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第1章 物語の始まりには、とりあえず死体を転がしておけ

 生きるべきか死ぬべきか、この場合それは問題じゃない。

 生きているのか死んでいるのか、それが問題だ。

 抱きしめたいのか突き飛ばしたいのか、これがさらに問題だ。

 時雨のように降り注ぐ蝉の鳴き声と、アスファルトから立ち昇る水蒸気で揺れる景色の中を、一人の少年がふらつきながら歩いていた。

 華奢な体つきに優しげな黒い瞳。瞳と同じ色をした癖のない髪は、男にしては長く、ちらと見ただけでは少女に間違われてしまいそうな程だ。

 少年の名前は如月イズミ。さきほど高校で終業式を迎え、めでたく楽しい夏休みに入らんと家路についている健全な高校一年生。

 しかし、イズミの顔はまるで冴えない。イズミの横を通り過ぎていく小学生や中学生が、これから始まるひと夏の出来事に思いを馳せ、晴れやかな表情を浮かべているのに対して、イズミの顔は幽霊でも見たかのように、いや、幽霊のように青白い。

 足取りもおぼつかないため、見ている者はイズミが熱中症にでも掛かっているのではないかと勘違いしてしまいそうだが、イズミは至って健康だ。

 騒がしい蝉の鳴き声に三半規管を狂わせたのでもなければ、降り注ぐ真夏の陽光にあてられた訳でもない。

 イズミは道端で立ち止まり、深い溜息を吐きだした。道行く小中学生は、突然立ち止ったイズミに怪訝な表情を浮かべたが、すぐさま何事もなかったかのように歩いていく。イズミは周囲の視線を気にすることもなく、ワイシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出し、食い入るようにディスプレイを見つめた。

 ディスプレイにはイズミを幽霊のようにした原因が映し出されていた。

 世界的名医として国内外を問わずあちこちせわしなく飛び回っているイズミの父からのメールだった。

 着信時間は今日の早朝四時。眠りについていたイズミではあったが、着信音に気付いてメールを確認していた。しかし、意識の半分以上が夢の世界のものだったので、メールが来たことなどすっかり忘れてしまっていた。つい先ほど、手持無沙汰になって携帯のメールを確認してしまったが為に思い起こすハメになったのだ。

 イズミは文面を何度も読み返しながら再び深い溜息を吐きだした。その吐息が乙女のモノだったならば、目にした男の心を鷲掴みにするだろうと思えるほど、それはそれは悩ましげな溜息。

 ディスプレイに表示されたメールには、父の仕事が一段落ついたので日本に帰ってくるということ、イズミの中学卒業と同時に父に随伴し始めた母も一緒に来るということ、七月二十五日、つまりは今日日本に到着するということ、今日はイズミの誕生日だからプレゼントを買って帰るということ、などが記されていた。

 一見なに一つマイナス要素のない文面。

 楽しい夏休みが始まり、同時に両親と久々の対面も果たせる。その上、誕生日プレゼントまで貰えるのだ。世界的名医というだけあって、年収もそこらの家庭とは比べ物にならないイズミの父、プレゼントも一般家庭とは訳が違うだろう。

「プレゼントなんか要らないのに……」

 ディスプレイに悲しげな視線を向けながら、イズミは独りごちた。

 イズミにとっては、一般家庭とは訳が違うプレゼントこそが悩みの種となっているのだ。

 独り言を聞き取った通行人が、変な物を見る目で自分を眺めていることに気付く様子もなく、イズミはとぼとぼと歩きだす。

 イズミは思い返す。歳を重ねる度に己が身を襲った悪夢の数々を。

 去年の誕生日には、高級なメロンが収められていそうな木箱が、海外にいた父から送られてきた。木箱を開けてみれば、高級メロンは入っておらず、メロンほどの大きさの、甘ったるい匂いを放つベッコウ飴が入っていた。それだけでもイズミは十分驚かされたのだが、取り出して飴をまじまじと見てみれば、何やら飴の中に異物が混入しているではないか。イズミはその異物がナニかを確認するなり、飴を箱に戻し、翌日には燃えるゴミとして処分した。

 飴には子猿のミイラ――苦しげに歪んだ子猿の顔は今でもイズミの夢にときたま現れる――が琥珀の中に眠る昆虫さながらに入っていたのだ。

 これはまだマシな方で、一昨年の誕生日プレゼントはさらに手に負えなかった。

 イズミが友人と市民プールでひと泳ぎし、ほどよい疲労感と共に自室に戻った時のことであった。

 イズミは水泳後には必ずと言っていいほどやって来るあの心地いい睡魔に襲われ、抵抗することもなく自分のベッドに倒れこみ、眠りにつこうとした。

 しかし、微かな異臭が鼻腔を通り過ぎていったために、意識を眠りの世界から舞い戻らせる羽目になった。

 何かが腐っているような、そんな臭い。

 イズミはまどろむ目をこすりながらあたりを見回した。

 部屋にナマモノの類はないはずだし、食べ物類を持ち込んだ覚えもない。鼠が部屋の中で野垂れ死にでもしたのだろうか、と嫌な予感がイズミの頭をかすめた。

 しかし、悲しいかな。

 事実は予想よりも奇なり。

 イズミが見つけたのは腐った鼠の死骸などではなく、自分の学習机の上に置かれた見覚えのない怪しげな木箱――翌年は木箱だという時点で警戒するに至る――だった。

 イズミは恐る恐る木箱に近づいた。

 木箱に歩み寄るにつれ、異臭も若干ではあるが強まっていく。

 イズミは爆発物を処理するかのような慎重な手つきで、木箱の蓋を持ち上げた。

 イズミは箱の中身を視認するなり、表情を変えることもなく――変えることもできず――何事もなかったように蓋を戻し、年端もいかない子供のような声で「お母さん!」と叫んだ。その叫びは、戦場で散りゆく兵士が末期に叫ぶソレと似ていた。

 息子の悲痛な叫びを耳にした母は、血相を変えてイズミの部屋に駆け込んできた。

「何があったの!?」

 半ば叫ぶように問うた母に対して、イズミはものも言えず、ただひたすら口をパクパクと動かしながら、木箱を指差した。その指もガタガタと震え、何を指し示しているのかよく分らないほどだった。

 それでも母はイズミが何を指差しているのかを理解し、母たる者が持つあの度胸で木箱の蓋を勢いよく取り払った。母は中身を確認するなり、納得したような顔で木箱を掴み、足を踏み鳴らしながらイズミの部屋を後にした。

 その直後に部屋の外から、母のすさまじい怒声と、イズミの誕生日を祝うために帰国していた父の悲鳴が響いてきた。

 箱の中身は有名なオカルトグッズで、俗にハンズ・オブ・グローリーと呼ばれる屍蝋化した人間の肘から先の部位だった。

 母が父から問い質した話によると、父がどこかの国で医師免許を利用して買い付けたイズミへのサプライズな誕生日プレゼント、ということだった。

 もともと異臭は無かったらしいのだが、日本の蒸し暑い夏のせいで腐らないはずの屍蝋が腐ってしまったらしい。

 母が父に「こういう非常識なものを息子にプレゼントするな!」と小一時間説教した後に、燃えるゴミに出すわけにもいかないハンズ・オブ・グローリーは、父の責任の下、どこかに消えていった。

 悪夢のような出来事を思い起こしている間もイズミの足は歩み続け、気がつけば目の前に自宅があった。世界的名医の家にしては質素な、白い壁に黒い屋根という作り。大きさも辺りにある住宅と変わりない。イズミにとってはこの大きさで十分だし、なによりも建築の際に、父が息子にプレゼントを贈る時に発揮しているような狂人染みたセンスが発揮されていないだけ、この家は素晴らしいものに感じられた。

 イズミはポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、ひねる。

「……ただいまぁ」

 イズミは忍び込むようにゆっくりと扉を開け、家の中を覗き込んだ。

 返事が返って来ることはない。両親はまだ帰ってきていないという証だった。

 イズミはほっと胸を撫で下ろして家の中に入る。室内は閉め切られていたため、尋常な暑さではなかったが、両親の帰宅まで少しだけ、ほんの少しだけでも猶予ができたことを思えば、暑さなど気にならなかった。

 とは言うものの、わざわざ部屋を閉め切ったままにしておくほどイズミは自虐的な人間ではない。すぐさま窓という窓を開け放ち、吹き込んでくる風にあたりながら、ぴっちりと結んでいた制服のネクタイを緩めた。首元に隙間が出来るだけでだいぶ涼しくなった気がする。それでもまださらに涼しくなる方法がイズミにはあった。

