誰かの未来を想う朝に
(店中がぴかぴかしてて嬉しい……)
誇らしくてにんまりする。
初めての掃除をがんばったとねぎらう気持ちで、にやにやしてしまう頬をそのままにする。
一日かかってジョイの工房の掃除をした。
店も作業場もいっその事できる限り綺麗にしちゃおうという事で、私は壁や棚、とにかく全部拭いてまわった。
さっと拭くだけなのに拭いた先からなぜか薄っすら輝くように変化して、まるで自分の気持ちも一緒に輝くような気がした。
(拭くってすごい。掃除好きかも……)
拭き終わって商品が可愛く並べられた棚をそっと撫でる。
あとで自分の部屋もゆっくり拭き掃除してみよう。
すごくいい部屋だから、きっと拭くたびに心地いい空間になるに違いない。
(楽しかったな……)
ジョイに汚れた雑巾を興奮しながら見せたら、苦笑しながらどんどん頼むって言われた。
私の仕事ができた気がして、すごく嬉しかった。
今までジョイ一人で切り盛りしてきたから、あまり掃除が行き届いていないらしい。
従業員を雇った事もあるらしいけれど、長く続く事が少なくてうまくいかないと言っていた。
(ジョイはすごく優しいのに、不思議だ)
素朴な疑問だった。
一緒に長い時間働く仲間が優しいなら、居心地が良くて続けて働いてくれるような気がするけど。
何か理由があるのだろうか?
ジョイを見ると、ジョイは作業場の方を今は片付けている。
掃除はもう終わっているからあとは収納するだけだ。
大事そうにチャリオットを抱えて、おそらく定位置だろう棚にそっと置いている。
そのままチャリオットの前で止まっているけれど、話しかけているのだろうか。
チャリオットは人形に戻った後、そのまま沈黙している。
(力を奪おうとした事は許せないけど……)
のぞいてしまったチャリオットの過去は、いい気持ちになるような過去ではなかった。
その後のチャリオットを見ていると、抱えたものを必死に受け止めようとしてるように見えて、何も言えなくなってしまった。
そしてチャリオットはジョイに人形作家で在る事を勧めて、人形に触れ続けた方がいいと、ジョイの気持ちに寄り添おうとしていた。
チャリオットはジョイの現状をわかっているのだろう。
自分の発言に驚くジョイに、チャリオットは優しく笑ったんだ。
(本来はきっと、優しい子なんだろうな)
笑顔がすごく、柔らかかった。
見ていると、こっちまで笑顔になってしまいそうな、そんな笑顔だった。
外には見せないけど苦しんでいるジョイの姿を知っているからこそ、チャリオット自身の言葉に心を震わせるジョイに、希望を見たジョイに、自然と心が喜んだんじゃないだろうか。
(チャリオット、か……)
決意を込めた目で伝えてきた名前。
どんな心境の変化があったのかは本人しかわからないけど、それが優しい変化なら嬉しい。
ジョイはチャリオットに話しかけながら、どんどん片付けを進めている。
(……もしかしてチャリオットって、ジョイの友達?)
なんだかそんなふうに見えて、笑ってしまった。
単純に、嬉しいよね。
私なら嬉しい。
そう思ったらすごく微笑ましくて、にこにこしながらジョイの作業を眺めてしまっていた。
そうこうしていると、カラン、と呼び鈴が鳴った。
「ティアちゃん、お疲れ様!」
振り返ると、大きな紙袋を両手に持ったクリスが爽やかに笑っていた。
「クリスさん! お疲れ様です!」
呼び鈴が聞こえたからか、ジョイが奥から現れる。
「クリス、おつかれ」
「ありがとう、ジョイもお疲れ様。これ頼まれてた日用品」
「助かる」
「クリスさん、ありがとうございます」
「いいわよぉ。簡単に揃えたつもりだけど、思ったより結構量があるのよね。ジョイ、運ぶのは手伝ってあげてね」
「わかってる。ありがとう、クリス」
そう言いながらクリスはどさりとたくさんの大きな紙袋を置いた。
ジョイに紙の束を渡しながら、ふう、と一息つくクリスは、やり切った達成感からかとても満足そうだった。
ジョイは紙袋を作業場の方に持っていく。
クリスがそんなジョイから視線を外して、きらきらした目をこちらに向けてきた。
「久しぶりにめちゃくちゃ買い物して、最高に楽しかったわ。自分の物じゃないんだけど、最近ずっと職場と家の往復だし。ティアちゃん、今度一緒に買い物行かない?」
「え?」
「仕事はもちろん大好きだけど、小物とか可愛い生活用品を見るのも好きなのよね」
そう言って、クリスは本当に楽しかったみたいで嬉しそうに目を細めて、心がほくほくするような笑顔を浮かべた。
「買い物は、行ってみたいですけど……」
でも、どうしたらいいんだろう?
