アイツちょっと可愛くない?
好きな子に手間暇かけた意地悪しちゃう男とハイパー鈍感女のお話です。
「あっ」
てん、と消しゴムが机から落ちる。
やけに元気よく跳ねた先を追って、志乃はムムと唇を曲げた。隣の席の男が飛び上がった落とし物を大きな手でキャッチしたが、そのまま返すでもなく背を丸めたからだ。
見たぞ、丸まる前に意地悪そうにこっちを見たのを。なんだそのいやらしく弧を描く目は。
「ちょっと、遠坂、返してよ」
「まあ待てって」
授業中であるから高々と罵るわけにはいかない。教師の目を盗んで何度か脇腹をつつくが堪えた様子はなく、何やら楽しそうに右手を動かしているようだった。
「ホラよ、近谷」
放物線を描いて投げられた消しゴムを両手のお椀でキャッチする。シンプルだったカバーには、可愛らしくデフォルメされたネコちゃんが駆け回っていた。
なんだこれは腹立たしい。画伯と呼ばれる志乃を馬鹿にしているのだろうか。このお昼寝するネコちゃんの気の抜けた顔。スマホの待ち受けにしたい。
「じゃあ、ここを近谷」
「エッ!」
全然聞いてなかった。顔を青くして隣を見ると、隣の席の男、遠坂晴馬はすまし顔で教科書を読むフリをしている。
「ごめんなさい、聞いてませんでしたけど遠坂クンも教科書反対向きだし聞いてないと思います!」
「自爆巻き込みとかウッソだろ。センセー、おれ反対向きの方が頭に入るんス!」
ざまあみろ、一人で死んでたまるものか。
往生際悪く騒ぎ立てる晴馬に、教師のこめかみに立った青筋が深まった。
それが授業終わり間際だったのは幸いだったのか不幸だったのか。チャイムが鳴っても廊下で説教の延長戦を受け、昼休みを半分終えるまで志乃たちが解放されることはなかった。
「もー、あのバカのせいで!」
残り少ない時間で弁当をかき込む。
晴馬は昼飯を調達するところから始めなければならなかったらしく、心底焦った様子で購買へ走っていった。バカの不幸で飯がうまい。もっと優雅に昼食を食らえたら数倍おいしかったに違いない。
「まーた遠坂にちょっかいかけられたの」
「そう! 見てこれ!」
出しっぱなしの筆箱から、まだ新しい消しゴムをそっと取り出す。
「え、アイツ絵うま」
「インクがまだ乾いてないかもしんないから、持つときカドのとこにしてね」
「気に入ってるじゃん」
「おもろ」
かわいー、と言いながら友人たちが写真を撮る。後でその写真を検閲させて欲しい。一番うまく撮れた写真を待ち受けにするので。何を隠そう、志乃には芸術的センスが皆無なのである。
紙パックのジュースを行儀悪く音を立てて飲み干した元気可愛い属性の友人である鈴子が、志乃のスマホで勝手に写真を撮りながら呟いた。
「最近毎日じゃない?」
「遠坂のちょっかいね。昨日は貸したノートに落書きされたんだっけ」
「そう! 見てこれ!」
蛮行の履歴は共有するに限る。なぜなら堂々と愚痴を言えるようになるからだ。
「うわ何コレ」
「ぶあつ」
涼やか綺麗系の友人である沙織が、ドン引きしながら白魚の指でたどたどしく紙を捲る。
どうしてもと言うから貸した志乃の歴史のノートは、無残な姿で返ってきた。下側だけ厚みが二倍。おまけに少し飛び出しているから、非常に捲りにくい。一枚一枚丁寧に、寸分違わぬ位置に付箋が張られているのだ。
そして全ての付箋にはなんと、適度に抜けた絵柄の可愛いネコちゃんが描かれている。
なんとこの付箋、パラパラすると可愛い可愛いネコちゃんが元気に走るのである!