 文明の力、エアコンというもの。イズミは、朝家を出る際に自室のエアコンのタイマーをセットしていた事を忘れてはいなかった。

 イズミは手に持っていた鞄を、リビングのテーブルの上に放り投げるに近い形で置き、足早に二階にある自分の部屋へと向かった。

 父親がまだ帰ってきていないということは、少なくとも例年のように驚かされることはないのだ。今年は心の準備ができる。上手くやればプレゼントを受け取らずに、開封することもなく、処分することができるかもしれない。

 イズミはプレゼントを受け取らずに済む方法にあれこれ考えを巡らしながら、自分の部屋の扉を開けた。


 戦場では常に最悪の事態を考えて行動しなければならない。


 イズミの頭にはそんな言葉が唐突に響いていた。イズミの家は戦場でなければ、何か危険と隣り合わせている訳でもない。それでもイズミの頭にはそんな言葉が浮かんだのだ。付け加えるならば、イズミの頭の中でその台詞には改変が加えられた。


 人生では常に最悪の事態を考えて行動しなければいけない、と。


 軽くはないトラウマとなっている木箱が、今年も部屋の中に置かれていた。八畳ほどの部屋のド真ん中に、堂々と、隠す様子もなく。

 いや、違う。隠しようがないし、気づかない訳にはいかないのだ。

 木箱の大きさは例年の比ではない。

 メロンを入れる大きさでもなければ、人の腕を入れるレベルですらない。そう、それこそ人一人が優に入れそうな大きさだった。

 むしろ、それは人を入れるためのモノとしか思えない造り。イズミはこの木箱に見覚えがあった。ここにある木箱に、というわけではなく、ほぼ同じ造りの木箱に対して。俗にいう――俗な呼び方以外があるのか疑わしいが――棺桶というモノ。

「……嘘だろ」

 イズミはボソりと呟いた。

 部屋は冷たい空気で満たされているというのに、体中がぞわぞわと泡立ち、血液が沸騰しているのではないかとさえ思われた。

 イズミは白木で出来た箱を注視する。ただのデカい木箱と思いたかった。いくらあの父でも棺桶を送りつけたりはしないだろう、そう思いたかった。今年は母が父と一緒に行動していたのだから、棺桶を送りつけるような事をそうやすやすとやれる筈がない。ましてやこの棺桶にハンズ・オブ・グローリーのような“中身”が入っているなどとは考えたくもなかった。

 しかし同時に、昔テレビで見た、医師免許を利用して地下室に多くのミイラを貯蔵している医師の話が頭をよぎる。

 何食わぬ顔でハンズ・オブ・グローリーを買い付け、あまつさえ息子に送りつけた前科のある父が、死体丸ごと一つ買うことに大きな抵抗を持っているとは考え難かった。

 イズミは固い唾を飲み込み、白木の箱に歩み寄る。腐臭が漂ってくることはないが、近寄れば近寄るほど箱は棺桶にしか見えなくなってくる。

 滑らかに削られた表面に、シンプルながらも彫刻が施されている。祖父の葬式の際に見たモノとほとんど同じだった。それに、死者と最後の別れをするための覗き窓だって付いている――幸いにもしっかりと閉じられているから中は確認できないが。

 イズミはこれらのことを、部屋の扉を開けた時点で瞬時に確認していた。それでも信じたくないがために見えない振りをし、ただの木箱と思い込もうとした。夏の暑さに浮かされて見た幻と思いたかった。

 それでも、木箱はそこに存在している。もう認めるしかなかった。木箱としてではなく、

棺桶として。中身のあるなしは別として、自分の部屋に棺桶が置かれていることだけは間違いないのだ。

「ただいまぁ」

 イズミが棺桶への対応を決めかねている時に、玄関から長閑な両親の声が響いてきた。  

 棺桶がここに運び込まれているということは、一度は帰宅していたのだろう。

 さきほどは両親が帰宅していないことを喜んでいたが、今にして思えば最初から居てくれたほうが数万倍マシだった。呆気にとられるのは同じとしても、すぐに説明を求めることが出来ただろう。

 イズミは慌てふためいて両親に駆け寄る訳でもなく、どちらかといえば夢遊病患者のようなおぼつかない足取りで両親の元へと向かった。

「あらイズミ、先に帰ってたのね」

 よたよたと階段を下りてきたイズミを目にとめた母が、靴を脱ぎながらのんびりとした口調で言う。久方ぶりの再会にはしゃぐでもなく、落ち着いた第一声だった。

 その落ち着いた声音にイズミは引っかかった。母がこんな態度でいるということは、あの棺桶は母の預かり知らないところで調達され、あれほど大きなものをどう隠したのかは想像できないが、隠密に運び込まれたと判断するのが自然。

 つまり――というか、やはり――犯人は、頭のネジがゆるみ過ぎて取れてしまった父以外にあり得なかった。

「ただいまイズミ。いやぁ、参っちゃったよ。空港で荷物の受け渡しに苦労してさ」

 イズミの空想の中で顔面に飛び蹴りを喰らわされているとも知らず、父が大きな黒のスーツケースを玄関に運び入れながら吞気に言う。額には珠のような汗がびっしりと浮かんでいた。

 イズミは心を静め、父に飛び蹴りではなく、まずは棺桶に関する疑問をぶつけようとしたのだが、父の姿を見て、喉まで来ていた言葉が腹へと戻っていった。

 父はアイロンの効いた、それなりに高級なスーツを纏い、そのスーツには余りにも不釣り合いな、使い古されたボストンバックなどを両肩から下げていた。頭のネジが外れたイズミの父ではあるが、自他共に認める愛妻家だ。ここに来るまで母には一切荷物を持たせることなく、自分で荷物を全て持って帰宅してきたのだろう。

 たったいま。

「いま帰ってきたの? じゃあ、どうしてアレが部屋に……」

 我知らずイズミは呟いていた。おかえり、だとか、久し振り、だとかを言うよりも先にそんな言葉が口をついてしまっていた。

 両親はたったいま帰宅してきたはずなのに、あれだけ大きなモノが自分の部屋まで運びこまれている。イズミのあずかり知らぬ所で運送業界に革命でも起きていない限り、普通の運送業者は鍵の閉まった家に侵入しない。

 じゃあ、アレは誰が自分の部屋に運び入れたというのだ。

 イズミは自分の頭から血の気が引いていく音を聞いた気がした。

「どうしたの?」

 青白い顔になっているイズミに気付いた母が不安げにイズミの顔を覗き込む。

「僕の今年の誕生日プレゼントって……棺桶じゃ、ないよね?」

 イズミは薄ら笑いを浮かべて呟いた。何が楽しくて笑みを浮かべた訳ではない。あまりにも不可解な状況に、得体のしれない笑みが零れたのだ。

 イズミは自分でも何を言っているのかよく分からなかった。こんなことを息子が口走ったら親はどう思うのだろう、息子に自殺願望でもあるのかと勘ぐるだろうか、それともドラキュラに傾倒して棺桶で眠りたいとでも言いだしたのだろうかと想像するのだろうか。少なくとも、気の毒な目で見られるのだろうな、とイズミは結論付けた。

「そう……アレが先に届いちゃったのね」

 イズミの予想に反して、母は気の毒な視線を向けるどころか、顔を俯けて視線を逸らしてしまった。

「アレって……あの棺桶について知ってるの!?」

 イズミは母の肩をガシりと鷲掴んで揺する。

 この不可解な状況に関する戸惑いが、半ばイズミに我を忘れさせ、頭が揺れる程に強く母を揺すってしまっていた。母は怒るでもなく答えるでもなく、なされるがままになっている。

 荷物を玄関に降ろした父が二人の間に立ち、イズミを母から引き離す。

 二人を引き離すと父は、いつにない険しい真剣な表情でイズミの瞳を見つめていた。イズミは父のこのような表情を生まれてこのかた見たことがなかった。父はいつも憎たらしいぐらい漂漂としていて、世界に名だたる医師とは到底信じられないと常々思っていたほどだ。それに毎年の、奇行とも呼べるプレゼントの事もあった。

 しかし、この表情を見たことがあれば世界的名医であることを信じるだけでなく、尊敬の念すら抱いていたかもしれない。

「落ち着くんだイズミ。アレはお前の予想通り、プレゼントだよ。だがいつもとは少し訳が違う」

 父はなおも真剣な表情を崩さず、イズミの肩に手を置いた。イズミはこの父がもし「あれがプレゼントだよ」などと発言した場合は、瞬時に拳を振り上げる心積もりだったのだが、父の表情に気圧され、ただ茫然と父の次の言葉を待った。

