胸の中に残るもの
「ティアちゃんに、渡したい物があるの」
しばらく静かな時間の後、そう小さくクリスが呟いた。
紅茶を飲みながらクリスを見ると小さく微笑んでいる。
「渡したい物ですか?」
私は首を傾げる。
「そう。この前、ティアちゃんの生活用品を買ったでしょ? その時にティアちゃんに私の昔の洋服、渡してもいいなって思ったのよね」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん。ティアちゃんが嫌じゃないならだけど」
そう言って立ち上がったクリスは、テーブルを挟んで私の目の前にある大きなクローゼットを開けて、見て、と洋服を示す。
私が見やすいように、洋服をもう手前に並べてくれてあったようだ。
見てすぐにわかる上質な淡い色系統のブラウスに、落ち着いた色合いのスカートが三枚ずつ、並んでいる。
立ち上がってクリスの隣に行く。
そっと肌触りの良さそうなブラウスを手に取る。
さらりと溶けるような、けれどふんわりした感触が広がって、今まで感じたことのないものに思考が止まりそうになった。
(……私は何に触れてる?)
気持ちよくて触るのがやめられない。
私の様子にクリスが笑った。
「これはね、私が学生の時に着て欲しいって頼まれた物なの。学校でも着やすいデザインにしてもらったから、ティアちゃんがジョイの店で働くなら使いやすいかなって思ったのよね」
「そんな物をもらってもいいんですか?」
驚いてクリスを見る。
クリスはいつもの優しい笑顔で、ええ、と頷いた。
「私に合わせてデザインしてくれた物ではあるけど、今の私が着るともう違和感しかないから」
「……そんな事ないと思いますよ?」
少しレースはひらひらした部分があるけど、ブラウスもスカートも落ち着いた色合いだし、そもそもクリス自体がそんなものをものともしないくらい綺麗だ。
クリスは私の言葉を聞いて、真剣な顔で首を振った。
「ティアちゃん。たしかにデザインは好きだけど、本当に可愛すぎて、着てる自分に動悸がするの」
「動悸?」
「そう、動悸。簡単に言えば、ティアちゃんが初めて仕事をしてうわぁぁって言ってたあの気持ちに、多分似てる」
「うっ、それは動悸がするかもしれません」
「でしょ?」
私は自分の未熟さを思い出して動悸が起こりそうな自分の胸をぎゅっと握りしめる。
「だから、私の事は気にしなくていいわ。ティアちゃんがよかったらで大丈夫。当てて見てみて?」
「わかりました」
クローゼットの扉が鏡にもなっていて、クリスがこちらに鏡を向けてくれた。
私はさっきから手が離せなかった水色のブラウスを手に取って自分の体に当てて見る。
淡い水色が柔らかく、知性的な雰囲気に魅せてくれる。
襟と袖には紺色の糸で花をモチーフにした刺繍が入れられている。
袖は手のひらに向かってふんわり緩く作られていて、硬くなりそうな雰囲気をまろやかにしてくれていた。
「可愛い」
刺繍が入れられている袖を優しく握って、肘を曲げたり動かしてみる。
いつもの自分をこうしてまじまじと見た事がないけれど、こうやってきちんとした服を着てオシャレしてる自分を想像すると胸が弾んだ。
一緒に並べられている中に紺色のスカートがある。
ウエスト部分に上品にリボンが編み込まれているデザインなのだが、それと合わせたら素敵なのではないだろうか。
クリスは安心したように頷いた。
「よかった。それが好きなら、こっちもよかったら受け取って欲しい」
「え?」
まだあるの?
