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第2章 死体が動きだし、物語は転がり始める

 自分の存在を感じる。今までも同じように体感していたハズの重力が、自分の体に生じはじめたかのような感覚。イズミは目を閉じたまま自分が目覚めようとしていることに気がついた。小さなうめき声をあげて寝返りをうつ。瞼の上に朝日が当たり、イズミは眉を寄せながら薄く眼を開いた。

 壁に掛けてある時計は六時半を示している。夏休み中の起床にしてはいささか勿体ないと感じる時間だった。まだ寝ていられると判断したイズミは再び寝返りをうつ。寝返りをうち、再び眠りにつくつもりが、思わず目を見開いてしまった。寝起きで見開かれた瞳に朝日が突き刺さり、チクチクと痛みが奔る。

「おはよう、イズミ。予想より早いお目覚めじゃないか」

 朝日よりも瞳に痛いものが、イズミの視線の先に在った。

 純白のネグリジェを身にまとった美しい少女がベッドの傍らに立ち、イズミを見下ろしていた。

「お、おはよう。ダーシェンカ」

 イズミは寝ぼけた頭の片隅から記憶の糸を手繰り寄せ、少女の名前を口にした。

 自分のベッドの横に敷いてある蒲団を見て思い出す。昨日の夕食のあと、使っていない両親の寝室をダーシェンカの寝室としてあてがったのだが、それでは護衛する都合上良くないとダーシェンカが言い張るので、やむなく同じ部屋で寝る運びとなったのだ。

 クタクタに疲れていたイズミは、同じ部屋で異性と眠ることに感慨を抱く余裕もなかったのだが、疲れの取れた頭では、ことの重大さについて気付かされずにはいられなかった。

 もっとも、気付いたところでどうなるものではないのだが。  

「夏休みに学校はないのだろ? もっと寝たらどうだ」

 ベッドに寝転んだまま硬直しているイズミを見下ろしたままダーシェンカが言う。

「あ、うん……そうしたいんだけど、目が覚めちゃって眠れそうにない」

「そうか。じゃあ、朝食の支度でもしてくれ」

「まだ六時半だよ?」

「食べる頃には七時をまわっている」

 ダーシェンカのよく分からない言い分に丸め込まれることにしたイズミは、分かりましたよと呟きながら寝ぐせのついた頭をわしゃわしゃと掻き、体を起こした。

 夏休みに入ったというのに、だらけられるという予感がまったくしてこない一日の始まりだった。


「……しかし、母さんもどうしてそんな服を買っちゃうかなぁ……パジャマならジャージとかで十分だと思うんだけど」

 イズミは目の前で食パンを頬張っているダーシェンカを見つめながら呟いた。

 純白のネグリジェ姿でもごもごと口を動かす姿はあまりにも愛くるしく、健全な青少年であるイズミにとっては目の保養というよりかは、目に毒だった。

 母がこんな少女趣味なものを買ったのは、子供が男一人だけという反動からなのだろうが、もう少し息子のことも考えてほしいものだと思わずにはいられなかった。

「この恰好がどうかしたのか?」

「あまりにも色気がありすぎるよ」

 イズミはまごついても仕方ないと思い、率直な感想を口にした。

「あぁ、そうか。イズミはネクロマンサーとしての知識が無いんだったな。だったら教えておいてやろう。私は、」

 ダーシェンカが言いかけた言葉をかき消すように、チャイムの音が響いた。

「誰だよ、こんな朝早くに」

 イズミは軽く顔を歪めて立ち上がり、玄関に向かう。

 不用心ではあるが、いちいちインターホンで対応することなく扉にチェーンが掛かっていることを確認してから扉を少しだけ開ける。

「よぅ! イズミ」

 扉の隙間から覗いた見慣れた顔に、イズミはわざとらしくため息を吐き、扉を閉めた。ついでに大仰な音を立てて鍵を閉めてやる。

 そして何事もなかったかのようにリビングに足を進めた。

「おいイズミ! ひどいじゃないか! 親友が朝のお迎えにいらしてやったんだぞ! 開けろ! 開けないと扉の前で泣き叫んでやるからな!」

「勝手にして。今は何かと便利な条例が出来てるから本当に困るのは君だろうから。というか、何しに来たんだよ。まだ夏休み初日だよ? 君が宿題写させろってせがんでくるのは夏休み最終日、あるいは夏休み明けじゃないか」

 イズミは扉の外にまで聞こえるように声を張り上げた。

「なんの騒ぎだ? イズミ」

 喧騒に気がついたらしいダーシェンカの声がリビングから響く。

「気にしなくていいよ。無視してりゃそのうち消えるから」

「む? 誰かいるのかイズミ!? あぁ、そういや昨日はお前の誕生日だったから親父さん達が帰ってきてんのか!?」

 耳ざとくイズミとダーシェンカの会話を聞きとったらしい来訪者は、再び声を張り上げる。

「あぁ、もう! いい加減うるさいよ!」

 これ以上は近所迷惑になりかねないと判断したイズミは、掛っていたチェーンを外して乱暴に扉を開ける。

「おっと、やっと開けてくれたか」

 顔面に扉をぶつけてやろうというイズミの策略も虚しく、来訪者は器用に飛びのいて扉をかわしていた。

「なんの用だよ、佐倉」

 イズミは機嫌の悪さを隠そうともせず、佐倉と呼んだ来訪者を睨みつける。

 短い髪に垂れ目ではあるが色気を感じさせる瞳、日に焼けた小麦色の肌の身長百八十超はあろうかという大柄な少年がそこにいた。制服のシャツのボタンを三つ目まで開け、だらしない学生の定番という様相をなしている。

 佐倉はイズミの態度に怯むこともなく、肩をすくめておどけてさえ見せた。

「今日から学校で夏期講習があるだろ? だから迎えにきた」

「は? 夏期講習は希望者だけだろ? 僕がそんな面倒なものに申し込むとでも思ったの? 長い付き合いの佐倉が」

「まったく思わないな。だが、俺が申し込んどいた」

「はぁ!? 何を勝手に!」

「まぁまぁ、いいじゃないか。どうせ暇なんだろ?」

「それとこれとは話が別だ!」

「朝から騒々しいぞ、イズミ。いったい何をさわいでいるのだ」

 朝食を食べ終えたらしいダーシェンカが、ネグリジェ姿のまま舌戦――イズミが一方的にわめいているだけだが――を繰り広げている二人の前に現れる。

 イズミはダーシェンカが視界に入った瞬間に「しまった」と呟き、頭を抱えた。朝っぱらからこんな姿の少女とひとつ屋根の下にいるところを見られては、どんな誤解をされるか分かったものではない。ましてや、いま目の前にいる佐倉という男は、正しく理解出来たとしても、面白い方向に物事をもっていこうとする輩だ。どんなデマを流されるか分かったものではない。

「……不潔だ」

「は?」

 イズミは何事かをボソりと呟いた佐倉に怪訝な表情を向ける。

「見損なったぞ、イズミ! 夏期講習に出ないで綺麗な女の子と一日中倦怠生活ですか!? 

有閑貴族きどりですか! コノヤロー!」

 佐倉は眼尻に涙を溜めながらイズミの胸倉に掴みかかった。

 ありとあらゆる格闘技の模倣を趣味としている佐倉の力は強く、人より幾段か非力なイズミには抗いようがなかった。

「ぐ、苦じい、佐倉。お、落ち着くんだ」

「これが落ち着かずにいられるかよ! 清純だけが取り柄のイズミが、あのイズミが、綺麗な女の子と怠惰な生活を送るなんて! お兄さん許しません!」

 ふざけているのか本気なのか分からないような口調で、佐倉はさらに力を強める。

「兄? イズミには兄がいたのか?」

 本気で苦しくなり始めたイズミを気にも留めず、ダーシェンカは呑気に首を傾げながら呟いた。

「ん、な、訳ないだろ。こいつの冗談、だよ」

 イズミはダーシェンカに視線を向けながら佐倉を指さす。

 ダーシェンカはその言葉にそうかと短く返すと、無言のまま佐倉に歩み寄った。

「イズミから手を放せ」

 ダーシェンカはそう言いながらイズミの胸倉に掛っている佐倉の腕を掴んだ。

「痛っ!」

 佐倉は苦痛に顔を歪めながら腕を放す。同時にダーシェンカも佐倉の腕から手を放した。

「な、なんてお力ですかこのお嬢さんは」

 佐倉は掴まれた腕を擦りながら、呆気にとられた表情でダーシェンカを見つめた。

 一方のダーシェンカはそんな視線を意に介すこともなく、イズミの乱れた衣服を妻よろしく整えていた。もっともパジャマ代りにするような伸びたTシャツなので、乱れがあろうが無かろうが気にはならないのだが。