「酷くない!?」
「めちゃくちゃ手間かけててウケる」
「直接描かない辺りにワビサビを感じる」
「ねー、この辺最高に可愛い」
「アイツ才能あるわね」
「酷くない? こんな可愛いの動かせない!」
「剥がして纏めればよくない?」
「綺麗に纏まらなかったらネコちゃん死んじゃうじゃん!」
「めちゃくちゃ気に入っててウケる」
志乃は不器用なのである。剥がして纏めても、盛大にズレてネコちゃんがコースアウトしてしまう未来しか見えない。
ぐぬぬと唸っていると、ふと視界に大きな手が侵入してきた。
「なにやつ!」
「イテ。おれだよ、おれおれ」
不器用ではあるが爪の強さには自信がある。反射的に突き刺した不届き者は、すんなりと志乃の視界から逃げ出した。卵焼きをひとつ摘まんだまま。
「いただき。うん、うま」
「あ、あああー、私のカロリー! おのれ遠坂!」
「ホイ交換」
「む」
椅子を蹴倒したところで、購買で買ったと思わしきチョコ菓子が投げ渡された。
数秒考えて席に戻る。
「……ゆるそう。二度は見逃さんぞ」
「近谷、時代劇かなんかハマってんの?」
「アンタあんまりやりすぎると無礼討ちされるわよ。なんかバーチャル居合切りの練習とかしてるらしいから」
やられ役の練習しとくわ、と言いながら己の友人の輪に混ざる晴馬を鬼瓦の顔真似で威嚇し、食べ物のなくなった弁当箱をバッグにしまう。思わぬ食後のデザートができたので少し機嫌が上向いた。
「志乃さあ」
名前を呼ばれて顔を上げると、呆れた顔とニヤニヤした顔、二種類の表情に迎えられて眉を顰めた。
「遠坂のことどう思う?」
チョコを口に放り込む。ほどよい甘さにむにゃりと口を緩める。
「バカ」
「……まあ、そう」
「あってる」
「沙織ちゃんと鈴子ちゃんは好き」
「あたまえ」
「とーぜん」
心底呆れた顔になる沙織と、至極楽しげに笑いだす鈴子。
一体どういうことだろうと首を捻りながら、志乃は午後の授業に向けて、回していた机の向きを動かした。
遠坂晴馬は、まあまあ顔のいいバカである。
勉強は程々にできるタイプのバカだ。具体的に言うと、ほんと男子ってバカよね、とふんわり詰られる男の典型である。
掃除中の野球ごっこで窓を割るほどバカではないが、せっかく集めたゴミはうっかり散らす。水泳の授業で足を滑らせて水柱を上げる。本人的に格好良く学ランを崩そうとして教師に捕まる。一年のときの修学旅行では枕投げチャンピオンとなり、代表として怒られたと聞く。男子高校生の見本と言っても過言ではないだろう。いつでも男共の中心で笑って騒いでいるのが彼である。
志乃が晴馬を認識したのは二年生になってからで、まだ三か月ほどの付き合いだった。……まだ三か月か。それにしてはお互い遠慮がなさすぎんか。いや、こんなもんだったかな、一年のときのクラスメイトも。男子とそう喋る方ではないので、ちょっと距離の詰め方が適正かどうかはわからない。
まあとにかくだ。同じクラスになってから、晴馬は志乃にやけにちょっかいをかけにくる。
そのほとんどは些細な悪戯だ。ちょっとイラッとするけど、目くじらを立てるほどでもない。
髪をくくるリボンを取られたのが一番大きな悪戯だったが、三日後くらいに精緻で美しい刺繍を施されて戻ってきたのには感動した。
日常のそこかしこでツンとつつかれるようなちょっかいは少々鬱陶しくはあるものの、こういう不思議なリターンがあるから、言うほど嫌がっているわけではない。
とはいえ、なぜこうも執拗に志乃にちょっかいをかけにくるのか。
「何がしたいのかねえ」
「バカよね」
「それはそう」
どうしてこちらを見ながら言うのだ。バカは向こうにいるんだからあっちを見ろ。
「そういえば、志乃ってばまた告白されたんだって?」
「ハ!?」
それをあっちに向けて言えとは言ってない。
志乃に聞くべきことを暴投した沙織の声に、クソデカボイスが質量を伴って返ってきた。晴馬である。
「ち、近谷チャンまた告白されたの」
