそれが一番しっくりくる表現だった。

「落ち着いたか?」

 声は穏やかに言う。

 目を閉じているイズミに声の主の姿を確かめる術はなかったが、それでも敵ではないのだろうと判断し、黙って頷いた。

 声は短く「そうか」と呟き、何やらブツブツとつぶやき始める。

 イズミが聞き取れた範囲では「奇作と最高傑作のどちらが上か」だとか「性能の三分の一も発揮できてない」だとかよく分からない呟きばかりだった。

 イズミはその呟きに耳を傾けながら、冷静な思考を微かではあるが取り戻した。冷静な思考とともに、先ほどの出来事も鮮明に思い出した。

 自分の目の前でゾンビめいた男達が、いきなり殺し合いを始めた。目の前で二つの頭が消え去り、その瞬間に閃光が走った。

 そして、いつの間にか暗闇に立っていた。今も暗闇の中にいることに変わりはないのだが、今と先ほどでは明らかに感覚が異なっていた。

 先ほどまでの暗闇は外側に延々と続いていく暗闇で、いま立っている暗闇は内側に伸びていく感覚を覚える。

 イズミは様々な事象を思い出していき、思いだしていく度に、視覚以外の感覚が機能を取り戻していった。

 道を行き交う人々の織りなす喧噪、少し離れたところからダーシェンカとアルシェラの戦闘の音と思しきものが聞こえてくる。

 そして、瞼の上に添えられている人の手の温もりに気付いた。

「人の、手?」

 我知らずイズミは呟いていた。

 なぜ自分の瞼の上に手が添えられているのだ? この街の人間は一人残らず敵の支配下に置かれているのではないか?

 ならばこの手は誰のものなのか。ダーシェンカのものではない。ダーシェンカはいまだ戦闘を繰り広げているのだから。

 イズミの背筋が急速に冷えていく。この街で意識を正常に保てるような人間といったら、

イズミの思い当たる限りでは一人しかいない。

 敵の、ネクロマンサーだ。

「あなたは、誰ですか?」

 イズミは努めて冷静な声で尋ねた。手を添えている者がよしんば敵であったとしても、ここで慌てるのは得策とは言えない。こうして体に触れられてしまっている以上、すでに勝負が決まっている。下手に動いて状況をかき乱すより、現状を正確に認識することが急務だった。

「俺? 俺はダーシェンカと戦ってるリビングデッドの持ち主だよ?」

 答えた声は意外にも――と言うよりやはり――暗闇で響いた声と同じものだった。

「っ! ならなんで僕を殺さないんですか?」

 イズミは上ずった声を上げる。予想していた答えとはいえ、自分の命を奪わんとする者が目の前にいることは恐ろしかった。

 平和ボケしていた頭の中に“死”という一字が急浮上してくる。それでも何故か、ダーシェンカへの怒りは湧いて来なかった。「なんで僕をキチンと守らない!」とかいう言葉よりも先に「三分間の約束は果たせたのだろうか」という言葉が浮かんでいた。

「あ、ごめんごめん。誤解させるような物言いだったね。違うんだ。俺は君の敵じゃないよ……かといって味方でもないんだけど」

「あの……どういう意味、ですか?」

 イズミは予想外の言葉に驚きを覚えながらも、勘ぐるような口調で尋ねる。

「俺はあの金髪のリビングデッド……アルシェラって名前がつけられてるんだっけ? の正式な持ち主、というか作り主で、ちょっとしたアクシデントで君の敵に奪われちゃったんだよねぇ」

 声はさして深刻そうな様子も見せずにサラりと言い、続けた。

「つまり俺は盗まれたものを返してもらいに来ただけ。君に危害を加えるつもりはないんだよ。如月イズミくん」

「……敵じゃないのに、どうして僕の名前を知っているんですか?」

 イズミは言葉の端々に警戒心を覗かせながら尋ねた。本当ならこの場から走り去りたいのだが、その気持ちを必死に押さえつける。

「そりゃ、顧客の名前ぐらい覚えているさ。ダーシェンカだって俺の商品だったしな。なんなら君の部屋の間取りも答えてあげようか。あ、それよりも誰もいないのにクーラーをかけっぱなしにしておくのは地球に優しくないと思うぞ?」

 イズミとは対照的に、声に気負う様子は全くない。旧友と世間話でもするかのような口調で淡々と言葉を紡いでいた。

 その言葉はイズミに一つの推測をもたらした。推測とは言っても、それがイズミの中で生まれたときには、半ば既に確信だった。

「まさか……あなたは、死体商ってヤツですか?」

「ご明察。俺はしがない死体商さ。リビングデッドを作り、売る以外に能のない、ね」

 声は喉をクックと鳴らしながら楽しそうに言う。

 イズミはその声を聞きながら眉をひそめた。

 何が楽しいのか、という疑問はもとより、目の前で激しい戦闘が繰り広げられ、なおかつ足元には首のない死体が二つ転がっているような惨事の中で飄々としていられることが信じられなかった。

「あの……あなたはどうして僕の瞼の上に手をかざしているんですか?」

 イズミは声の態度に苛立ちに似たものを感じたが、それを隠しながら尋ねる。

 現状の認識。イズミは無意識のうちに、ダーシェンカの教えを実践するための行動を愚直に――けなげと言ってもいいほどに――続けていた。

「あぁ、この手は君の眼がエーテルを過剰なまでに捉えていたから、それを抑え込むために、ね。もう大丈夫だろうから離すよ」

 言葉と同時に、イズミから手が離れた。

 イズミは手が離れると同時に、瞼をゆっくりと持ち上げた。

(大丈夫だ。今度は体の感覚がある。目も開くはずだ)

