心が重なる夜
ジョイの店先から見える噴水広場。
ジョイの工房もある道のちょうど角にあたる交差点。
そこにクリスの家があるらしい。
「うわぁ……っ! おいしそうな良い香り!」
濃厚でおいしそうな香りに思わず、そう言葉をこぼしてしまう。
感動を抑えようと両手で口を覆って、目の前に現れたクリスの家をじっと見つめる。
ここから、良い香りがしている?
私はほう、と息を吐き確かな満足を感じながら、クリスを見つめた。
「ここが、クリスさんのお家ですか?」
「ふふ。そうよ、両親がパン屋を営んでいるの。今見てるのは店舗の方ね」
「素敵です……っ!!」
そう言ってこの香りを堪能しながらクリスの家、パン屋をじっと見上げる。
店の作りは木のそのままの質感の木造建。
店の入り口には植物が置かれていて自然の中でパンを食べる開放感をイメージして作られている。
今は閉店していて誰もいないが、軽く座って食べられるように店の外にベンチが置いてあって、食事時には結構賑わっているのではないだろうか。
「ティアちゃんが来てくれるから、父さんにパンを焼いてくれるようにお願いしてたのよ」
「えっ!? じゃあこの香りは……」
「ティアちゃんのために焼いてるパン」
「幸せすぎる……!!」
思わず喜びでふるふると体が震えた。
ジョイの方から吹き出すような音が聞こえたのでそっち見ると、こちらに背を向けていた。
私は店の横道から家の方に入るためのドアを開けてくれてるクリスの方へ向かう。
クリスにドアの奥へ促され進むと、私の後ろをジョイがついて入ってきた。
「ティアはほんとに、パンが好きだな」
「うん、大好き!」
ジョイに振り向きながら笑顔で頷いた。
この香りに包まれながら歩いていると、クリスに出会った時の事を思い出す。
私はジョイの後ろをついてきているクリスに声をかける。
「クリスさんに初めて会った時も、パンの良い香りが気になりすぎて、階段を降りて行ってしまったんですよ」
「えっ?」
初めて出会った時のように、クリスは驚いたように目を見開いている。
警戒しながら部屋を出たはずなのに、良い香りに思考を奪われてしまっていたなと冷静になって考える。
「ジョイにも思ったんだよね?」
「え?」
「良い香りの元っぽいパンの入った紙袋をジョイが平然と持っていて、正気かと疑ってた」
ジョイは吹き出した。
クリスも笑い出す。
「嘘だろ?」
「そんな事思ってたの?」
ジョイとクリスは口を押さえて笑いを堪えようとしている。でも全く堪えきれていなくて普通に笑っていた。
「……何か変でしたか?」
私の心の中で起こった事を素直に話したのだけど、そんなに変だったのだろうか?
二人は横に首を振った。
「いや、おもしろい」
「ううん、可愛い」
「え?」
それはどういう意味だ? 褒められてる、よね? 笑われてる?
二人をじっと見ていたらクリスの手がそっと背中に添えられた。
我慢できない笑いをがんばって噛み殺そうとしながら、クリスが家のドアを開ける。
外にいても良い香りがしていたが、家の中はもっと濃厚な香りが広がっているのかドアを開けた途端、濃厚な香りが私達を包む。
勝手に頬が緩む。
「うわぁ、幸せ……」
ほう、と息をつく。
この香り、本当に大好き。
クリスが横でクスッと笑って、背中を優しく押して中に促してくれる。
「ふふ。さあ、ティアちゃん。焼きたてのパン、食べにいこう」
「はい!」
ジョイの方からまた吹き出すような音が聞こえてそっちを見ると、やっぱりこちらに背を向けていた。
「ジョイ!! 元気にしてた!?」
玄関から真っ直ぐ奥に行くとすぐに広いリビングがあった。
リビングに入ってクリスが何かを言う前に、ソファに座っていた女性から声が飛んでくる。
シンプルな白いブラウス、ワインレッドのスカートを履いた女性が私達が入ってすぐソファから立ち上がり、ジョイのそばに行って顔をのぞき込む。
女性にしては高い身長と長い赤髪を緩くまとめている姿が、どことなく出会った時のクリスを思い出させる。
女性はジョイの様子に変化がないか、見ているようだった。
「アメリア伯母さん、こんばんは。なかなか顔見せられなくてごめん。元気にしてたよ」
ジョイは柔らかく笑って、アメリアというらしい女性に答えた。
伯母ということは、もしかしてジョイとクリスはいとこになるのだろうか。
アメリアはそんなジョイの様子に、ほっと息をつき安心したように微笑んだ。