 それでもイズミはダーシェンカに礼を言い、改めて佐倉に視線を向けた。

「お前がどんな勘違いをしたのか考える必要もないが、ダーシェンカと僕はそんな関係じゃない。ダーシェンカは父さんが連れてきたお客さんだ」

 イズミはとっさに言い訳を紡ぐ。とっさとは言ってもあらかじめ用意していた何通りかの言い訳の中から一つ選んだというだけだが。

「なんだ。親父さん達帰ってきてるのか。なら安心だな。心配して損した」

「まぁ、父さんたちは昨日帰って来て昨日のうちに海外に戻っていったけどな」

 佐倉が胸を撫で下ろした瞬間にイズミは爆弾を投下した。

「なっ! やっぱりただれた生活を、」

「送ってるわけないだろ! はぁ……言い争うだけ無駄そうだね。で、話を戻すとだな、夏期講習に申し込んだことになっている以上、出席しなきゃマズい?」

「まぁ、内申書に響くかもな」

 佐倉はしれっとした表情で言ってのける。

 見た目が不真面目な佐倉ではあるが学校にはきちんと行くし、希望者限定の行事にも几帳面に参加している。まぁ、残念なことに、根がまじめだからということではなく、ただ単に成績が悪いから、そっちの面で点数を稼いでいるというだけなのだが。

「先生に、佐倉が勝手に申し込んだんですとショージキに言うのは?」

「俺の評判が落ちるようなコトをイズミくんがするとはちっとも思っちゃいないが、一応言っとくと、だ。それはドタキャンの言い訳臭く聞こえるぞ」

「……落ちるコトが可能なほどマシな評判?」

「なんか言った?」

「なんにも。じゃあ、仕方ないから準備するよ。佐倉は先に学校へ、」

「あがって待ってる」

 イズミの言葉を最後まで聞き届けることなく佐倉は靴を脱ぎ捨てて、家に上がりこんでいた。

 そんな佐倉にイズミはため息を吐き、いつものことだと諦め、登校の準備に取り掛かる。

「学校に行くのか?」

 部屋に制服を取りに行こうと階段に足を掛けたイズミをダーシェンカが呼び止めた。

 イズミが肩をすくめながら「まぁ、仕方なく」と答えると、ダーシェンカは困ったように眉をひそめた。

「どうしたの? ダーシェンカ」

「私は片時もイズミのそばを離れるわけにはいかないのだ。だが、私は学校には入れない。

そうだろ?」

 ダーシェンカの問いにイズミは頷く。

 以前ならいざ知らず、今は物騒な世の中だ。頭では害がないと理解していても、学校側は神経質に部外者を排除するだろう。親が無理を言って授業参観をしたとかいう類の話なら聞いたことはあるが、同年代の少女を学校に引き連れていくのは不自然極まりない。ダーシェンカが年端のいかない子供だったなら、まだ言い訳のしようはあっただろうが。

「なぁ、イズミ。さっきからずぅっと思っていたんだが、俺をこの子に紹介してくれねぇのか?」

 完全に存在を無視されていた佐倉がイズミに歩み寄り、ダーシェンカを見据える。

 普通の少女なら多少はたじろぐであろう佐倉の視線を、ダーシェンカは真正面から受け止めている。なおかつどこかしら挑戦的とすら取れるような、鋭い視線をさえ返していた。

「私はダーシェンカ・オルリック。訳あってイズミの家に厄介になっている。あなたは?」

 ダーシェンカは慇懃な言葉の端に警戒心を覗かせる。

「俺は佐倉朋和。イズミとはガキの頃からの知り合いで、まぁ腐れ縁って奴だな。イズミの親父さん達が日本に落ち着いてた頃は俺も何かと世話になってた」

 佐倉はダーシェンカの勘ぐるような視線に気づいているのか、やたらに爽やかな笑みを浮かべながら答えた。

「互いの紹介が済んだならとりあえず佐倉はリビングでなんか飲んでてくれ。冷蔵庫勝手に開けてくれて構わないから」

 イズミの言葉に佐倉は「言われなくてもそうするつもりだった」と笑いながらリビングに向かっていった。

「ダーシェンカは僕と一緒に来て。君も着替えたほうがいいだろ?」

 相変わらず警戒するような視線を佐倉の背中に浴びせ続けているダーシェンカに声をかけ、部屋に向かうために階段を登り始める。ダーシェンカも黙って頷きイズミのあとに続いた。


「さて、どうしたものか……」

 早々に着替えを済ませたイズミとダーシェンカの二人は、イズミの部屋で顔を見合せながら折り合いのつかない話し合いを続けていた。

 話の方向性としては、ダーシェンカがイズミの傍を離れるのは好ましくないので、学校についていくということは大前提。しかしどの程度ついてくるのかということについては未定のまま。学校の敷地内に見知らぬ異国の、それもとびきり美しい少女がいるとなっては人目を引きすぎる。かといって学校の敷地外では有事の際に即座に行動が取れない。

 これといった解決策を見いだせないまま話し合いは続き、五分という時が流れようとしていた。いい加減に家を出ないと遅刻するという時間が迫りつつあった。

「バレないように学校に潜んでいる、それでいいだろう?」

「だから、それはキツイって。今の学校は警備もしっかりしているし、隠れられるような場所はないよ」

 何度繰り返したか分からなくなっている内容を、二人はそれでも繰り返し続けていた。

「おい! そろそろ出ねぇとヤベぇんじゃねか? イズミよ」

 佐倉は普段と同じように無遠慮に扉を開けながら言った。

 ノックぐらいしろと言ってやりたい気持ちがイズミに沸き起こったが、言うと余計ややこしくなりそうなのでグッと堪えた。

「分かった、今行くよ」

「おい! イズミ、まだ話はついていないぞ?」

「ネクロマンサーを狙うやつは少数なんだろ? なら一日くらいは大丈夫だろ。対策は今日学校から帰ったらまた話そう」

 イズミは不満げに顔をしかめるダーシェンカの耳元に顔を近づけ、佐倉には聞き取れないような声量で呟く。

「イズミ、そういう考えが命取りになるということが、」

「なぁ、さっきから何をコソコソ言い争ってるんだよ」

 不自然なほどに顔を近づけて話しているイズミとダーシェンカに、佐倉は惜しげもなく怪訝な視線を浴びせる。

「え!? あ、いや、ダーシェンカが学校に行きたいとしつこく言うものだから、ムリだと説得を」

 瞬時に一から嘘を組み立てられるほど器用ではないイズミは、あながち嘘ではないことを口に出した。これなら佐倉も難なく納得してくれるだろうという確信があった。

 確かに佐倉は納得した。イズミが予想したベクトルとは真逆のベクトルで。

「なんだ、そんなコトで揉めてたのか。それなら手は無くはないだろ。夏期講習を自主的に受講しない頭のおよろしいイズミくんがそんなコトも考えつかないなんて驚きですわ」

「著しく腸煮えくり返りますが忌憚のない意見を述べたらよろしいんじゃなくて? 佐倉さん」

 中世の貴族でもイメージしているのであろう口元に手を当てながらほくそ笑む佐倉に、イズミはこめかみをヒクつかせながら応じた。

「つまり、だ」

 口調を普段通りに戻した佐倉が、ダーシェンカを学校に潜り込ませる手段について語りはじめた。

 一通り聞き終えたイズミとダーシェンカは「その手なら案外うまくいくかもしれない」と納得していた。


「いいか、ダーシェンカちゃん。道中俺が教えた通りにするんだぞ。そうすれば間違いはない」

 高校の校門の前で人差し指を突きたてながら、佐倉は最後の確認をしていた。ダーシェンカも黙って頷いている。

 イズミはそのやりとりを至極胡散臭そうなものを見る目つきで眺めていた。佐倉の作戦に初めこそ感心したものの、よくよく考えてみれば何とも滑稽極まりない作戦だった。

 作戦の中身は至って単純で、ダーシェンカがイズミの家にお世話になっているという事実はそのまま流用し、ダーシェンカが日本語を全く喋れないフリをするというもの。遠い異国の地で一人きりにさせるのはあまりにも酷なので学校に連れて来てしまったというコトにする、という作戦。

 夏期講習で登校している生徒は普段より少ないからクラスにも席は余っているだろうというのが佐倉の弁だ。

 シンプルだが案外成功率が高そうな作戦。確かにそうなのだが、なんともやるせない感が拭えない。

 やる気の消えかけているイズミ、何やら延々と下らない指示を出し続けている佐倉、黙々と佐倉の指示に頷き続けているダーシェンカ。この三人に、というか主にダーシェンカに周囲の視線が集まりつつあることにイズミは気付いた。

 制服制の高校に私服の人間がいるだけでも十分に目立つというのに、それが加えてとびきり美しい異国の少女と来ては周囲の視線を集めないはずがない。

 そのことに気付いているのかいないのか、イズミの横を歩く二人は周囲を気にせず作戦内容を確認している。ダーシェンカはすでに言葉を発していないから周囲への警戒は怠っていないのだろうが。

