栞の眠る引き出し
置いていかれる痛みには慣れない。
それでも忘れられない。
昼か夜かもわからない。
目を開けているはずなのに、部屋はまるで夢の底みたいにぼやけていて、輪郭を失っていた。
ソファの下に落ちた携帯は、もう何日もそのままだ。通知音は一度も鳴らないし、誰も私を呼ばない。
いや、私もまた、誰にも触れられたくなかった。
右手には、しわくちゃになった一枚の栞だけが残っていた。
あの人がくれたわけでも、私のものでもない。たまたま、同じだった。ただそれだけの紙切れ。
でも、私はそれに、しがみついていた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彼と出会ったのは、私がアパレル店員を始めた頃に、ヘルプで入った他店舗のバックヤードだった。
最初は他愛もない挨拶程度。声が小さくて、猫背で、だけど服を畳む指先は、異様に丁寧だった。
ふと、彼のバッグの中に見えた本。
その隙間から、どこかで見覚えのある栞が顔をのぞかせていた。
古本屋でよく挟まれている、くたびれた紙の栞。
裏には「おすすめコメント」みたいな手書きの文字があって、読み終えてもなぜか捨てられなかったやつ。
「それ……」
気づけば、私は声をかけていた。
それが、すべての始まりだった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
彼は恋愛小説を読む人だった。
眩しいほどの純愛も、静かに胸を締めつける別れの話も、どれも柔らかく語るその声が印象的だった。
私はといえば、ミステリー一辺倒だったから、最初は戸惑いを隠せなかった。
「現実味なさすぎて、苦手なんです」
そう言った私に、彼は優しく笑った。
「でも、それを言ったらミステリーも、けっこう現実離れしてるでしょ?」
その言葉に、思わず口元が緩んだ。
たしかに、と頷きながら、本棚から彼の勧めてくれた一冊を取り出した。
読み始めた頃は、ただ彼に話を合わせたくて。
でも、彼が物語を語る時の、あの目の輝きが忘れられなくて。
いつの間にか、私はページをめくる手を止められなくなっていた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
なのに、ある日を境に、彼は突然いなくなった。
LINEには既読がつかない。電話も出ない。SNSは凍ったように止まったまま。
いても立ってもいられず、職場を訪ねてみた。
けれど返ってきた言葉は、「彼なら、2ヶ月前に辞めたよ」のひと言だけだった。
耳鳴りがした。
私と過ごしていた日々は、幻だったの?
胸の奥が、ゆっくり、じわじわと崩れていった。
どうして?
私の、どこがいけなかったの?
また誰かに、置いていかれた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
そのあとは、ほとんど覚えていない。
何日も眠っていたのか、それとも目覚めていたのかもわからない。
食べた記憶も、誰かと話した記憶もない。ただ、右手に栞を握りしめていた。
それだけが、私と彼を繋いでいた“証拠”だった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
半年が過ぎて、私はアパレルを辞めた。
夢も目標もなかった。ただ、じっとしているのが怖かった。
紹介されたバーで働き始めたのは、ただの流れだった。
それでよかった。意味なんて、もう求めていなかった。
私はいつものように、見慣れたドアを開けた。
カウンターの隅に、彼がいた。
隣には知らない女性。二人で、笑っていた。
心臓が、一瞬で凍りついた。
「これは夢?」と思った。でも口には出なかった。
あの時の笑顔も、声も、優しさも、ぜんぶ嘘だったんだと、思いたくなかった。
私は、逃げるように店を飛び出した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
無我夢中で走った。
玄関のドアを閉め、引き出しの奥から、栞を取り出す。
彼のものでも、私のものでもない。ただの紙。
それでも私は、それを大事にしまっていた。
でももう、いいや。
あの人は、私を救ってなんかいなかった。
ただ、通り過ぎただけだった。
私は、その栞をゆっくりと二つに折り、ゴミ箱へと投げ入れた。
そこから先の記憶は、もうない。
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目が覚めた時、世界は少しだけ、明るかった。
カーテンの隙間から漏れた光が、まぶしくて、少しだけ目を細めた。
私はゆっくりと、ベッドを抜け出す。
鏡の中の私は、たしかに前と同じ顔をしていた。
けれど、何かが少し、変わった気がした。
彼のことも、消えたいと思った夜も、なかったことにはできない。
でも、今日はほんの少しだけ、息がしやすい。
栞はもう、どこにもない。
でも、私の手は、たしかにここにある。
最後まで読んでくださってありがとうございます。