これだけでも貰いすぎだと思うのだけど、大丈夫なのだろうか。
クリスはクローゼットの奥の方から、大きな白い箱を取り出して机の上に置く。そしてそっと、その箱を撫でた。
クリスは浮かべていた笑顔を消して、何かを思い馳せるようにその箱を見つめている。
何度か箱を撫でて、クリスは箱を開けた。
最初に透けるような白いレースのスカートが目に入った。ふんわりと空気をまとって、蓋を開けた瞬間にそれは柔らかく揺れた。
上半身の部分はきちんとした襟のついた服の上から、短い上着のようなものが重ねられている。
その間からのぞく胸元の部分には綺麗に結ばれた飾り紐が見える。
箱の中にはクリーム色を基調としたワンピースとベストが入っていた。
クリスが小さく息をついた。
クリスを見ると、クリスはゆっくりと瞬きをして、私を見て淡く微笑んだ。
「……この服はね、ちょっとだけ特別。お出かけの時とかどうかなって」
「……いいんですか?」
さっきの素敵な服もそうだったとは思うけれど、この服は明らかにクリスにとって特別な思い出があるように思える。
本当に、いいのだろうか。
「ええ。私はこの服をもう着る事はできないから」
「……さっきと同じ理由ですか?」
同じわけがない。
違うとわかってあえて聞く。
クリスは服を見ながら、一度深く目を閉じた。
そうしてゆっくりと目を開けると、私に向かって首を振って、小さく微笑んだ。
「ううん、違うわ。でも、だからこそ、ティアちゃんが着てくれたら嬉しい」
渡す事、私が着る事に、何か意味があるのだろうか?
クリスの気持ちを知りたくてじっと見つめる。
クリスは洋服にそっと目を落とした。
「こう言われると嫌かもしれないけど……ティアちゃんがこの服を着て楽しそうにしている姿を見たら、少しだけ心が軽くなるかなって、思ったから」
「……心が?」
「そう。だから、よかったら受け取って欲しい」
想いが詰まってるだろうから本当にいいのか、それだけが気になったけれど、クリスがそう言うなら大事にするだけだ。
私はクリスを見ながらゆっくりと頷いた。
「わかりました。ありがとうございます。大事にしますね」
私は洋服達を見て、頬を緩めた。
きっと毎日が華やかになるだろう。休みの日が楽しみになるだろう。
服を着る事が楽しくて、朝が来る事が待ち遠しくなるかもしれない。
仕事はきっとすぐには慣れないけど、それでもこの素敵な服を着てる自分に、自信が持てる気がする。
自信を持って立てる気がする。
クリスは嬉しそうに笑った。
「ええ。ティアちゃん、こちらこそありがとね」
クリスは白い箱の蓋を閉めた。
そして残りの洋服を見ながら、これ詰めちゃう? とクリスはクローゼットの横に置いてあった紙袋を取り出して、洋服を詰め始めた。
私は他の洋服を持ってクリスのそばに座り、その手伝いをする。
服を畳みながら、ふとクリスは何かに気がついたように顔を上げた。
「────ティアちゃん、攫われないようにね?」
「え?」
予想もしない発言に驚いてクリスを見る。
想像以上に真面目な顔で私を見ているクリスに私は首を振った。
「それはないと思いますよ?」
「それがなくても、気をつけてね? これから休みの日にどこかに出かけたりするでしょう?」
「え、問題がなければ、そうですね」
「だよね?」
まだ給料をもらってないから買い物はできないけど、この辺りを少しずつ散策してみようと考えている。
とりあえず噴水広場で走ってる人や寛いでる人、読書をしている人もいたし、単純にあの空気に空間に混ざってみたい。
朝のツンとした身が引き締まるような空気の中で、今日はこれから何をしよう、そう考える体験を、私はしてみたい。
クリスはそのまま言葉を発さず、顎に手を当てて少し考えている。
(どうしたのだろうか?)