 イズミは自分に言い聞かせながら目を開ける。

 そして今度は、目の前に広がる光景に、瞼の降ろし方を――一瞬ではあるが――完全に忘れてしまった。

「な、に……これ」

 ツーンと鉄の臭いが鼻腔を通り過ぎた。先ほどまでも血の臭いと分かる匂いは漂っていたが、ここまで強烈ではなかった。

 人の感覚の六割は視覚に頼っているというが、イズミの視覚が捉えた光景はあまりに酷だった。

 血に染まっている、自分の上半身。

「見ない方がいい」

 イズミが足もとに視線を移そうとしたとき、クイと顎に手が添えられる。

 イズミは視線を足元ではなく、手の持ち主の方へと向けた。

 そこにはイズミと同い年か、少し年下くらいに見える少年が立っていた。

 所々ウェーブのかかった色素の薄い髪に、琥珀色をした円らな瞳。肌も透き通るように白く、どこか儚げな雰囲気を醸し出している。

 声を聞かなかったら少女と判断していたかもしれないほどに中性的な容姿だった。

「まっとうな人間が見られるものじゃないから、見ない方がいい」

 呆然としているイズミに、少年は苦笑しながら肩をすくめた。

 イズミはその言葉に生返事を返すのがやっとだった。

 もはや何がなんだかわからない。体は血まみれだし、凄惨な状況には不釣り合いなほど落ち着いた少年が目の前にいる。

 本当に、知ることは出来ても、理解は不可能な状況だった。

「さてさて……どうしようね、あれ」

 少年はイズミの顎から手を離すと、その手で一点を指し示す。

 ダーシェンカとアルシェラの、先ほどより一層苛烈を極めている戦いを。

 イズミは手につられて戦いを視界に入れ、太陽のものではない光に目を細めた。

「なんですか、あれ」

 イズミは少年に問う。年下のように見えても、少年が漂わせる超然とした雰囲気がイズミに敬語を使わせる。

 イズミの目には不可思議な光景が写りこんでいた。街中で殺し合いが繰り広げられている次元はとうに不可思議ではなくなっているイズミをしても、不可思議と思わせる光景だった。

 ダーシェンカとアルシェラが得体の知れない光をまとっている。

 ダーシェンカは澄み渡る空にも似た青色の光。対するアルシェラは雷鳴轟く寸前の雲のような黒に近い紫で、いっそその身に暗闇をまとっていると言った方が正しいとすら思えた。

「あれが、エーテルだよ。人を生かす源で、魔術師を魔術師たらしめるモノだ。そしてエーテルは普通の人間には見えない。キミは魔術の世界に一歩近づいた訳だ。いや、家系からすれば生まれたときから魔術の世界にどっぷりだがね」

 少年は朗らかに笑いかける。

 その笑顔がどうにも不吉なものに思え、イズミはただ曖昧に頷くので精一杯だった。

「そしてさっきの問題に戻ろう」

 少年はパンと手を叩き、続けた。

「俺はアルシェラを取り戻したい。ところがアルシェラは敵の支配下で、ダーシェンカと交戦中だ。一番手っ取り早いのはダーシェンカにアルシェラをのしてもらうコトなんだけど……それも難しいカンジだね。さて、イズミくん。君ならどうするね?」

 少年は不意に射抜くような視線をイズミに向けた。

 無意識に姿勢を正したイズミは、視線を宙に彷徨わせる。

(僕なら、どうする? そんなの分かる訳ないじゃないか。ダーシェンカが手こずっている相手に、どうこうするだなんて)

 イズミは横目で二人の戦闘を見ながら胸中に呟いた。

 そしてハタと気付く。

「ん? なにか思いついたの?」

「い、いえ。ただちょっと気になって」

「何が?」

「どうして……どうして二人はあなたに気付いていないんですか?」

「どうして、気付いてないと思うの?」

 少年は少し目を見開き、口元を少しだけ緩めながら問い返した。

「二人の注意が僕にしか向いていないからです、それに……あれ?」

「それに、なんだい?」

「僕は……どうして、」

 イズミは呆然と呟く。どこか遠くを見るような視線で。

「どうしてそんなコトがわかるんだろう、かな?」

 少年は心底楽しそうに微笑みながらイズミの言葉を引き継いだ。イズミが口にしようとしたそのままを。

「え、えぇ……そうです。そんなこと、僕に分かるはずがないのに」

「そうとも限らないよ」

「どういう、ことですか?」

「一つは、キミの状況判断能力が優れているという可能性。二つ目は、ダーシェンカとキミが繋がっているから、という可能性。僕としては後者の方が嬉しいんだけどね」

 少年はクスクスと笑いながら言う。

 その言葉の内容は、あまりに突飛かつ場に似合わない空想的なモノ。

 あまりの馬鹿らしさにイズミは少年に怪訝な視線を向けたが、少年はその視線を「失敬な」と言わんばかりの溜息でいなし、再び語りだす。

「繋がっている、というのは何もロマンチックな心の繋がりとかじゃない。エーテルの繋がりさ。キミはダーシェンカにエーテルを分け与えているだろ? それがキミとダーシェンカの繋がり。ダーシェンカがエーテルを使用しているから繋がりが強くなっているのか……はたまた、いや、それこそアホらしいかな。ともかく、だ。キミはダーシェンカの感覚によって状況を判断した、と俺は思いたいね」

 少年の言葉を聞き、イズミは曖昧に頷く。

 どだいイズミが魔術的なことをキチンと理解するのは無理な話なのだ。

 だが、今回はなんとなく分かる。

 先ほどから妙な感覚が自分の中にのたうちまわっているのだ。

 自分のモノでない感情、自分のモノでない思考、自分のモノでない感覚、そして……。

 自分のモノでない、明確な殺意が。

「もし……もし仮に、あなたの言ってることが正しいとして、あなたはどうして二人に認識されてないんですか? あの二人に気付かれずにこんなところまで来るなんて不可能です」

「あぁ……それは簡単なことだよ。俺はここにいないもの」

 少年は、とんでもないことをサラりと言ってのけた。

 あまりのなんてことなさ漂う雰囲気に、イズミはそのまま流しかけたが、すぐに言葉の中身の異常に気付く。

「なっ!? あなたは確かにそこにいるじゃないですか! さっき僕に触れていたし!」

「それは錯覚だよ。俺はここにはいない。強いて言うなら君の頭の中にいるのかな?」

 少年はトントンと自分のこめかみを叩きながら言う。

「頭の、中?」

「そう、頭の中。君は俺の魔術に掛かってるのさ。俺は頭の中にいて、君の神経を誤作動させて、あたかも俺が君の目の前にいるように思わせているって訳。実際頭の中にいるわけじゃないけど、わかりやすく言えばそういうこと。実在の俺は少し離れた場所から君に話しかけてる」

「そんなの信じられるわけ、」

 イズミが「ない」と否定の言葉を続けようとした瞬間。少年の姿が忽然と消えた。

『信じる気になったかな?』

 それでも声は響き続ける。

 空気を通してではなく、普段思考するときと同じような感覚で、頭の中に響く。

「そんな……僕は、いつ魔術に? ダーシェンカの隙を突くなんて出来っこ」

『ダーシェンカが目覚める前なら君は隙だらけだっただろ? 君がダーシェンカを目覚めさせたあの日、僕は君の家の中にいたのさ。すぐさま魔術を掛けて君の目を欺き、家を出るのは簡単だったよ』