自由に動いていいのかわからないし、お金も持っていない。
今の私が買い物に行くなら、誰かに出してもらわないといけなくなる。
「私はお金を持っていないから……」
ジョイにもクリスにも、迷惑をかけたくない。
断るのはすごく申し訳ないけれど、誰かに迷惑をかけてしまう今は買い物に行く事はできない。
そもそもこの日用品もジョイかクリスに借金する事になる。
そう考えたら、胃のあたりがずん…と重くなった気がした。
「あー、そっか。じゃあ今度うちで遊びましょう。お茶でもする?」
「クリスさんの家ですか?」
「そう。お泊まりでもいいわよ? 明後日休みだし」
「いいんですか?」
驚いてクリスを見る。
クリスは自分のひらめきに、目を更にきらきらさせ出した。
自分の発言に興奮したのか頬を染めて、もうそれしかないって思っているのが顔に出ている。
「そう。私、憧れてたのよね? お友達とのお泊まり会」
あれ? お泊まり会に決まった?
「学生の頃はそういう環境じゃなかったし。大人になって色々自由にできるようになったけど、もう大人になったら、みんなそれぞれの生活があるのよね」
クリスはそう言って、店の窓から見える日が沈みかけている紺と赤が混じる空に目をやった。
店の前の通りは帰宅する人が増えて、人通りも増えている。
赤みがかかる光に照らされるクリスの横顔は、直前まで溢れさせていた少女のような雰囲気はなりを潜めて、少しだけ寂しさを滲ませている。
友達とタイミングが合わなかったり、すれ違ったりしたのだろうか?
「……ティアちゃん、パン好きでしょ?」
夕日に照らされたクリスがにやりと、いたずらっ子のように笑いながらこっちを見た。
愚問である。
「はい、大好きです!」
今朝もらったミルクパンの味は、もう忘れられる気がしない。
思い出したら思わず、頬が緩む。
「ふふ、じゃあ決まりね。――――ジョイ、そういう事だから、明日の夕方ティアちゃん迎えに来るわね」
「え?」
「了解。ティアにも知らない事があると思うから、クリスからわかる事があったら教えてやって欲しい」
ジョイは作業場から出てきて、茶封筒をクリスに渡しながらそう答えた。
「え? ……いいんですか?」
ジョイとクリスを見ながら、聞いてしまう。
自分がそんな事していいのか、わからなかった。
「もちろん。ティアの時間はティアのものだよ。自分がやってみたい事、楽しもう?」
「そうそう。少しずつでいいから、自分で自分の生活を、作ってみよ?」
ジョイとクリスはそう言って、優しく微笑んだ。
なんだろう。
見守られている? 認められている? そして、自由を促されている?
