抱きしめられなかった心を
「今日街で聞いたんだ」
ぽつりとこぼされた言葉は小さかったけど、今でもはっきりと覚えてる。
くたびれた服を着て夜空を窓から見上げる幼い横顔に、いつもとは違う感情が宿っている事も、しっかり記憶に残ってる。
昼間人目がある所では異様に綺麗な服を着ているのに、こうやって人気がなくなった途端、住んでる世界が変わったように身なりも表情も態度も、何もかもが変わる。
さっきまで楽しそうに遊んでいたおもちゃや人形には目もくれず、そのまま部屋に散らかしたまま。
お絵描きしていた紙や道具もそのまま、絵本も人目がなくなった途端興味をなくし、放置している。
こうやって誰もいなくなった一人の時間は、さっきまでやっていた事を全部投げて、俺に話しかけてくる唯一の時間だった。
「大通りでタロット占いしてもらってる人がいたんだけど、その後ろを通り過ぎる時に聞こえたんだ」
まだ幼い女の子。あどけなさが残る顔をしてる。
それでも雰囲気はどこか大人びて、俺の知らない何かを持っている子だった。
俺以外の人間に向かって話す時とは全く印象が違う。
静かで、知性を感じる。
窓から見える満月がより、彼女の奥深さを照らし出しているように思えた。
「苦しくてもう一歩も動けない……そう思っていた場所に突破口が現れる。でもそれは自然に起こるものじゃなくて、“強い意志”によって開かれる道だって」
彼女はそこまで言って、ふっと笑った。
満月を見つめていた瞳をこっちに向ける。
月灯に照らされる髪と同じ優しい色合いのブラウンの瞳が艶めくように輝いている。
「そのカード、“戦車”って言うんだって」
少し弾んだ言葉に、無邪気な調子で言う彼女。
その顔は、雰囲気とは裏腹に真剣そのものだった。
――――――それで?
その続きが聞きたかったのに、彼女はどんどん遠のき、後ろ髪を引かれるように現実に引き戻された。
耳にわいわいと話している声が聞こえてくる。
震える重たい瞼をゆっくりと開ける。
(――――工房?)
見慣れた白い天井が視界いっぱいに広がっている。
何度か瞬きを繰り返して、ぼやける意識をはっきりさせようとする。
目を閉じれば、まだその向こうには女の子の真剣な顔が浮かぶ。
(……もしかして、これが夢か?)
人間がよく言う夢を見たってやつ?
(人形も夢なんて、見るんだな)
あいつ――ティアから飛び出してきた帯のような力に拘束されて力を奪われて、更に意識まで奪われていたみたいだ。
まさか自分が、人間の言う夢というものを体験するとは思わなかった。
しかもその夢が、自分の過去に関するものだった事に驚いた。
手で顔を覆おうとして、手がまだ痺れて動けないことに気づく。
(あの帯、容赦なく力を奪っていったな……)
まだ帯の影響が残っていて動けない。
もう少し時間が経ったら動けそうな気はするけど。
それまではもう少し、この床がベッドだ。
(久しぶり、かもしれないな)
硬い床の感触。それはよく知っているものだった。
小さく息をつく。
色んな思いが頭の中を、心の中を埋め尽くしている。
ティアにも言ったように、自分の意識が固定化されたのはついさっき。
こうやって思考が回り始めたのもついさっきだ。
ティアに覗かれてしまった俺の記憶も、俺自身の頭ではっきり記憶しているものじゃない。
でもそれは確かに、知っている記憶だった。
確証はないけれど、人形の体に刻み込まれた記憶なのではないだろうか。だから記憶自体がブツ切れで曖昧なんじゃないのかと思う。
(名前は…………思い出せない)
夢の少女は、最初の持ち主。
出会いは父親と親子ごっこをしている時に、たまたま買われた。
本当にきっかけは些細で当たり前のように見えるものだった。
(――――その時に、こんなふうに意識がないって言ってもな……)
意識がはっきりしてさっきの今で受け入れるには重くて、逃げるように目を閉じる。
夢で見た真剣な表情の少女がどうなったのか、俺は、この体は知っている。
柔らかい女の子の体が衝撃に耐える瞬間も、うめく瞬間も、体の中が壊れる感触も、流れる血の温かさも、失ったものの冷たさも、俺は知ってる。
心が悲鳴をあげて、泣いていた事を知ってる。
自分の体が、自分の心が、生々しい傷を持っているように錯覚する。
その傷に触れてしまわないように、ゆっくり細く、慎重に息を吸って、吐いた。
(――――――突破口に、“戦車”ね)
そこに込められた願いに、気づかないほど馬鹿じゃない。
彼女の辛い時にそばにいた? 彼女は一人じゃなかった? 寂しくなかった?