 イズミは適当な言葉を佐倉とかわしながら下駄箱を通り過ぎ、集まる周囲の視線を極力意識しないように教室までの道を歩いた。

 教室の中からはクラスメイト達の談笑の声が響いてくる。イズミは息を深く吸い込んだ。

これまでは視線を集めるだけで済んでいたがここから先はそれだけでは済まない。質問攻めが待っているだろう。

 小さな不安を抱えたイズミをよそに佐倉が無遠慮に――とは言ってもそれは普段通り、ということなのだが――教室の扉を開けた。

「おはよう、諸君」

 何様だお前は、と佐倉の第一声に突っ込みたくなったイズミだったが、幸いにもクラスメイトの一人が似たような言葉で佐倉を罵ってくれた。

 いつも通りに入室した佐倉の後からこっそりとイズミが入り、ダーシェンカがそれに続いた。

 瞬間。教室の喧噪が小さくなり、終いには消えた。だがそれも本当に瞬く間のことで、沈黙の後には再び喧騒が巻き起こった。

「おいっ! 誰だよっ! そのとびきりかわいい子は!」

「綺麗……お人形さんみたい」

「というか……誰? 佐倉の知り合い? それとも如月の?」

 クラスメイトは口々にダーシェンカに対する質問や感想を発する。それに釣られてこちらを見ていなかったクラスメイト達の視線も集まってきた。

 注目を集めることは予想がついたが、ここまでの反応があるとは全く予想していなかった。

 精々教室が軽くざわつく程度だろうとたかをくくっていたイズミは面喰って言葉を紡げずにいた。

 イズミは不意に後ろからワイシャツを引っ張られたので、おもむろに振り返った。

 そこにはギュっとイズミのワイシャツを掴み、不安げに瞳を潤ませているダーシェンカの姿があった。

 ダーシェンカの見たこともないような、というか見せるとは全く予想もできなかった表情に、イズミは絶句した。棺桶を発見したとき以上の驚きがイズミを襲ったといっても過言ではなかった。

「おい、みんな。ダーシェンカちゃんが怖がってるじゃないか。この子はイズミの家でお世話になってる子でな、日本に来て日が浅いんだ。家に一人っきりにさせるのは酷だから仕方なく学校に連れてきちまったって訳なんだよ。な、イズミ?」

 佐倉が雄弁にねつ造されたことを物語り、念を押すようにイズミに話を振った。

 佐倉の作戦云々の前に、ダーシェンカの表情に困惑していたイズミは「あぁ、そうなんだよ」と言うのがやっとだった。

「先生に説明すりゃあ邪険には扱われないよな?」

 これといって反応を示さないイズミを置いて、佐倉は周囲のクラスメイトに確認を取りはじめる。クラスメイトたちの反応も予想から外れず「そういうことなら仕方ない」というような意見が主だったので、イズミはひとまず胸を撫で下ろした。


 夏期講習初日は滞りなく終了した。担任の教師などにダーシェンカに関する事情を話したところ、なんの問題もなく了承された。すんなりと了承されたのは喜ぶべきことだが事情を説明するたびに、ダーシェンカが不安げな瞳を向けてきたのがイズミにはそら恐ろしかった。あとで佐倉に事情をきいたところ、それこそが佐倉の作戦で『小動物的可愛さを全面に押し出して、断れない状況を作る』とのことだったらしいのだが、まったく必要がなかったような気がしてしょうがない。

「なぁ、ダーシェンカちゃん。なんで学校に行きたがったんだ? 日本語ペラペラだから、

俺はてっきり日本育ちなもんだと思ってたんだけど」

 学校からの帰り道、佐倉が雑談の最中に思い出したように口を開いた。

 佐倉にしてみれば当然の疑問で、ここまで口にしなかった方が不思議なのだが、事情を説明しようにも本当のコトを話したとしても信じてもらえるはずもないので言えるわけがない。

「日本語は母国で勉強したんだ。日本に来たのは初めてだったから、この国の学校がどのようなものだか見ておきたかったんだよ」

 ダーシェンカのそつのない回答に安心しつつも、佐倉が納得してくれるか不安は残り、イズミは横目で佐倉の表情を伺っていた。

「そうなんだ。そういうことなら先生に正直に話しても大丈夫だったかもな。うん、明日は先生に正直なトコを話してみよう。きっと大丈夫だから」

 佐倉はしきりに頷きながらダーシェンカに朗らかな笑みを向けた。

 ダーシェンカも、うちで見せた警戒するような表情ではなくイズミに向けるのと同じような表情で佐倉を見ていた。

「そういうことなら、だ」

 佐倉が朗らかな笑みを一転、何かを含んだような笑みに変えた。長い付き合いのイズミには分かった。この笑みはロクでもないことをたくらんでいる笑みだ。

「一応聞いてあげるけど、そういうことなら何?」

「日本の夏といえば、」

「キンチョーの夏」

「ちがーう! 肝試しだろ!」

 ニヤついたまましゃべり続ける佐倉に、イズミはこの上ないジト目をぶつけてやる。

「いや、肝試しとかって実際マイノリティだと思うんですけど……」

「それでも楽しそうなのは楽しそうだろ? な、ダーシェンカちゃん?」

「肝試しとは何をするんだ?」

 ダーシェンカが得た知識の中に肝試しはなかったのか、はたまた日本に来て間もないことをアピールするための周到な演技なのかは全く見当がつかないが、イズミとしては肝試しはこれ以上深入りしたくない話題だった。

 イズミはあの父親の贈り物のせいで、怖いものに免疫がつくどころか強烈なアレルギー反応を示すようになってしまっているのだから。佐倉もイズミがその手のことが苦手なのは知っているには知っているのだが、イズミが心霊番組を見ただけでトイレに行くのを渋りだすような極度の怖がりだということは知らない。というか、イズミが必死に隠し通している。

 顔から血の気が引き始めたイズミをよそに、佐倉は嬉々として肝試しの素晴らしさをダーシェンカに説き続けている。

「それは、面白そうだな。やってみたい」

 最も聞きたくないセリフがイズミの耳朶に叩きつけられる。イズミは暑さからくるものではない汗がこめかみを伝うのを感じた。

 肝試しなんか絶対に参加したくない。参加したくないのだが、ダーシェンカが乗り気な以上断れそうにもない。ましてやここで変な挙動を見せれば、佐倉にイズミがビビリだという事実を面白おかしく脚色され、むこうひと月は体のいい笑い物だ。

「だ、そうだ。もちろんイズミも協力するよな、ダーシェンカちゃんの日本の風物詩体験にさ。人数は俺が勝手に集めておくからさ、詳細を詰めたらメールするよ」

「な!? 誰もいいとは言ってないぞ!?」

「む、怖がりは治っていないのかね? 常にポーカーフェイスなイズミくん」

 いやらしい笑みを張り付けた佐倉が持ち前の長身を活かしてイズミを見下す。

「こ、怖くなんかない。ただ、肝試しは著しく死者を冒涜する行為で」

「あーあー、ごたくはいいからさ。本当に怖くないのかはやればわかるんだし」

 佐倉はイズミの肩をポンポン叩くと「じゃあ、俺こっちだから」と言ってイズミ達とは逆方向の別れ道へ進んでいった。

「クソ佐倉め。なんで肝試しなんか」

「肝試しが苦手か?」

「ダーシェンカに隠しても仕方ないから言うけど、僕はオカルトの類は大の苦手なんだ。あの人格破綻者の父親の贈り物のせいでね」

「いったいどんなプレゼントを貰ったらそうなるんだ?」

 心底不思議そうに尋ねるダーシェンカに、イズミはプレゼント――悪夢と置き換えたほうがしっくりくるが――の数々を丁寧に説明した。思い出すのもはばかられるものではあるのだが、喋ってしまえば喋ってしまったで、愚痴をこぼした後のように心が軽くなる。

 とは言っても、ハンズ・オブ・グローリーや子猿のミイラ、果ては小学生の頃に贈られた、学校の人体模型など比にならないリアルな人体模型などを思い出すのは、いまでも軽く目まいをもよおすような幻覚を覚える。今年のプレゼントがダーシェンカだということは口にしなかった。今までで一番悪寒を覚えたモノであることも、唯一棄てていないモノであるということも。

「ハンズ・オブ・グローリーは魔除けの一種だぞ? プレゼントにはふさわしいじゃないか」

 イズミの回想を一通り聞き終えたダーシェンカは可笑しそうに喉をクックと震わせる。

「からかうなよ。あんなの一生のトラウマになるだけだって」

「オカルト嫌いなイズミの存在もオカルトの範疇なのだがな」

「そのことはいまだに信じられない」

「これから嫌でも信じる羽目になりそうだがな」

「謹んでお断りしたい事態だね。というよりも、まずは肝試しを断固拒否したいのですが」

 軽口を叩きあいながら道を歩いていても、周囲の人たちの視線がダーシェンカに集まっていることは、嫌というほど感じられた。イズミはその視線を意識しないように意識する、という極めて矛盾した意識の中で軽口を叩き続けた。ひとえに肝試しを回避するためだけに。

