第3章 転がりはじめた物語は、群衆を巻き込む(1)
閉じそうになる目を何度もしばたかせながら、イズミは黙々と朝食のベーコンエッグを口に運んでいた。
時刻は、午前七時。長かった夏期講習もついに昨日千秋楽を迎え、体術の訓練は残っているにしても、それなりに惰眠を貪れる生活が始まると予期していたイズミにとって、六時に起床させられ、それに加えて朝食を作らされることは、なかなか酷な仕打ちだった。
イズミを起床させたとうのダーシェンカは、イズミの眠そうな表情など気にする様子もなく、トーストをかじりながら今朝の新聞に目を通している。
「敵、襲ってこないね。相変わらず」
イズミは沈黙に耐えかねて口を開く。まだ意識がはっきりしていないのか、どこか間延びした声だった。
ダーシェンカは新聞から顔を上げることもなく「あぁ、そうだな」とだけ返す。
どこかしら倦怠感漂う夫婦のような会話だが、このやりとりがここ数日のイズミとダーシェンカの朝の挨拶といっても過言ではなかった。
墓場で得体の知れない人骨に襲われてから、それなりに緊張感を保っていたイズミではあったが、二週間も敵から音沙汰なしとなると元来の平和ボケな思考が頭に湧き出始めてくる。
昨日までは「逃げたんじゃない?」「そんな訳ない」という会話が続いていたのだが、いい加減無駄なことだと察したイズミは口を開く代わりに、ベーコンエッグを口に運び咀嚼し始めた。
「なぁ、イズミ。この時代では、人が原因不明で集団昏倒することはよくあることなのか?」
ダーシェンカの唐突で突飛な質問に、イズミは眉を寄せる。
人が集団昏倒するのがよくある時代なんて、御免こうむりたい代物以外の何物でもない。
「どうしたの? 急に変なこと聞いて」
眠気が引き始めたイズミは怪訝な表情を崩さずに尋ねた。
するとダーシェンカは新聞を折りたたんでイズミに差し出す。受け取ったイズミはそこに記されていた記事を見て、眉のシワをさらに深めた。
『原因不明の集団昏倒 十名を超える老若男女が病院に搬送』
あまりに不可解な記事に、イズミは今持っている新聞が三流のゴシップ誌なのではないかと思い、新聞の名前を確認した。
残念なことに、いま手にある新聞はゴシップ誌でもなんでもなく、昔から購読している大手新聞会社の新聞に間違いなかった。
「……ひとつだけ言えるとしたら、こんなことは絶対に普通じゃないってことだけだね」
イズミは記事に目を通しながら呟く。
記事の内容としては、集団昏倒とはいっても一か所で起きたわけではなく、二・三時間の間に原因不明の昏倒者が続出し、病院に搬送されたというものだった。しかし、患者は皆一様にイズミが暮らす街で昏倒しており、警察としてはなんらかの事件の可能性も視野に入れて調査を進めている。
と、なんともまぁ真面目な内容。
幸いにも昏倒した人は意識を取り戻し、命に別状はないらしいのだが本当に不可解な事件だ。
「私はどうにもおかしいと思っていたのだ。墓場の一件以来なんの音沙汰もないというのは」
イズミの言葉に顔を俯けたダーシェンカは、顎を手でさすりながら難しい顔で呟く。
「まぁ……そうかも知れないけど。この記事と僕たちの敵になんの関係があるのさ」
「魔術師が魔術を行う上で最も重要なのは媒体だ。エーテルに質量を持たせ、世界に作用させるには媒体は欠かせないものだ。媒体たり得るものの多くは歴史を重ねたモノ全般や動物の骨などなのだが……」
「なのだが?」
「こと他人を傷つける為の魔術を行うために特化した媒体となると、武器の類しかない。そんなモノが税関の類を通過できるわけないだろ?」
ダーシェンカの言葉にイズミは黙って頷く。
「だから魔術師は媒体をその国々で調達しなければならない。普通の媒体なら専門の商人から買いつけられる。だが、人を傷つけるための媒体がそう易々と手に入るはずがない」
「まぁ、確かに普通の世界でも拳銃やそれ用のナイフが簡単に手に入ったらたまったもんじゃないもんね」
「だろ? だから人を傷つけたい魔術師は媒体を自力で調達する。人間という動物の骨を、
な。まぁ、骨を武器とするにはかなりの量がいるのだが……集めるには手軽だろ? 墓標という目印があるんだから」
ダーシェンカは皮肉るような笑みを浮かべながら続ける。
「私は万が一にも墓場になんらかの痕跡が残されていないかと考えて肝試しに参加した」
「当たり、だった訳だ」
「そうとも言えない。だいたいおかしいと思わないか? 肝試しで偶然行くことになった墓場であんなコトが起こるなんて。普通ならターゲットの居住区域から離れた墓地で媒体を得ようとする筈だ。私はそれがずっと頭に引っかかっていた。あたかもその場から逃げるために囮にしましたと言わんばかりの人骨、準備を始めていた様子がある割にはまったく襲撃のそぶりがないこと」
ダーシェンカは呟きながらも険しい表情を崩さない。何やらまだ頭の中で考え込んでいるようだ。
イズミはダーシェンカの言わんとしていることが掴めず、ただただ新聞の記事を読み返していた。そんなことをしても何も見えて来はしないと頭で理解はしているのだが。
「世の中で原因不明とされることの多くはオカルトの類が絡んでいる……おそらくはこの記事も」
「もし、もしそうだとしても、どうして僕に関係ない人が襲われてるの?」
ダーシェンカの曇りきった表情に、イズミは何か嫌な予感を感じた。
墓場に向かうときにもどこかしら余裕を感じさせたダーシェンカがこうまで深刻な表情をするということは、能天気なイズミには想像できないような事態が起きているということを示唆していた。もっとも、イズミがこの一連の不可解な出来事を想像できるということは、これまでも、これからも来ることはなさそうだが。
「これは、当たって欲しくない推測なのだが、私たちの敵は……生きた人間を媒体として使おうとしている」
「な!? そんな馬鹿な! それって、生きた人を道具扱いするってこと!?」
イズミは立ち上がり、両手をテーブルに叩きつけていた。
怒りから、というよりは驚きの方が大きかった。自分が狙われることにすら実感の湧かないイズミが、周囲の人間が巻き込まれるコトなんて考えられるハズがなかった。
目の前で起きても信じられなかった出来事が、新聞という媒体を通して急速に現実味を帯び始める。
今なら、ダーシェンカの言った「エーテルが質量を持つ」という言葉の意味が理解できる気がした。オカルトという空想的なものが重みを帯び、現実に作用する。
人を傷つけるという最悪の作用として。
「意識が回復したということは失敗したということなのだろうが……他に成功しているかもしれない。これじゃ迂闊に外を出歩けない」
ダーシェンカは歯噛みしながら呟く。その表情は本当に悔しそうで、どこか怒りにも似たようなものも感じ取れる。
その表情にイズミは気押され、胸を締め付けられる感覚を覚えた。固い唾を飲み込み、息を吐き出しながらイスに座り直す。
「外を出歩けないって、どういうこと?」
「人を媒体にするということは人を自由に操れるという事だ。骨を媒体にしたものなら人目を気にして活動時間が制限されるが、生きた人間を操れば人目なんか気にする必要はない。それに……」
「それに?」
急に言葉を止めたダーシェンカにイズミが先を促す。
「敵は少なくとも十人にその魔術を施している。相当な力量と見て間違いないだろう。失敗しているとはいえ、並の魔術師なら三回の施術で全てのエーテルを持っていかれ、あの世行きだ」
以前なら何を言っているのか全く理解できなかったダーシェンカの言葉も、体術とともに魔術の知識についても学んだ今のイズミには理解できた。理解できてしまった。
敵の強さが魔術師の中でも並外れていることを。
人間の魂の量というものには個人差がある。差があるとはいっても、ダーシェンカによるイズミに優しい例えによれば、一般人の所有する総エーテル量は二リットル入りのペットボトルくらいの量らしい。
しかし、魔術師はその量が根本から違う。
魔術師と名のつく者は最低限風呂桶一杯分のエーテル量を持っており、レベルが高くなればなるほどその量は増えていく。最高位とされる魔術師はプール一杯分以上のエーテル量が軽くあるらしい。
かと言って、魂の量が並はずれて多いから二〇〇年も三〇〇年も生きられるということでは決してない。休眠中のリビングデッドとは異なり生命活動をする魔術師は、肉体の方が持たず、結局は常人の寿命とほとんど同じということだ――肉体面で健康なら百年は優に生きるらしいが。
並の魔術師が三回でお陀仏の術を何度も繰り返しているとなると、敵は最高位の魔術師ということになる。並の魔術師とすら対峙したことのないイズミにとって、想像しようのない次元にいることだけは確かだった。
「敵わない、の?」
イズミは躊躇うことなく真っ先に思い浮かんだことを口にした。
敵わない。つまりは自分が死ぬという未来。それが真っ先にイズミの頭の中を駆け巡った。それでもやはり、死というものは自分とは程遠いものという感覚が大半を占めていて恐怖というものは沸いてこなかった。
「敵わないわけではない」
イズミの予想とは裏腹にダーシェンカはこともなげに即答した。即答はしたものの、険しい表情は変わっていない。
「私はどんな敵が来ようと葬り去る自信がある。たとえ相手が最高位の魔術師だろうとな。
大きな問題は魔術師の強さじゃない。意識がないとはいえ、生きた人間を相手にしなきゃならないことだ。私は、攻撃となると手加減できない……おそらくは殺してしまうだろう」
ダーシェンカは暗い表情で続けた。
「確かに、問題だね。操られてる人をもとにもどす方法はないの?」
「それは簡単だ。操っている魔術師を殺せばいい。そうすれば意識を取り戻す」
「魔術師は……殺さなきゃダメなんだね」
「当たり前だ。まさか、自分の命を狙う輩に情けを感じているのか?」
「情けは感じてないよ。でも結局は自分も、人を殺さなきゃいけないってことだよね?