「なんでわざわざそんなことを? やっぱりあなたも不老不死が目的ですかっ!」

『違う違う。俺の目的は君とダーシェンカの観察さ。まぁ、正直そっちはあんまり実を結ばなかったんだけど、アルシェラを見つけるのに役立ったから良しとしよう』

「はぁ……それで、結局あなたは何がしたいんですか? アルシェラを取り戻したいんだったら、出てきてダーシェンカに加勢するなりなんなりすればいいじゃないですか」

『無理無理! 俺の魔術は戦闘向きじゃないもの! あんな危ないとこに行ったら即死だね、即死』

「だったら黙って見てれば、」

『だからキミにお願いがあるんだよ』

 少年の言葉にイズミは一瞬耳を疑った。いや、この場合は耳を通してないから頭を疑ったというべきかもしれないが。

「僕に、お願い?」

『そう、今の君にならギリギリできそうなお願い』

「なん、ですか?」

 イズミは口調に恐れを含みながら問う。

 先ほどの少年も口にした通り、ダーシェンカとアルシェラの戦いに加わろうものなら、即ち死だ。

『ダーシェンカに力を貸してほしいんだ』

 予想の一つだった言葉に、イズミは納得しつつも絶望を感じずにはいられなかった。

 イズミの絶望を知ってか知らでか、少年は滔々と言葉を紡ぐ。

『このまま行くとダーシェンカは間違いなく負ける。あぁ、断言できるね。だから君には彼女をサポートしてもらいたい』

「そんなの、ムリですよ! あなただった言ったでしょ!? 即死ですよ! 即死!」

『違う違う。何も俺はあの暴風に飛びこめと言ってるんじゃないんだよ、イズミくん。この場からダーシェンカをサポートして欲しいんだ。君たちの中にある繋がりを利用して』

「繋がりを、利用する?」

『そう。君の中にダーシェンカの感覚があるように、ダーシェンカの中にも君の感覚があるはずなんだ。それを利用してアルシェラを倒す』

「そ、そんなの出来るんですか? だって、本当に気のせい程度の感覚ですよ?」

『意識していないから気のせい程度の感覚なんだ。ダーシェンカと繋がっていると信じ、自分の中で強く思考しろ。ダーシェンカに伝えようとな』

 少年は語気を強め、叱咤するように言う。

「でも……伝えるって言ったって、何を伝えればいいんですか? 僕がダーシェンカに伝えられるようなことは無いですよ」

『そうとも限らんさ。ダーシェンカはアルシェラと至近距離で戦っているが、キミは離れてそれを見ている。見ることができる。サッカーの試合とかをテレビ中継で見ていて思ったことはないかい? どうしてあそこにパスしないんだ、とか。達人じゃなくても離れていれば見えるものがある筈だ』

「それを……ダーシェンカに伝えろと?」

 イズミはいぶかしむ様な口調で呟いた。

 少年の言わんとすることは理解できる。

 主観と客観という二つの感覚を同時に操るようなことは、戦闘時においてもっとも難しいことのうちの一つだが、出来たとなれば大きな戦力になる。

 だが、あのすさまじい二人の戦闘を観察して、イズミが何かに――それもダーシェンカが気付いていないような――気付けるかと言えば、不可能に近いものがある。

『まずはダーシェンカの狙いを推測するんだ。それくらいならできるだろ?』

 少年の言葉にイズミは黙って頷いた。

 その程度のことならば出来る。出来なければ先ほどのゾンビめいた男達の攻撃をかわせた筈がない。

 イズミは堅い唾を飲み下し、ダーシェンカとアルシェラの戦いを注視する。

 初見では、ダーシェンカ有利に思えた。

 イズミも特訓中に幾度となくハメられた、防御しなければならない体勢への誘導。

 これを続ければアルシェラに攻撃を当てることが出来る。初撃はアルシェラに防がれてしまったが、アルシェラの左腕が垂れさがっていることから察するに、ダメージを与えることができたのだろう。

 だが、何かがイズミの中で引っかかる。

 ダーシェンカが巧みに誘導しているようにも見えるが、見方を変えればアルシェラが誘導させているようにも見えてくる。

 となれば、ダーシェンカが攻撃を仕掛けた際に何か切り返してくる可能性が高い。

 しかし、そんなイズミでも気付ける程度のことにダーシェンカが気付いていないとは到底思えない。

 となれば。

「ダーシェンカは……肉を切らせて骨を断つ、つもりかな? いや、骨は断てないと踏んで、アルシェラの手のうちだけでも暴くのか?」

 イズミは確認するように呟いた。何も少年に答えを求めるというわけでなく、ただ単に自分で正しい答えを導くために。

「……たぶん、ダーシェンカは手の内を暴くつもりだ。その一撃に賭けてるんじゃないと思う」

 イズミは一つの結論を導き出した。

 どうやって、と問われれば、イズミは返答に窮しただろう。

 最後の二択まではどうにか自分の考えで絞り込んだが、最終的には勘だ。自分の中にかすかに存在しているダーシェンカの感情を利用した、なんとも頼りない、勘。

 それでもイズミはその答えに確信めいたものを感じていた。

『なるほど。存外出来るようだね』

 少年の上からの言葉にイズミは顔をしかめるが、事実少年の方がイズミよりも魔術やら何やらの知識は上のようなので反論しようがなかった。

『じゃあ、キミが知りえないことを俺が補足してあげよう』

 少年は気負う様子もなく、どこかこの状況を楽しむ様な雰囲気を漂わせながら言う。

 少年がイズミに対して補足したのは主に魔術に関するもので、ダーシェンカが発動している術式の効果と代償、それにアルシェラが使用した蠱毒という魔術の効果だった。

「それだけ聞くと、ダーシェンカが負けるとは思えないんですけどね」

 イズミは前方でひたすらアルシェラに攻撃を仕掛け続けているダーシェンカを見据えながら呟いた。

 いかなる魔術をも無効化する絶対防御にして、魔術的防御無視の突出した攻撃力。これのどこに負ける要素があるのか、とイズミには思えてならなかった。

 たとえ制限時間つきだったとしても。

 今もダーシェンカはアルシェラに攻撃を仕掛け続け、アルシェラは回避一辺倒。これを見ていれば、詰みの一撃でダーシェンカの勝利が確定する。少なくともイズミはそう考えた。