「イズミ、なにも私はおもしろそうだから肝試しに行くわけじゃない。確かめなければならないことがあるから行くのだ」

「確かめなきゃならないこと?」

「それは肝試しに行けばわかるさ。本当に肝を試されることになるかもしれないぞ? イズミ」

 ダーシェンカはニヤりと笑いながら歩調を速め、イズミと距離をとった。そして後ろで手を組みながら、イズミに表情を伺わせることなく、心底楽しそうな口調で続けた。

「もしかしたら墓地がイズミの死に場所になるかもしれないな」

「笑えない、冗談だな」

 イズミは顔をしかめながら、ダーシェンカに並ぶ。

 そのとき見えたダーシェンカの表情は、楽しげな声音とは裏腹に、背筋が凍りつくほど冷たい笑顔だった。

「冗談であってほしいと私も願うよ」

 ダーシェンカはクスりと笑う。

 その表情は、先ほどの冷たい笑顔が嘘だと確信できるほど普段のものだったので、イズミはどこか肩すかしをくらったような気分で「本当に」とひとりごちた。


 家に帰ったイズミは夏休みの宿題などを黙々と進め、好きで参加したわけではない夏期講習の予習復習もこなすという、学生の鑑のような時間を過ごした。いつもこうしているわけではないのだが、これと言ってやることが見当たらなかった。それに肝試しのことを極力考えたくなかったというのもある。その間ダーシェンカはリビングでテレビを楽しむ訳でもなくボーっと眺めていた。

 肝試しのことも程よく忘れ、そろそろ夕飯の準備に取り掛かろうとしていたイズミに、佐倉からのメールが届いた。父親からのメールといい、イズミは携帯電話が鬼門としか思えないと嘆息を吐きだした。

 メールの内容はやはり肝試しに関することで、人数を集めようと何人かに連絡をしたら、ちょうどその中に今日肝試しをするというグループがあったので、それに混ぜてもらうことになった、というものだった。


 そんなこんなで今に至る。


「え~それでは、第十一回! 真夏・真夜中・お寺の肝試し大会を開催します!」

 飛び入りで参加したにも関わらず、佐倉が人の輪の中心で声高に宣言した。

 無論、第十一回とかは口からでまかせで、そのテキトーなスピーチに周囲からヤジが飛ぶ。そう、周囲だ。イズミの予想をはるかに上回る人数、なにせイズミのクラスのほとんどの人間が集まっている。

 実は飛び入りでもなんでもない。イズミはまんまと佐倉の奸計にハメられたというわけだ。

 もともと肝試しはクラス単位で計画されており、イズミが極度の怖がりだということをとっくに察知していた佐倉は、どうやってイズミを誘い出すか考えていたらしい。そこで登場したのがダーシェンカというわけだ。

 日本の文化を知りたい少女をむげには扱えないだろうというのが佐倉の考えだが、ダーシェンカに日本の文化を知りたいという考えは全くなく、別の、なにやらキナ臭い理由でイズミはこの場に連れて来られていた。イズミもダーシェンカがこの場に来た明確な理由は聞かされていない。

 現在午後八時半。集合している場所は小高い山の麓にあるロクに掃除されていないお堂の前で、山の斜面は余すとこなく墓地になっている。薄気味悪いことこの上ない。

 できることならば目をつむったまま全力疾走で家に帰りたいイズミなのだが、周りの人間の視線がそれを許さない。それに日本語を話すことを解禁されたダーシェンカが何やら楽しげにクラスメイトと話しているので、なおさら逃げだすわけにはいかなかった。

 イズミ自身はクラスメイトから何か話しかけられても生返事しか返せない精神状態に陥ってるというのに。

「ルールは至って簡単です。くじ引きでペアを決め、そのペアが山頂のお地蔵さんの前に置かれたおはじきをとって来るというものです。なお、くじ引きで同性とペアになっちまった人は……まぁ、ドンマイ。それではクジ引き開始!」

「なぁ、佐倉」

「なんだ? ダーシェンカちゃん」

「大変申し訳ないんだが、私はイズミと組んでいいか?」

「俺はいいと思うけど、みんなは?」

 佐倉は周囲を見回しながら尋ねた。

「イズミに殺意が沸くが、しょーがないと思うので賛成」

「右に同じ」

「如月くんと組みたかったけど、まぁ仕方ないね」

「ダーシェンカちゃんに変なことをしたら五回は殺すからな、イズミ」

 次々と賛成の意見が上がるが、イズミにやさしい意見は極少数だった。

 クラスメイトに恥を晒さずに済むのはありがたかったが、この申し出がイズミを庇うためのものとは到底思えなかった。

(昼間の言葉から察すると、ネクロマンサー関連っぽいけど……なんなんだろう)

 イズミは周囲の人々に礼を言っているダーシェンカを見つめながら心の中で呟く。ちょうどそのときダーシェンカがこちらを見ながら微笑んだ。悪魔的な笑顔と言うのはこういうものを指すのだろうと思わせる、愛らしく恐ろしい笑み。

「……嫌な予感しかしない」

 その表情を目にしたイズミは、誰にも聞こえないように呟いた。


「ねぇ、なんで肝試しに参加しようと思ったの?」

 くじ引きで先頭になってしまったイズミは手渡された懐中電灯をワナワナと震わせながら、山の斜面に広がったお墓の間を歩いていた。隣には全く怖がる様子のないダーシェンカがお花畑を歩くかのような軽い足取りで並んでいる。

「イズミの肝がどの程度か測ろうと思ってな」

 ダーシェンカはニヤりと笑いながら、恐怖で引き攣りきっているイズミの顔を覗き込んだ。

「じゃあ肝が全くないのが分かったところでリタイアしようか」

「おいおい、振り返ればまだクラスメイトが見える位置でか? 寝言は寝て言うんだぞ」

「しょうがないだろ? だ、ダメなものはダメなんだから。それに何か隠してるだろ、ダーシェンカ」

 イズミはすくみながらも、隙あらば後方に駆けだしそうな自分の足を必死に前進させながら尋ねる。

「さっきまで恐怖を顔に出さなかったのは立派だったがな、もうすこし落ち着いてだな」

「ねぇ、僕の話聞いてる?」

「聞いているとも」

「なら正直に」

 イズミがダーシェンカを諭そうと立ち止まりかけたその時だった。

「全力で前に走るぞ!」

 ダーシェンカがイズミの腕を掴み、俄かには信じられない速度で走りだした。あまりの速さに、イズミは付いていけず、足が絡みあって転びそうになった。いや、普通なら転んでいたハズなのだ。それをその度にダーシェンカが細い腕一本で支え切り、半ば引きずるようにしてイズミを走らせ続けた。

「ちょ! いきなりなんなんだよ! 危ないよ!」

 イズミはなんとか体勢を立て直し、奇跡的に握り続けていた懐中電灯を振り回しながら、

悲鳴めいた声を発した。

「確か、十分たったら次のペアが出発するんだよな。この肝試しは」

 ダーシェンカは不意に立ち止まり、イズミを見ることもなく呟く。イズミは肩で息をし、

立っているのも辛そうだというのに、ダーシェンカは平時と何一つ変わらない。汗ひとつ流していない。

「な、今度はなんだよ。いきなり止まって」

「いいから。出発してから何分経っている」

「え? えっと……五分も経ってないよ」

 イズミは困惑しながらもポケットから携帯を取り出し、ディスプレイの時計で確認する。

「そうか。雑魚を片付けるには十分すぎる時間だな」

「は? 雑魚」

 イズミが噴き出した汗を拭いながらダーシェンカを見やった。

 ダーシェンカの表情はいつもの表情と変わらないというのに、イズミはダーシェンカが笑っているように見えた。

「ダー、シェンカ?」

「残念なお知らせだ。イズミの命を狙う輩が既に近くにいるらしい」

 ダーシェンカの不吉な発言に、イズミが息を詰まらせる間もなく、周囲から不可思議な音が響き始めた。

 カラカラと、乾燥させた流木を転がしたような音が響き始める。どこから響いているのか判断できないほどに一面から、小さく、どこか責め立てるような逼迫感をもって。

「な、なんなんだよ、この音は!?」

「うろたえるな。なに、すぐに終わるさ。見たくなければ目をつむっていろ、それこそ一生もののトラウマになるぞ?」

 ダーシェンカはうろたえ始めたイズミを見やり、二ヤリと笑った。

 そして、何を思ったのか身にまとっていたワンピースの裾をたくし上げた。闇夜の中にダーシェンカの白い太ももが映える。

 何を、とイズミが口走ろうとしたのも束の間。太ももに括りつけられていたサバイバルナイフが姿を現す。スーツケースにしまわれていたダーシェンカの得物だというサバイバルナイフ。明るい場所でさえ光沢を放たないナイフは、暗闇の中ではより一層闇を濃くしたモノに見えた。

 ダーシェンカがそのナイフを抜き取ると逆手に構え、前方を見据える。イズミもその視線につられて前方を見る。

 見なければよかったと思った。せめて懐中電灯の光を向けなければよかったのだと思わずにはいられなかった。

 懐中電灯の光に照らし出されたソレは、奇妙な形をしていた。ありていにいえば人骨の標本が目の前に立っている。人骨が立っていること自体奇妙なのだが、それ以上に奇妙なのは人骨を成す骨の一本一本が、いくつもの骨片が集まることで形成されているのだ。そして、人骨の右腕は通常の骨の形をとっておらず、いくつもの骨が集まり大きな槍のようなモノになっている。