人を殺すことには抵抗を感じるよ」
イズミは顔を俯け、握り合わせた拳を見つめた。
「まぁ、それは……仕方ない。だが安心しろ。表の世に魔術のコトが知られないようにするための隠蔽機関もある。だから警察にはバレない」
「そういうことを言ってるんじゃないよ!」
「……分かってる。イズミがどういう人間であるかということは。キミが責任を感じる必要はない。手を下すのは私だ」
ダーシェンカは声を荒げたイズミを落ち着かせようと軽く微笑みながら答えた。
それでもイズミが落ち着くことはなく、表情はさらに険しくなった。再び声を荒げるようなことはしなかったものの、口を固くつぐみ拳を固く握りしめていた。
「外を出歩くのは迂闊だが、座して待っていても襲われるものは襲われるだろう。とりあえず昼間は大通りを中心に行動して敵の襲撃から逃れよう。相手も騒ぎは避けたいハズだ」
ダーシェンカは当面の対策を打ち出し、再び紙面に目を戻した。
イズミには敵わないことはないと言ったが、状況はかんばしくない。生身の人間が使われるということは、いついかなる状況で襲われてもおかしくないということだ。相手がイズミの周囲の人間を観察していて、それらの人間を操ってくるという可能性もないわけではない。
魔術師が姿を現さずに、そいつらだけを送り込んでくるとなれば、操られている人間を傷つけるわけにはいかない以上、逃走以外に選べる道がない。
もし仮に魔術師が姿を現したとしても、相手は最高位の魔術師だ。すぐに勝敗がつく訳がない。ダーシェンカが闘ってる間、イズミは自分の身を自分で守らなければならなくなる。イズミの回避術はそれなりのレベルに達してきてはいるが、長時間はキツいものがあるだろう。
「回避術の訓練を続けよう」
敵への対応策が頭の中を駆け巡りはじめたダーシェンカに、幻聴が響いた。
イズミの声で、はっきりと。
ダーシェンカは目を丸くして目の前に座っているイズミを見据えた。
「回避術の訓練を続けよう」
再びイズミの口が確かにそう動き、ダーシェンカの耳にもそう届いた。
幻聴ではなかった。ダーシェンカはそう思ったものの、イズミの発した言葉が現実のものか確信が持てなかった。
「いま、なんて?」
「回避術の練習を続けよう、って言ったんだけど……」
先ほどのハッキリとした口調とは一変して、イズミの口調は尻すぼみだった。
「キミは……自分が何を言っているのか分かってるのか? 回避術の訓練をするってことは人気のない山の中に行くということだ。それともキミは街中で訓練するつもりなのか?」
「そんなことは分かってるよ。でも人気のない山なら近づいてくる人間をハナから疑えるし、訓練を続ければダーシェンカの負担を減らせると思うんだ」
イズミは手を組み合わせたまま、まさしく祈るように呟く。
自分の言っていることに自信がないのか、ダーシェンカを言い負かす自信がないのかは分からないが、どことなくオドオドしている。
いつも通りのイズミにダーシェンカはどこか安堵を覚え、苦笑とともに溜息を洩らす。
「分かっているならいい。イズミが分かって言うなら私は止めない。私は私の存在理由である君の守護という勤めを果たすだけだ。それにキミ自ら餌になってくれるというのだ。好都合だよ」
ダーシェンカは皮肉で締めくくり、イズミを怖がらせるかのようにいたずらに微笑んだ。
* * *
イズミは嵐の中でがむしゃらに体を動かしていた。自分を切り刻まんと暴風が体を次々と掠めていく。顔面を、腹を、腕を、足を、目にも止まらぬ、いいや目にも止まらない速さ“だった”暴風が掠めていく。今ははっきりと、とまではいかないものの確かに暴風の姿が見えている。
イズミは目を見開き、暴風を生み出す元凶を見据えた。
元凶には相応しくない美しい少女、ダーシェンカがそこにいた。整った顔を崩すことなく、無表情にイズミに向かって蹴りや拳を繰り出してくる。その勢いたるやまさにハリケーン。超小型ハリケーンダーシェンカがイズミに襲いかかってきている。
「よし、五割にもだいぶついてこられるようになったな。次、六割行くぞ」
「え? ちょっと! いきなり一割増はムリだって!」
二ヤリとほほ笑んだダーシェンカにイズミは必死に否定の弁を述べたが、無駄だった。
イズミの目の前にはいつの間にかダーシェンカの拳が突きつけられていた。
「だからムリって言ったのにぃ」
イズミは情けない声で呟き、その場にヘタり込む。
「ムリとか言う前に距離を取ろうとは考えなかったのか?」
肩をすくめながら尋ねるダーシェンカに、イズミは首を激しく横に振る。
その答えにダーシェンカは深い溜息を漏らした。
溜息は漏らしたものの、イズミがここまで成長することはダーシェンカにとっても驚きだった。三割程度の拳速についてこられるようになれば万々歳だと考えていたのだが、たった二週間やそこらで五割まで達している。
イズミの身体能力は決して高いとは言えなかったのだが、二つだけ目を見張るものがあった。
動体視力と判断力。速さに慣れてしまえば軽々と――イズミ本人としては必死に――攻撃をかわすようになったし、間の取り方などもコツを掴んでからはそつなくこなすようになっていた。
本当にここ、山の中での訓練は大きな収穫があった。だがそれもここまでだろう。
今六割の拳速に達したところではっきりと分かった。イズミの動体視力は五割の拳速についてくるのが限界だと。五割とはいっても生きた人間の限界すれすれの拳速だ。それをかわせるようになっただけでも十分だ。
だがそれは裏を返せば、生身の人間相手にしか身を守れないということの証明でもある。
人智を超えた存在からは自分が守ればいいだけの話だ。ダーシェンカは心の中でそう呟いた。
今イズミを狙っている相手が最高位の魔術師と見て間違いない以上、いつまで自分が守り続けられるか分かったものではないのだが。
「……イズミ。五人ほどの気配が近づいてきている」
ダーシェンカは感傷に浸りかけた頭を急速に切り替え、ヘタりこんでいたイズミの肩を叩いて立ち上がらせる。
「どこから?」
立ち上がったイズミも表情を引き締めながらあたりを見回す。
いつも利用している山小屋は木々に囲まれている。生命力に満ち満ちた木々は、風に揺られて葉をざわつかせていた。
一般人のイズミには木の葉のざわつく中で、敵の気配を感じ取るなど不可能な話なのだが、それでも全神経を研ぎ澄ます。
山小屋に続く道は、上ってきた道と山頂へ続く道の二本だ。正確には山頂までの一本道の途中に山小屋があるというだけの話なのだが。
「下からだ。舗装された道を歩いてきているが、油断はするなよ」
「分かってるって」
「よし、じゃあ私たちは山を降りて街中に出よう。すれ違いざまに変なそぶりを見せたら避けろよ? もし捕まってみろ。イズミを捕まえた可哀そうな操り人形の命はないからな」
ダーシェンカは軽く微笑みながらイズミを小突いた。
小突かれたイズミはよろめきながら「が、がんばってみる」と上ずった声で応じる。
こんなブラックジョークが飛び出すのも、イズミがそれだけ成長したからだ。
普通の人間にはイズミは捕えられない。捕えられるのは理を外れた者だけだろう。そいつが出てきたときにダーシェンカがとる行動は簡単だ。
この手で八つ裂きにしてやればいい。
ダーシェンカは胸中に呟きながら両手を握りしめた。感覚はないが、力強く握っているのは理解できた。おそらくリンゴぐらいは軽く握りつぶせるだろう。
「それじゃあ降りるとするか」
ダーシェンカは下へ続く道に視線をやりながら呟き、歩きはじめた。
若干緊張し始めているらしいイズミも深く頷きダーシェンカに並んで歩きはじめる。
イズミ達が訓練に利用していたこの山は、わざわざ用具を揃えて登山するような高い山ではなく、ただの公園という風合が強かった。人がそれほど寄り付かないからこそ、ここで訓練していたのだ。ごく稀に通りかかった人には漏れなく「若者がこんなとこで何をしているんだ?」というような怪訝この上ない視線を向けられたが、イズミは極力気にしないように努めていた。
つまりはそういう寂れた場所に五人も人が来ているのだ。疑わなくて済む道理がない。