まあまあ顔のいい男に真正面から両肩を押さえられるとなんだか照れる。しかし晴馬にそうと悟られるのは癪に障るので、ツンと唇を尖らせて答えた。
「いや、されてないよ。好きな人いるのとか、俺とかどうとか言われただけで」
「なあ、この子の恋愛関係のミット壊れてっけど、毎度のことながら大丈夫?」
「絶望的に壊れてて繕えないから、伝えたいボールは直接手渡すしかないわよ」
「恋愛関係だけでもないし」
「家族全員素直すぎるせいで、言動の裏読みできないのよね」
「もしかしてバカにされてる?」
「ギリしてない」
精一杯不満を顔に出してはみるが、言動の裏読みが物凄く苦手なのは本当なので反論はできない。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。なんでも素直に伝える家庭で育った志乃は、両親を見習いすくすく真っ直ぐに育ったので、好きと言われたらそのまま受け取るし、嫌いと言われてもそのまま受け取ることしかできないのである。国語の感情読解テストにはこの世から消えていただきたいと常々思っている。
「誰」
ずいと顔を寄せられて目を逸らした先で、鈴子が首を左右に振っていた。
「そういうのはちょっと」
ヨシの合図を受けて満足をする。二週間ほど前にちゃんとした告白を受けた際にも同じやりとりがあった。覚えている。プライバシーなるものが尊重される昨今、ペラペラ素性を喋るのはよくないということだ。
「……そっか……ところでこないだの告白ってどうなった?」
「やっぱいいですって」
「そっか!」
にこりと笑ったかと思えば、ようやく肩が自由になった。
情緒が不安定だな。大丈夫だろうか。周囲に視線を走らせる様を見ながら心配する志乃とは違い、沙織は半眼で冷たく声を上げた。
「裏工作せずオメーも素直になりなよ」
「うっ……いや、心の準備が、まだ」
背を丸め、小さくなって去って行く。しょぼくれた姿を見送ってから友人を見ると、彼女たちはこちらを見ていた。
素直になれと声をかけた。それなら晴馬が素直になるべき対象は志乃なのだろうか。推測するに、ちょっかいをかける意味がそれとみた。
数秒悩んで、ネコちゃんが思い浮かんだ。丸いおててでチョイと人の足を掻く仕草。晴馬とネコちゃんでは存在値からして違うが、ちょっかいをかけるのが構ってくれという意味なのは同じだろう。ネコちゃんが構って欲しいと願うのは好意から。晴馬がちょっかいをかけてくるのも好意から。つまり、晴馬は志乃を、構って欲しいと思う程度には好ましく思っている。
……うん、嫌われてるわけじゃないのはさすがに知ってた。
「……?」
「頑張れポンコツ」
「今、もしかしてバカにした?」
「したかも」
素直に構ってくれと言った方がいい。そういうアドバイスだろうか。それはそう。もしかして嫌われてるのかな、なんて考えてしまう、志乃より純粋な子がいないとも限らない。
人間、素直であるべきだ。言わないと考えていることなんて正確に伝わらないんだから。
最近少し落ち込んでいる。
「こないだ告白してくれた人、やっぱり気にしないでくれって……」
「あら」
お断りしようと思っていた分際で高慢な話だが、いつもいつも好きの言葉を撤回されてしまうと、自分はよく見たら駄目なヤツなのかと思ってしまう。多分明日になったら、告白してくれたもう一人の男子生徒も好意を撤回してしまうのだろう。あといつも不思議なんだけど、どうして誰もかれもその場で返事をさせてくれないのだ。大変大変傲慢な言い方になるけれど、お返事のために呼び出すのも出向くのも手間がかかるし緊張するんだぞ。
しょんぼりとこうべを垂れる志乃を、優しい友人たちはよしよしと慰めてくれた。元気出た。他人の心のわからぬ愚か者でも好きだと言ってくれる人を大事にして生きていこう。
「……うまく立ち回れねーなら潰してやろうかあのヘタレ」
しみじみと熱い友情を噛み締めていた最中、突如、あたたかく抱き締めてくれていた沙織から地獄の釜の蓋が開くような声が出た。