 だが。そんなダーシェンカの能力などを知っていながら、少年はダーシェンカは敗北すると断じている。

「あの……あなたがアルシェラを作ったんですよね? だったらアルシェラの弱点とか、」

『あいにく俺は弱点があるような製品は作らない主義でね』

 イズミが情けなくすがろうとするも、少年は容赦なく切り捨てた。

『まぁ、身体的能力だけならダーシェンカ有利だろうな。あの魔術もダーシェンカの戦い方に非常に相性がいい』

「じゃあ何が不安要素なんですか?」

『アルシェラが使った蠱毒だよ。アレはリビングデッド最大の問題であるエーテルの貯蓄量の問題をカバーするだけでなく、プラスアルファがある筈だ。ただの蠱毒ならいざ知らず、人間を利用したとなると……効果は計り知れない』

 少年の重々しい声がイズミの頭の中で反響する。

 少年はただ淡々と現状の情報を与えてくれた。

 イズミが知りえない魔術的知識。少年が与えてくれたそれは事態を把握するうえで非常に重要なものだが、事態を打破するにはあまりに脆弱すぎた。

 それでもなおイズミは思考し続ける。

 なんの為に、とかそのようなものは頭の中に無かった。ダーシェンカが負けたら自分の命がないだとか、ましてや少年のためにアルシェラを取り返そうなどと言う思考は毛頭ない。

 ただ単に、勝利するために。

 ただ単に、アルシェラを殺害するために。

 そこでイズミは我に返った。

 今湧き出ている思考は自分のものではない。明らかにダーシェンカのものだ。

 先ほどよりも強く、ダーシェンカの思考を感じる。思考だけでなく、感情も流れ込んでくる。

 それは、静かなる殺意。純粋な、混じりけのない、殺意。

 イズミが自身では抱いたことのない感情がとどまることなく沸き続けている。

 だからイズミは気付いた。

 魔術的、身体的なことでイズミが気付けたことは何もない。少なくともダーシェンカの敗北という結果を覆せるほどのものは。

 だが、一つだけ。たった一つだけダーシェンカに伝えられるものを見つけた。

 それは、常々イズミがダーシェンカに言われていたこと。

「冷静に、状況を、判断する」

 イズミは自分の中にのたうちまわる殺意に苛まれながら呟いた。

 ただのスポーツなら「冷静になれ!」と一喝し、拳の一つでも喰らわせれば事足りるだろう。

 だが、この場合は違う。

 言葉だけでは足りないし、拳を振るおうにも相手に痛覚がない。

 となればイズミに出来ることは一つだけだった。

 ただひたすらに自分が冷静になること。ダーシェンカのアルシェラに対する殺意を鎮め、

その冷静さをダーシェンカに取り戻させること。

 イズミはその為だけに目を閉じ、精神を集中した。視角から入る戦闘の映像は、殺意を増長するのでシャットアウトする。音も、意識の外に置いた。

 イズミはただひたすらに、自分の中に広がる闇に意識を沈めていった。

 ダーシェンカを救う、ただそれだけのために。


 夏の蒸し暑さを薙ぎ払うような風が吹きすさぶビルの屋上。

 覗き込んでいた双眼鏡から視線を外し、喪服姿の少年がポツりと呟く。

「へぇ……なかなか出来るじゃない、イズミくん」

 その姿は紛れもなく、イズミの前に現われた幻影の実体だった。

「覗き見とは趣味が悪いな、キリコ」

 不意に背後から掛けられた声にキリコと呼ばれた少年は片眉を吊り上げて振り返る。

 そこにはベージュのスーツをまとった四十代半ばと見える紳士が立っていた。その後ろには、極力存在を主張しないようにひっそりと一人の女性が控えている。肌は白く、夏の日差し厳しいというのに汗一つ浮かんでいない。年齢は三十代半ばに見えるが、実際はもっと上のようにも思える。

「何をおっしゃる。息子のピンチを傍観してるヒトデナシよりはよっぽどマシですよ? 

アクロマ機関の審判者・如月幸也さん。それに奥方の雪さん」

 少年はビルの屋上に現れた人物にさして驚く様子も見せず、さも当然のように微笑を投げかけた。

 その微笑をイズミの父・幸也は苦笑いながら軽く受け流すが、雪の方は口を固く結んで地上に切実な視線を投げかけている。

 あたかも肉眼で息子の危機を捉えているかのように。

「私の息子はどうだね?」

「なかなか見込みありますね。状況判断能力には天性のモノを感じますし、何よりも身の程をわきまえている」

 キリコは微笑を消し、ビルの下に視線を向けながら言う。

 その言葉に幸也は顎を数回さすり、キリコに先を諭した。

「俺が彼にしたアドバイスは、どちらかと言えばアルシェラの粗を見つける方向へ流すものでした。だがイズミくんはそのことに時間を割かずにダーシェンカを落ち着けることに早々と専念した。まったく、大したお人好しですよ。他人の判断に命を預けるなんて。まぁ、イズミくんごときに粗を見つけられるような作品を俺が作る訳ないから、それが一番の正解なんですがね」

 キリコは微苦笑しながらやれやれと頭を振った。

「お前の眼から見た勝算は?」

 幸也は鋭い視線をキリコに向ける。

 それは、イズミの前では決して見せることのない魔術世界での顔。

「……おそらく、あなた方が導き出してるものと同じだとは思いますが、甘く見て三割ってトコですかね」

「……やはり、か」

「えぇ。リビングデッドとしての性能はダーシェンカ、アルシェラともに拮抗しています。

ただ……“最後の禁忌”が何もイジっていない訳がありません。おそらく、蠱毒の他にも何か、いいえ、蠱毒の先にも何かあるはずです。まっとうなことを言わせてもらうなら、助けに行った方がいいと思いますよ?」