ダーシェンカはいつも通りの歩き方で。イズミはどこかしら硬さが見られるぎこちない足取りで道を下っていた。
とくに会話を交わすこともなく歩き続けていると、五分もしないうちに人影が見えてくる。ダーシェンカが宣言したとおり、五人だった。
三十代前半と見える男女に、小学校低学年ぐらいの少年が二人、幼稚園児ぐらいの少女が一人。早い話がどう見ても家族連れが仲良く散歩をしているようにしか見えない。
「くれぐれも……油断するなよ?」
ホッと胸の溜飲を下げかけたイズミに、ダーシェンカの鋭い視線が突き刺さる。
「わ、分かってるよ」
イズミは口をひくつかせながら不器用な笑みを浮かべて応じた。
そんな会話をしている間にも家族連れとの距離は縮まっていく。
五メートル、四メートル、三メートル、二メートル、一メートル。
そして何事もなく家族たちとすれ違い、今度こそ本当にイズミが胸を撫で下ろそうとした瞬間だった。
イズミの視界の隅で何かが動いた。今までのイズミならばそんなことは気にも留めなかっただろうが、ダーシェンカの訓練はイズミを劇的に変化させていた。
イズミは動いたものがなんであるかを考えることもなく、反射的に横に飛びのいていた。
飛びのいてすぐに視線を動いたモノの方向へ合わせる。
イズミの口から驚きの息が短く漏れた。
イズミの視界には女の子が地面に伏している姿が映っていたのだ。ものの見事に顔も地面についている。
「あ、あの……大丈夫?」
イズミが女の子に歩み寄り、手を差し出す。
少女はイズミの手を取ろうとゆっくり体を起こしす。少女がイズミの手を取ろうとした瞬間、イズミがサッと腕を引いた。
手を差し伸べていたイズミに、少年二人が飛びかかってきていたのだ。イズミは少年達を避けるために仕方なく飛び退った。飛び退りながらも少年二人から視線を離さない。イズミの足が地面に着き、靴が地面を削って砂埃を巻き上げる。
「油断するなとあれほど言ったのに……」
イズミが最初に飛び退いたとき、同時に前方に飛んでいたダーシェンカは、ものの見事に周囲を囲まれているイズミを見上げながら苦々しげに呟いた。それでもその表情には余裕が感じ取れる。
「やっぱりこの人たち操られてるの!?」
イズミが情けない声を上げる。それでも視線を対峙している少年達から離すような愚は犯さなかった。
「あぁ、おそらく。だが、その家族とやりあっても埒があかない。ひとまず人の多いところへ逃げるぞ!」
ダーシェンカはイズミを見ながら声を張り上げる。
ダーシェンカの叫びにイズミは分かったと短く応じてみせた。攻撃が避けられるようになった云々よりも、このような状況で冷静でいられるようになったことこそが、イズミの一番の成長点だった。
ダーシェンカの言葉に応じたイズミは、ざわつきそうになる心を押さえつけ、自分を取り巻く状況を確認する。
自分の目の前には自分の腰に届くか届かないかぐらいの子供たちがいる。敵意むき出しの視線を向けられている、というわけではないのだが、子供に似つかわしくない能面のような表情を向けられると背筋が凍りそうになる。
(こんな小さい子供達まで利用するなんて……)
イズミは苦々しい表情を浮かべながら胸中に呟いた。
自分たちは積極的に排除しないからいいものの、向かって来る者は操られているだけの人間であろうと排除するようなネクロマンサーにこの手法を使っていたらと考えると、イズミは自分の命を狙っている人間に憎しみがふつふつと沸き上がってきた。
だが今は憎しみを燃え上がらせている場合ではない。冷静に、ひたすら冷静にこの状況を抜け出すことが急務だ。
子供たちの動きを観察する限り、さしたる脅威ではない。子供たちの壁を突破することに問題はなさそうだ。では子供たちの後ろに控えている両親はどうだろう。
今のところ両親は動くそぶりを見せていない。
位置関係としては高いところから順に、イズミ・子どもたち・両親・ダーシェンカだ。
イズミがダーシェンカのもとにたどり着くには壁を二つ越えなければならない。子供たちの壁を通り抜けた後に隙が生じるような軟な訓練を受けてきたイズミではないが、両親の動きの速度が把握できていない以上、迂闊に動く訳にもいかなかった。
「迂回、が一番安全かな?」
イズミは呟き、道の両脇に広がる雑木林に視線を向けた。
家族の脇を抜けていくよりも、迂回して家族の配置を歪めた方がダーシェンカのもとへたどり着くことへの安全性が高い。
イズミはそう結論付け、雑木林に足を進めようとした。そのときだった。
「その判断は正しい。だが、ここは直線で抜けてこい」
ダーシェンカがイズミを見据えながら真顔で言う。
一瞬イズミは自分が聞き間違えたのだと思った。ダーシェンカならば、もしイズミが間違えた道を選んだとしてもそれを指摘してくれると、どこかで信じていたから。
イズミは物問いたげな視線をダーシェンカに向けるが、ダーシェンカからはなにも返ってこない。ましてや「迂回しろ」という言葉が出てくることもなかった。
ダーシェンカが否定の言葉を発してくれない以上、イズミが迂回する選択肢を選ぶ訳にもいかない。何か考えがあってのことなのだろうが、わざわざ危険度の高い道を選ぶことには抵抗がある。
「えぇい! ままよ!」
イズミは声を張り上げながら真正面の家族を見据えた。
家族の立ち位置に隙がないわけではない。むしろ隙だらけだ。だからこそイズミは裏を読んで迂回を選んだのだが、こうなったら仕方がない。
イズミは声を上げると同時に地面を蹴った。少年二人と女の子の間を一歩で通り抜ける。
子供たちはイズミを捕まえようと飛びかかってきたが、イズミが二歩目で横に飛び退いたので子供たちは体勢を崩して転んでしまう。
イズミは「ごめん」と小さく呟き、真正面に迫った子供たちの両親を見つめる。
子供が盛大に転んでいるというのに眉ひとつ動かさない様は見ていて悲しくなる。
イズミがそんな感想を持ったのも束の間。親も二人同時にイズミに飛びかかってきた。
子供よりも数倍速いが、やはりこれも酷く単調な動き。あと少しで二人の伸ばした手がイズミに触れる。その瞬間にイズミは斜め前に飛び、父親の脇を軽々と通り抜けた。
密接した二人の攻撃をかわすのは実に簡単で、実質一人の攻撃を捌くのとなんら差がなかった。
それでもイズミは安心することなく地面を蹴り続け、すぐにダーシェンカの元へと駆け寄った。
「これで、いいの?」
イズミは少し息をはずませながら尋ねた。
運動量は大したものではなかったが、緊張がイズミにはこたえたのだろう。
「あぁ、上出来だ。じゃ、予定通り街まで出るぞ」
ダーシェンカは軽く微笑むと、地面を蹴って走り出す。
「あっ! ちょっと待ってよ」
「今のイズミなら余裕でついてこれる速度だろ? それに、山を降り切ったら止まる。距離的にも大したことないからから安心しろ」
慌てて走り始めたイズミにダーシェンカが振り向くこともなく応じる。
イズミはすぐにダーシェンカに追いつき、並走を始める。木々の作る影が日差しから守ってくれてるとは言え、夏の盛りに走ることはなかなか辛いものがあるのだが、そんなことを言っている余裕はなかった。イズミはひたすらにダーシェンカにペースを合わせて走り続けた。時折、追いかけられていないか後ろを振り返りそうになったが堪えた。耳を澄ました限りでは、追いかけられている気配は全く感じなかった。それが立ち止まっていい理由になる訳もないのでイズミは口にしなかったが。
「よし、ここまでくれば一安心だな。人通りもそれなりにある道だし」
山道を下りきったダーシェンカは息一つ切らさず、さらには汗一つ流さない涼しげな表情で言う。
確かに山道とは違い、まばらではあるが人の通りがある住宅街に出ていた。五、六年前に山を切り開いて作られた団地なので、軒を連ねる家々はどれも真新しいものばかりだ。
「そう、だね」
ダーシェンカとは対照的に、イズミは額に大粒の汗を浮かべていた。呼吸も少し荒い。イズミは二三度深呼吸して息を整え、続けた。
「さっきの家族、放っておいて大丈夫なの?」