デスボイスにビビり散らす志乃とは違い、背を摩ってくれていた鈴子は優しい声で語りかけてくる。
「ね、落ち込むことないよ。告白キャンセルしてくるの、アンタじゃないからさ」
「そうなの?」
なぜだか原因を把握しているらしい頼もしい友人に先を促す前に、地獄からの使者が身を離した。
「私に任せな……」
きみそんな渋い声だっけ。心なしか画風の変わった沙織は、力強く親指を立て、のしのしと歩んで行く。
その先には相変わらず志乃にちょっかいをかけ続けている晴馬の姿。何をするのかと見守れば、彼女は躊躇いなく晴馬の背面で、しなやかな両手を握り合わせて振り上げた。
余談ではあるが、一見おしとやかに見える彼女は趣味の範疇で格闘技が好きだ。見るのも、やるのも。
石をコンクリートにぶつけたような音が響く。いや嘘、少しだけ大げさ。
声もなく死んだ晴馬の片耳を引っ張り上げ、沙織は何かを囁いたようだった。床に伸びた死骸を置いて、クラスメイトの恐怖の視線を振り切り、地獄の使者から女子高生にジョブを戻した彼女はにこやかに戻ってきた。
「昼休みになったら遠坂のあとつけるわよ」
「なんか死んでるけど、あとつけられるほど動けるようになる?」
「まーいいんじゃない。虫よけに使ってた虫がいなくなるだけだし」
「なに……オニヤンマ……?」
晴馬が何を仕出かしたのかはわからないが、それにしてもやり過ぎだったりはしないのか。恐る恐る沙織に聞くと「仕出かした分の取り立てと、アシスト料の先払いだから」というやはりわからない返答をいただいた。
世の中の人たちって凄いな。恐らくこの会話を読み解けるのが普通なのだろうが、自分のような裏読み機能の搭載されていないポンコツには理解が及ばぬ。追々勉強していきたい所存である。
そして志乃だけに混乱を残したまま昼休み。珍しく口数少なく爆速で昼食を終えた晴馬のあとを追い、校舎裏へと行き着いた。
「志乃まだ食べ終わってないの?」
「皆食べるの早いよね……」
「シッ、静かに」
今日のお昼がパンでよかった。さすがに弁当を立ち食いするのはあまりにも行儀が悪い。音を立てないように残りひとつとなったパンの袋を開けてかぶりつく。
晴馬は落ち着かない様子で木に背中を預けていた。誰かを待っているらしく、たまにうろうろと視線をさまよわせる。
これは……もしかして、出歯亀しては気まずいアレなのでは?
「あ、来た」
すわ告白現場かと思い当たったところで、タイミング悪く待ち人が現れたようだった。勢いをつけて晴馬が木から背を離す。その顔は硬く強張って、らしからぬ緊張を伝えていた。
しまった、パンのひとつくらい諦めればよかった。そうしたら目を瞑って耳を塞いで、私は見てない聞いてないと言い張れたのに。巻き添えで怒られるのは勘弁願いたい。
「遠坂、なんの用だよ」
ところがとりあえず目を瞑ってみた志乃の耳に届いたのは、女性特有の高い声ではなかった。
はて、聞き覚えがある声だ。それも最近。
「あー、悪い、突然呼び出して」
呼び返された名前は、告白の返事を保留している男子生徒のものだった。
なぜ彼が。うろたえる志乃の肩を、ちょいちょいと鈴子がつつく。目を開けると、ちゃんと見ろとばかりに二人のいる方を指さされた。
告白現場じゃないならまあ……しかし、こんなところに呼び出したからには秘密の話なのだろうに、聞き耳を立てるだなんていいのだろうか。後ろめたい気持ちでパンを食む。
「近谷のことで、すっごい勝手なお願いが」
「なんだよ。仲いいみたいだけど付き合ってないんだろ。文句言われる筋合いないぞ」
「いや、文句じゃなくて」
見ろ見ろと執拗に空気を突き刺す指に気圧されて、志乃は薄目で現場を覗き込んだ。焦点を合わせて、目を瞠る。
晴馬が深々と頭を下げていた。唐突なオジギに志乃は驚いたが、相手の男子生徒も物凄く驚いている。それはそうだ。稲穂と見紛うお詫びのポーズ、謝罪会見以外でもすることがあるんだな。
「知ってるかもしんねーけど、おれ、めちゃくちゃ近谷のこと好きで」
えっ、そうなの?