 キリコは上目遣いに幸也を見た。

 それは決して善良な心遣いからでた言葉ではなく、純粋な好奇心から生まれた言葉だった。

 魔術の世界で“不死殺し”と恐れられる男が肉親への情愛と己の使命との間で揺れ動き、

苦悶の表情を浮かべる様を見たいという、ひどく歪んだ好奇心。

「ふん、愚問だよ。身を守る手段は与えたんだ。その身を自分で守れないならせめて敵の手の内を明かすことに役立って貰わなければな」

 幸也は表情を変化させることなく断言し、踵を返す。

 雪も黙ってそれに続く。

 屋内へ入る扉のノブに手をかけたところで、幸也が不意に足を止めた。

「そうだ。まだ礼を言ってなかったな。イズミの目の“暴走”を押さえてくれたことは感謝する」

 幸也はそれだけ言うと、キリコの返事を待たずにビルの中へと消えていった。

「……まったく、素直じゃないんだから」

 幸也を無言で見送ったキリコはため息とともに言葉を吐き出した。

「本当はイズミくんが心配で心配でたまらないくせに。それに、お礼を言うためだけにイズミくんの傍から離れるなんて、どんだけ律儀なんだよ、あの夫婦。ま、そんな如月家だから俺も協力してやってるんだがね」

 キリコは心底楽しそうに笑いながらひとりごちた。


 ダーシェンカは一手一手アルシェラを追い詰める度に、自分が追い詰められていく感覚を覚えていた。

 拳がアルシェラの顔を掠める。足がアルシェラの腹スレスレを横切る。ナイフがアルシェラの喉元に限りなく近い部分の空気を切り裂く。

 どれもこれもかわされるが、どれもこれもダーシェンカが想定した回避コースを通っている。このまま行けばあと数十手で詰みだ。先ほどのように奇怪な現象に惑わされることもあるまい。

 それでも追い詰められていく感覚は消えてはくれない。

 最初から分かっていたことなのだ。相手が何か罠を仕掛けていることは。

 分かっていてなお愚直に突き進むのは、それ以外に手がないから。

「あとどれくらい持ちますかね? あなたのエーテル」

 アルシェラはダーシェンカの拳を軽々と紙一重で避けながら呟く。

 その言葉にダーシェンカは歯を食いしばるが、言葉は返さない。

 分かっている、単なる挑発だ。攻撃のリズムを乱すための。

 そう自分に言い聞かせるものの、ナイフを握る手に、より一層の力が籠ってしまう。言い知れぬ焦りが生まれてしまう。

 アルシェラが回避一辺倒のこの状況は、ハタから見ればダーシェンカが押しているように見えるのかもしれないが、実際には違う。

 状況は全くの互角。アルシェラに一発も攻撃を加えられず、しかし反撃を許さない。もし仮に、攻守が逆転したとしても状況は同じだろう。

 アルシェラはダーシェンカの絶対防御の魔術の所為で攻撃に転じることは出来ないが、実際それも本当かどうか怪しいというのがダーシェンカの考えだ。

 本当は軽々と自分を葬る力がアルシェラにはあるのではないか、アルシェラのドス黒いエーテルを目の当たりにすると、そんな畏れが生まれてしまう。

 だが、そんな下らない感情はことごとく塗りつぶされる。

 恐怖を上回る、圧倒的な質量の感情がダーシェンカの中にはあるから。

 怨念。そう断言して構わないモノがダーシェンカの中にはある。

 ダーシェンカの原動力であり、ダーシェンカが刃を振り続ける理由。

 イズミとの平和で、和やかな、そして何より懐かしい生活を通しても、その感情が薄れることはなかった。

 確かに、イズミとの生活でダーシェンカは、失ったものをわずかではあるが、取り戻した。

 取り戻した気になった。

 だが、それは違ったと痛感する。

 自分はもう二度と“アレ”を取り戻せない。

 もう、自分に残されている道は一つしかない。

 ひたすら、敵を排除する。リビングデッドの使命とか、そんなモノからではなく、自らの願望・欲求で敵をひたすらに殺す。

 何よりも優先すべきは殺戮。それこそが自分に残された唯一の免罪符となる。

 その免罪符すら自己満足に過ぎないと知りながらも、ダーシェンカは殺戮衝動を抑えられない。

 イズミという温かな存在も、過去という楔の前では霞んでしまう。

 いいや、過去ですらダーシェンカの中では擦れてボロボロになっているのかも知れない。

 唯一の真実は目の前にいるアルシェラのみ。

 ネクロマンサーを狙う禁忌を犯さんとする者。

 その概念が、ダーシェンカの心を焦がす。

 目の前にいるアルシェラの姿が、遠い日の最も憎むべき男の幻影と重なる。

 だから、もう、殺すことしか考えられない。

 ダーシェンカは鋭い視線をより一層鋭くし、攻撃の速度を上げた。

 ただひたすら、目の前の敵を消し去ることだけを考えて。

 無心に繰り出し続けた攻撃は、次第にアルシェラを追い詰めていく。

 追い詰めるとは言っても、壁際に追い込むようなレベルではなく、回避のリズムを少しずつ崩していき、防御しなければならない体勢に追い込むという高等なモノ。

 イズミを追い詰めるときの十倍の手数が掛かった事を考えれば、アルシェラが只者ではないことは明白だ。

 だが、詰みまで追い込めたことに違いはない。

 ダーシェンカはさしたる感動もなく、地面を軽く蹴った。

 たいした予備動作がなかったとは信じられないほどに高く、飛びあがる。

「しっ!」

 ダーシェンカは短く息を吐き出し、体をねじった。

 その勢いで鋭い回し蹴りが繰り出す。狙うのはもちろん、腕が使い物にならず、ガード不能な左半身。

 急所の頭を狙うようなことはしなかった。面積が少ない分、万が一にもかわされる可能性がある。

 だからダーシェンカは腰のあたりに狙いを定めた。どのみち腰をへし折って、脊髄という身体機能を奪ってしまえばこちらの勝ちだ。

 ダーシェンカは自分の動きも、アルシェラの動きもスローモーションに感じられた。

 これで、トドメ。そう信じて疑わなかった。

 否、疑えなかった。

 だが、あと数センチで脚がアルシェラに触れるというその瞬間。ダーシェンカはふと気付いた。

 アルシェラの口角が、歪に吊り上っていることに。

 何か、ある。それは初めから頭の片隅にあった思考。それでも、攻撃を繰り出し続けるうちにその思考は憎しみに押し潰されていた。

 押し潰されていたことにも気付けなかった。

 脚にはもうすでに、止められないほどの勢いが掛かってしまっている。

 間に合わない。

 この脚がアルシェラに触れたらその時点で、自分は死ぬのだろう。

 ダーシェンカは刹那の中に直感した。

 一度は死んでいるはずの頭に、走馬燈が流れる。

 遠い日の記憶。イズミとの記憶。どれもこれも温かな思い出で、思わずそれに浸ってしまう。

 だが、最後に浮かんだのは自分がまっとうな人間としての“生”を棄てる決意をしたあの日の、忌わしい、忘れたくても忘れられない記憶。

 ダーシェンカは、心の中で憎しみの炎が膨れ上がるのを感じた。アルシェラに向けられた憎悪とは比較できないほど巨大で、圧倒的な、憎悪。

(こんなところで死ぬなんて……それこそ“死んで”も嫌だっ!)