自分の好きなように楽しんでいいよって、許してもらえたような。むしろ許しすら要らないんだよって、言ってくれているような。
勝手に顔が笑顔になる。情けなく、緩んでしまう。
「平日やる事がないなら、うちで働いてもいいしな。自分で働いて、買い物行くのもいいかもよ?」
「そしてジョイは従業員を得る事ができて、一石二鳥と」
「そういう事」
ジョイとクリスは顔を見合わせて笑った。
そしてジョイは私を見て優しく微笑んだ。
「ティア、楽しんでおいで?」
「――――うん!」
何が起こるのだろうと、ドキドキする。
全部これから知っていけばいい。知って、楽しんでいけばいい。
ジョイはふっと嬉しそうに笑って、クリスを見た。
「クリスもな?」
「――ええ、ありがと」
そう言ったあと、クリスはジョイに頷いた。
そしてクリスはこっちを見て笑った。
「じゃあティアちゃん、また明日仕事が終わったらお迎えに来るわね。夕食も一緒に食べましょう」
「はい、わかりました!」
クリスは私に向かって嬉しそうに頷いて、ジョイの方を向く。
「夕食はジョイも来たら?」
「うーん、じゃあ行こうかな」
「オッケー。じゃあ母さんに伝えておくわね」
「よろしく頼む」
「まかせて」
クリスが扉を開けて、カラン、と呼び鈴が鳴る。
「じゃあ、また明日ね」
朝と同じようにクリスはひらひらと手を振って出ていく。
クリスの後ろ姿がルンルンしてるように見えて、なんだか私も嬉しくなった。
◇◇◇◇◇
次の日の朝、私は箒と塵取りを持って張り切って店先に立った。
店から出ると石畳の道が左右に真っ直ぐに走っている。
石畳の通りには少し遅めの出勤勢や、自分と同じ働いている人が朝の爽やかな空気の中活動している。
店から出て右手に少し進んだ先には噴水や花壇がある広場があり、朝の散歩や走っている人がちらほら見えた。
その空気に混じって箒を使って店先の道を履き始める。
私はジョイがうちで働いてもいいって言ってくれた事に全力で甘えて、働かせてもらう事にした。
図々しいかなって思ったけれど、やらないと何も始まらないし、とりあえずやってみる事にした。
何よりクリスと買い物に行くためにはお金が必要だ。
(ちょっと楽しみでも、あるんだよね?)
働くって、どんな感じなんだろう?
どんな事をするんだろう?
ジョイの店はきっと色んな人が来る。色んなものが来る。それってたくさんの出会いがあるって事。
どんな出会いがあるのか、そう考えるとちょっとドキドキしてしまう。
クリスは仕事に恋してるってジョイが言っていたし、働く事って楽しいのかもしれない。
箒で店先を掃きながら、履くたびに薄っすら明るくなっていく店先に心が弾んだ。
「おはよう」
「おはようございます」
綺麗になった道ににまにましてたら声をかけられる。
反射的に声の方を向いて挨拶を返す。
そこには優しげな雰囲気の女性が微笑んで立っていた。
明るいブラウンの髪をひとつにまとめて、動きやすそうな緑のワンピースの上に柔らかい色合いの桃色のエプロンを着ている。
「あなた、レーベンさんのところに新しく入った店員さん?」
「あ、はい、そうです」
「私、隣で花屋をやっているの。ユイリ・リーヴァと言うわ。よかったらユイリと呼んで? よろしくね」
「はい、私はティアと言います。こちらこそよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる。
顔を上げるとにこにこしたユイリの笑顔が目に入った。
笑うと目尻に皺がよって、ほっとして包み込むようなあたたかさが滲む、そんな笑顔だ。
「しばらくレーベンさんは人を雇っていなかったみたいだけど、どうしてレーベンさんのところに?」
少しだけ神妙そうに、ユイリはそう言ってきた。
(えっどうしよう。細かい事決めてない。でも全部言わない方がいいよね)
というか、何も知らない人に言いたくない。
「えっと、うまくは説明できないんですけど、たまたまお互いの事情が噛み合って、ここで働かせてもらう事になりました」
すっごく豪快に誤魔化したけど、うまく、説明できているはずだ。
自信はない。
「たまたま? もともと知り合いなの?」
「最近知り合いました」
「最近?」
ユイリは疑問符でいっぱいの顔をして首を傾げている。
私は顔はがんばって笑顔を繕っている。
でも内心どううまく言えばいいのか焦りでいっぱいで、頭は高速回転中だ。
ダラダラと変な汗が流れている気がする。
「はい、えっと、お互いの趣味が合って」
「お互いの趣味?」
ユイリの疑問が深まったのか、今度は逆方向に首を傾げている。
なんかすっごくだめな方向に向かってる気がする。
私の頭、ちゃんと働いてる?