 さしずめ、中世の騎士の遺骸が目の前に現われたような感覚。

「な、なんだよ……コレは」

 イズミは意識せずにいつのまにか後ずさっていた。

「ふふっ。気絶しなかったコトは褒めるべきかな? よーく見ておくんだな、イズミ。これがお前の敵の一部だ」

 ダーシェンカは振り返ることもなく述べる。

 人骨が乾いた音を響かせながらじりじりと歩み寄ってくる。ここがお化け屋敷か何かならそう珍しい光景ではないのだが、残念ながらなんの変哲もない屋外の墓地だ。

「敵って、なんなんだよ!?」

 と、イズミは叫ぼうとしたのだが、声がかすれて言葉にはならなかった。

 堂々たる姿で人骨と対峙している眼前の少女を見つめ続けること以外、イズミに出来ることはなかった。

「ここまで綺麗な骨が出てくるのは、遺体を火葬する日本ならでは、といったトコロかな?」

 イズミにダーシェンカの表情は伺いしれないが、声音から察するに笑っているようだった。

 人骨は二人との距離をゆっくりと縮めてくる。人骨との距離が縮まるたびに、イズミは後ろに下がりたくなるのだが、ダーシェンカを残しては下がれないというちっぽけなプライドがそれを阻んでいた。プライドの矮小さは、ダーシェンカの背後という今現在のイズミの立ち位置が物語っている。

 人骨があと五歩程度進めば、右腕に構えた槍の間合いに入るという位置まで近づいてきた瞬間だった。ダーシェンカは力強く地面を蹴り跳躍する。そう、まさに跳躍。七メートルはあろうかという距離を、たった一歩でゼロにしてしまった。

「この距離に入ってしまえば、その槍はまさに無用の長物だな」

 ダーシェンカは頭蓋骨を見据えながら物怖じすることなく呟くと、左足を軸に回転しながら、逆手に構えていたナイフを頭蓋骨めがけて横薙ぎに払う。

 もともと骨片の集まりだった頭骸骨は、粉々に砕け散った。月明かりを反射しながら地面に舞い落ちる骨の欠片は不思議なことに、桜の花びらが舞う様に似ていた。

 ダーシェンカの動きはなおも続き、回転の勢いを殺すことなくナイフを振るい続ける。次々と人骨が骨片になり、地面にヒラヒラと舞い落ちていく。

 人骨はものの数秒で、ダーシェンカの体に触れることもなく、地面に残骸を晒していた。

「お、終わったの?」

 イズミは地面に散乱した骨片を極力意識しないようにしながらダーシェンカに歩み寄る。

「ん。まぁ、ひとまずはな」

 ナイフを再び太ももに括りつけたダーシェンカが肩をすくめ答えた。その表情はどこか優れない。

「どうかしたの?」

「地面を見てみろ」

 ダーシェンカは足元をクイクイと指す。

「骨が……散らばってるだろうね」

 イズミは固い唾を飲み干しながら答えた。無論、骨片散らばる地面を見るような胆力はイズミにはない。視線はダーシェンカに向けたままだ。

「君は尊敬に値するほどの怖がりだな、イズミ」

 かぶりを振りながら呟くダーシェンカに、イズミは素早く「余計な御世話だ」と反論する。

「怖くて地面を見られないイズミのために説明してやろう。地面には、たったいま私が粉微塵にした骨が散らばっている」

「その状況を思い浮かべました」

「よろしい。では何故この骨はこんなにもバラバラになっているのだろうね」

「ダーシェンカが粉々にしたから……って、ついさっき自分で言ったよね?」

「いかにも。だが、見えていたか? イズミ。さっきの人骨はもともと骨片の集合体に過ぎなかったことが」

「あ、そういえば、そうだった……」

「つまり、だ。あの人骨はもともと粉々になるように生成されていたんだよ」

 ダーシェンカは肩をすくめ、溜息を洩らした。

 ダーシェンカの言葉の意味がいまいち理解できないイズミは眉を寄せる。

 それを見たダーシェンカが「だろうな」とばかりに力なく微笑み、続けた。

「さっきの人骨は囮だったんだよ。イズミを狙っていますというスタンスを取りながらも、実際は見ての通りの役立たずだ。だが、意味はあった。イズミには“まだ”見えないだろうが地面に散らばる骨片の一つ一つには霊体エーテルが込められている」

「えー、てる?」

「分かりやすく言えば魂だ。イズミにやさしい言い方なら魔力、といったところかな?」

「あぁ、やっぱりオカルトな世界なのね。そうは思いたくは無かったんだけどさ」

「ふっ、肝試しの仕掛けとかじゃなくて残念だったな。で、話をもとに戻すとだ。私はこれを仕掛けてきた敵の位置を探ろうとしているのだが、無数に散らばった骨片のエーテルに撹乱されて探れないというわけだ」

「あぁ! つまり敵の術中にハマったというわけか」

 イズミは思わず手を打ち合わせるという前時代的なリアクションを取っていた。肝試しによって生じた緊張感と、目の前で起きた非現実感を伴ったリアルを体験したことによって、イズミの頭は混乱状態だった。混乱、というよりは脳細胞の隅から隅までがストライキを起こし、機能しなくなっているという感覚に等しい。

 ありのままを受け入れられる心理状態、ではなく、ありのままを受け流すような心理状態。

「まぁ……そうなるな。すまない、私の不手際で敵を逃してしまった」

 ダーシェンカは苦々しく顔を歪めた。

 確かに自分の命を狙っている者を取り逃がしてしまったということは重大な過失なのかもしれないが、イズミはどうにもダーシェンカを責め立てる気にはなれなかった。

 あのような出来事が起きてもなお、自分の置かれている状況を理解できていないと捉えることもできるのだが、それ以上に、イズミはたったいま守ってもらえたことに対して感謝していた。

「いいよ、別に。気味の悪いガイコツからは守ってくれたんだし、カッコよかったよ? さっきのダーシェンカ」

 イズミは深く考えずに思ったことを述べた。薄気味悪い夜の墓地には不釣り合いな優しい微笑みを浮かべながら。

 ダーシェンカは、その何気ないイズミの微笑みに言葉を失った。イズミの能天気さを呪うべきか、感謝するべきかは判断しかねたが、ダーシェンンカにとってはありがたい微笑みだった。

「まったく……本当に君は平和ボケだな」

 ダーシェンカは呆れたような笑みを浮かべながら肩をすくめた。

「褒め言葉として受け取っておくよ。ときにダーシェンカ?」

 イズミも肩をすくめて応じる。

「なんだ?」

「いい加減、恐怖のキャパシティーが限界値を超えそうなので肝試し、リタイアしてもいいかな?」

 イズミは照れ臭そうに頬を掻きながらボソボソと呟く。

 よくよく見てみれば、イズミの足はプルプルと小刻みに震えている。

「まったく、君はよく分からないヤツだな。さっきのが耐えられたんならこの先に怖いものなんてないじゃないか」

「さっきのが限界だったの! もう立ってるのもキツイよ」

 イズミは泣きそうな表情でダーシェンカに懇願する。

 先ほどの微笑みが嘘のような情けない姿に、ダーシェンカは苦笑を禁じ得なかった。その苦笑も、イズミの人柄を気に入って漏らしたものなのだが。

「わかったよ。だが、イズミもリタイアするのは恥ずかしいだろ?」

 ダーシェンカの問いにイズミは「まぁ、確かに」と頷いた。

「さっきの失態のお詫びだ。私がひとっ走りして、おはじきを取って来てやるからここで少し待ってろ」

 ダーシェンカはそう言うと、イズミの返事も待たずに坂道を駆け上っていった。先ほど人骨との距離を一瞬で縮めた跳躍を繰り返し、あっという間に闇の中に消えていった。

「あ、ありがたいのはありがたいんだけど……一人にされるのもイヤなんだけどなぁ」

 イズミはダーシェンカが消えていった暗闇を見つめながら呆然と呟いた。


「まったく、調子が狂うではないか。あんな風に微笑まれては……」

 常人なら登り切るのに五分はかかる坂道をものの数十秒で登りきったダーシェンカは目的のおはじきを取り、それを握りしめながら一人呟いた。

 自分を蘇らせた、何も知らない優しい屍使い(ネクロマンサー)を想って。

「何も知らないから、あんな風に微笑むことができるのだろうな。まぁ、そんなことはどうでもいいことか。私はイズミを狙ってくるクズどもを葬ればいいだけだ。イズミが“覚醒”するまでは……」

 ダーシェンカは拳を開いて、握り締めていたおはじきを見つめる。蘇ってすぐだったら粉々になっていただろうおはじきも、ちゃんと形を留めて掌に乗っている。力の加減が上手くなってきている証拠だった。