「あ、ああ、知ってるけど……」
えっ、知ってるの!?
こちらは初手で度肝を抜かれたが、友人二人も知っていたようで、当たり前のように頷かれた。よそ見をせんとよく見ろとばかり、無理矢理顔を戻されて軽く首を痛める。
「ちょっと長い話してい?」
「お、おう」
「あれはおれが小学校で暴れていた頃の話」
「あ、思ったより長いな」
頭を上げた晴馬が語る。
小学三年生の晴馬は、親がお手上げするほど捻くれ者であったという。あまりにも捻じれすぎていて、周囲とも全くうまくいっていなかったらしい。
円滑に溶け込めない自分に思うところはあれど、かといってそれで心機一転新たな自分になれるなら、人類の悩みは今頃根絶できている。友達はできず、親も線を引き始め、いよいよ孤立した晴馬はプチ家出先の少し遠い公園で孤独に座り込んでいた。
そこに彗星のごとく現れたのが志乃である。
「なんにも考えてない真っ白な笑顔で話しかけられて、こっちが驚いてる間にしーちゃんだよって名乗られて、名を名乗れと要求されて、ハルちゃんね、じゃあこれで私たちオトモダチねと怒涛の勢いで流されてな」
「なんか想像できる」
「おれが捻くれたこと言っても、おとなって感じでかっこいいとか、自分のここがイヤって言っても、私は好きとか、誉め言葉しか返ってこねえの」
「近谷そういうとこある。そういうとこいいなって思って告白したんだよ俺」
「マジ。見る目あるじゃんおまえ」
「でもそう思うの俺だけじゃないから、やたらモテるんだよな、近谷」
「それな……」
晴馬の両親は、子供の視線にあわせて遊んであげるタイプではなかった。ストレートな愛情表現が苦手だったから、あまりわかりやすい愛情を受け取ってこなかった晴馬には、幼い志乃の表しかないド直球の好意が破壊光線レベルに衝撃的だった。
口にホースを突っ込まれるような好意の注ぎ方には溺れる思いだったが、その心地よさは身をもって知った。好意を寄越されれば仲良くしたくなる。逆に言えば、晴馬のように好意のコの字も表現できない人間の扱いなど、万人困って当然だったのだ。
そんな感じのことを子供らしい貧弱な語彙で漏らせば、志乃はなにひとつ理解できていない顔をして、頭いいねえと両手を叩いて笑った。
「それが後から気づいたおれの初恋」
顔を真っ赤にしたまま地面を睨みつける晴馬が全力で照れているのだということは、いくら人の感情に疎い志乃にもわかった。
同じく照れるより先に記憶を探る。確かにひとりぼっちでつまらなさそうにしていた男の子と言葉を交わした覚えがあった。
学校がお休みだからと一人で大冒険に出て、無断で遠出したことを後からド叱られたのだ。鬼人と化した母親のインパクトが強すぎて、追いやられていた思い出だ。
しかしあの子はもっとなんか……捨てられて疑心暗鬼に唸りまくる犬みたいな顔をしてはいなかっただろうか。晴馬はどちらかというと人間は遊んでくれるものと信じている犬の顔をしているのに。
同じ疑問を抱いた男子生徒が尋ねる。
「おれ今でも天邪鬼なんだよ。頑張って矯正してんの」
素直に好意を伝える大事さを知って、晴馬は究極に捻じれた己を少しずつ解いていくよう努力したそうだ。
そうしたら友達ができて、親との軋轢も消え、教師からの評判も上がり、幸福度が上がり、宝くじが当たった。本当に当たったらしい。志乃は幸福の壺だったのか。壺の製造元が購入した宝くじはゴミ箱に帰ったのだが。
「……いや、前言撤回するようでわりィけど、素直にできてなくね? 近谷にちょっかいかけまくってるし」
「す、好きすぎてどうしたらいいかわかんねんだよ!」
「素直に好意を伝えるのはどうしたんだよ」
「はっ」
唇を一度引き結んで、もごもごと動かして、絞り出すように蚊の鳴く声で。
「…………っずかしいだろ」