(はっ)
自分の無力さに、反吐が出そうになった。
そんな自分から、彼女から逃げるように、もう一人の少女について考える。
彼女に至っては、最初の持ち主の少女よりさらに記憶が曖昧だった。
多分俺は最初の持ち主が亡くなった後捨てられたんだと思う。
気がついた時には、次の持ち主――ぼろぼろな姿の彼女と一緒に過ごしてた。
よく居たのはすごい臭いがする場所で、そこにいるだけで体を壊すのではないかと思うような寒い場所を好んで過ごす事が多かった。
少しでも物音がしたら飛び起きて、隠れたりもしていたような気がする。
時には人影に怯えて場所を変えて、寝ない日だってあった。
人が怖かったのかもしれない。
震える彼女の腕を、覚えてる。
(……川にも入ってたな)
雪でも降るんではないかと思うそんな寒い日に、冷たい川に入って体を洗っていた。
川の水は少し濁っていたけれど、それでも人目を避けるように隠れてる場所にそっと届く陽の光はあたたかくて、水面や滴る水をきらきらと輝かせていた。
川の中にうずくまる彼女も、髪も、服も、そんな中にとけていくようだった。
(――――この子も何か辛い目に……あってたのだろうか……)
正直、辛くないわけがないと思っている。
人が住むには劣悪な環境に居る理由、わざわざ寒い日に川に入る理由があるはずだ。
傷だらけで顔だって腫らして、汚れるから抱きしめられないなんて、まだ子供の彼女が言う理由なんてない。
子供の彼女が静かに溶けるように亡くなってしまう理由なんて、あっていいはずがないんだ。
掴んでいるようで、何も掴めていない。大事なものを盛大に見逃してるって、そんなやり切れなさがずっとある。
自分にはやるべき事があるのではないかって思いが、ずっとある。
(――――――わからない)
もやもやを吐き出すように大きく息を吐いた。
視線を横にずらせば、ティアが一生懸命に店を掃除しているのが見えた。
ジョイは散らかった物を確認して箱に入れ、ひとつにまとめている。
当たり前の光景。
ティアの力は規格外だが、やっているその行動は平和な日常そのものだ。
その光景が、自分にはひどく現実離れしているように思えて、自分は何をしているのだろうかと虚しくなった。
白い天井をぼんやりと見つめる。
――――規格外なのは力だけじゃない。
ティアの力を奪おうとした時、今度は逆にティアの過去を見てしまった。
逆光で歪でぼこぼこしたシルエットが見えた。
なんだこれ、と思って上の方から突き出しているものの細部に目を凝らすと、それは自分でも見慣れた人形の左腕の部品だった。
おそらく身体中の部品が劣化していて、関節はほんのちょっとの刺激で特に壊れやすくなっていたのだと思う。
関節が壊れてしまった見慣れた部品、自分の左腕を咥え、稼働している右腕と左足でそこに立つ“ティア”がいた。
前から突風が吹いてたなびく髪だった束に、体の部品に引っかかっているおそらく服であった布。
正面からまっすぐに突風を受け止めて、それでも彼女の体は揺らぎもしない。
ティアは後ろを見なかった。
前しか見ない。その見ている前すらも刹那のもので。
それでも歓喜で震えてる、ティアの姿を垣間見ていた。
ティアが自覚なく振り回している暴力にも思えるその力を自分のものにできたら、そう思った。
たしかにそう思って、怒りに任せてティアの力を奪おうとしたのに。
――――じゃあ俺は、どうなんだ?