「あぁ、それなら心配ない。おそらくイズミ以外は襲わないようにプログラミングされてるはずだ。その証拠に私には攻撃してこなかったからな。それに……」
先を言いよどむダーシェンカに、イズミは首を傾げて先をさとす。
「これは推測なのだが、イズミから離れればあの家族は自我を取り戻すはずだ」
「それは……どういうこと?」
「あの家族の動きは酷いと言って差し支えないほど荒かっただろ? おそらく支配の度合いが低いんだ。精密な動きをさせられないが、いちいち指示を出す必要もないし、消費するエーテル量も少なくて済む」
「あの……僕が言うのもなんだけどさ、あれぐらいの動きだったらなんの役にも立たないんじゃない? そりゃ、あの家族が僕から離れるだけで元に戻るなら嬉しいけどさ」
「確かにあの家族だけではなんの役にも立たないだろうな。だが、イズミに隙を作ることは出来た筈だ」
ダーシェンカは射抜くような視線をイズミに向けた。
イズミはその視線に息を詰まらせる。確かにダーシェンカの言う通りだ。あの程度の動きはなんの役にも立たないと言ったイズミではあるが、あのときは家族の動きに集中しきっていた。もしあそこで他の者に割って入られたらと考えると背筋が寒くなる。
だからあのときダーシェンカは、一番速くダーシェンカのもとに辿り着く直進コースを選択させたのだ。
イズミがそのことに気付いたとき、ダーシェンカは再び歩きはじめていた。
「でも敵は出て来なかったよね?」
イズミはダーシェンカに歩調を合わせながら尋ねる。
「そうだ。それが気がかりなんだ。あんな人気のない場所は絶好の襲撃ポイントなのに。それにモタモタしていたら敵の首が絞まるだけなのハズだし」
ダーシェンカは顔を俯けながら何やら思案に耽りだす。
「首が、絞まる?」
思案に耽り始めたダーシェンカにはしばらく話しかけない方がいいと分かっていたイズミだが、思わず口にしてしまった。
独り言のようなイズミの呟きに顔をあげたダーシェンカは、思案顔を崩さず口を開いた。
「例えば、イズミのような魔術師の家系に生まれた者が同じく魔術師に命を狙われているとき、助けてくれるものはいない。今のイズミのように自分の命は自分で守るしかない。だが、魔術師が一般人に危害を加えるとなると話は別だ。高位の魔術師のみで組成されている組織、昔と名称が変わっていなければ“アクロマ機関”と呼ばれる者が全力で加害者の魔術師を排除するはずだ」
「つまり、モタモタしているとそのアクロマ機関に嗅ぎつけられてしまう、と」
「その通りだ。もっともアクロマ機関に属する魔術師は多くないから、やってくるまで多少の時間は掛る。だが、幸いにも今は交通手段が発達しているから時間の問題はあまり考慮しなくてもよさそうだが……」
「だが?」
「アクロマ機関がまだ存在し続けているか否かという大前提な問題がある訳で……」
「あ……そうか。二百年の間に消えてる可能性もある訳か……」
「そうなんだ。もともと一般人を守護しようとする理念のもとに集まる魔術師は少なかったらしいし」
それっきりダーシェンカは黙り込み、イズミも口を閉ざす。
『現状への正しい認識。それが回避術においてもっとも重要なことだ』
イズミは訓練を開始してすぐ、ダーシェンカに言われた言葉を思い返していた。
攻撃を回避するには動体視力や反射神経などが最終的にモノをいうが、それを使わないに越したことはない。敵の攻撃が届かないところに身を置くというのが、ダーシェンカから教わった回避術の基礎にして奥義だった。
では今の自分は現状を正しく認識できているのだろうか。
イズミは自分自身に問いかけてみる。光速を超えたのではないかと思えるほどの速さで返答があった。
否、と。
敵の攻撃の届かない所に身を置く、ということは敵の攻撃を受けてしまってる以上果たしようがないのだが、そもそもイズミは現状を理解する努力すらしていなかった。
魔術的なしがらみに関しては認識のしようがないとしても、自分の目の届く範囲で起こっていることさえ認識に努めようとしていなかった、といのが事実だった。
まず最初に襲われたのが肝試しのとき。人骨はもともと本格的にイズミを狙ったものではないというのがダーシェンカの弁。
そして、それからしばらく間をおいての先ほどの生きた人間を使った襲撃。攻撃方法は稚拙極まりなく、連携は皆無だった。
計二回の襲撃だけから察することが出来るとすれば敵は弱い、ということになるのだが、一概にそうとは言い切れない側面も見え隠れしている。
現状を把握しようとすると、どうしても敵の狙いが掴めない、という結果を導き出してしまう。
そもそも自分は何をすればいいのかが分からなくなってくる。ただ漫然とダーシェンカに守られているだけでいいのだろうか。もちろんいいに決まっている。イズミには魔術師をどうこうできるような力は備わっていないし、何よりダーシェンカはイズミを守るために存在しているのだから。
それでも心の底に、泥のようなナニかが沈澱し始めている気がする。
自分の命を狙うものがすぐそばにいて無関係の人を利用ししている。結果的にイズミは無関係の子供を、転ばせるという軽微な形ではあれ、傷つけてしまった。
こんな状況下で、自分には何が出来るのか。
「イ……イズ……ズミ。イズミ?」
「えっ!? あ、ごめん。何? ダーシェンカ」
ダーシェンカの声によって思考の海から引き戻されたイズミはビクりと顔を上げる。
「イズミが考え込むなんて……らしくないな」
ダーシェンカはからかうような笑みを浮かべてイズミを見上げていた。
「なっ! 僕だってたまには考えことくらい……って、いつの間に街に着いてたの?」
イズミは足を止め、周囲に広がる光景に目を見開いた。
トンネルを抜けたら雪国が広がっていた、と言っても差支えないほどの驚きようだった。
見慣れているいつもの繁華街にも関わらず、だ。
先ほどまでは全く耳に入らなかったが、周囲は喧騒に包まれている。いろいろな年代の人たちが行きかっていて、その動きを見ていると頭がクラクラしてくる。
「本当に、大丈夫か?」
ダーシェンカは眉を寄せ、イズミに顔をズイと近づける。
「だ、ダイジョブですよっ!」
ダーシェンカの顔が間近に迫り、イズミは慌てて後退る。
顔が火照っているのは真夏の太陽のせいだけでないことは自分でも理解できた。
「本当か? なら、いいのだけれど……あまり深く考えすぎるなよ? 例えアクロマ機関が滅んでいようがイズミは私が守ってみせるから。心配するな」
ダーシェンカは心底心配そうにイズミを見上げていた。
「うん。分かってるって」
イズミは何でもないように笑い、再び歩き出す。
ダーシェンカの表情に、心の底に溜まった沈殿物がザワつく。
何かが、何かがいけないのだ。非力な自分がダーシェンカに守ってもらうことになんの問題もないはずなのに。自分の寿命と引き換えに蘇らせたのだからギブアンドテイクと言っていいはずだ。
そう。何も問題はないはずなのに、心がざわつく。
「そっ! そうだ! そろそろ昼飯時だよね。何か食べようか」
薄暗いものが心から湧き出始めるのを自覚したイズミは、視界の隅にファミレスの看板が入ったので、薄暗いものから逃げるように言葉を紡いだ。
「ん? 確かにそうだな。何か食べるか。腹が減っては戦が出来ぬと言うしな」
イズミのあからさまに不自然な態度に顔をしかめながらも、ダーシェンカは頷いた。
「おや、それは困りましたね。なら、戦の準備をされる前に叩かなくては」
イズミとダーシェンカの背後で、ヒヤリとする無感情な女性の声が響いた。
二人は同時に後ろ見る。しかし、そこに見えたのはいつもと変わらない人混みだけでイズミとダーシェンカを見ているものは一人もいなかった。
こう人通りの多い場所では「誰だ!」と叫ぶ訳にもいかず、イズミとダーシェンカは周囲をキョロキョロと見まわした。
「ダーシェンカにも、聞こえたんだよね?」
イズミは先ほどの声に何かしら脅迫めいたものを感じ、隣で周囲を警戒しているダーシェンカに尋ねた。
「確かに聞こえた。くそっ! こうも人が多くては気配が探れない」
ダーシェンカは舌打ちをし、周囲に鋭い視線を振りまいていた。