いかにも限界だという顔をして言った晴馬には、さすがの志乃もつられて赤面せざるを得なかった。
あまりに落ち着かなくて視線をうろつかせると、視界に入った友人たちは何かを見定める審査員のような顔をしていた。よく見ると晴馬と相対する男子生徒も同じような顔をしている。
んん、とわざとらしい咳払いが聞こえて視線を戻した。どうにか表情を取り繕った晴馬が、姿勢を正し、改めて男子生徒に向き直る。
「しーちゃ……近谷に告白できたおまえは凄いと思う。近谷がいるのに一年のときに気づいて、二年で同じクラスになってもまだ行動できてないようなヘタレだから、心底尊敬する。おれなんかよりお前の方がずっといいヤツで、よっぽど近谷のこと幸せにできるのかもしれないけど」
もう一度、彼は深々と頭を下げた。
「いつか告白して、おれがアイツのこと幸せにしたいから、近谷のこと、できれば、諦めてくだ、さい」
めちゃくちゃ図々しいのは承知だけど、と切り出し同様に細い声で己の勝手だと繰り返す。そこそこ上背があるはずの晴馬が、ガチガチに身を硬くして縮こまっているから、随分と小さく見えた。風だけではない理由で震える髪に気づいて、抱えたままのパンを思わず握り締めてしまった。
背中を撫でてあげたいなと思う。大丈夫だよとなんの意味もない声をかけたい、顔を上げて笑って欲しいな、などとも。
悲しくもなんともないのに目が潤んだ。かつてないほど心が浮つく。
――端的に言って、だいぶキュンとした。
「……わかったよ」
溜息と共に吐き出された声に、晴馬がおずおずと顔を上げた。
「告白もできねえ分際でなんだよって腹立たしい気持ちもないではないけど……なんか応援したくなったわ」
「ま、マジ? ありが――」
「そんかし、いつかじゃなくてさっさと告白しろよ」
「………………がんばる」
激励に対してあまり頑張れそうにない声音で返す晴馬をぼんやり見ていたら、沙織に首根っこを掴まれて引きずられた。声の届かない辺りまで連れられて、握り締めていたぺちゃんこのパンを取り上げられる。
「アンタへの告白が撤回されてた理由がアレだけど」
「はい」
取り上げられたぺちゃんこパンをすかさず横取りして食べながら、鈴子がにんまりと笑って聞いた。
「感想は?」
感想と言われましても。
情報が大渋滞を起こしていて処理し切れない。好意的だとは気づいていたが、よもや恋愛感情とは。小さい頃に出会ったのが初恋で、天邪鬼だったけど志乃の影響で素直になろうとしてて、でも志乃のことが好きすぎるから素直になれなくて色々ちょっかいかけに来るって、少女漫画の世界じゃなかろうか。
それってなんか。
「アイツ……ちょっと、可愛くない?」
「脈アリじゃん」
「私らもこれで絆されたんだよねえ」
教室に戻ってから、一体どんな顔をすればいいんだろう。
いくら素直な志乃だって、遠坂可愛いねなんて、恥ずかしすぎて言ったりできない。
「志乃、遠坂に対してだけ結構素直じゃないのさあ」
「シッ。癪に障るからまだ気づかせなくていいの」
午後の授業の前に顔を合わせた晴馬が一瞬口ごもる。午前までの志乃なら、きっと気づかなかったのだろう。少し赤い耳とか、声を出す前に小さく深呼吸をしているだとか。
そういう細々とした可愛らしい努力に気づいてしまったから、ポーカーフェイスなるものを取得していない志乃はわかりやすく息を呑んで真っ赤になってしまった。
晴馬がぽかんと口を開ける。
人間、素直であるべきだ。言わないと考えていることなんて正確に伝わらない、なんて、偉そうなことを言いました。人間伝わらないで欲しいときだってある。
理由? なんかよくわかんないけど恥ずかしくてたまらないからだよ!
いつも嬉しくご感想を拝読しているのですが、返信は控えさせていただいております。恐れ入りますがご了承ください。
ご感想、誤字脱字の報告、いいね等、本当にありがとうございます。