「そう、それならよかった。仕事が忙しいのはわかるけど、たまには顔見せてね? 心配しちゃうから」
「うん、ちゃんと顔見せに来るようにする。ありがとう」
「大丈夫ならいいわ。クリスもおかえり」
「ただいま、母さん」
アメリアはジョイに頷いた後、クリスに笑いかける。
そしてクリスの顔を柔らかく優しく撫でる。
クリスがアメリアに笑いかけ、そして私に顔を向ける。アメリアもクリスに促されるように私を見た。
アメリアが私に向かって頷き、優しく微笑んだ。
「いらっしゃい、ティアさん。私はアメリア、クリスの母親よ。クリスと仲良くしてくれてありがとう」
「ティアです。はじめまして。こちらこそ、クリスさんにはいつも私ばかりお世話になってます」
少しだけ緊張しながらぺこりと頭を下げる。
「ふふ、仕事ばかりで仕事しかしないクリスが、こうやってお友達を連れてきてくれるのは初めてなのよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。だから私も嬉しいの」
「もう! 母さん! そういうこと言わないで!」
クリスがアメリアをぐいぐいと押して私から離そうとする。
そんなクリスを見てアメリアは優しく笑い、私を見る。
「ティアさんはパンが好きなんでしょう? ウィルムが張り切ってパンを焼いてるから楽しみにしていて」
「はい、ありがとうございます。正直、もうこの香りだけでも幸せを感じてます」
アメリアは嬉しそうに笑って頷いて、ジョイにも目をやった。
「ふふふ。ジョイもたくさん食べていってね?」
「それはもちろん」
「じゃあ用意ができるまでゆっくりしてて」
「うん、ありがとう」
「はい!」
ジョイは頷き、私はそうアメリアに答えた。
夕食をクリスの両親とクリス、ジョイ、私で楽しんだ後、ジョイは帰宅、私はクリスの部屋にお邪魔させてもらうことになった。
クリスの部屋は柔らかいブラウンを基調にして整えられていた。
機能性重視で、でも居心地良く心地よく家具が配置されているのは、クリスの人柄なんだろう。
所々に苺のクッションや花の小物があって、それも今まで見えなかったクリスを見たようですごく心が弾んだ。
クリスが淹れてくれた紅茶を一口飲んで、その香りや味の余韻にひたる。
「幸せという概念が、高頻度で更新されている気がします」
「ちょっ、急にどうしたの」
クリスが驚いて飲んでいた紅茶をこぼしそうになった。
ごめんなさい。そんなに驚かすつもりはなかったです。
「ウィルムさんのパンが、おいしすぎました」
「ふふふ、よかった。私もあのパンは初めて食べたわ。おいしかったから、そのうち新商品になるかもね?」
クリスが嬉しそうに笑った。
優しく目を細めるクリスに、私はしっかりと拳を握り頷いた。
「じゃあ、その時は買いに行きますね!」
「ふふ、ありがとう。でもまたいつでも遊びに来ていいのよ?」
「はい、それはもちろんです。クリスさんがいいなら、私の部屋にも遊びに来てください」
「え? いいの?」
そんな事を言われるとは思わなかったというようにクリスは目を大きく見開く。
「もちろん! ただ、今はまだ何もないですけど」
「うんうん、そうだよね」
クリスと目を見合わせて笑った。
楽しいなって心が優しく震える。
「たくさんの嬉しい事、幸せな事、楽しい事がありすぎて、自分の中の価値観が変わりそうです。いやむしろ、変わりました」
私はクリスが買ってきてくれた心地いい肌触りの夜着の袖をもふもふする。
柔らかい桃色のふわふわしたこの手触りすら、今までの私の世界には無いものだった。
手触りが好きすぎて口元が緩んでしまう。
「私の知ってる世界が、どんどん変わってます。パンは安定しておいしくて幸せだし、この夜着はふわふわで気持ちよくてすごく好きです」
それがこうやって当たり前に私の前にある事。
それを本当に私が受け取っていいものなのか、疑問が過ぎる。
でも、そんな疑問に答えを出す前に、どんどんどんどん、優しい現実が積み重なっていく。
頭で考える前に、受け取ってしまう。
そしてそれが、私の価値観をどんどん変えてしまう。
これが好きだって。
ここが、好きだって。
心が、そう言う。
「ジョイが私という存在を受け入れて優しくしてくれる事。クリスさんがこうやって、私を迎えてくれる事。クリスさんのお母さんとお父さんが、心を込めて歓迎してくれる事」
まだ目覚めて間もないけれど、すでにもうたくさんの想いを私は受け取ってる。