イズミもあたりを見回すが、やはりそれらしい影は一つも見当たらない。
周囲の様子を観察していたイズミは言いしれぬ違和感を感じていた。ものすごく小さな、
それでいてものすごく気持ち悪い、日常との差異。
「あっ! おかしいよ!」
イズミはその差異がなんであるかに気付き、声を張り上げた。
その声が、現状が日常から極端にズレていることを証明した。
誰一人としてイズミの声に反応を示さないのだ。怪訝な表情を浮かべることもなければ、
眉ひとつ動かすこともない。
みんな何事もないように談笑しながらイズミの脇を通り過ぎていく。
日常との差異は気付こうと思えばもっと早く気付けていたハズだ。第一、おかしいのだ。
誰一人としてダーシェンカに視線を向けていないということが。
普段なら道行く人たちは、ダーシェンカにチラと視線を向けてくる。そんな彼女が周囲を見まわしているときに誰一人として気にもとめないというのは不自然極まりない。
「まさか……そんな、ことが」
イズミと同様に周囲の異変に気付いたダーシェンカは目を見開いて周囲を見渡していた。
「……街の人間すべてを支配下に置いたとでもいうのか」
ダーシェンカの口からそんな言葉がこぼれていた。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ。
喧噪のなかにあってもよく響く音がイズミの耳朶を打つ。
イズミは音の響く方向に視線を向けた。
「ご明察、です」
イズミの視線の先には、淡く艶やかな金色の髪をボブカットにしたパンツスーツ姿の美しい女性が立っていた。どこかしらダーシェンカと似た雰囲気を醸し出しているが、ダーシェンカより数倍人形じみていた。
「あなたが、如月イズミくんですね?」
ボブカットの女性は切れ長なアイスブルーの瞳をイズミに向けると、一向に感情の籠る様子のない声で尋ねた。
返答すべきか迷っているイズミの前にダーシェンカが出て、向けられた女性の視線を遮った。
ダーシェンカの手にはいつの間にかナイフが逆手に握られている。
ナイフを片手に構えた美少女がいるというのに、やはり周囲の人間は全く反応を示さない。それどころかイズミとダーシェンカ、向かい合っている女性の周辺には奇妙な空間が形成されていた。三人各々の半径五メートルくらいの空間に、人が全く入ってこないのだ。
「あまり賢い判断とは言えませんね。それでは彼が如月イズミくんだと証明してるようなものですよ?」
女性は肩をすくめながら言う。
その動作は至極機械的で、マネキンに同様のポーズをさせた方がまだ人間味があるのではないかとさえ思えた。
「最初から分かっているくせによく言う」
ダーシェンカは女性に鋭い視線を向ける。墓場で見せた表情とはまるで格が違う、その視線を向けた者を焼き殺さんばかりの、それでいて氷のように冷たい炎がダーシェンカの瞳の中で燃えていた。
「まぁ、それもそうですね。失礼しました」
女性は驚くほど素直に頭を下げた。パンツスーツ姿と相まって、どこぞの大企業の秘書にさえ見えてくる。
「あぁ、申し遅れました。私はアルシェラと申します。ご推察の通り、如月イズミくんの魂を狙う者です」
アルシェラと名乗った女性は、発言内容とは対照的に至極丁寧にお辞儀する。
あまりの丁寧さに、イズミはあやうく名乗り返しそうになったほどだ。
「ご丁寧な挨拶痛み入る。だが、丁寧に挨拶したところで意味はないぞ?」
ダーシェンカは慇懃に応じながらも、射抜くような視線は一向に緩めない。
アルシェラを睨みつけながら、ダーシェンカは攻撃の機会を窺う。アルシェラの立っている位置はすでにダーシェンカの間合いなのだ。それでもダーシェンカが飛びかからないのは、アルシェラという存在が墓場の人骨とは一線を画しているから。一瞬で仕留められる相手ではないのだ。
加えて周囲の人間のこともある。今はダーシェンカ達を認識せずに避けているが、一瞬先には集団で襲いかかってくるかもしれない。
ダーシェンカは絶えず周囲の状況を観察していた。
行き交う人の中に、密度の高い所や低い所があることを確認し、年齢もおおまかに判断する。襲いかかられた際に、逃げる空間がなかったら子供の近くを突破するのが最も安全だろう。年寄りを突破するのも安全かもしれない。
そのどちらの仮定も外れている、という仮定も忘れずに頭の片隅に置いておく。
同じことを自分の後ろにいるイズミが考えてくれていることを祈りながら、ダーシェンカはアルシェラを睨み続けた。
自分の存在意義が目の前にいる。自分が排除すべき存在。自分が殺したい存在。
ダーシェンカは頭の片隅でアルシェラという存在を定義付ける。どう定義しようが、ドス黒い感情がまとわりつくのを感じ、ダーシェンカは軽い苦笑をもらす。
(私はこいつを殺したい)
ダーシェンカは心の中で強く思った。アルシェラの姿が揺らぎ、一瞬だけ男の姿に切り替わる。ダーシェンカが最も憎む男の姿。
ダーシェンカは心の中に湧き出始めた暗い感情を押さえつけ、アルシェラに意識を集中させる。下らない感情にとらわれながら勝てる相手ではない、というのがアルシェラに対するダーシェンカの評価だった。
それは同時にイズミのことを気に掛けながら戦える相手ではないということでもあるのだが。
「この状況でも諦めないというのは尊敬に値するかもしれません。でも、面倒なことは大嫌いなんですよ、私」
アルシェラは淡々と言い、パチりと指を鳴らした。
アルシェラは指を鳴らすと同時に地面を蹴り、一歩でダーシェンカとの距離を詰める。アルシェラはそのまま体をねじり、ダーシェンカに向かって鋭いボディブローを放つ。
「指を鳴らしたはフェイントか」
ダーシェンカは軽く後ろにステップしてボディブローをかわした。
ダーシェンカは下がってすぐに体を低くし、左足を軸にしながら鋭い回し蹴りをアルシェラに返す。
アルシェラはそれを左腕一本で受けきり、右拳をダーシェンカの顔面に叩きこむ。
ダーシェンカは顔をずらして直撃コースから外すが、僅かに反応が遅れてアルシェラの拳が頬を掠める。
掠めたところがかすかに裂け、赤い血がダーシェンカの頬を伝う。
「そういうこと、か」
ダーシェンカは頬の血を拳で拭い呟く。
回し蹴りはアルシェラに避けられると踏んでいた。避けなければそれだけで体の骨が砕け散り勝敗が決してしまう。
だがアルシェラは避けなかった。避け損ねたという反応では無かった。受けきって反撃するという明確な意思がアルシェラの瞳には宿っていた。ダーシェンカは自分の予測を過信したために、わずかとは言え攻撃を喰らってしまった。
しかし、リビングデッドの攻撃は生身の人間なら受けられる代物ではないのだ。
受けきれるとすれば、そう。同じリビングデッドだけだ。
ダーシェンカはその結論にたどり着き、眼前で構えるでもなく無造作に立っているアルシェラを見据えた。
「その様子だと、気付いたんですね。えぇ、私もあなたと同じリビングデッドですよ」
アルシェラは隠す様子もなくあっさりと言い切った。
「え? ど、どういうこと?」
黙って二人の戦闘を見守っていたイズミが目を見開いてアルシェラを見つめる。
「私たちの本当の敵は、あの女じゃなくて、あの女を蘇らせたネクロマンサーということだ」
ダーシェンカはアルシェラから目を離さずにイズミに教えてやる。
これだけの説明でイズミがことの重大性を理解できるとは思わなかったが、細かく説明するだけの余裕を、今のダーシェンカは持ち合わせていなかった。
少しでも隙を見せればアルシェラが飛びかかってくる。そう思わずにはいられなかった。
「まぁ、そういうことになりますね。私はその人の指示で動いてるに過ぎませんし。この街の人間の意識を操作してるのだって私じゃありませんしね」
ダーシェンカの不安をよそに、アルシェラは気負う様子もなく滔々と語る。
「つ、つまり、もう一人敵がいるってこと?」
「えぇ、そうです。まぁ、でも安心して下さい。今は私一人ですから。あの人はここ最近ずっと眠ってますから。それこそ死んでるみたいに」
アルシェラは答え、かすかではあるが初めて微笑んだ。