そんなふうに、思ってしまったんだ。
ただ前を見て立つ、人間にも人形にも思えない後ろ姿と、今の自分の姿を比べてしまった。
その時のティアの想いを想像して、今の俺は、一体どう見えるんだろうかと思ってしまった。
自分で何かを成そうとするわけじゃなく、目の前にある力を奪おうとしている。
それは過去、俺を大事にしてくれた持ち主を苦しめた存在と、何も変わらない行いなのではないか。
そんな自分が、ただ立っている後ろ姿に勝てるのかと、自分に聞いてしまっていた。
だから俺の力の渦の中でただこちらを静かに見つめるティアのその一瞥だけで、俺は揺らいだ。
――――自分の胸の奥にある弱さに、気づいてしまった。
結局俺の想いなんて、そんなものなんだ。
ティアはジョイに汚れた雑巾を見せて楽しそうに笑っている。
何も知りませんよって、そんな顔をして。
(ほんと、何者なんだよ……)
その疑問はずっとついて回るけど、それでも、もう怒りはわかなくなった。
俺は天井を向いて、両手で目を隠した。
胸の奥が熱くて苦しくて、でもそれを出したくなくて深呼吸を繰り返す。
俺と同じ人形で、それ以上でもそれ以下でもないって言っていたけど、だからこそわかる違いが見えてしまった。
「あっ」
声が聞こえた方向に目をやると、作業場に入ってきたティアが目を見開いてこっちを見ていた。
目が合うとティアは目を泳がせ始めた。
「…………絶対存在を忘れてただろ」
「……そんな事、ないよ?」
「まあ、いいけど」
俺は雑巾を握りしめてこちらを警戒してるティアを放置して、痺れがないか確認しながらゆっくりと体を起こしていく。
ティアの過去を垣間見ただけで、刺々する気力がなくなってしまった。
たとえ力を奪い取ったとしてもきっと俺自身が納得できないし、そもそもティアに正面から力で勝とうとする事自体が無理だ。
ティアからすれば手のひら返しがすぎて何が起こったのか理解ができないかもしれないけど。
足の痺れも取れた事を確認して、立ち上がる。
「えっ!?」
声が聞こえてきた方を見れば、今度はジョイがこっちを見て驚いていた。
おそらくここで立ち往生してるティアを心配してきたんだろう。
(そこまでしなくても、ティアなら大丈夫だと思うけど)
実際俺はティアに容赦なくやられたし。
小さく息をつきながら、ジョイの過保護気味な姿に呆れの視線を送る。
なんとなく裸のままは落ち着かなくて、床に落ちている制服の白いシャツを拾って羽織った。
(まあ、ジョイはもともと心遣いが細やかだけど)
少しだけ違和感が走る左腕に袖を通しながら思い出す。
ここのところ毎晩、ジョイは左肘の関節を調整しようとしていた。
いつも途中で手が痙攣して中断してしまっているけど、俺の左肘は本来なら完成として扱われてしまうものなんじゃないかと思う。
もう結構長い期間修繕してもらっているけど、ジョイはいつも丁寧に俺に触れてくれていた。
「えっ……誰? どちらさま?」
ジョイは俺を見て、俺とティアに問うように言った。
俺は名乗る気になれなくて襟を整えながら静かに見つめ返した。
ティアはそんな俺の様子を気にしているが、それにも応える気にはならなかった。
ティアはわからないというように首を振る。
「でも、ここにあった人形だよ」
そう言ってティアは作業台を指差した。
「えっ!?」
ジョイは驚愕の表情で俺を凝視した。
そしてジョイは辺りを見回して、青ざめる。
ジョイは作業台にたしかにあった人形がなくなっている事に、今気づいたのかもしれない。
(依頼された人形がない事に気づかなかったのは、たしかにプロとしてやらかしてるかもしれないな)
まあ、ティアの力が一瞬爆発した事で全部が吹き飛んでるから、気づかないのはしょうがないようにも思う。
ジョイは自分を落ち着かせるように深呼吸してティアに問いかけた。
「……人形って、そんなひょいひょい人間化するの?」
「いや、普通はしないんだけど……」
ティアが俺をチラリと見てくる。
(信じてないな)
ティアが訝しげな表情で俺が何を考えているのか探ろうとしている。
俺が強制的に人間化させたと言った事を気にしているんだろう。
その後の俺の行動で、さらに信用がなくなっているのかもしれない。
でも。
「強制的に人間化させられたのは、事実だぞ?」
「…………そんな」
そう言うと、なぜかティアは衝撃を受けたような顔をした。
ジョイはそんなティアを見て苦笑している。
そのやり取りはなんだか、二人しか知らない何かがあるように思える。
(――――あれ?)
ふと、思った。
ティアが来て意識が急速に固定化されたなら、普通ならジョイに関する記憶は薄いような気がする。
二人の持ち主の記憶は自分の中で衝撃が大きいものが残っているような気がするから、なおさらジョイの記憶は残らないように思う。
――――そもそも俺の“依頼者”って誰だ?