「立ち話もなんだから家に入ろう。“彼女”はどこに置かれているんだい?」

 父はおもむろに靴を脱ぎながら言った。

「かの……じょ?」

「なんだ、まだ中身を見ていなかったのか。まぁいい、棺が置かれてるとこに、」

「彼女ってなんだよ! まさか本当に中身入ってるの!?」

 イズミは何食わぬ顔で家に上がろうとした父の言葉を遮り、胸倉に掴みかかった。

 この父親はあまりにも非常識だ。人体の一部を息子にプレゼントにするだけでも十分非常識なのに、今度は棺だ。棺だけでも信じがたいのに、死体も入っていると何食わぬ顔で言うのだ。それとも自分は父親に、死体をもらって喜ぶような息子とでも思われているのだろうか。イズミの頭の中を様々な考えが飛び交う。あまりに色々考えすぎて、何も考えていないかのような感覚すら覚えた。

「落ち着け、と言っただろ?」

 父は静かに、しかし力強く言い、ゆっくりとイズミの腕を振りほどいた。

 父は衣服の乱れを整えると嘆息を漏らし、リビングの方向に進んでいく。

「まぁ来なさい、イズミ」

 茫然としていたイズミに母が優しく声を掛ける。イズミを見つめる母の目には杞憂めいたものが浮かんでいた。

 イズミは黙って頷き、母のあとに続く。過去最悪の誕生日だ、と思わずにはいられなかった。死体なんか引き取って何をするつもりなのか全く想像もつかない。気の毒な無縁仏を引き取って葬式でもあげてやろうというのか。だったら僕へのプレゼントにならないではないか。むしろ死体へのプレゼントだ。

「なんだ。リビングに運ばれた訳じゃないのか」

 イズミがリビングに足を踏み入れると、父がリビングを見回しながら残念そうに呟いていた。

 普段と変わらない父の態度に、少しだけ腹の立ったイズミだったが、先程言われた通りに大人しく黙り込んでいた。そんなイズミを母が心配そうに見つめているのだが、それに気付く余裕は今のイズミにはなかった。

「棺はどこにあるんだ?」

「……僕の部屋」

 イズミはブスりと呟く。自分でも情けないほどに拗ねた態度だったが、平生を保てる状態ではなかったので、結局こんな態度になってしまっていた。

「じゃあ行こうか」

 父は拗ねた息子の態度にやれやれと肩をすくめ、二階のイズミの部屋に足を進めた。


 先程と変わらずイズミの部屋の中央には、棺桶が鎮座していた。変わったことといえば、ドアを閉め忘れたせいで部屋の冷気が漏れ、部屋が生暖かくなっていることぐらいだった。

「まったく、死体商の奴め。なんだってこんなトコまで運び込んだんだ?」

 父は苦々しげな表情を浮かべながら棺桶を見下ろす。

 死体商という聞き慣れない単語が気には掛ったが、そいつがこの部屋を選んだのは分らないでもなかった。こんな湿気が多くて気温が高い季節に、冷房の効いてない部屋に死体を置くのはご法度だから、少しでも涼しい部屋を探して置いたのだろう。まぁ、人の部屋に許可なく死体を置くこと自体ご法度なのだが、家長が了承しているらしい以上、そのあたりはなんとも言えない。

「それより、お父さん……イズミに説明を」

 母が遠慮がちに父の肩を叩く。

 イズミは母のそんな態度に眉をひそめた。普段なら、母のほうが父よりも上位に立っているのだが、今はまるで逆。今の母は、父の三歩後ろをついて歩きかねないようなしおらしさだ。それに、例年なら不可解なプレゼントに対して父を説教してくれる母が何も言わないとはどういうことなのか。目の前の棺桶が、父のプレゼント史上最悪なのは疑いようがないというのに。

「あぁ、そうだったね。イズミ、棺桶の蓋を外してごらん」

 父が振り返り、部屋の隅で両親のやりとりを眺めていたイズミに手招きする。

 イズミは若干たじろぎながらも、言われるがまま棺桶まで歩み寄った。

 歩み寄ってはみたものの、蓋を外す気には到底ならない。大好きだった祖父が死んだときでさえ、死体を見るのは厭だった。辛いという感情からでもあったが、気持ち悪いということでもあった。

 大好きな人でさえそれなのだ。見ず知らずの死体なんて誰が好き好んで見なければいけないというのだ。世の中にはそういう趣味の人間もいると聞いたことはあるが、イズミには到底理解し得ない世界だ。

「なんだ? 怖いのか? 安心しろ、ミイラの類は入ってないから」

 父は朗らかな笑みを浮かべていた。少なくとも棺桶を開けろと命じるときに浮かべる表情ではない。

 正直父の指摘は的を射ていたのだが、素直に怖いと認めるのも癇に障ったので、イズミは無言で棺桶の蓋に手を掛けた。

 そんなあからさまな強がりは見抜かれ、父が苦笑しているのが横目で見えたが、気付かないふりをする。

 そうして、憤りに身をまかせて勢いよく棺桶の蓋を持ち上げた。

 イズミは蓋を抱えたまま硬直する。

 それは過去の誕生日に経験してきた恐怖に対する硬直ではなく、まるっきり別次元のモノだった。

 例えるならば、美しいものに心奪われて硬直するような、そんな感じ。いや、まるっきりソレだった。

 棺桶の中には確かに死体が入っていた。しかし、それはイズミが想像していたような死という概念を体現したようなモノではなく、どちらかといえば安眠と美を体現していると言い表したくなるモノだった。

 年の頃は十代の半ばを過ぎたくらいの少女。肌理の細かい透き通るような白い肌に、艶やかな亜麻色の髪。白いワンピースを纏った体の線は細く、それでいて女性的だった。

 しかし、どこか違和感があった。少女の顔の造りはどう見ても日本人ではない。顔のどこをとっても美しく、手を組んで横たわっている姿は異国の童話に出てくる麗しき眠り姫のようであるが、その眠り姫が白木造りの棺桶に納まっている様は、どこかシュールだ。

 それに、あまりにも死体らしさがない。血色がいい、とまでは言わないが、この年齢で死に至るということは、大病か不慮の事故しかない。それなのに、体にはその痕跡がまるでない。本当にただ眠っているだけのようだ。突然動きだしてもなんの不思議もないほどに。

 そこからイズミは一つの可能性を見出した。父がイズミを驚かせようとしているという線だ。

 イズミはそう考え、タヌキ寝入りをしている可能性の出てきた少女をじっと見つめた。

 しばらく観察しては見たものの、呼吸している感じはなかった。

 この少女は確かに死んでいる。信じたくはないが、それが結論だった。

「どうした? あまりの美しさに声もでないのか、イズミ」

 蓋を抱えたままのイズミの肩に手を置き、父はからかうような笑みを浮かべた。

 イズミは半分当たっているその発言にムッとしたものの、表情に出せば付け込まれることは目に見えていたので、胸の内にとどめた。

「この子、なんなんだよ」

 代わりに疑問をぶつけてみる。

 生まれてから一度も異国の人間と関係した事のないイズミは、当然ながら棺桶の中の少女に見覚えがなかった。

 世界を飛び回る父ならば何かしら異国の少女と関係があっても不思議ではないが、自宅にその死体を運び込む理由は、皆目見当がつかない。それに父が口にした“死体商”という単語も気にかかる。医療業界には研究のための死体売買でも行われているのだろうか。  

 そうだとしても違法な匂いがぷんぷんするのだが。

「この子はお前への贈り物だ。奇麗だろ?」

 父は棺桶に眠る少女を見つめて微笑む。

 その父の穏やかな微笑がイズミの理性を吹き飛ばした。必死に平生を保とうとしていたのだが、いい加減限界だった。

 イズミは手にしていた棺桶の蓋を床に叩きつけ、父の胸倉に掴みかかる。

「おいっ! いい加減にしろよ! 毎年あんたのフザけたプレゼントのせいで息子がどれだけ嫌な思いをしたか、想像できないのか? 奇麗だろ、だって? あぁ、綺麗だな。びっくりしたよ。でもな! お生憎様、僕は死体をもらって喜ぶ趣味はないんだよ!」