私は内心で首を捻った。
さっきまでとクリスの顔つきが違う。
頭の良さを感じさせる紫色の目がどこか遠くを見ながら細められた。
「一昨日、ティアちゃんに教えてもらったでしょ? だから私、個人的にちょっと調べてみたのよね」
「調べた?」
「そう。この街全体の事件発生件数。事件にならなさそうな小さな揉め事も含めて役場に記録されている物、大小関わらず調べてみたのよね」
ドクンと、心臓が跳ねた。
わかる範囲でだけど、クリスはそう言いながら服を紙袋に再び詰め始めた。
さっきよりゆっくり詰められている服を見ながら、少しだけざわつく心を抑えるようにゆっくりと呼吸をする。
「…………どうでしたか?」
「少しだけ、前年、前月共に発生率は上がっているわ」
ひゅっと、喉から音がした気がした。
ドクンドクンドクンと、少しずつ鼓動が速くなっていく。
(少しだけ、と言ってた)
だからまだ、はっきりわかったわけじゃない。
こんなに動揺するほど、気にする必要はないかもしれない。
答えを出すのは話を聞いてから、ちゃんと最後まで聞いてからだ。
(だから────落ち着け)
どんどん乱れていこうとする心臓と心を抑えるように胸を抑える。
慎重に呼吸を繰り返す。
「私、頭が特にいいわけじゃないから申し訳ないけど、一応街を東西南北、四つに分けた事件発生率も思いついたから調べてみたの」
ふぅ、とクリスは息をついた。
服を畳んでいた手を止めて、私に視線を向ける。
「もともとね、この街は北部、西部、東部、南部の順に事件発生率が高いのよね? ざっくり言うと治安の良くない順。うちやジョイの家は南部にあたるから、治安はとても良い方なの」
「そうなんですね」
「そう。それでね? これも前年度、前月と比較してみたのよね」
「……どうでしたか? 何か、わかりましたか?」
「うーん、それがちょっとはっきりわからないのよね?」
「わからない?」
ええ、とクリスは頷く。
「街全体の事件発生率が上がっているから、どこも変わらず増加傾向にあるのかなと思ったんだけど、違ったのよね。北部は大幅増加、西部は中程度増加、東部はほぼ誤差の横ばい程度、南部は変化なし。さっき言った順に増加してるように見える、そんな感じの結果だった」
「それは…………何か意味があるんでしょうか」
「それなのよねぇ。私も自分のやってる事が本質を掴んでいるのか自信がなくて。元凶の二人は人の心を操るんでしょう? それなら事件発生率に変化があるかもって思いはしたんだけど」
うーん、とクリスは唸っている。
「でも、誤差だと言われたら誤差だって言える程度で、正直まだわからない。これから増えるかもしれないし、逆に減るかもしれない。結果は、今はまだ要警戒の様子見かなって思ってる」
「そうですか……」
視線を自分の手元に落とす。
はっきり何もないってわかれば嬉しかった。
でも、二人が復活していない可能性が消えてない事は確実に良い事でもある。
「何か変化があったら、教えてもらえますか?」
「もちろん。みんなで守ろうって言ったでしょ? だからティアちゃんも何かあったら気軽に言ってね?」
クリスが微笑んでそう言う。
締め付けられているようだった心臓が、少しだけ緩んだ気がする。
「────はい、頼りにしてます」
「こちらこそ。あんまり、背負いすぎないようにね」
ぽん、と頭に手のひらが乗った。
その温かさになぜか涙が出そうになった。
自分でもわからない。
でも一瞬、何かが倒壊して涙が出そうになった。
(心細かったのかな……)
今までずっと、一人だったから。
よしよし、と頭を撫でられる。
クリスと目が合うと、優しく目を細められた。
ぎゅっと、胸が苦しくなる。
────大丈夫。
泣きそうな事、頭を撫でられる事、それがそう言われた夜を思い出させる。
ぽつりと、クリスはこぼした。
「もし、何かがあっても……この街を信じて。信じて、走って」
「…………街を、信じる?」
「そう。変な事言ってると思うと思うけど、ティアちゃんにこそ必要だと思うから」
「私に、必要?」
「多分ね? どうしよう、そう思った時に……思い出して」
「わかりました」
こんなに思いやりのあるクリスが適当な事を言うわけがない。
撫でられる居心地の良さに、私はゆっくり目を閉じた。