その笑みは恐ろしく官能的で、見る者すべてを虜にし、隷属させるかのような冷たいものだった。
「あ、すみません。一人じゃありませんでした」
アアルシェラは思い出したように顔をあげ、呟く。
「お仲間が、いましたよ」
アルシェラは無表情に言うと、すっと手を挙げてイズミの後ろを指した。
ダーシェンカはアルシェラから視線を外さないが、イズミは思わず振り返ってしまう。
「なっ!? 何この人たち!?」
イズミは声を裏返らせながら叫んだ。
ダーシェンカはその声に反応して後ろを見る。勿論アルシェラに隙を見せるようなヘマはしない。
「なっ!?」
ダーシェンカの口からも驚きの声が漏れる。
人混みの中から異様な姿をした男達が姿を現し、イズミを取り囲んでいたのだ。
人数は三人と大した数ではないのだが、その姿があまりにも異質だった。
着ている服は元がどんなものだったのか判別がつかないほどボロボロに破れ、破れた服から垣間見える肌は赤黒く変色している。それは顔も例外ではなかった。
晴れ上がった瞼から覗く瞳はもはや意思を宿しておらず、暗く淀んでいた。
「特別な方法で強化された方々です。それにしても、私たちよりもこの人たちの方がよっぽどリビングデッド、って感じですよね」
アルシェラは攻撃を仕掛ける様子も見せずに呟く。
男たちはその言葉にも一向に反応を示さない。威圧するでもなく、イズミの周りに佇んでいるだけだ。
それだけでもイズミにとっては十分すぎる脅威だった。誰も侵入してこなかったテリトリーに敵が、それも得体の知れない存在が侵入しているのだから。
「先ほど指を鳴らしたのはフェイントではなく、彼らを呼びだすための合図だったんですよ。いい加減、お分かりでしょう? チェックメイト、です。あ、この国に馴染む言い方をするならば、詰み、でしょうか?」
アルシェラは表情をピクりともさせずに顎に指を当てて考え込む仕草をする。
確かに状況は絶望的だった。イズミの周りに現れた気味の悪い男たちの能力は未知数だが、それをダーシェンカが排除しようとすればどうしても隙が生じる。その隙をアルシェラに突かれれば、それこそ本当にチェックメイトだ。
それでもダーシェンカに諦めるという選択肢はない。イズミもここで諦めるような軟な教育は施されていなかった。
「イズミっ! 三分間だ! 三分間でケリを着ける!」
ダーシェンカはアルシェラに視線を向けたまま叫び、イズミの返事を聞かずに軽やかに地面を蹴った。
迷いのない跳躍。
一瞬でアルシェラとの距離をゼロにし、ナイフを横薙ぎに払う。狙いは遠慮なくアルシェラの喉笛。
「くっ! ただの人間が彼らに敵うわけないでしょ」
アルシェラは顔に若干の驚きを浮かべながらナイフをかわす。かわしながらもう一度指を鳴らした。
その音が何を意味するか、ダーシェンカは考えなかった。自分の後方から聞こえてくる地面を削るような音や、繰り返し低く響く拳が風を切る音なども意識の外に置いた。
今の自分に出来ることは、イズミを信じて目の前のアルシェラを可能な限り迅速に排除することだけだ。
イズミが普通のネクロマンサーなら、ここまで気にかけはしなかった。例えネクロマンサーが死ぬことになろうが、自分が敵を一人でも多く排除できればそれでよかった。
ダーシェンカは嵐のような攻撃をアルシェラに繰り出し、またアルシェラから繰り出されたものを捌きながら頭の中でぼんやりと思考していた。
そのような思考が邪魔なものだとは理解しつつも、沸き出でるものは止められなかった。
ボロボロの男達がアルシェラの合図とともに繰り出し始めた攻撃を、イズミは必死に避け続けていた。
男達は山道の家族と同じように連携は取れていないものの、攻撃の速度は桁違いだった。
耳に届く拳が風を割く音など、少しでも意識したら足が震えだしそうなレベルだ。
それでも避け続けなければならない。ダーシェンカが三分と言った以上、三分間は絶対に持ちこたえなければならなかった。
男達の攻撃速度は恐ろしいものの、連携の取れていない動きは捌きやすかった。加えて、
攻撃も速いだけで単調だった。
そして何よりもありがたかったのが、自分の周りに人が入ってこないという点。周囲の人間はイズミが近づくと、不自然とも思える速度で距離を取る――談笑をしながら、何事もないかのように。
敵は街中でも行動を起こせるように仕組んだものなのだろうが、今のイズミにとってはありがたい仕組みだった。おかげで建物以外はほとんど気にする必要がないのだから。
だが一つだけ問題があった。
(なんで、よりにもよってこんなときに……)
イズミは目前に迫った男の赤黒い拳を最小限の動きでかわし、胸中で呟く。
思考は正常に働いている。体の動きも問題ない。敵の動きの把握だって順調だ。体力的にも余裕がある。三分どころか十分はかわし続けられそうだ。
だが、頭がクラクラする。視界にぼんやりと青い靄が掛かっている。男達の動きを見極める分には問題無い程度だが、青い靄を見ていると気分が悪くなってくる。
「日に当てられたのかな」
男から繰り出された回し蹴りを、イズミは軽いバックステップで避けきり、呟く。
チラとダーシェンカに視線を向ける。相変わらずアルシェラと壮絶な接近戦を演じ続けていた。
三分は短い、というのがこれまでの認識だったが、それを改めなければならないと、イズミは我知らず口元を緩める。
緩んでいる口元に気付き、イズミは表情を引き締め直した。襲いかかってくる男達に再び意識を集中させる。
ダーシェンカ達の戦いも意識の外に置いた。イズミにはダーシェンカを信頼する以外に出来ることはいのだから。
だからイズミは考えなかった。こんな状況下で、なぜ自分が口元を緩められたかということを。
「なぜ、ナイフなんか使っているんです?」
一進一退を続ける逼迫した戦いの中で、アルシェラが不意に口を開いた。
自分の攻撃をかわしながらこともなげに口を開くアルシェラに、ダーシェンカは舌打ちの一つでも打ってやりたくなるがなんとか堪える。
「魔術師に対抗する手段としては貧弱過ぎやしませんか? それはリビングデッドである私にたいしてもですが」
返答する気のないダーシェンカをよそに、アルシェラは質問を続けた。
ダーシェンカはアルシェラの質問に答えてやる気は微塵もなかった。敵に情報を開示するのは馬鹿げているというのもあったし、何よりアルシェラが答えを導き出しているにも関わらず尋ねてきているらしいのが癪に障った。
確かに魔術師相手にナイフ一本で立ち向かうのは馬鹿げている。一流と呼ばれる魔術師は近・中・遠のいずれの間合いにおいても有効な攻撃手段を備えている。そのような相手と対峙するにはこちらも近・中・遠距離全ての攻撃手段を揃える必要がある。
だがスナイパーライフルやら何やらを揃えればいいというものではない。毒をもって毒を制するように、魔術には魔術しか対抗しえない。
また、異なった点において、リビングデッドに対してナイフがあまり有効な手段ではないということも言えた。
ナイフファイトの基本は相手の体を少しずつ傷つけて弱体化させることにある。だが、リビングデッドにその原理はまるで当てはまらない。痛覚がないから体を傷つけようが意味をなさない。
リビングデッドを倒す手段は、首を切り落とすか、そのエーテルの貯蓄量をゼロにするかのいずれかしかない。
この二つはナイフだけでも達成しうる手段だ。前者は説明するまでもないが、後者も相手の体から血を失わせることによってエーテルを削ることができる。エーテルは血液によって体中を循環しているから。
だが現状、それは不可能と言っても差支えなかった。
感覚のないリビングデッドは疲れを知らない――正確には疲れを認識できないだけだが。
だから、相手の体力を削りながら機を窺うということはできない。最初にできなかったことはどうあがこうが為せないというのがリビングデッド同士の戦いだった。
必然、状況を変えるには魔術を行うしか手段はない。だが、ダーシェンカは今だに魔術を使う素振りすら見せない。
ダーシェンカは魔術が使えない訳では決してない。魔術師とは違い、リビングデッドが魔法を使うのには大きな問題がある。だからアルシェラも発言とは裏腹に魔術を一度も使っていないのだ。