 イズミはこれまでのプレゼントに対する鬱憤をも晴らすかのようにまくしたて、父の胸倉から突き飛ばすように手を離した。

 これまで息子のこんな姿を見たことのない父は、多少面を喰らってはいたが、それもどちらかといえば、どうして怒るのかが理解できないという顔だった。

 イズミは本当に殴ってやろうかと拳を握り締める。父親を殴るということには少なからず抵抗があったが、口で言っても分らない以上はやむえない。

 こういうのも教育的指導に含まれるのだろうか。

 ふとそんな考えが頭に思い浮かんだ瞬間。

「ぐっ! な、なんで?」 

 父の顔が苦痛に歪み、脇腹を抱えながらヘナヘナと床に座り込む。

 父の表情とは対照的にイズミは口をあんぐりと開け、呆けた顔だった。

「……母さん」

 イズミは父を殴るために握りしめていた拳をほどき、自分よりも先に父を殴った者の名を呼んだ。

「お父さん、私は家に着くまでに散々釘を刺しましたよね? イズミを極力混乱させないように説明するように、って。それとも比喩じゃなくて本当に釘を刺されなきゃ分らないんですか? それなら次は拳じゃなくて釘を突き刺してあげますが、どうします?」

 母は床にうずくまる父を見下ろしながら、満面の笑みで言った。

 イズミの頬を冷たい汗が伝う。

 母は怒っている。それも例年の誕生日の比ではない。ここで父が変な発言をしようものなら本当に釘を突き刺すつもりだろう。

「ご、ごめんなさい。ちょっとイズミの肩の力を抜いてあげようと、」

「ん?」

 泣きそうな顔で母を見上げた父の言葉を、母は先程と変わらない笑顔で遮る。その笑顔は暗に伝えていた。

 これ以上無駄口叩くなら、釘を持ってきますよ? と。

「わ、わかりました。きちんと説明します!」

「最初からそうすればいいんですよ、お父さん」

 母の表情は相変わらず笑顔のままだが、笑顔に見え隠れしていた険はひとまず鳴りをひそめた。

 それに胸を撫で下ろした父が立ち上がり、イズミに向きなおる。

「母さんに誓って言おう。これから言うことに嘘偽りはない」

 父は真剣な表情で言ったのだが、母に殴られた腹をさすりながら言ったせいで威厳は半減している。

 それでもイズミは片唾を飲み込み、父の次の言葉を待った。いま母の前でふざけた事を言えば体の穴が増えることになる。そんな状況で嘘をつくほど父は愚かではないはずだ。

「我が如月家はネクロマンサーの家系なんだ」

 父は腹をさするのを止め、至極真剣な表情で言った。

 イズミは特に反応を示すこともなく胸中に呟いた。

 穴開き決定だな、と。

 イズミは釘と鉄鎚を取りに行くために踵を返しているであろう母を見つめた。しかし、母は一向に動く気配がない。それどころか父と同じように真剣な表情でイズミの顔を見つめている。

「ど、どうしたの? 母さん。早く父さんに釘刺さなきゃ。こんなフザけた冗談言ってるんだから」

「イズミ。信じられないとは思うけどお父さんの言ってることに嘘はないのよ」

 すがるような声音で言ったイズミに、母が悲しげな視線を向けた。

「そ、そんな馬鹿な話がある? ネクロマンサーってあれだろ? ゲームとかに出てくる、

死者を操る、あの」

「そう、まさしくソレだ。如月家の人間は十六歳を迎えると死者を蘇らせる力を持つようになる。そしてお前は今日十六歳になった」

 父はイズミを指差しながら重々しく言う。

 先程までの態度が嘘のような表情だ。見たことはないが、ひょっとしたら父の医者としての表情は、こちら側が主なのかもしれない。

 それでも父の言っていることは信じられなかった。ただでさえオカルトな内容なのに、それを医者である父が口にしているのだ。人類が永い間求めていたことの一つに数えられる死者の蘇生などという絵空事を。

「だから彼女を持ってきた」

 黙り込んで言葉を発しないイズミに、父が棺の中の少女を指し示す。

 そして続けた。

「その眼で見れば信じるだろ? お前がこの子を蘇生させるんだ」

「なっ!? そんなこと出来たらそこらの医者よりよっぽど凄いじゃない、か……まさか父さんはその力で?」

「父さんの話を信じてくれたのならありがたいが、父さんの医者としての腕は努力によるものだ。人を蘇らせるのにはそれなりに代償があるからな」

 イズミが目を見開きながら尋ねると、父は力なく笑って肩をすくめた。

 イズミは父の言葉に「代償?」と半ば独り言のように呟いた。

「ネクロマンサーなんてのはオカルトの世界だ。イズミだって、何もメスや機械を使って蘇生させるのを想像した訳じゃないだろ?」

 父の言葉にイズミは黙って頷く。

「ネクロマンサーってのは魂が特別なんだ。その魂を死者に分け与えることで死者は蘇る。

その分ネクロマンサーの魂は減る、魂ってのは寿命みたいなものだから、死者を蘇らせる度にネクロマンサーの寿命は減っていく。そうまでして名声を得る馬鹿はいないさ」

 父の言葉は相変わらずぶっ飛んでいて信じられないような話だが、母がドッキリの類に付き合うとも考えられなかったイズミは、ひとまず信じることにしてみた。

 だが、信じてみれば新たな問題が頭に浮かぶ。

 少女を蘇らせたら自分の寿命は縮むのではないか、と。

「なぜわざわざ息子の寿命を縮めようとしているのか、ってことだろ?」

 イズミの顔に浮かんでいた杞憂を読み取ったらしい父が微笑む。こういう観察眼は医者ならではのモノなのだろうか。

 とりあえずイズミは頷いて返した。

「ネクロマンサーの魂が特別なのは、死者を蘇らせられるという事だけじゃない。ネクロマンサーの魂を喰らった者は不老不死になれるんだ」

 死者を蘇らせる存在の次は不老不死。まったくもって話題がジェットコースターのように移り変わる。

「……はぁ」

 イズミは悪徳商法に引っかかりかけているカモネギのような曖昧な頷きを返す。

 如月家はネクロマンサーの家系で、ネクロマンサーの魂を喰らえば不老不死。もはや何がなんだか分らなかったが、なんとなく分かることがあった。

 不老不死を欲してやまない人間はごまんといるのではないかということだ。

 例えばイズミが、死にかけの欲深い人間に対して「ハーイ、死にかけのそこのあなた。僕の魂を喰えば不老不死になれるんだよ」などと言ったら、そいつは喉から手を出してでもイズミの魂を喰らうだろう。どうやって魂を喰うのかは知らないが。

「つまりはお前の命が危ない。だからこの子を連れてきた」

 父の言葉がいまいち飲み込めないイズミは再び曖昧に頷く。

 自分の命が危ないからこの女の子が連れてこられてて、自分はこの女の子を蘇らせなきゃいけなくて、蘇らせたら寿命が縮んで……意味がわからない。

 命が危ないなら、こんな麗しい女の子じゃなくて屈強な黒服でも大量に連れてくればいいのだ。そもそもネクロマンサーの魂を狙う存在がいるなら、父も危ないはずだ。

「父さんは危なくないのかよ」

 イズミの言葉に最初はポカンとした表情を浮かべた父だったが、何故かすぐに満面の笑みになる。

「聞いたかい母さん? 自分の命が狙われている状況なのに父の心配をしてくれるなんて、

なんて優しい子なんだろう」

 瞳を潤ませて語る父親に、そこまで深く考えての発言ではない、とはとても言えなかった。ましてや母の瞳もウルウルしている以上、なおさらだ。

「イズミ、父さんのコトは心配いらない。お前の親を思う気持ちは物凄く嬉しいが、今は自分の心配だけしてればいいんだ」

 父は感極まりながらイズミの肩をポンポン叩いている。

 イズミはあいまいな笑顔で頷くほかにできる事はなかった。 

「あ、あのさ! 命を守るんだったら、お、女の子よりいかつい黒服とかの方がいいんじゃないかなぁ?」

 イズミはバツの悪さから声を張り上げる。少し声が上ずってしまった。

「その黒服がこの子より強ければ、の話だがな」

 父は肩をすくめてニヤりと笑う。

 イズミは自然と、棺の中の少女に目をやっていた。どう見ても強そうには見えない。というか、戦えるのか自体が怪しい。やはり、塔に閉じ込められているお姫様の方が適役という外見だ。

「銃火器をもった黒服二十人ぐらいと相当するのがこの子の強さだ。まぁ、素手や近距離戦闘用の武器を所持しているだけの黒服だったら、千人ぐらいは倒しきるんじゃないか?」