「――――もしかしたらジョイも、関係あるかもしれない」
「え? 俺も?」
「可能性の話だけどね。俺、ジョイに修繕されてる事はよく覚えてる」
「…………あんまり嬉しくない」
ジョイは視線を逸らして、そう溢す。
そんなジョイに内心頷いて、触れずに続きを話す。
「もしかしたらジョイは、人形作家になるべくしてなったのかもしれない」
俺がそう言うと、ジョイは驚いたように顔を上げた。
なんとなくその顔を見ていると笑みがこぼれた。
――――俺は知ってるんだよね。
ジョイが、人形が大好きな事を。
本来ならずっと、人形に触れていたい事を。
「だからジョイはなるべく、人形に触れていった方がいいよ」
才能とか心の傷とか、そういうしがらみを全部無視して、ジョイは人形に関わっていった方がいい。
好きなのなら、なおさら、そうしていった方がいい。
毒気が抜けたような顔をして、ジョイはふっと笑った。
「わかった。ありがとう」
柔らかく笑うジョイの笑顔に、心がぎゅっと握りしめられた気がした。
ジョイがまぶしくて、目を細める。
――――自分にこんな真っ直ぐさがあれば、違ったのだろうか。
人間化すらできないのに何が変わったのかって話だけど、俺を大事に思ってくれた持ち主達に、自分は少しでも何かを、返す事ができたのだろうか。
ぎゅうっと胸元のシャツを握りしめる。
――――返したかった。
なんでもいい。何かを、少しでも渡せていたなら。
少しでも優しい時間を、過ごせていたなら。
顔がぐしゃりと、歪みそうになる。
触れないようにしていたものに、触れてしまいそうになる。
「――――なあ」
「え? 私?」
「寒いのに……なんで川に入って、体を洗うと思う?」
ティアに向かって問いかける。
どうしてティアに聞いてみようと思ったのかわからない。
でも、なんでか、ティアなら何か答えをくれるような気がした。
ティアは少し悩んで、こっちを真っ直ぐに見た。
「綺麗にしたいから、かな」
「――――――そっか。ありがとう」
汚れるから抱きしめられない。
そう言って笑った二人目の持ち主の彼女が、目に浮かんだ。
胸が、苦しい。
シャツが破れるのではないかと思うほど握りしめ、ティアとジョイの間をすり抜けて、作業場にあるドアに向かう。
心の奥の方にある触れないようにしていたものが、苦しいって、言ってる。痛いって、言ってる。
“ここにある”って、言ってる。
綺麗にしたくて川に入って、汚れるから抱きしめられない。
それって綺麗にしたいから川に入っていたんじゃなくて、“綺麗になりたい”から、川に入っていたって事。
自分の存在を綺麗じゃないと思ってるって事。そう思わされてしまってるって事。
作業場のドアを開けて雑草だらけの庭に入る。
今は誰にも、触れられたくない。
ギリッと、歯を食いしばる音が頭の中に響く。
睨みつけてる地面に、叩きつけられるように水滴が落ちる。
誰がそう決めた。誰がそう、思わせた。誰がそんな、傷を負わせたのか。
愛されていいんだ。何もせず、そのままでいい。そのままで、愛される存在なんだから。
心の奥から、熱いものがどんどん溢れてくる。
ああ、どうして、その時気づけなかったのか。どうして動けなかったのか。どうしてもっと、守ってあげられなかったのか。
どうして。どうして。どうして。
せめて、その心を、守りたかった。
――――――あの子達の真っ直ぐな笑顔が、見たかった。ずっと。
両手で顔を覆って、空を仰ぐ。
指の隙間からぼろぼろと、涙が溢れる。
後悔ばっかり、あふれる。
どうして俺は、こうなんだろう。
どうして俺は、何も守れないんだろう。
(それなら――――せめて)
涙を拭いて、工房の方を振り返る。
心配そうにこっそり見守っているティアとジョイが、急に振り向いた俺に驚いている。
それならせめて、もらった名前に相応しいように生きたい。
二人が込めてくれた願いを叶えられる、そんな存在でいたい。
「――――チャリオット。俺は、チャリオットだ」
俺は“戦車”として生きる。
“戦車”で、在り続ける。
「ああ」
「うん、よろしくね」
そう言って、二人は笑って受け入れてくれた。
頷いて、よろしくと返事をしようと思ったら、頭の中にキンッともともと組にして使う部品がはまったような金属音が響いた。
「え?」
驚きは言葉になったのだろうか。
金属音の後ブォンと小さく風が起こるような音がしたと思ったら、しゅるしゅると音を立てるように体から力が抜けていき、あっという間に人形に戻ってしまった。
今はまだ早い。
そう、言われるように。
(――――これも、いいかもしれない)
拍子抜けにも思える。
だけど今は、この気持ちに、彼女達の気持ちに、寄り添いたいと思った。