「イズミが覚醒したら……って、私は何を考えているのだ。くだらない」

 ダーシェンカは頭を強く振って、思い浮かべそうになったモノをかき消した。

「早く戻らないと。イズミは馬鹿みたいに怖がりだからな」

 軽い笑みを浮かべ、ダーシェンカは来た道を引き返し始めた。

 くだらない考えを頭から追い出したダーシェンカがイズミのもとへとたどり着く数十秒の間に考えたことは、近くに迫っている敵をいかにして排除するかだけだった。先ほどの人骨の形成具合や陽動を使った逃走などから見て、敵はさほど恐れるべき能力の持ち主ではないらしい。それでも、それすらも作戦の一部という可能性もあるから油断できない。

 敵の位置などがつかめていない現状からすれば、イズミを狙って敵が近づいてきたところを迎え撃つ以外に方法はないのだが、それではリスクが高い。

 何せイズミは魔術的なことに関する知識がゼロだし、身体能力も高くない。

「やはり、ある程度は知識や護身の術も身につけて貰わなければ駄目か」

 ダーシェンカは悔しそうに歯噛みしながら跳躍を続けた。


 その後、肝試しは滞りなく終了した。地面に散乱した骨に気付くものがいないかイズミは冷や冷やしていたのだが、風のある夜だったので骨とは判断できないほどにバラバラに散らばってくれたらしい。イズミも無事、ダーシェンカのおかげでリタイアせずに済んだ。

 の、だが。

「イズミ、キミは本当に情けないな……」

「面目次第もございません」

 クラスメイトや佐倉と別れた途端に腰が抜けて地面にへたり込んでしまったイズミは、ダーシェンカに肩を借りながら帰路を辿っていた。

 時折すれ違う人達には怪訝な視線を向けられたが、今のイズミには気にする余裕もなかった。

 人骨に襲われるというトラウマものの体験に加え、今はダーシェンカの顔がすぐそばにあるのだ。他のものに意識を向けろと言う方が無理な話だ。

「ねぇ、ダーシェンカ」

「なんだ?」

 ダーシェンカを極力意識しないように虚空を見つめ、イズミは声を掛ける。しかし、言葉を交わすだけで吐息が触れ合うようなこの距離ではそれも無駄な努力だった。自分のそんな努力に呆れたイズミは苦笑いとともに溜息を洩らす。

 自分の努力に諦めのついたイズミは、真正面からダーシェンカを見据えた。

「僕って、本当に狙われてるんだね。まだ実感ないよ」

「実感を持ってもらわなきゃ困るんだがな」

 ダーシェンカは苦笑しながら呟く。

「ははっ、僕もそう思うよ。でさ、気になったことがあるんだ」

 イズミの言葉にダーシェンカは首を傾げた。それを見たイズミは続ける。

「僕はほら、命を狙われてる実感はなくても、さっき起こったことに関してはしっかりと実感がある。この通り、恐怖で立つのもままならないしね」

 照れくさそうに笑ったイズミに「まぁ、仕方ないさ」とダーシェンカがフォローを入れる。

「そう、仕方ないくらい怖かった。だから気になったんだ。ダーシェンカがどうしてこんな怖いことにワザワザ関係しているのかがね。ダーシェンカが二百年前の人間ってのが本当ならお金とかが目的な訳じゃないでしょ?」

「まぁ富が目的ではないな。なにせ私は貴族だったから、お金に困ったことはない。目的が何かと聞かれたら、ほとんどの者は未来が見たかったから、と答えるのだろうな。私のような死者を生けるリビングデッドと呼ぶのだが、リビングデッドは蘇生されるまで最長で三百年ほど肉体を保てる。だから、ネクロマンサーを守護するという役目を負う代わりに遥か未来が見れるというわけだ。知識欲旺盛な者にとっては魅力的だろ?」

「ほとんどの者は、ってことはダーシェンカは違うんだね?」

「まぁ、な。私は……」

 ダーシェンカは何かを言いかけて、それっきり黙り込んだ。

「あぁ、いいよ。厭なら無理に答えなくても」

 言いよどむダーシェンカに、イズミは手をひらひらと振る。

「そう、か? ありがとう」

「お礼言われるほどのことじゃないよ。照れるって」

「そ、そうか……。なぁ、自分は答えないで尋ねるのもどうかとは思うのだが、私もイズミに聞いていいか?」

 伏し目がちに尋ねるダーシェンカに「どうぞどうぞ」とイズミは笑顔で応じた。

「イズミは、理不尽に命を狙われて、なんで自分がネクロマンサーなんだ、とか弱音は漏らさないのか? その、イズミはなんというか……」

「肝試しでビビリまくるヘタレなのに?」

「あっ、いやっ! 別にそういうことではな……あるな」

 ダーシェンカは申し訳なさそうに頭を垂れる。

「いいっていいって! 事実なんだし。弱音を漏らさないのは……なんでだろうねぇ。自分が命を狙われてるって実感が湧かないってのもあるけどさ、理不尽なことっていくらでもあるじゃない。才能だとか、生まれた国だとかさ。でも一番の理由は、まだ痛い目に遭ってないから、じゃないかな? さっきはダーシェンカがちゃちゃっと片付けてくれたし。痛い目を見れば弱音なんかあふれ出てくるよ、きっと」

 イズミは照れながら頬を掻いた。

 ダーシェンカは黙ってイズミを見つめ続けている。どこかしらイズミの答えに満足していないかのように。

 イズミも自分自身がどうして弱音を漏らしていないのか不思議だった。自分の意思でしたことが元で命が狙われるならともかく、この場合は確実に自分の意思が関与していない。男に生まれたのだからこうしろ、だとか女に生まれたのだからこうしろとかいう状況の数十倍酷い状況だ。

 それに加え、自分が不老不死の秘薬だというのに、肝心な自分自身は不老でも不死でもないただの人間というのがもの悲しい。

「死んだ人を蘇らせられるなら、魔法ぐらい使えてもいいんじゃないかなぁ、僕」

「使いたいのか? 魔法、というか魔術を」

 イズミの突拍子もない質問に、ダーシェンカがまんざらでもないように応じる。

「使えるの? 魔法」

「ネクロマンサーの家系である以上、魔術師の素質は十二分にある。だが、イズミの思うほど魔法は便利じゃないぞ? ことこの時代においては、日常生活に全く役に立たないからな」

 ダーシェンカは力ない笑みをイズミに向けた。

「使えるものは使いたいってのが人情じゃない?」

「私としてもイズミが自衛手段を多少なりとも身につけてくれることはありがたいし、なにより教えようとは思っていたが……魔術だけはお勧めしないよ」

「どうしてさ」

 突然暗くなったダーシェンカの表情に、イズミは眉を寄せる。

「イズミが私を蘇らせたのだって魔術なんだよ。まさかそれがどういうことかも聞かされてないのか?」

 ダーシェンカの言葉にイズミはあっ、と声を漏らした。

『寿命と引き換えに生き返らせる』と両親は説明していた。それが人を蘇らせることに関するだけの代償だと思い込んでいたイズミにはダーシェンカの言葉は少なからず衝撃だった。

「……聞いてはいたようだな。そうだ、魔術を使うということは大抵の場合魂を、つまりは寿命をすり減らすことにもつながるんだ。使う気が失せただろ? 自衛手段としては、体術を教えよう。というか、覚えなさいと言うべきかな」

「そういうことなら……そうします」

「よろしい。でも、魔術の知識はあって損はしないだろうから今後のために教えていくつもりだ」

「夏期講習と合わせると、なかなか楽しそうな状況になりそうだね」

 肩を落とすイズミに「まったくだな」とダーシェンカは応じる。

「まぁ、今日はもう遅いし、イズミも疲れただろうから早く休もう」

「ダーシェンカよりは疲れてないだろうけどね」

 イズミは現状を鑑みながら苦笑う。

 女性に肩を借りて歩くということは、恥ずかしいことランキングのかなり上位に位置していることだし、墓場でおはじきを取りに行ってもらったことだって同じだ。人骨の件はまぁ仕方ないと片付けられるにしても、だ。

「そう、だな」

 ダーシェンカは寂しそうに呟くだけだった。

 何かしら小言を言われるだろうと考えていたイズミは肩透かしを喰らった気分だったが、

ダーシェンカがこれ以上何かを言いそうにもない雰囲気だったので、黙って家まで帰ることにした。


 * * *


「ダメだダメだダメだ! 何度言ったらわかるんだ! イズミは敵の間合いの外にいることを第一に考え、抜け道のない場所に入り込まないようにすることを第二に考えるべきだ! ところがキミの今の状況はどうだ!」

「背後には壁があり、目の前にはダーシェンカの拳が突きつけられています」

「分かっているなら、次はこうならないように気をつけろ」

 そう言うとダーシェンカは、イズミの眼前に突きつけていた拳をゆっくりと下ろした。

 それと同時にイズミは胸を撫で下ろす。顔には汗がびっしりと滲み、制服のワイシャツはピッチリと皮膚にへばりついていた。

 夏期講習が終わったあとに、近くの山の中で体術の訓練をするようになってから一週間ほどが経過していた。

 ヘトヘトになりながら山小屋の壁に追いつめられるのがイズミの習慣になりつつある、そんな今日この頃だ。

 体術を習うと聞いたイズミは、何かしら武術の型を覚えさせられると想像していたのだが、そんなことは一切なく、一周間叩きこまれていることはひたすらに敵の攻撃を回避するための術だった。