 父は何やら頭の中で計算し、まんざら冗談でもないかのように言い切る。

「じゃあ、なんでそんな強い子が死んでるんだよ。そもそも病死にしては健康そうな体だし、事故死にしては綺麗だし、不自然なんだよ」

「これは驚いた。そこまで観察しているとは。探偵にでもなったらどうだ? ワトソンくん」

「茶化すな」

 イズミはワトソンくんは医者だということには、敢えて触れない。

「すまんすまん。その子の死に様が不自然なのはな、生き返るために死んだからだよ」

「生き返るために? どういうことだよ」

「嫌な言い方ではあるが、この子はネクロマンサーの道具になる為に死んだってことだ。どうしてその道をこの子が選んだのか、詳しくは知らんがな。そしてそういう死体の売買をするのが“死体商”というやつらだ」

 父は横目で少女を見下ろしながら言った。その視線も言葉も、どこか寂しげに感じられた。

「それを父さんが買ったの?」

「あぁ、そうだ。ネクロマンサーの為の死体だからな。お前のボディガードにはうってつけって訳だ」

 そこまで手の込んだボディガードを雇うなんて、世界に名だたる要人になった気分だな、

などとイズミは呑気に考えていた。しかし、それは状況が逼迫しているということなのだろうか、とも推測はしてみた。それでも平和ボケした頭は、寿命を削ってまでボディガードを雇う必要はない、という結論を導き出していた。

 どうせ事故に遭わないから保険には入らなくても大丈夫、などという安易な考えと物凄く類似している。

「お前が今考えていることを当てようか? イズミ」

 父が悪戯な笑みを浮かべながら、イズミの心臓の上に人差し指を突き立てる。

 イズミは内心どぎまぎしながらも、顔には何も出ていなかったハズだと考え、父の言葉を待った。まぁ、もし言い当てられたとしても、どうってことはないと言えばないのだが。

「本当に寿命減らしてまで蘇らせる必要あるのかなぁ、だろ?」

 父はツンと人差し指を押しながら不敵に笑った。

 言い当てられるのを予想していたイズミではあったが、こうもぴったりだと気味が悪くなってくる。世界に名だたる医者の観察眼はここまでなのか、果ては心が読めるのかなどと勘ぐり、心の中でバカと叫んだりしてみる。我ながら叫ぶほうがバカではあったが。

「まぁ……確かに思ったよ」

 イズミは顔を俯けて呟く。

 考えを見透かされた気恥ずかしさの他にも、思う所があったからだ。見ず知らずの人間とはいえ、自分の寿命と引き換えに一人の少女を生き返らせることが出来るというのに、自分はそれを真っ先に拒絶の方向に持っていこうとした。せめて「寿命はどのくらい減るの?」ぐらい聞いてからでも遅くはなかっただろうに。

「だろうな。まぁ、自分の寿命を削れば患者が助かるからと言って、助ける医者は多くないだろうしな。少なくとも父さんはやっていないし。骨身は削っても寿命は削らない」

 父はイズミ以上にバツの悪そうな苦笑いを浮かべて頬を掻く。

 命の瀬戸際に立ち会う仕事をしている父からしたら、イズミの感じた良心の呵責など些細なモノなのだろう。常に呵責が付きまとうなかで仕事を続けている父はやはり尊敬に足る人物なのかも知れない、とイズミは思ってしまっていた。もっとも、父親として尊敬できるかは別問題だが。

「まぁ減る寿命は大した年数じゃない。考えてもみろ、お前のおじいさんは平均寿命は生き切っただろ?」

 確かに、とイズミは黙って頷く。

 祖父が死者を蘇らせたことがあるかは知らないが、父がこう言う以上蘇らせていたのだろう。だが当然のことながら、蘇生させなければもっと長生きできたのではという考えも浮かんでしまう訳で。

「五回だそうだ」

「ん?」

「おじいさんが死にかけた回数は。もし優秀なボディガードがいなかったら一度目で死んでいただろうと笑いながら言っていたよ」

 父は肩をすくめて苦笑う。手に取るようにイズミの考えが分かるのは医者としての観察眼だけではなく、自分の経験からでもあるのかもしれない。

「父さんのボディーガードは? 見た事ないけど……」

「今は父さんにボディガードはいないよ」

「大丈夫なの? それで」

「心配ない。父さんこう見えて半端じゃなく強いから」

 父はそう言うとワザとらしくボディビルダーのようなポーズをとった。ひどく滑稽で本当に強いのか疑いたくなるどころか、信じる気が失せる。

「本当なら強い父さんが守ってやりたいのだが、いつもお前のそばにいるわけにはいかないし、何より男子たるもの自分のケツは自分で拭けなきゃな」

 父の言葉に、イズミは「まぁ……確かに」と曖昧な返事を返す。

 自分がおじさんになった頃、おじいさんになった父親に守られている姿を想像してしまったイズミは背筋が凍りつくのを感じた。そんな情けない状況は、それこそ死んでも、絶対に迎えたくない。

 イズミは棺桶の少女に視線を移す。もし仮に、この少女を蘇らせて身を守ってもらったとしても、ネクロマンサーとしての能力を使ったというのが多少の救いになるだけで、見た目は情けないのに変わりがないかもしれない。まぁ、自分より遙かに強い女性など世界には数多存在していることだろうが。

「イズミ、実は母さん達はもうすぐ日本を離れなければならないの。だから早くこの子を蘇生させて私達を安心させて」

 押し黙っていた母が口を開いた。

 イズミを見つめる母の視線は真剣そのもので、事態を疑う気は失せているものの、今の状態の母に対してウジウジした発言をしたらと想像すると、全身から冷たい汗が噴き出てきそうだった。

「わ、分ったけど……どうやって生き返らせるの? 僕、魂を分け与える方法なんて知らないし」

「そいつは簡単さ」

 父がニンマリと笑い、続けた。

「眠れる姫を起こすのは王子様のキスと相場が決まってるじゃないか」

「なっ!? そんなおとぎ話みたいな話が、」

「正確にはキスというよりは人口呼吸に近いがな。自分の心臓に左手を添えて口から息を吹き込むんだ」

 父は心臓に左手を添えて口づける真似をしてみせる。

 母が何も言わないということは、嘘をついているわけではないのだろう。

「や、やらなきゃ、ダメ?」

「当たり前でしょ? それから一応言っておくけどお父さんに代わってもらうなんてことはダメよ。死体商が扱う死体は生き返らせてくれたネクロマンサーのことしか守ってくれないから」

 情けなく問うたイズミを母が切り捨てる。

「さぁ、イズミ。眠れる姫に目覚めの口づけを」

 父が恭しく礼をしながら、棺に眠る少女を指し示す。

「わ、わかった、よ。やればいいんだろ! やれば!」

 イズミは乱暴に頭を掻きながら棺桶に歩み寄った。

(ドッキリの類だったら父さんにヘッドバットして、そのあとソバット喰らわしてやる)

 イズミは胸中に毒突いてはみたものの、目の前に横たわる少女を見るとドッキリだろうがなんだろうが構わなくなってきてしまう。そう思わせるほどの美しさが、死してなお、少女にはあった。

 少女には死体らしさがなく、死体に口付けるということに対する嫌悪感などは無いに等しいのだが、そのほかの感情がイズミの行動を阻んでいた。

 こんな状況においてアホらしい話だが、一種の照れがイズミの頭の大半を占めていた。

 近寄れば近寄るほど少女の美しさが視界に飛び込んでくる。絹糸のような光沢を持つ亜麻色の髪、死体に対して変な表現ではあるが瑞々しい唇、すらりと伸びたしなやかな手足。

 どこを見ても飛びぬけて美しかった。以前、街で有名な女優を見掛けた友人が、その美しさに圧倒されたなどと大仰に語っていたのを、話半分に聞いていたイズミだったが、今ならその気持ちがありありと分った。

「左手を自分の心臓の上に置くんだ」

 棺の脇で硬直してしまっていたイズミに父が指示する。

 イズミは生返事を返しながら自分の心臓の上に左手を置いた。自分の心臓の鼓動が左手を通して聞こえてくる気がする。普段は心臓の鼓動など気にとめることはないが、それでも今の鼓動は普段よりも格段に速いと感じた。全力疾走のあとに感じる胸の高鳴りに似ていた。

 イズミは少女の枕元に屈み、少女の唇に自分の唇を近付ける。

 何も考えないように心がけようとしたイズミだったが、その必要はなかった。少女の唇と距離が縮まれば縮まるほど脳の回転数が遅くなっていく。イズミはボンヤりとした頭で、思考が自動的に停止へと向かっていくのを感じ取っていた。