 ダーシェンカは胸中に叫び、意識せずに行動を起こした。

 それが間に合うか否かなどという計算は、どうでもいいことだった。

「くっ!」

 ダーシェンカは、アルシェラのドス黒いエーテルが、回し蹴りの打撃点に向かって急速に収束するのを視た。

 魔術が発動し、エーテルが現実に作用する。

 アルシェラの魔術は成功した。その証左に、周囲には酷い腐敗臭が充満していた。

 だが。


「……おや。避けられてしまったようですね」


 アルシェラは、さして感情を込めることもなく呟いた。

 ダーシェンカはあの一瞬、かろうじてアルシェラの魔術から逃れることに成功したのだ。

持っていたナイフを咄嗟に自分の足目がけて投げるという奇策によって。

 そのナイフはダーシェンカの狙い通り、足の甲へと突き刺さり、蹴りの勢いを止めた。柄の部分はアルシェラの魔術が作用したのか、ブスブスと音を立てながら融解している――腐食していると言った方が適切かもしれないが。

「ギリギリ、だったがな」

 ダーシェンカは足に突き刺さったナイフを気に留める様子もなく言った。

 そんな言葉を発しながらも、ダーシェンカの様子は平時とは明らかに異なっていた。

 額には汗がびっしりと張り付いており、肩が荒く上下している。

 苦痛や疲労を感じないリビングデッドにその症状が現れることは、それだけで危険な信号だった。加えて、絶対防御の魔術も解除されている。正確には、維持危険領域に入ったから解除せざるを得ないというだけなのだが。

 対するアルシェラは、息を切らしてもいなければ、汗が浮かんでいるわけでもない。イズミとダーシェンカの前に現れたその時から、全く変わっていない。

 ただ一つ、身にまとっていたドス黒いエーテルが消えているという点を除いては。

 だがそれでも、悠然と佇むその様は、ダーシェンカに深い絶望を与えた。

 まだ何か奥の手があるのではないか、と思わせた。

 だが、それも一瞬のことだった。

「私の負け、のようです」

 アルシェラが掠れ掠れの声で言う。

 同時に、アルシェラの左肘から先がスーツの袖ごと、鈍い音を立てて落ちた。

 千切れたようになっているスーツの袖は焦げたような跡が付いている。千切れたその箇所はちょうど、アルシェラのエーテルが収束していた場所だった。

「本当は、同士討ちのハズ、だったんですけど、ね」

 アルシェラはそう呟きながら、糸の切れた操り人形のように、ドサりと音を立てて地面に倒れ込んだ。

 ダーシェンカはしばらくの間、倒れたアルシェラを呆然と見つめていた。信じられない、

というような視線で。

「お、終わった、の?」

 呆然としているダーシェンカの背後から、イズミの声が上がる。

 ダーシェンカは我に返り、すぐさま声の方向へ視線を向けた。視線の先には、地面にしゃがみ込んでいるイズミの姿があった。

「ど、どうしたんだ!?」

 ダーシェンカは叫び、イズミの元に駆け寄る。

 目に見える敵がアルシェラ一人になってから、イズミの周囲に向ける警戒は低くなったが、それでもイズミの周囲に敵は寄せ付けなかったはずだ。それなのに、イズミは苦しげにうずくまっている。

「だ、大丈夫だよ。ちょっと、足が痛むけど……」

「見せてみろ」

 ダーシェンカはイズミの横に座り、イズミが押さえている右足の靴を脱がせた。

「挫いた、というわけではなさそうだな。腫れてはいない。どういう風に痛むんだ?」

「な、なんといか……」

「本来はキミが感じるべき痛みだよ」

 答えようとしたイズミの言葉を遮り、声があがる。

 イズミにとっては聞き覚えのある、ダーシェンカにとっては初めて耳にする、声。

「誰だっ!」

 ダーシェンカはすくと立ち上がりイズミを背に庇うと、声の上がった方向を見据えた。

 そこには、とても中性的な顔立ちの、喪服を身にまとった少年――キリコがいた。

 キリコは自分よりも大柄なアルシェラを、さして苦でもなさそうに腕に抱えている。

「俺のことはイズミくんが知ってるよ。敵じゃないから安心して」

 キリコは肩を軽くすくめ、ダーシェンカの視線を受け流しながら言う。

 ダーシェンカが確認するような視線をイズミに向けると、イズミはコクりと頷いた。

 それを確認したキリコは満足そうに微笑み、続けた。

「イズミくんはね、頭に血の上った君を鎮めるために、頑張ったんだよ? 感覚共有を利用してね」

「まさか、そんな……感覚共有、だと?」

 ダーシェンカは呆然と呟く。

 感覚共有。優れた魔術師と使い魔の間に成り立つ、ある種の魔術で、千里眼などを発現させようとするときに用いられる。

 イズミからエーテルを分け与えられているダーシェンカも一種の使い魔と言えば使い魔なのだが、一介の使い魔とは異なり、確固たる意志を持っている。

 動物などの使い魔と感覚を共有する魔術師なら聞いたことがあるが、確固たる意志を持つ者――人間――と感覚を共有する魔術師など、聞いたことがない。

 ましてや、魔術師としての修練を全く積んでいない者がそんなことをなすなどとは。

「まぁ、確かに俺も驚いた。まさか感情だけじゃなく、もっと具体的な……五感全部を共有するなんてのにはね」

「五感だとっ!? じゃあイズミはまさか……」

「そう。君がアルシェラの魔術を避けるために刺したナイフの痛みを感じたのさ。まぁ、感覚共有はもう終わってるみたいだからじきに痛みも引くよ」

 キリコは軽く呟き、地面に落ちていたアルシェラの腕を拾い上げる。

「あーあ。ったく! なんつー酷い使い方をしてくれるんだ。俺が丹精込めて作ったリビングデッドを使い捨ての藁人形のように使いやがって」

 キリコは、腕の断面図をしげしげと眺めながら呟く。その視線には、イズミとダーシェンカなどこれっぽっちも映っていない。完全に意識の外だ。

 キリコの呟きは続く。

「はぁ、なるほど。この断面から察するに、高濃度のエーテルでダーシェンカのエーテルを余すとこなく相殺し、殺すつもりだったのか。まったく、なんつー下衆な戦い方をさせやがるんだ。あの糞ったれめ」  