 ダーシェンカの目にもとまらぬ蹴りやパンチをひたすらに避け続ける、それがイズミに課された訓練だった。ダーシェンカの攻撃を一発でも喰らったら、即あの世に旅立ちかねないので、全て寸止めではあったが。

 最初こそ動くこともままならなかったイズミではあるが、ダーシェンカのしごきによって、四割程度は攻撃をかわせるようになってきた。もっとも、ダーシェンカは実力の三割程度しか出していないらしいが。

 なぜ回避術しか学んでいないかというと、付け焼刃な攻撃ほど残念なものはないというのももちろんあるのだが、なんでもネクロマンサーの魂を奪う方法というのは、特殊な魔術が掛けられた刀剣類でネクロマンサーの体をなます切りにするのが主らしいからだ。他にも儀式やらなにやらと種類はあるらしいのだが、そういうのは色々と時間が掛るので余り好まれないらしい。(ネクロマンサーに優しいのは無論、後者なのだが)

 そんなわけでひたすらに回避術を学んでいるわけなのだが、ダーシェンカの及第点には程遠いらしい。

「まぁ、イズミはよくやっているとは思うよ」

 ダーシェンカはイズミとは対照的に涼やかな表情で呟く。

 山小屋の壁に寄り掛かって返事するのもままならないイズミのために、イズミの鞄からタオルと飲み物を出して渡してやる。

 軽く会釈してそれを受け取ったイズミはゴクゴク喉を鳴らせながらペットボトルに入ったスポーツ飲料の七割ほどを一気に胃に流し込んだ。

「ぷはぁ! 生き返る! このために修行してるようなもんですねぇ」

「あのなぁ、イズミ。もう何度言ったか覚えてないが、そんなに一気に飲むとそのあとに地獄を見るぞ。というか、何度も見てるだろ?」

 ダーシェンカは苦笑いを浮かべながら座り込んでいるイズミを見下ろす。出来の悪い、しかし放ってはおけない生徒に教師が向ける、あの優しい苦笑いだった。

「分かってはいるんだけどね……こればっかりは」

 クスクスと笑うイズミに、ダーシェンカは大きなため息を吐きだした。

 ついこの間怖い目に遭い、いまだって決して楽しくはない行動をしているというのに、ここまで明るく笑えるイズミの神経はダーシェンカの理解の範疇を軽く超えていた。

 イズミをただのバカと片付けてしまえば簡単なのだが、それも何かダーシェンカの中で引っかかる。イズミが自分で口にした通り、まだ痛い目を見ていないからヘラヘラしていられるというのも十分あり得る話なのだが、ここ一周間のイズミを見る限りそれも案外当てはまらない気がする。

 命の危機には瀕していないものの、悲鳴をあげたくなるほどの厳しい訓練をつんできた。

攻撃は当てないにしても、持久力を鍛える訓練は、これといって激しい運動をしていなかったイズミにとっては常軌を逸していたと言っても過言ではない筈だ。

 それでもイズミは泣きごとひとつ言わずダーシェンカの指示に従い続けている。

 ダーシェンカとしては「お前が僕をきちんと守ればいいだけだろ!」ぐらいの暴言を吐かれることは覚悟してこの訓練を始めたのだが……。

 本来、リビングデッドとは自分の力だけでネクロマンサーを守らなければならないのだ。

イズミの無知に付け込んで自分の負担を軽くしようとしていると取られても仕方のないことを、ダーシェンカはしているのだ。

 本当はそんなことをするつもりは一切なかった。だが、イズミの人柄がこの行動を選択させた。

 魔術的な常識に関して無知だから利用しやすいという理由からではなく、無知から来るイズミの優しさがダーシェンカにこの選択をさせた。

「まったく、私はなにをやっているんだろうな……」

 ダーシェンカは物思いの末に呟いていた。口元に小さな笑みをたたえて。

「あ! 全然進歩がないからってそういうこと口にしないでくれる? こっちは一生懸命やってるんだから」

「違う違う。さっきも言っただろ、イズミはよくやってると。まぁ、及第点には程遠いがな。そうではなくて、私が言っているのは私自身のことだよ」

 恨めしそうに見上げながら呻くイズミに、ダーシェンカは手をヒラヒラと振りながら弁明する。

「そう、なの? ダーシェンカはなんの落ち度もないと思うけど……食費はなぜか三人分増えたけどさ」

「何か言ったか?」

「いいえ、なんにも!」

 イズミは口を固く結び、大げさに頭を振った。

「……白状するとな、イズミ。キミはこんなくだらない訓練を積む必要はないんだ。リビングデッドというものはそもそも、ネクロマンサーの手を煩わせることなくネクロマンサーを守護しなければならないんだ」

 イズミが怒りだすとは思ってはいないものの、若干の怯えを含んでダーシェンカは語りはじめた。

 イズミは予想通り怒り出しもせず、黙ってダーシェンカの顔を見上げている。

「少し長くなるが、休憩だと思って聞いてくれ……」

 ダーシェンカはそう言いながらイズミの横に座り、続けた。

 私たちリビングデッドは、ネクロマンンサーを守護する道具となるために自らの意思でその生命を断つ。そのうち目覚められるわけだから仮死状態になるともとれるが、運が悪ければそのまま死ぬ訳だしな。

 生命を絶つとは言っても自殺するわけじゃない。リビングデッドを作る魔術師に、まっとうな人間としての生命を断ち切ってもらうんだ。それ以後、リビングデッドには肉体の崩壊を防ぐ固定化の魔術、身体能力を飛躍的に上昇させる肉体強化の魔術、さらに二つの制約が架せられる。

 一つ、蘇生させてくれたネクロマンサーを殺すことはできない。

 二つ、感覚を所有できない。

 一つ目の理由はすぐに分かるだろ? 蘇生してくれたネクロマンサーを裏切れないようにするためさ。そいつがどんな下衆野郎だとしても。

 まぁ、仮に危害を加えられるとしてもリビングデッドは蘇生させてくれたネクロマンサーが死ぬと、自分も死ぬのだがな。ネクロマンサーとリビングデッドは魔術的パスで繋がっているから、それが切れるとリビングデッドは生きていけないわけだ。

 だが、安心しろ。リビングデッドが死んだとしてもネクロマンサーは死なないから。

 さて、二つ目の理由も重要だ。これこそがリビングデッドと普通の人間、さらには魔術師とすらも一線を画するものだ。

 イズミも墓地で見ただろ? 私の並々ならぬ身体能力を。あんなの並の人間なら絶対に不可能な動きだ。あとはイズミと握手したときの怪力もそうだ。あのときは感覚がないことに慣れていなかったから力の加減が上手く出来なかったんだ。

 魔術師なら魔術で肉体強化を施して同等の動きが可能だが、並の精神では一分持たないだろうな。体の限界を優に超える動きをするのだから激痛が走る。

 だが、リビングデッドは違う。感覚がないからその動きを継続することが可能だ。

 つまりは、究極のドーピングだな。

 おい、そんな悲しそうな顔をするなよ。私は自分の意思でリビングデッドになったんだし、蘇生してくれたネクロマンサーがイズミで本当に良かったと思ってるんだから。

 そう、ネクロマンサーだ。リビングデッドはネクロマンサーを守護するために存在する。

 別にリビングデッドじゃなくてもネクロマンサーを守護できる存在ならいるさ。だが、そいつが不老不死と言う果実に目が眩まないとは限らない。だから絶対服従の道具が必要になった訳だ。

 それが私たちだ。

 道具に成り下がるといっても悪いことばかりじゃない。前に話したように遥か未来を拝めたりするし、三代は遊んで暮らせる報酬が遺族に支払われることだってある。

 じゃあ、なんでネクロマンサーは自分で自分の身を守れないんだろうな。ネクロマンサーの素質は、突然変異以外は血統による。如月家がそうであるようにな。

 家系がそうなら前もって何かしら自衛手段を取っておいてしかるべきだろ。だが、できないんだ。

 ネクロマンサーは十六歳を迎えるまでは全くの真人間だからな。魔術の素養なんてありやしない。普通の人間が自衛のための魔術を学ぼうなんて生後一週間の赤ん坊に相対性理論を叩きこもうとするぐらい無謀なことだ。

 仮に、銃火器の類を揃えたとしても一流の魔術師の前では水鉄砲同然だからな。

 まぁ、イズミのようになんの知識も与えられていないというのは珍しいパターンだが、余計な不安を与えたくないという両親の計らいなのだろうな。

 ともかく、だからリビングデッドが必要になるわけだ。

「ねぇ、ちょっと待って。十六歳になってからリビングデッドを蘇生させて護衛してもらうってのは理解できたけど、じゃあそれまではどうするの? 誘拐とかされて監禁され続けたりしたら」