 思考が完全に停止した瞬間。イズミの唇が冷たいものに触れた。その冷たさにイズミの脳が再び回転し始める。オーバーヒートしかねない全速力で。

「息を吹き込むんだ」

 父の抑揚のない声がイズミの耳朶を打った。

 イズミは生返事を返そうとしたが唇を付けたままだったので上手くいかず、そこから漏れた吐息が少女の口の中に吹き込まれた。

 少女の手がピクりと動く。口付けたまま動けなくなっていたイズミはそんな事に気づく筈もなく、茫然と少女の顔を見つめていた。

 少女の瞼がピクと動き、ゆっくりと開かれる。瞼の下から現れたのは少女の髪の色と同じ亜麻色の瞳だった。円らで、少女の他のパーツに劣ることなく、美しい瞳だった。

「邪魔だ。どいてくれ」

 異国の少女の唇から滑らかな日本語が滑り出る。

 イズミは自分が何を言われているのか、やや間をおいて理解し、慌てて飛退いた。

 運動した訳でもないのに息を切らせているイズミをよそに、少女がゆっくりと上体を起こし、棺桶に腰を落ち着けたまま、部屋の中に佇む如月家の面々を順々に見回していく。

「私を目覚めさせてくれたのはそこの少年か。とりあえず礼を言う」

 少女はイズミに視線をとめると慇懃に言った。

 お辞儀をしない辺りがお国柄の違いを示しているなぁ、などとズレた事を考えていたイズミは、その謝辞が自分へ向けられたものだと気づき、慌てて「どういたしまして」と返した。

「体の具合はどうだい?」

 父が少女に歩み寄り、優しく尋ねる。まるで退院間近の患者に接するかのように。

「ん。問題ない」

 少女は掌を閉じたり開いたり、腕を回したりしながら答える。

「それは何よりだ。これで一安心だよ」

 父は朗らかに微笑むと、イズミに視線を移し続けた。

「じゃあ、父さんたちはもう行かなきゃいけないから。あとは若いもん同士で」

 父はいやらしい笑みを浮かべ、手を振りながら足早に部屋から出ていく。

「え? あ、いや、あの、父さん?」

「玄関に置いてある荷物はその子の為の服とか入ってるから。あ、一応言っておくけど、ひとつ屋根の下で暮らすからって変なことしたら……チョン切りますからね」

 父に続いて母も満面の笑みで出ていく。先程までの真剣な顔が嘘のようだ。

「そんなことあるわけないだろ! って、えっ? チョン切るって何を!?」

 イズミの悲痛な叫びを無視して母は、乱暴に部屋の扉を閉めた。

 見送りはするな、付いてくるな、という意思を感じさせるほど大きな音が部屋の中に木霊する。

「何なんだ……いったい」

 イズミは閉ざされた扉を見つめながら茫然と呟く。

 部屋の中にはエアコンの駆動音だけが静かに響いていた。


 * * *

 

「……はぁ」

 イズミは膝の上に両手を置くという大変行儀のいい姿勢で、リビングの椅子に腰掛け、曖昧に頷いた。

 目の前には先程驚くほどあっさり生き返った少女が、この家の住人たるイズミよりも堂々とした態度でイズミと向かい合った椅子に座り、イズミが昼食として用意したソーメンをすすっていた。

 先ほどのイズミが発した曖昧な返事は、少女がソーメンをすすりながら語ったことに対するモノだった。

 片手間に語られた話の内容は、存外重要なことで、少なくともソーメンをすすりながらかたるようなモノではなかった。

「あんだけ信じられない出来事の後にまた信じられないことかよ……」

 イズミは頭を抱えながら深い溜息を吐く。

「何が信じられないというのだ?」

 少女はソーメンを口に運ぶ途中で止め、顔をイズミに向ける。

「全部」

「私が話したことか?」

「僕がネクロマンサーだってことも」

 イズミがひらひらと手を振りながら答えると、少女は箸を丁寧に置き、まっすぐにイズミを見据えた。

 イズミはその視線に思わずたじろぐ。女性からまじまじと見つめられたことのないイズミにとって、その視線はこそばゆかった。ましてや並はずれて美しい女性の視線となれば尚のことだ。

 イズミの緊張など知ってか知らでか、少女は深いため息を吐きだして頭をふった。そして、呆れた表情を隠そうともせずイズミに向ける。

「その眼で見た事を信じないということは、自分自身を否定することになるとは思わないのか?」

「ぐ……確かに、そうだよ。だからって、」

「だからって?」

「君が二百年も前に死んでたなんて信じられるかよ!」

 イズミはテーブルに握り拳を軽く打ちつけた。

 あまりに強く打ちつけては少女が怖がるかもしれないし、何より自分自身そういう音が苦手だった。

 それでも頭の中のモヤモヤを少しでも晴らすには、こうする以外に考えが浮かばなかったのだ。

「なんだ、そんなことか」

 イズミの杞憂をよそに、少女は再びソーメンをすすり始める。

「それは聞いただけだから信じなくてもいいさ。信じるべきことは君がネクロマンサーで、私が君を護る者ということだけだ。私が言ったことなど気にしなくていい。それこそ話半分に取ってくれて構わない」

 少女は箸をイズミに向けながら言った。本当にどうでもいいというような気だるげな視線で。

 イズミは口をアングリと開けて少女を見つめていたが、少女のぞんざいな考えに呆れ、がっくりとうなだれた。

 どうでもいい訳がない、とイズミは頭の中で呟く。

 少女がソーメンをすすりながら、まるで平凡な一日の出来事を語るような口調で語ったこと。

 少女が死んだ時代は今から二百年前で、二百年も前の死体があれほど奇麗に保たれていたのは魂に魔術的加工を云々で、要するに魔術の類で肉体の崩壊を防いだということ。二百年も前に死んだ人間でありながら、こうも落ち着いているのは、イズミの魂を分け与えられることによって、現代の常識や、日本語、果ては箸の使い方まで習得したということ。

 それが嘘であれ真であれ、どうでもいい訳がない。

 嘘ならばその嘘をつく必要性が気になるし、気まぐれで言われたとしても腹立たしい。しかし、それ以上に腹立たしいのは真実であった場合だ。

 少女の話が本当なら、肉体の保存技術に関しては、科学技術よりも魔術の方が優れているということではないか。別にイズミは頑なに科学を信奉している人間ではないが、常識をことごとく覆されるのは心地のいいものではない。

 もっとも、それを言うならイズミの存在自体も同様なのだが。

「あぁ、いいよ。そうだね、どうでもいいことだよね。君が蘇ったのは確かなんだから。もう魔法だろうがなんだろうが信じるさ」

「む、人の話を聞いていなかったのか? 自分の眼で見たこと、あるいは信じるに足ることだけを信じればいいのだ」

 少女は箸の先でクルクルと円を描きながらイズミに講釈をたれる。

 少女の講釈を聞き流しながら、イズミは溜息を吐いた。今日一日で何度溜息を吐いたのか分ったものじゃない。一カ月分くらいは吐き出したのではないかとすら思う。それでも、一か月先まで溜息が必要ないとは思えない。次から次へと溜息を吐きたくなるような状況がやってくるのだから。

(いったい、いつまで続くんだ……この不可解な状況は)

 イズミは胸中に呟きながら、眼前の少女を見つめた。

 初めて見たときは、それこそ息を呑むほどに美しいと思った。今でもそれは変わってはいない。だが、不可解な現状を鑑みれば、この少女に見惚れているだけの余裕など今のイズミには無かったし、なにより少女の言葉や立ち居振る舞いが纏う独特の雰囲気がそれを許さなかった。

 厳しい、と表現するのがしっくり来るだろうか。イズミが今までに感じたことのない雰囲気だった。実際に見たこともないのに言うのも妙な話だが、訓練された兵士が持つような雰囲気。

 そこでイズミは今更ながらに思い起こす。

 父がこの少女は自分を守ってくれる存在だと言っていたことを。

 雰囲気からすれば十分すぎるほどにただの少女ではないと理解できるが、それでもこの少女が戦う所など想像できない。

 それ以前に、自分が狙われる姿が想像できない。自分の魂が本当に不老不死の秘薬であるか確かめる術はないにしろ、そう言われている以上、この世界には不老不死者というものが存在することになるではないか。むしろ居てもらわなければ困る。迷信や狂信の類で命を狙われたらたまったものではない。