「えっと…………実は私、人形が、好きなんですよね? ちょっとそれ関係で知り合ったんです」
ジョイは人形作家だ。人形が好きだ。絶対に間違いない。
この理由めっちゃいいでしょ。
私は天才だった。
すごいぞえらいぞ、私の頭脳。
「そうなの? たしかにレーベン一家はみんな人形が大好きだから、気が合いそうね」
ふふっとユイリは嬉しそうに目を細めて笑った。
「がんばってね」
「はい、ありがとうございます」
にこっとユイリに笑い返す。
そしてちゃんとこの場を乗り切れた自分に胸を張る。
レーベン一家とユイリは言っていたけれど、ユイリはジョイの家族と仲が良かったのだろうか?
「ユイリさんは、ジョイの事もよく知ってるんですか?」
「ええ、子供の時から知ってるわ。お母さんのノエリアと友達だったのよ」
「え、そうなんですね!」
「子供の年齢も近かったから、よく一緒に遊んでもらってたの。うちの子は今遠くの街に行ってしまってるけど、やっぱり子供たちの事は親として心配になるわよね?」
「あ……」
ユイリの言葉にジョイの両親が事故で亡くなってしまった事が頭を過ぎる。
ジョイの悲しみに触れて、その悲しみの深さを思い出して、胸が苦しくなった。
私の反応から、ユイリは察したようだった。
寂しげに笑って、小さく頷いた。
そして私に少し近づいて、私の耳元で小声で言う。
「ノエリアの代わりにはなれないけど、少しでもジョイ君が幸せに過ごせるように、遠くから見守ってるの」
「そうなんですね……」
ジョイは、気がついているだろうか。
ジョイを尊重しつつ、それでもジョイの未来が良くなるように見守ってくれている存在がいる事を。
見返りなく、ただ、ジョイのためにそうしてくれている存在がいる事を。
(ジョイ……)
ここに、優しさがあるよ。
すぐにでもジョイに話したくなる気持ちを抑えて、ユイリを見る。
ユイリに目を合わせると何かを私に求めるようにじっと見つめて、寂しさを漂わながら、それでも優しく微笑んだ。
「ええ。ティアさんは、素直でとても優しそう。長く働ける事、願ってるわね」
「はい……ありがとうございます」
私は目を合わせて、ゆっくり頷きながらお礼を言う。
ふっと空気を緩めてユイリが離れた。
その時肌に触れている空気が震えた気がした。
(――――――?)
感覚で探っても、何かは掴めない。
なのにふっと足元が浮くような、そんな感じがする。
何かあると思って辺りを見回す。
「ティアさん、どうかしたの?」
急に様子が変わった私に疑問に思ったユイリが聞いてくる。
「整備不良だって」
「珍しいな?」
何かがある気がする、私がそう言う前に、近くを通り過ぎていく男性達が話す声が飛び込んできた。
声の方を見ると、おそらく出勤中なのだろう。きっちりした見た目の男性達がそのまま通り過ぎていく。
(――――整備不良?)
私は男性達が歩いてきた方向に視線を滑らせる。
噴水や花壇のある広場に何か黒い四角い機械が止まっている。その機械は細長い黒い煙を出していた。
ユイリが私と並んで私の見ている方向を見る。
「あれは……汽車ね」
「汽車、ですか?」
そんなものが人間の世界にはあるんだ。
もしかしたら私が眠っている間に科学が進んで作られたものなのかもしれない。
よく見ると広場に所々黒いレールが見える。広場に沿うようにレールが作られているのだろうか。
広場に止まっている汽車の周りには小さな人だかりができていた。
「汽車が整備不良でしばらく止まるみたいね。こういう事は滅多にないけど全くない事でもないし、事故が起こってるわけじゃないから安心していいと思うわ」
「そうなんですね」
何もなくてよかった、そう思う。
でも何か惹きつけられるように、なかなか視線が離せなかった。