 イズミの言葉にダーシェンカの表情が曇る。

「……あまり言いたくない事柄だったのだが、聞かれてしまったらしょうがないな。ネクロマンサーの子供は生まれるとすぐに、ある呪術を掛けられる。誘拐や監禁などで行方が知れなくなった場合は遠隔操作でその子供の命を絶てるという呪術だ。たとえ普通の身代金目的で誘拐されたとしても、呪術が発動される場合がほとんどだ。そこまでするほど不老不死は禁忌中の禁忌なのだよ。過去にはネクロマンサーを根絶しようとする動きまであったほどだ。まぁ、私の生きていた時代ではすでにそういう風潮もなくなっていたがな」

「やっぱり僕にもその呪術が掛けられてるの?」

「確実に、な。だが安心しろ。その呪術を発動できるのは両親と両親が全幅の信頼を置いている人間の計三人だけだ。彼らが死ねばイズミは晴れて自由の身だ。自由の身になったときに自信を守れるようにリビングデッドを蘇生させるのだよ」

「それは分かったけど……それがどうして僕が訓練を積まなくていい理由になるんだよ」

「どうしてって……寿命を縮めてまで雇ったボディガードに『私だけじゃ守りきれないのであなたも強くなりなさい』って言われてるようなもんなんだぞ?」

「まぁ……普通は怒るものなのかな? よく分からないや」

 頬を掻きながら笑うイズミにダーシェンカは唖然とした。

 イズミは分かっているのだろうか。ダーシェンカが敵の前に敗れた場合、自分は確実に命を落とすということを。そんな全幅の信頼を置かねばならない相手から「私は力不足です」と言われているようなものだということを。

 ダーシェンカは口にはしていないが、自身がイズミを守りきることにことに関してなんの不安も抱いていない。どんな敵が来ようと始末する自信はある。

 なんの問題もない。そう断言できる、ハズだったのに。

 思わぬところから問題が発生してしまった。

「……イズミは本当に馬鹿だな」

 ダーシェンカは顔を膝に埋め、呟く。その先に続く「君がそんなに優しくなければ、私はこうも悩まなかったのにな」という言葉はぐっと飲み込んで。

「ば、馬鹿はないだろ!? こっちは必死でダーシェンカの負担を減らそうと頑張っているのに!」

「ふふ、そうだな。悪かった、訂正するよ。全米が涙する大馬鹿野郎だ」

「そうか、全米が涙する……うん、確実に褒められてないよね」

「人生に幸も不幸もない。ただ考え方でどうにでもなるのだ」

「偉大な戯曲作家の言葉で誤魔化さないでくれるかな?」

 そっぽを向きながら物憂げに呟いたダーシェンカに、イズミはジト目をぶつける。

「なんだ、知ってたのか?」

「全米が泣くほど馬鹿じゃないんでね」

「それは失礼した。それじゃあ練習を再開しようか」

 ダーシェンカは自分の頭の中の靄を払うように明るい笑みを浮かべ、立ちあがる。

 イズミもそれに習って立ち上がった。

「あーあ。この訓練が無駄になってくれれば一番なんだけどなぁ」

「まぁ、訓練とは大概そういうものだな」

 大きく伸びしながらボヤくイズミに、ダーシェンカは肩をすくめながら苦笑う。

 日が傾き、二人の顔が赤く染まり始める。いつの間にかそんな時刻を迎えていた。

 ダーシェンカはイズミに伝えていなかったが、日が落ち切れば襲われる可能性は上がる。

それでもダーシェンカがそんな時間まで訓練を続けるのには理由があった。

 イズミを囮に敵をおびき出す。それがダーシェンカの作戦だった。

 守り切る絶対の自信があるからこそ取れる作戦。

 一週間これを継続しているのだが、敵はなかなか現れない。

 墓地で遭遇したということは何らかの準備をしていたはずなのだが。時間が経てば経つほどダーシェンカの不安は少しずつ大きくなっていく。

 何か大きな罠にはめられそうになっているのではないか、と。

 特に打つ手のないダーシェンカは、それがただの杞憂に終わることを祈る以外に出来ることはなかった。


 * * *


 日が暮れかけているとはいえ、街はまだ人で賑わっているというのに、その場所は薄暗く、どこからか漂ってくるゴミの臭いとあいまって、不穏な空気を醸し出していた。

 路地裏。ビルとビルの合間に蟻の巣のように形成される空間。

 平時は薄暗く気味が悪いだけのこの空間も、このときばかりは勝手が違った。明らかに外界とは違う空気が流れていた。

「終わったか? アルシェラ」

 夏を過ごすにはあまりに無謀なロングコートを羽織り、目深に黒のハットを被った長身の男が、路地裏の暗がりに向かって呻くように呟く。

「はい、これだけ数を揃えれば十分でしょう。墓場の陽動のおかげで、ヤツらは夜にばかり気を張ってるでしょうし」

 暗闇の中から長身の男とは対照的な、若い女のよく通る澄んだ声が上がる。

 声の元には、糊の効いたパンツスーツを、これ以上うまく着こなせる者はいないと思わせるほどに着こなしている二十代前半と見える、冷たい表情の白人女性がいた。

 アルシェラと呼ばれた若い女は地面に膝をつき、冷たい表情と言わしめる要因の一つである、切れ長なアイスブルーの瞳を地面に転がるナニかに向けている。

 アルシェラの視線の先には、十人ほどの男の体が累々と転がっていた。その殆どが、声とも音ともつかないようなものを上げながら、芋虫のようにのたうっている。

 男たちの顔つきはいずれも路地裏に相応しい、一般人なら思わず目を背けたくなるような強面だった。

「腐ったミカンと揶揄されるような社会のはみ出し者の割には、粘るな。この男たちは」

 長身の男はのたうつ男の一人に歩み寄り、靴の先で男の脇腹を小突く。

「失礼ながら、腐ったミカンと言うのはもう少し年端のいかない者を言うのではないでしょうか」

 アルシェラはすくと立ち上がり、これと言って感情の宿らない眼を長身の男に向ける。

 男は身長百九十センチ前後といったところだが、それと比較するとアルシェラの身長は百七十センチ強はありそうだ。女性にしては間違いなく長身の部類に入るだろう。

「む? そうなのか。まぁ、世界の理からはみ出している我々からしたら瑣末な違いだろ」

 相変わらず男の表情は伺いしれないが、声の抑揚から察するに、楽しそうだ。

「そうですね」

 楽しそうな男の態度とは裏腹に、アルシェラは無愛想に応える。

 二人が他愛もない会話をしているうちに、地面の男たちはピタりと動きを止めていた。

「終わったようです」

「なんだ、やはり所詮は腐ったミカンか。ツマランな」

 男は吐き捨てるように呟くと、声のトーンを二段ほど落して「立て」と呟いた。

 それはもはや声と表現するよりは、小さな地響きと言った方がしっくりくる、薄気味悪い響きを持ったものだった。

 男の声に応じ、地面に伏していた男たちが一斉に立ち上がる。気味の悪いことに、全員が全員、全く同じタイミング、全く同じ動作で立ち上がった。

 男たちはそれぞれにバラバラな方向を向いている。顔には表情がなく、視線は皆一様に虚空をさまよっていた。

「散れ」

 長身の男が再び地響きのような声を上げると、男たちはその虚ろな表情とは裏腹に、しっかりとした足取りで路地裏の闇に消えていく。

 長身の男はその様子を眺めながら鷹揚に頷くと、ハットをより目深に被り直し、人で賑わう表路地に踵を返した。

「アルシェラ、私は少し疲れたよ。ホテルで暫く眠ることにするから、君だけでネクロマンサーを捕まえてきてよ」

 振り向きもせず、気だるそうにヒラヒラと手を振りながら男は歩いて行く。

「了解しました」

 アルシェラは男のそんな態度にも一向に感情を示さず、無機質に返答する。

「あ、そうそう」

 長身の男は何か思い出したのか、不意に足を止め振り返った。

「もし万が一あのネクロマンサーの坊やが“覚醒”しちゃったら、引き返してくるんだよ? とてもじゃないけど君の手には負えないだろうから。ま、本当に万が一だけどね」

 男は軽い口調でそれだけ言うと、再び歩き出し、表通りの人混みに消えていった――消えていったとは言っても、その長身と季節はずれな恰好は群衆の中ではその存在をより主張することになるのだが。

 残されたアルシェラは特に表情を変えず、男と逆方向の路地裏に足を進めた。

 アルシェラの向う先からは、何かが地面に転がる音、人の怒号、骨の砕ける鈍い音がとうとうと響いてきていた。

 世界の異常を知らせるその音は、表通りの雑音にかき消され、通りを行く人たちの時間は、いつもと変わることなく流れ続けていた。

「馬鹿な人たち。あなた達のすぐそばでは異常が起こっているというのに。いいえ、違うわね。もうすぐ自分たちが異常に巻き込まれるというのに」

 つまらなそうに吐き捨て、アルシェラは歩調を速めた。

 これからこの街で起こる常ならざるモノを頭に浮かべながら。

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