「あのさ、君……あ、そう言えば名前まだ聞いてなかったね」

 イズミは吐き出しかけた疑問を引っ込めて少女に訊ねる。

「ダーシェンカ。ダーシェンカ・オルリック」

 少女はソーメンを食べ終えて、箸を容器の上に置くと、丁寧な口調で述べた。

 とても気品溢れる動作だったが、三人前のソーメンを楽々と平らげる様を見ていたイズミからすれば、苦笑ものだった。

「ダーシェンカさん、ね。ダーシェンカさんは、」

「さんはいらない」

「あ、うん。ダーシェンカは」

「待て」

「ハイ?」

 話の腰を次々に折られたことに、イズミは少しだけムッっとする。

 しかしすぐにそれを恥じる事となった。

「君の名前を聞いてない」

「……ごめん。すっかり忘れてた。僕の名前は如月イズミ。高校一年生だよ。高校ってのが二百年前の人に通じるか分らないけどさ」

「そうか。だが心配無用だ。この時代に関する情報はだいたい理解している。これからよろしく、イズミ」

 イズミの皮肉をさして気にとめる様子もなく、ダーシェンカは右手をイズミに差し出す。

「あ、うん……よろしく」

 イズミはおずおずと手を差し出し、ダーシェンカの手を握った。

 軽い握手。

 瞬間、イズミの手に苦痛が奔る。まるで万力に挟まれたかのような痛み。

「いっ、痛い!」

 イズミが苦痛に顔を歪めながら声を上げるのと同時に、ダーシェンカが素早く手を離す。

 イズミは自分の手に奔った痛みが、目の前のか細い少女の握力によるモノだとは俄かに信じられず、茫然とした表情でダーシェンカを見つめた。

「す、すまない! 力の加減が上手く出来なかった……」

 ダーシェンカはイズミ以上に顔を歪め、今にも泣きだしそうな表情でイズミを見つめていた。

 なんのつもりだ! と怒鳴るという考えを浮かべたイズミだったが、ダーシェンカの表情を見て思いとどまる。あそこまでの怪力を『力の加減が出来なかった』と片付けることを、普段のイズミなら許さなかっただろうが、こんなに思いつめた表情をされては責めるものも責められなかった。

「い、いいよ。骨に異常はなさそうだし……それに、ダーシェンカが本当に強いのか、って疑問も消えたから。握力の強さがその人の強さとは考えられないだろうけどさ」

 異常な怪力への疑問を浮かべたイズミではあったが、ダーシェンカをひとまず安心させようと、努めて優しい声で言った。

 それでも額に夏の暑さのせいではない脂汗が滲むのがとめられない。ダーシェンカの握力はそれほどまでに強かった。並の男では彼女に歯が立たないだろうと確信させるくらいに。

「ほ、本当にすまない。感覚がつかめなくて」

 ダーシェンカは深々と頭を下げる。

 イズミはそれを二百年のブランクから来るものを言っているのだと受取り、気にしなくていいよとだけ答えた。

 不思議なことに、イズミはこれまで抱いていたこの状況に関する疑念を、ダーシェンカの握力一つで一蹴していた。

 ゴリラのような人間が今の力を出すなら理解できるが、目の前に佇む、守られるべき姫君のような外見のか細い少女がこんな怪力を出せるはずがない。

 しかし体感してる以上それを説明するナニかが欲しかった。

 だからイズミはこう片づけることにした。

 オカルト的な存在は実在するのだと。自分がネクロマンサーであるように、目の前の少女も一般的な人間以外のナニかであるのだと。

 そう理解することにした。


 * * *


「お父さん、本当にあれでよかったの?」

 イズミが脂汗を滲ませている頃、空港に向かって走っているタクシーの中で、イズミの母が隣に座っているイズミの父に訊ねた。

「アレで良かったに決まってるじゃないか。ダーシェンカはあの死体商が扱う死体の中で最強だったんだから」

「そうじゃなくて! イズミに死者蘇生をさせた事が良かったのか聞いてるんです! それから、『あれ』って言うのをダーシェンカちゃんとワザと間違えたでしょ? 次にそんな間違いしたら、生きながらに右半身を干し椎茸にしてあげます」

 母はニッコリと笑い、父の太腿に拳を叩き込んだ。

「ぬ!? ご、ごめん」

 父の目が見開かれ、次の瞬間には苦悶の表情に変化する。

「ごめんじゃなくて、あれでよかったのかどうかを答えてください」

 母は相変わらずの、有無を言わせぬ笑顔。

 対する父は、離れた所にいる息子と同じように、額にじっとりと脂汗を滲ませていた。

「良かったかどうかはイズミが決めることだけど、父としては息子のためになると信じてる」

 太腿をさすりながら答えた父を、母はポカンと口を開けて見つめた。まるで、豆鉄砲を喰らった鳩、いいや、鳩に豆鉄砲を喰らった人間のような顔だ。

「患者さん以外に対しても人間らしいこと言えるじゃないですか、お父さん」

「惚れ直した?」

「今のセリフが無ければより一層惚れこんでました」

「よかった。まだ見捨てられた訳じゃなかったんだね」

 父はホッと胸を撫で下ろしながら呟く。

 人間性が壊れている父ではあったが、妻に対する愛だけは、世間一般が定義する愛と同義だった。逆に、こんな夫を愛する妻の愛が世間一般の愛と同義であるかは甚だ疑問だが。

「そうやって誤魔化さないでください! 私たちは親のくせに息子の寿命を縮めたのには変わりないんですから!」

 母が頬を赤らめながら怒鳴る。怒りのために頬を赤らめたのか、照れから頬を赤らめたのか判断が付かなかったが、それでも父は満足そうな笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。

「寿命なんて簡単に縮むさ。生きていくストレスから、生活習慣のの歪みから、流れる時間まで。ありとあらゆるものが寿命、ずなわち魂を削り取っていく。イズミにとってはその一つに死者蘇生があっただけだよ」

「でも……」

「本当は息子の寿命が減ったのが不満なんじゃないんでしょ?」

 父は薄い笑みを称えながら母を見据える。

 母は、その視線に反応して肩をビクりと震わせた。

「息子の本当の姿を知るのが不安、いや、むしろ恐怖している」

 父は抑揚のない声で言い、何も言葉を返すことなく俯いた母を見つめている。

 しばらく母を見つめていた父だったが、やがて視線を流れる窓の景色に映る。

 気が付けばいつの間にかタクシーは高速道路に入っており、周りをものすごい速度で車が駆け抜けていく。

「なんであんなに急ぐんだろうね。時間は割とあるんだろうに」

 父は独り言のように呟いた。

 運転手は夫婦の不可解な会話にもこれと言って反応を示さず、隣の母も俯いたままだ。

 父は軽いため息を吐き、頭を振る。

「大丈夫。イズミは優しくて強い子だから。きっと、大丈夫さ」

 父は流れる雲を見つめながら呟いた。

「そうよね、イズミは優しい子だものね」

 母がようやく顔をあげて答える。

 会話がきちんと噛み合っているにも関わらず、それを聞いていた運転手は、両方とも独り言を言っているようだと感じていた。


 * * *


「もうダメ。疲れた、死ぬ」

 イズミは自分の部屋のベッドに倒れこみながらボヤいた。

 窓の外はすでに暗くなっており、気温も昼間と比べれば涼しいといって差支えない程になっていた。

 ちなみに部屋に置かれていた棺桶は家の目につかない所に移動して、布を幾重にも掛けてある。

「あれくらいでヘバるとは情けないな。イズミは戦う必要はなくても、逃げる必要はあるかもしれないんだぞ?」

 部屋の入口で腕組みをしているダーシェンカが嘆息交じりに言う。

 イズミとダーシェンカは“ちょっとした”散歩を楽しんできたのだ。

『イズミを守るためには、ある程度土地勘を養っておく必要があるから街を案内しろ』

 と言い出したダーシェンカに軽い気持ちで「いいよ」と答えたイズミだったが、すぐに後悔するハメになった。

 散歩コースは半径二キロメートルを、くまなく歩き回るというものだった。大通り、路地裏、普通なら通らないような肩幅程度しかない民家と民家の間の道まで。

 それだけならまだ耐えられた。一般的な体力程度は持ち合わせてるイズミにとって「あぁ、疲れた」という程度の運動だった。

 しかし、それを三セットとなれば話は変わる。土地勘を完璧にするために繰り返された散歩はイズミの体を蝕み、三回分の「あぁ、疲れた」は「もうダメ。疲れた、死ぬ」に昇華したという訳だ。