「で……お前は本当に、誰なんだ?」

 ダーシェンカはブツブツと呟き続けるキリコに怪訝な視線を向け、尋ねる。

「俺? 俺は、現・キリコだよ。これだけで十分でしょ? ダーシェンカ」

 アルシェラの腕から視線を外したキリコは、クスりと微笑みながら答えた。

 ダーシェンカもその答えに満足したのか「あぁ」と短く漏らしただけで、少年への興味を失ったようだった。

「え? あの……どういうこと?」

 痛みが引いてきたらしいイズミは、状況が飲み込めず、キリコとダーシェンカの顔を交互に見る。

「それは後からダーシェンカにでも聞いてよ。まぁ……後があったら、の話なんだけどね。

とにかく、君のおかげでアルシェラを取り戻せたから、そのことには礼を言っておくよ。ありがとう、イズミくん。生きてたらまた会おうね」

 少年は悪魔的な微笑で不吉なことをサラりと述べ、アルシェラを抱えたまま、人混みの中へ消えていった。

 片腕のもげた美女を抱えた少年が通っているというのに、通行人たちは気にも留めていない。

 なんとも気味の悪い光景。

「な、何者なの? あの人」

 イズミはキリコが消えていった方向を見つめながら、ボンヤリと呟く。

「ただの変態だよ。細かいことはあとで教えてる。まぁ、キリコが言ったように“後”があったら、だけどな」

 ダーシェンカは鋭い視線を周囲に向けながら答えた。

 まだ終わっていない。

 周囲を見渡したダーシェンカはそれを痛感する。

 通行人たちは相も変わらず、首のない死体が三つも転がっているという異常を気にも留めずに歩いている。それは、敵の魔術が解けていない証。

 もっとも、アルシェラを倒したところで魔術が解けないことは、彼女自身の発言から分かっていたことなのだが。

 それでも緊張が走る。アルシェラを倒した今、敵がどう動いてくるのか。

 街中から離れた方が得策なのか、現状維持が得策なのか。正直なところ、判断に迷う。

 住人の意識が支配下に置かれていない街まで移動する、というのも選択肢の一つは一つだが、あまり効果的とは思えない。結局はイタチごっこだ。

 となるとやはり、迎え撃つしか手は残っていないだろう。

 エーテル残量から察するに、魔術無効化の術式はそう長く発動できそうもないが、瞬発的に使う分には問題ないだろう。

 もっとも、敵が先の戦闘を見ていて、術式の効果などを知ってしまっていれば、それもあまり効果はなさそうだが。そのときはそのときで身体能力を活かして倒すのみだ。

「……ともかく、私もイズミに礼を言わなければだな。ありがとう。イズミだったんだな。ギリギリの所で私を引っ張ってくれたのは」

 ダーシェンカは微笑みながら、座り込んでいるイズミに手を差しのべる。

「あ、いや、引っ張ったっていう実感はないんだけどね」

 イズミは照れくさそうに微笑みながら、ダーシェンカの手を握り、立ちあがった。

「正直、私も引っ張られた実感はないんだが……言われてみればアルシェラにトドメの一撃を叩きこもうとしたあの瞬間に、」

「いやぁ! 実に面白いものを見せてもらったよ。いや、今も見せてもらってる、と言うべきかな」

 ダーシェンカの言葉を遮り、やけに芝居がかった声が響き渡る。

 イズミとダーシェンカは同時に、まるで何かにハジかれたような勢いで声の上がった方向に顔を向けた。

 人混みを掻き分け、一人の男が、通行人が踏み込むことのない不可侵のテリトリーに入り込んでくる。

 夏を過ごすにはあまりに無謀なロングコートを羽織り、目深に黒のハットを被った長身の男。

 あまりにも奇怪な姿だというのに、通行人はやはり、気にも留めずに取り過ぎていく。

「いやぁ、まさかアルシェラが負けるとは。それも覚醒したネクロマンサーじゃなくて、リビングデッドなんかに」

 男は敵意剥き出しのダーシェンカの視線を気にする様子をおくびにも出さず、滔々と喋り続ける。

「予想より早いお出ましだな、下衆野郎」

 ダーシェンカは男に鋭い視線を向けながら、足の甲からナイフを抜き取り、逆手に構える。

「うっ!」

「ど、どうしたイズミ、今のも足が痛んだのか?」

 奇妙なうめき声をあげたイズミをダーシェンカが横目で見やる。

「だ、大丈夫だよ。今のはただ単に痛そうだなって思っただけだから」

 イズミは照れくさそうに苦笑する。

 その様にダーシェンカの頬も思わず緩んでしまう。アルシェラよりも強大な敵が目の前にいるというのに、信じられないくらいにリラックス出来ていた。

 冷静に、目の前の敵と対峙出来ている。

 そんな自分を認識したダーシェンカは心の中でイズミに感謝する。言葉で謝意を伝えるのは目の前の男を葬ってからで十分だ。

 葬ってみせる。

 万全とはいかない状況だが、人としての“生”を捨てたあの日から、どんな状況であれ敵を葬る覚悟はしてきたのだ。

(だから、やってみせる!)

 ダーシェンカは瞳に強い意志を宿して、眼前の敵を見据えた。

「ふむ……この国ではこういうときは『その意気や、よし!』とか言うのだったかな? 