リビングデッドはエーテルの貯蔵量が少ないという問題。
リビングデッドになるものは皆一様に魔術の素養を持っているが、その生前貯蔵していたエーテルは、ほとんど肉体強化の面に回される。余るエーテルはほんの僅かだ。
だがダーシェンカはその点すら他のリビングデッドとは違った。
ダーシェンカ自身のエーテル残量はゼロだった。
魔術を使うとなれば、必然的にイズミから分け与えられたエーテルを使わなければならない。
イズミは両親から知らされていないようだし、ダーシェンカもイズミに説明しづらくて語っていないことなのだが、ネクロマンサーがリビングデッドに分け与えたエーテルはネクロマンサーの意思一つで取り戻すことだって可能なのだ。
そうすればネクロマンサーのエーテル的な面での寿命は回復する。反面、リビングデッドは二度目の死を迎えることになる。リビングデッドを失えば、ネクロマンサーは貴重な楯を失うことになるのだが、リビングデッドを棄てないネクロマンサーは、いない。
ネクロマンサーの家系に生まれたものはよく蝶に例えられる。最初のうちは一般人と変わらないから芋虫、次にその魂に人を蘇らせる能力が付加し蛹、そして、魔術師とすらも一線を画する強大な“力”を手に入れて蝶になる。
どうせ捨てられるなら、蝶になるまでは何の躊躇もなくネクロマンサーのエーテルを使い、補充し続ける。それがダーシェンカの考えだったハズなのに、出来ずにいる。
イズミという、優しい少年のせいで。
「私は……何をやっているんだろうな」
自嘲気味に呟いたダーシェンカに、アルシェラがわずかではあるが眉を寄せた。
「イズミの寿命を考えて、イズミの命を今ここで落としてしまったら本末転倒じゃないか」
誰に、というわけではなく呟き続けるダーシェンカに、アルシェラは攻撃の勢いを緩めた。
緩めたからといって隙が生じるわけではないのだが、それでもダーシェンカが決断を下すきっかけにはなった。
決意を、固めるための。
「アルシェラとかいったか? 本気で来ないと、即座にあの世だぞ?」
ダーシェンカは攻撃の手を不意に止め、ニヤりと笑いながら言う。
アルシェラもダーシェンカの佇まいに只ならぬものを感じ取ったのか、攻撃の手を止めた。だが、構えは解かない。相も変わらず無表情をダーシェンカに向けている。
ダーシェンカが目を瞑り、深く、静かに息を吐きだした。
周囲に静かな風が吹き抜ける。いや、吹き抜けたわけではなかった。その風は、ダーシェンカを中心に巻き起こっていた。風は徐々に勢いを増し、突風の域に達する。蒸し暑い空気を薙ぎ払うように突風は吹き続けた。
そして、パタりと風が止んだ。
「飛びかかってこなかったのは、正解だったな」
風が止むのと同時に目を開いたダーシェンカは、アルシェラに向かって微笑みかける。口元は微笑みを浮かべていても、目は笑っていなかった。それどころか、なんの感情も宿っていない。先ほどまで燃えていた怒りの炎さえ立ち消えている。
「おかしな、空気を感じましたので」
アルシェラは表情を変えることもなく応じた。だがかすかではあるが構えは警戒の色を濃くしている。
そんなアルシェラを視界に入れながら、ダーシェンカはナイフを握っている手を見つめた。その手は、淡い青色の光を放っている。手だけではない。ダーシェンカの体中が淡く青色に輝いていた。
二百年ぶりに行った魔術ではあるが、きちんと成功しているようだ。ダーシェンカはそのことにひとまずの安堵を覚える。
だが、本当に胸を撫で下ろすのは敵を排除してからだ。
ダーシェンカは自分に言い聞かせると、軽く地面を蹴った。アルシェラに向かって一直線に突っ込む。速度は先ほどまでと大差ないが、動きの切れは段違いだった。一瞬でアルシェラとの距離をゼロにしたダーシェンカは、ナイフを横薙ぎに払う。
アルシェラは数瞬表情を歪めたが、やはり紙一重でかわす。紙一重でしかかわせなかったのではなく、動きを最小限に抑えたものだった。
先ほどまでとなんら変わっていないように思えるダーシェンカの動きに、アルシェラは若干疑問の表情を浮かべる。
ダーシェンカはそんなことはお構いなしに、ナイフを振った反動を利用し、そのまま鋭い回し蹴りを放った。
大層な口を聞いた割に、先ほどまでとなんら変わりのない動きを繰り返すダーシェンカに、アルシェラは軽蔑するような視線を向ける。向けながら、最初の一撃を受け止めたときと同じように左腕一本で蹴りを受け止めた。
遊びに付き合うのは飽きました、そう吐き捨てながらダーシェンカに止めの一撃を叩きこもうとしたアルシェラが見たのは、蹴りを受け止めきれずにあらぬ方向に曲がった自分の腕だった。
「あれ?」
アルシェラの口から洩れたのはそれだけだった。普通の人間なら激痛で気を失うか、酷い場合は気を失えずに絶叫を上げていただろう。
動きを止めたアルシェラを気にすることなく、ダーシェンカがナイフを横薙ぎに払う。首を切り落とす、ただそれだけのために放たれる迷いのない一撃。
アルシェラはその一撃を軽くスウェーして避け切る。
「攻撃速度は先ほどと変わっていませんよね? ならなぜ私の腕はこうなっているのでしょうか」
アルシェラはダラりと垂れ下った左腕を見つめながら呟く。
痛覚が無いからいくら傷付けられようが体を動かすことは可能なのだが、さすがに筋組織やら骨格やらが機能しなくなっては動かしようがない。先ほどの一撃はアルシェラの組織を無力化したということだ。並の武器では壊することなど出来ないまでに強化された体を、たかが蹴り一発だけで。
「答える義理は、ないっ!」
ダーシェンカは叫びながら拳を突き出す。
アルシェラはさして慌てる様子も見せずに拳をかわす。左腕の機能を失いながらも、アルシェラは全く動じない。
ダーシェンカはその理由を察していた。ごく単純な理由なのだ。自分がいま魔術を発動しているように、アルシェラにだって奥の手の魔術が残っているハズなのだ。
だから、出来るならば、アルシェラが魔術を発動させる前に叩き潰しておきたい。だが厄介なことに、アルシェラはそうさせてくれない。先ほど左腕をへし折った時、そのまま首もへし折る予定だったのに、即座に体をずらされて出来なかった。
極力短期で決着をつけたいのだが、なかなか上手くいかない。
ダーシェンカは唇を噛みしめながらアルシェラに攻撃を仕掛け続ける。そのどれも上手くかわされてしまうのだが。
(避けるのではなく防御する方向に持っていければ、組織破壊が出来るのに)
ダーシェンカは胸中に呟いた。
ダーシェンカが発動している魔術は諸刃の剣なのだ。体中にエーテルを走らせ、あらゆる魔術を無効化する絶対防御。絶対防御でありながら、肉体強化を行っているリビングデッドに対してはその肉体強化を無効化するから、攻撃力が飛躍的に上がったように見える。
それは同時に自分の命を削ることと同義だった。エーテルは走らせれば走らせるほど消費される。消費しきるまでに相手を倒さなければならないのだ。
今のところまだ時間はありそうだ。ダーシェンカは自分の体が発している青い光を見ながら結論付ける。
この青い光こそエーテルそのもので、一流の魔術師か、今のダーシェンカのように特殊な魔術を発動させていなければ、はっきりとは視認できないモノ。
アルシェラの様子を見る限り、アルシェラにエーテルは見えていない。
墓場でエーテルを宿らせた骨片をバラまくという高等な――見方によっては無駄な――陽動を行ったのは、アルシェラではなくアルシェラを蘇らせたネクロマンサーなのだろう。
今はそんなことを考えていられる状況ではないのだが、ダーシェンカはどうしても思いを巡らせてしまう。
アルシェラを倒したとしても、その後ろにはまだ敵がいる。一流の魔術師どころか、ネクロマンサーという強大な敵が。街の住民の意識を操作していることから考えて、すでに“覚醒”しているネクロマンサーだろう。
(私が、未来を見たいがためにリビングデッドになった輩だったら、絶望する相手だな)
ダーシェンカは心の中で自嘲気味に呟いた。