「そうは言ったってなぁ……あ、そういえば」

 イズミは今にも軋みだしそうな体を起して、ダーシェンカを見据えた。

「ん、なんだ?」

 イズミの視線に気づいたダーシェンカが顔を上げる。

「もしかしなくても、一緒に住むんだよね?」

「当然だ。でなければなんの為の護衛か分らない」

 平然と答えるダーシェンカに、イズミはがっくりと肩を落とす。

 先ほどまではさして気にしていなかったが、夜がやってくると心が落ち着かなくなってくる。

 知り合って間もない異性と、二人きりで、ひとつ屋根の下で過ごすということは、イズミにはあまりにも刺激的だった。

 ハズなのだが。

 こうも理解しがたい状況となると、話は別で。

 当然、ダーシェンカに対する照れも大きい。同様に、自分が本当に命を狙われているのだと、実感めいたものが湧いてくる。あくまで、実感めいたものというだけで、実感ではないのだが。

「気まずいというなら、夜は庭に立ってても構わないぞ。私は」

「そ、そんな事させられるわけないだろ! 第一近所の人が警察呼んじゃうよ」

 こともなげに言い放ったダーシェンカに、イズミは手を振り回しながら否定する。

「……まぁ、そりゃあ気まずいけどさ、ダーシェンカが気にしないならこっちも気にしないよ」

 イズミは額に手を当てて俯きながら続けた。

「なら構わないだろ。それより、夕飯はまだか?」

「あ、すっかり忘れてたよ。すぐ用意するから。ちょっと待ってて」

「分った。私はその間に風呂にでも入っていよう。私の着替えは玄関に置かれていた荷物に入っているのだろ?」

 イズミがその問いに頷くと、ダーシェンカは何の疲れも感じさせない動きで部屋を出ていく。

 イズミもそのあとを追おうとするが、悲しいことに体がついてこない。一歩歩くごとに足が攣りそうになるので、生まれたての子鹿のような歩みだった。

 そうしている間にもダーシェンカが階段を下りている音が聞こえてくる。

「畜生……地面に膝つきたくなる」

 イズミはボヤき、壁を伝いながらダーシェンカの後を追った。

「これは誰の悪趣味だ?」

 やっとの思いで一階に降り立ったイズミに浴びせられたのはそんな言葉だった。

 これは誰の悪趣味だ、という日本語が少し妙だと思ったイズミではあったが、ダーシェンカの手に握られていたものを見て、その日本語は至極真っ当なモノだと納得した。

 ダーシェンカの手にはモッサリとした淡い水色のドレス、いや、いっそモッサリが握られていた、と言いたくなるくらいモッサリしたドレスが握られていた。

 映画の中でしかお目にかかったことのないようなドレス。スカートは長くモッサリしていて、肩の部分もモッサリと膨らんでいる。モッサリのオンパレードだ。

「たぶん……父さんだよ。そんな嫌がらせするのは。まぁ、本人は良かれと思ってやってるんだろうけどさ」

 父のプレゼントで初めて自分以外の被害者が出たことに若干喜んだイズミではあったが、身内の恥を晒すことは自分が恥を掻いているのと同じようなもので、複雑な感情に襲われ、肩をすくめた。

「まぁ、私の生きていた時代に合わせてくれたんだろうが……こんな目立つ格好を出来る訳がないだろ。何より動きづらいし」

「そんなんしか無かったの?」

「いや、ショックでこのボストンバッグ一つしか開けていない」

 後ろから覗き込んだイズミに、ダーシェンカがバッグを指さす。

 残っているのはボストンバッグとスーツケースが一つずつ。このドレスのモッサリ具合から言うと、他の二つにドレスが詰まっていてもおかしくはないだろう。開いたボストンバッグには二着程入っていたから、それから逆算し、全てにモッサリドレスが入っていれば大体一週間分になる。ローテーションが可能になる。

 もっとも、ドレスのクリーニングなどの手間暇を考えれば、ローテーションなど到底不可能なのだが。

「とりあえず他のも開けてみよう。母さんならまともなものを買っていてくれるハズだ」

 イズミはゴクりと固唾を飲みながら、もう一つのボストンバッグを開けた。

 そこから見えたのは、ごくごく一般的な女性物の服の数々だった。下着類もチラと見えたので、イズミは咄嗟に視線を逸らす。

「ふむ、確かにまともだ。助かった」

 ダーシェンカは下着の事などを気にかける様子は微塵も見せない。

 すっかり安心したらしいダーシェンカは何食わぬ顔でスーツケースにも手を伸ばし、開ける。

 そこにも、ごくごく一般的な衣類が収められていたのだが、ひとつだけ異質なものがあった。

「なに、それ」

 イズミは呆けた表情で呟く。

 そんなイズミとは対照的に、ダーシェンカは何食わぬ顔で異質なものをスーツケースから取り出していた。

「なにって、見たまんまナイフではないか」

 ダーシェンカは不可解なものを見るような眼をイズミに向けながら答える。

 ダーシェンカの手の中には、か細い彼女には到底釣り合わない無骨なアーミーナイフが握られていた。ダーシェンカはさして驚く様子もなく、皮で出来ているらしい鞘からナイフを抜く。

 引き出されたナイフを見て、それが並大抵の物でないということは素人のイズミにもはっきりと分かった。第一にナイフの大きさが目算で刃渡り三十センチほどという時点で並大抵ではなかったし、その刃も普通ではなかった。普通のナイフなら金属光沢を持っているはずなのに、このナイフにはそれがなかった。暗灰色の刃は部屋の明かりを反射してやっと鈍く輝いているぐらいだ。特殊な強化プラスチックか何かで出来ているのだろう。

 驚いて言葉も出ないイズミを尻目に、ダーシェンカはナイフを弄ぶ。ペン回しでもするかのように軽々と手のひらで回してみせる。抜き身の刃を、だ。

「あ、危ないだろ!」

 やっとのことで言葉を絞り出したイズミに、ダーシェンカは微笑を向けた。

「安心しろ、このナイフに慣れる為に軽く遊んでるだけだ」

「余計危ないだろ! 抜き身のナイフをそのままって、危なすぎるだろう。というか、なんでこんな物が……」

「なんでって、ナイフが私の主な武器だからな。二百年の時が過ぎてもその情報はきちんと死体商の間で伝え続けられていたと考えると、少し感慨深いな」

 ダーシェンカは遠くを見つめるような目つきで、自分の手の中に納まっているナイフを眺めていた。

「武器って……僕、そんなに危ない状況にいるのかな?」

 イズミは情けなく言葉を漏らす。

 命を狙われている。その状況がどうしてもしっくりこない。

 どんなに治安の悪化が叫ばれる昨今であろうとも、この国に生きる人間で逼迫して死を身近に感じている人間はそうはいないだろう。

 大体が風邪にかかって、日頃の健康の素晴らしさに気づかされるという程度だ。

 風邪を治して「生きててよかった」などと思える人間なんて、きっといないだろう。

 この国に生きる者にとって、生きているということはどこかしら常識めいている。生きる苦労に大小はあれど、自分が誰かに殺されると思いながら生きているような人間はいない。

 少なくともまっとうに生きている人間の中には。

 イズミもまっとうな人間の中の一人だった。

 命を狙われていると宣言され、不可解な少女と同居することとなり、見たこともないような無骨なナイフを目にしてなお、自分が命を狙われているとは思えなかった。

 ひょっとしたら、襲撃されてもなお思えないのかも知れない。

「いや、そんなに危なくはないぞ?」

 ダーシェンカはこともなげに、イズミの日和った考えを後押しするセリフを発した。

 そして続ける。

「ネクロマンサーを狙う輩は極少数だし、襲撃を喰らわずに一生を終えるネクロマンサーだって少なくない。もっとも、その中には早世も含まれるがな」

 ダーシェンカはニヤりと笑う。彼女なりのジョークなのだろうが、今のイズミには全く笑えなかった。

「でも、うちのおじいちゃんは五回ぐらい狙われたって……」

 その言葉にダーシェンカの顔が一瞬曇ったように見えたが、すぐにいつもの表情に戻る。

「心配するな! 結局そのじいさんは孫の顔が拝めたんだろ? それに、もし襲われても私がいる。案ずることは何もない! 今はそれよりも夕飯の支度を気にするべきだな」

 ダーシェンカはナイフを鞘に収め、その切っ先をイズミに向け、追い立てるようにイズミの腹をつつく。

「わ、わかったよ! すぐに支度するからそんな危ないので突かないで!」

 イズミは本気で怯えながら台所の方に駆けていった。ヒョコヒョコと子鹿の様な奇妙な足取りで。

 ダーシェンカはその足取りに小首を傾げながら嘆息を吐き出した。

「五回、か。この家系の情報は漏れているということなのか? イズミには悪いが、私としては好都合だな」

 ダーシェンカは聞き取れないような小声で呟く。これまでに浮かべなかったような暗い表情で。

 サッとその表情を消し去ると、何もなかったような顔つきでイズミの後を追って台所へと足を進めた。

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