「それって、実は簡単な事じゃ、ないんですよね。何かひとつでもズレたら、そうはならない」
心の奥から、声が聞こえる。
これは当たり前なんかじゃないって。
「実は、奇跡なんですよね」
掴みたくて掴めなくて、それでも諦められなかった過去に目を細める。
胸の苦しさに、少しだけ浮かぶ悲しみ。
「わかるわ」
ぽつりと、クリスは言った。
クリスは紅茶の入ったカップを両手で握りしめて、それを見つめている。
「私、学生時代、同級生とうまく関係が作れなかったのよね」
少しだけ、クリスの声が震えている。
クリスは寂しそうに笑っている。
「────クリスさんが?」
そんなふうには見えない。
こんなに優しくて、温かく包んでくれる人が、人との関係を築けないなんて想像がつかない。
クリスは寂しそうに笑ったまま、弱々しく頷いた。
「私が何をしても悪く言われるの。そんな意図なんてないのに、伝えたい事はそうじゃないのに、悪い方に捉えられてしまう事ばっかりだった」
思い出してしまったのか、クリスの目が揺らぐ。
その目には諦めに慣らされてしまった色が浮かんでいる。
「男性と挨拶をするだけで、媚びてる、また男と話してるって言われたり、女性と話せば、自慢だと捉えられて、無視されたり。何をしても、私を見てもらえる事は、なかった」
クリスが両手をそっと自分の胸に当てる。
まるでそこが、痛いというように。
「……クリスさんが、綺麗だから、ですか?」
わかりやすく言えば嫉妬だろうか。
性格そのものが合わない事はあると思うし、タイミングが合わない事もあると思う。
でもクリスが話している感じ、全員がそういう反応のように思える。
それならクリスが性格が悪くてそうなる事は無いと思うから、私の頭で考えられるのはそれしかなかった。
たしかにクリスの外見は、良くも悪くも人の心を動かしてしまうものだ。
「……どうなのかしらね? 外見が綺麗だと言われる事はあるけど、私をちゃんと見てくれた人はいなかった。どうせどうせどうせって、勝手に私を決めつけて、みんな、それをぶつけてくるだけだった。私の声を、私の言葉を、受け止めてくれる人はいなかった」
クリスはどこか遠くを見つめながら、自分の胸元を握りしめる。
「────見てほしいですよね」
原因は真逆だけど、その気持ちはわかる。
「……そう。わからなくてもいい。理解できなくてもいい。ただ私を否定しないで、そのまま受け入れてくれるだけでも、そばにいてくれるだけでも、それだけでよかった」
泣きそうな笑顔で、クリスは私を見る。
「だからね、奇跡だって言ってもらえる事が、すごく嬉しい」
────ああ、そうか。
「だからクリスさんは、寄り添ってくれようとするんですね」
泣きそうなほどに傷ついて、それを隠すように、守るように笑ってしまうほど心が痛いと言っているのに。
クリスはきっと、自分のように誰かが傷つくのが嫌なんだ。
「だからいつも、柔らかく包むように、見守ってくれるんですね」
クリスのように飛び抜けた美貌はないからその孤独はわからないけれど、クリスがそこから生み出す優しさは身をもって知っている。
「クリスさんは、優しい」
クリスが何か言おうとして、でもそれは言葉にならず息が震えた。
────ほら今も。
私が気にしすぎないように、何か言って誤魔化そうとしたよね?
明るくて優しくて、でも誰よりも繊細に、周りを見てる。
「私はそんなクリスさんが、好きですよ」
私の気持ちが少しでも、届いてくれたら嬉しい。
苦しい日々を過ごしてきたのに、今こうやって誰かを助けようとしてる優しいクリスに、少しでも届いて欲しい。
「────ティアちゃんは、やっぱり優しい」
私の言葉で、どうこうなるとは思わない。
消える事はないだろう悲しみを抱えながら、クリスは柔らかく優しく、微笑んだ。
クリスは本当に“綺麗な人”だ。
「クリスさんが、優しいから」
真っ直ぐにクリスを見つめて答える。
クリスはまた、息を震わせた。
ゆっくりと呼吸を繰り返して、クリスは言った。
「…………二人とも優しいって事だね」
「そうですね、そうなります」
私は強く頷いた。
クリスはぎゅうっと胸元を握りしめている。
「────ティアちゃん、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうですよ。クリスさん」
ぽろりと、一粒だけこぼれた宝石みたいな涙は、クリスの心、そのままのように思えた。