まぁ、どうでもいいことか」

 男は肩をすくめながら呟くと、ハットを目深に被り直す。本当にそれで周りが見えるのか、と問いたくなるほどの被り方だ。

 ダーシェンカは男の姿を観察しながらあれこれと推測を巡らせる。

 季節に全く適していない格好は何を意味するのか。

 一つは体中に魔術の媒体を収納しているという線。だが、それも当たっているとは考え難い。なんせ男は手すらも黒い革の手袋で覆っているのだから。

 となると、素肌を隠す必要があると考えるのが妥当かもしれない。

 そこまで推測はしてみるものの、情報が少なすぎる。街の住民の意識を操作している手管からして、遠・近問わず戦える一流の魔術師だろう。

 間合いを計れないことは、痛い。下手に男の傍まで行ってしまえば、その隙をついてイズミに危害が及んでしまうということもあり得る。

「しかし、アルシェラを退けたリビングデッドとなれば相当な名匠の作だな……名前は何と言うのだ? リビングデッド」

 男は攻撃を仕掛ける様子も、気負う様子も見せずに語り続ける。まるで、ダーシェンカなど脅威でも何でもないと言わんばかりに。

「クズに名乗る義理はない」

 ダーシェンカは本当に吐き捨てるかのように言った。

 男はダーシェンカのそんな態度を気に留めることもなく、楽しげに喉をクツクツ鳴らした。

「フフフ、そうか……クズか! こりゃまた愉快だな。リビングデッドごときにクズ呼ばわりされるとは。……まぁいい。推測するのも一興だ」

 男は顎をさすりながら何やら考え込むような仕草を取る。

 仕草を取っているだけで、本当に考えているようにはとても思えなかった。

「まぁ、だいたい見当は付いているんだがね……見目麗しいリビングデッドなんて酔狂なモノを作るのはキリコぐらいしかいないからね。ただ……何代目キリコかを当てるとなると多少は骨が折れるがね」

「そんなコト知ってどうするんだ?」

 ダーシェンカは探りの言葉を投げかけてみる。

 何か、少しでも、情報が欲しかった。

 それだけの心積もりで投げかけた言葉だった。

 だから、まさか男の口からそんな答えが出るとは思っていなかった。

「いやね、キリコの作品の中に因縁のある娘がいてね。まぁ、大した因縁じゃないんだが……そう、娘の家名だけはハッキリと覚えているよ。十八世紀の魔術世界で名を馳せた名門、オルリック家」

 男は穏やかに言葉を紡いだ。因縁などという言葉を使いながらも、そんなことは全く感じさせないほど穏やかに。

「オルリック家、だと?」

 ダーシェンカは目を見開き、呆然と呟いた。

 まさか男の口から自分の家名が出るとは思っていなかった。オルリック家がその名を馳せた十八世紀ならいざ知らず、今は二十一世紀だ。

 オルリック家がダーシェンカ“のみ”を残して滅び去ってから二百年以上過ぎている。現代に生きる魔術師は歴史の一部でしかオルリック家を知らないだろう。

 だというのに、この男はオルリック家と因縁があると言った。

「ほう、オルリック家を知っているのか。……まさかとは思うが、貴様がオルリック家の娘じゃないだろうな? ハハッ! そんな訳はないよな、なんと言ってもあの娘は、」

「名門オルリック家に生まれながら魔術の素養が全くなかった」

 ダーシェンカは感情の籠らない声音で呟いた。

 イズミはそう呟いたダーシェンカの表情を見て背筋を凍らせた。

 感情が無い。怒りも、悲しみも、喜びも。感情という感情が抜け落ちている、そんな表情だった。

「ほう、これはおもしろい。そのまさかだったとは! 貴様が魔術師でもないのにリビングデッドになった“あの”出来損ないかっ! 因果律の流れとはこうも愉快なものなのかっ!」

 男は大層嬉しそうに諸手をあげて空を仰ぐ。

 その瞬間に、イズミは信じられないものを垣間見たような気がした。

 男の顔が、まるで、ミイラのように干からびていたのだ。

 しかし男はあっという間に元の体勢に戻り、顔も隠れてしまった。だからイズミは、先ほどの光景を気のせいだと思うことにした。

「一応、聞いておこうか。貴様とオルリック家の因縁とやらを」

 感情の抜け落ちた顔で、ダーシェンカは言葉を発する。

 細々と喋るその声は、通行人たちの喧騒にかき消されてしまいそうなほど小さいというに、不思議と耳に強く響いた。

「なんてことはない。オルリック家の者達を贄にした魔術を発動させたんだが、術式構成を失敗してしまったのさ……キミという出来そこないがあの一族に居たことでね」

 男は相も変わらず飄々と言葉を紡いだが、最後の部分はドス黒い感情がありありと籠っていた。

 男の言葉を聞き終えたダーシェンカは両の目を鋭く吊り上げ、沸き上がる殺意を抑え込むために歯を食いしばった。

 男が話した内容は半ば確信に近いほどに予期していたモノ。それでも信じられない。

 二百年前に自分の家族を皆殺しにした男と再び巡り合うことになろうとは。

「ヴェルナール、なのか……貴様は」

 ダーシェンカは二度と口にすることはないだろうと思っていた名前を口にした。

 家族を失い、途方に暮れかけていたダーシェンカの前に現われた当時のキリコが教えてくれた仇の名前。

 家族は魔術の使えないダーシェンカを魔術の知識について教えようとしなかったから、その名前がどれほど強大なものなのか、当時のダーシェンカは分からなかった。

 だが、温かい場所を奪った、憎むべき相手だということだけはハッキリと分かった。

 本来ならば自分で仇を討ちたかったが、キリコがダーシェンカにその名を教えた時点でヴェルナールは討伐されていた。どだい、仇を討とうにもただの少女であったダーシェンカに出来ることはなかったのだが。

 それでもダーシェンカは、やり場のない感情を処理するために強くなることを望んだ。

 体術を覚え、魔術の知識を片っ端から頭に叩き込んだ。

 だが、まっとうな人間にはまっとうな限界しか待っていなかった。

 並の魔術師にすら歯が立たない。

 それがダーシェンカに突きつけられた現実だった。

 それでもダーシェンカは上を――あるいは下を――目指した。

 断り続けるキリコに頼み込み続け、やっと了承を得た。

 まっとうな“生”を捨て、リビングデッドになることの。

 ヴェルナールのように“ネクロマンサーの家系”を狙う者達を駆除する道具になることの。

 そして、今に至る。

「いかにも。私はヴェルナール・ド・レーテ。禁忌の炎に身を焦がす哀れな魔術師だよ」

 男――ヴェルナールは恭しく一礼すると、ゆっくりとハットを脱いだ。

「なっ!?」

 声をあげたのはイズミだけではなかった。ダーシェンカでさえも、声を抑えることができなかった。

 ハットの下から現われたヴェウナールの素顔は、恐ろしいまでに醜悪なものだった。

 顔は肉という肉が削げ落とした頭蓋骨そのもののような形を呈しており、皮膚は黒く変色し奇妙な光沢を発している。剥きだしになった二つの眼がせわしなく動き、時折イズミとダーシェンカを捉えている。

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