それでもその表情に杞憂は見てとれない。見方によっては嬉々としているともとれるような表情だった。
口元に淡く、歪な微笑みを浮かべながら、ダーシェンカはアルシェラに攻撃を仕掛け続ける。
その全てがアルシェラの巧みな体捌きでかわされてしまうが、ダーシェンカの表情に焦りはない。
アルシェラのかわすコースの全てがダーシェンカの誘導通りで、あと数回の攻撃で、アルシェラを防御しなければならない体勢に追い込める予定だった。
それで勝敗が決するハズだった。
「仕方ありませんね。奥の手、です」
アルシェラは不意に、動かせる右手の指をパチりと鳴らした。
それでもダーシェンカは攻撃の手を止めなかった。
ダーシェンカの目にはすべて見えていたのだ。アルシェラの体に流れるエーテルの動きが。指を鳴らそうが、その流れに変化がない以上、それはフェイント以外の何物でもなかった。
ダーシェンカは迷うことなくアルシェラに止めの一撃を叩きこもうと、拳を突き出した。
アルシェラの顔面めがけて。
次の瞬間、ダーシェンカは目の前に広がる光景に我が目を疑った。拳はアルシェラに届かなかった。
それどころか、ダーシェンカの顔が鮮血に染まっている。
その血はダーシェンカのものでなければ、ましてやアルシェラのものでもなかった。
「な、んだ、これ、は」
ダーシェンカはやっとのことで声を絞り出した。
なんとか絞り出せた声も掠れてしまってほとんど聞き取れなかった。
ダーシェンカにとってそれほどの衝撃だった。
鮮血を浴びたことが、ではない。もとよりアルシェラの頭を叩き潰すつもりだったダーシェンカにとって、鮮血程度は何でもなかった。
問題はそこではなかった。
肉体強化で能力に補正が掛かっているダーシェンカですら認識出来ない速度で、何者かがアルシェラとダーシェンカの間に割って入ってきたのだ。
アルシェラをかばうために間に入った、などという理由ならば、ダーシェンカも次の行動に支障をきたさなかった。
だが、目の前に広がっている光景はそんな理解し易い光景では無かった。
「間一髪で間に合いましたね」
アルシェラが感情の籠らない声音で呟いた。
アルシェラの顔もダーシェンカと同様、血に染まっていた。それだけではない。アルシェラは右腕全体も真っ赤に染まっている。
そして、ダーシェンカとアルシェラの間には、頭が消失し、首元から血をドクドクと溢れさせている人間の姿があった。
人間、とは言ってもイズミに攻撃を仕掛けていた、体全体が赤黒く変色しているゾンビめいた男のうちの一人だったが。
首をなくした男の体は、重力に引っ張られて鈍い音とともに地面に倒れこんだ。倒れこんだきり、ピクりとも動かない。ただ、首元から紅い液体を垂れ流し続けている。
ダーシェンカは確かに見ていた。先ほど、この男がいきなりダーシェンカとアルシェラの間に割って入り、割って入った瞬間にアルシェラが男の頭を叩き潰したのを。
楯として男を利用するなら理解できるが、アルシェラ自身が男を攻撃する理由が全く掴めない。
ダーシェンカの思考が停止しかけたとき、背後から嗚咽の声が上がった。ただの嗚咽ならダーシェンカにとって振り向く理由にはならないのだが、それがイズミのものとあっては振り向かないわけにはいかなかった。
ダーシェンカはアルシェラに気を配りながら、イズミを視界に入れる。
そこには首のない二つの死体を見下ろしながら、蒼白な顔で吐き気を堪えているイズミの姿があった。
その光景を目にしたダーシェンカの思考は、一瞬ではあるが完全に停止した。
首なし死体をイズミが作り上げたとは到底考えられない。イズミにそんな力はないし、その大前提となる強靭な――一種の厚かましさともいえるような――精神すら持ち合わせていない。
では、誰がこんな事を?
ダーシェンカの心は、敵が一気に三人減ったにも関わらず、先ほどまとは比べ物にならないほどの絶望にも似た恐怖に駆られていた。
「蠱毒、応用編ってやつですかね」
アルシェラは攻撃をしかける様子も見せずにポツりと呟いた。
吐き気に苛まれているイズミは何の反応も見せないが、ダーシェンカはピクりと眉を動かした。そしてすぐに両の目が鋭く吊りあげられる。
「蠱毒、だと?」
ダーシェンカは言葉に怒気を込めて呟いた。
蠱毒。地を這いまわる蟲の類を一つの壺に何十何百と放りこみ、ひと月ほど地中に埋めておき共食いをさせるというもの。最後の一匹には強大な怨念が宿り、莫大な力を持つという、最も原初的な呪詛魔術の一つ。
アルシェラは確かに蠱毒と言った。だが、蟲の類なんて見渡す限りどこにもいない。存在するのはイズミ、ダーシェンカ、アルシェラ。それに首をなくした人間が三人。
つまりは、アルシェラは人間を使って蠱毒を使ったということだ。
おそらくは、アルシェラが指を鳴らした瞬間に、イズミに攻撃を仕掛けていた男達が、共食いの代わりに殺し合いを始め、生き残った一人がアルシェラに襲いかかったのだろう。
先ほど割り込んできた男は、アルシェラを庇うためではなく、殺すために割り込んできたのだ。
そしてそれをアルシェラがこともなげに葬り去った。つまり、この時点で蠱毒の術式が完成したということだ。
強大な怨念と力がアルシェラに宿ってしまった。
ダーシェンカはアルシェラを睨みつけながら確信する。アルシェラのエーテルの質が、明らかに先ほどまでと異なっている。
淡い青色だったアルシェラのエーテルは、限りなく黒に近い紫色に変色していた。
「なるほど、エーテルを高速で循環させて魔術を無効化させていたのですか。どうりで私の腕がへし折れられるハズです」
アルシェラはダーシェンカを睥睨しながら呟く。
この言葉はアルシェラがエーテルを可視できるようになったことの証明であり、同時にダーシェンカの強みが一つ減ったということだった。
強みが一つ減ったということだけではない。アルシェラは一度見ただけでダーシェンカの魔術の秘密を解き明かしてしまった。
率直に言ってしまえば、敗北に限りなく近い状況だ。
ダーシェンカはアルシェラのエーテルの質が変わった事は理解できても、どんな魔術を施しているのか、あるいはこれから施すのかということが予想できない。
それとは対照的に、魔術の構造を解き明かしたアルシェラは、ダーシェンカの魔術に対して有効な対抗策を練れるだろう。
いとも、簡単に。
「こちらの攻撃は一切効かない。それだというのにあなたの攻撃は甚大なダメージを私に与える。まったく、勝ち目がないですね」
アルシェラは残念そうに溜息を吐き、語気を強めて続けた。
「あなたに制限時間がなければ、の話ですがね」
アルシェラはダーシェンカに鋭い視線を向けながら言いきる。
アルシェラの言葉にダーシェンカは拳を強く握りしめた。あまりの強さに拳の中から血が垂れ落ちてくる。
やはり見抜かれている。ダーシェンカは歯噛みしながら胸中に呟いた。
アルシェラはダーシェンカに消耗戦を挑むつもりなのだ。
付かず離れずの戦いを続け、ダーシェンカのエーテルを空にして始末する。それがアルシェラの思い描くシナリオだろう。
わざわざダーシェンカの魔術の仕組みを口に出したのも、ダーシェンカに「私は全てお見通しですよ。あなたが何をしようが無駄ですよ」と暗にプレッシャーを掛け、同時に挑発しているのだ。
そんな見え透いた挑発に乗るほどダーシェンカは愚かではないのだが、それでも強い焦りが生まれるのは止められなかった。
形勢はアルシェラ有利だというのに、攻めてくる気配が一向に無い。それはアルシェラの持つカードの中に、ダーシェンカの魔術に対抗しうる手段がないと受け止めることもできる。それならば先ほどと同じように、理詰めで防御しなければならない体勢へと追い込めばいいだけだ。
しかし攻撃を仕掛けたところで、アルシェラの罠が待っているという可能性も高い。
身動きがとれないというのが、ダーシェンカの結局だった。
だが。
「お前の言うとおり、私の時間は有限だ。だから……」
ダーシェンカは逆手に構えたナイフを、ゆっくりと眼前に掲げる。
「立ち止まらないっ!」
そう叫び、ダーシェンカはアルシェラに勢いよく飛びかかった。