東京和楽器 廃業騒動について
率直な思いです。
去年、廃業だのなんだのと連日ニュースで報道され、和楽器バンドが救済金を集めるだのなんだのと言っていましたが、正直『アホだなぁ』って思って見てました。
三味線なら東亜楽器から仕入れるようにすれば良いではないですか。
ここで一つ。三味線という楽器は特殊で、今も昔も楽器屋さんでは買えない楽器です。昔で言えば、三味線というのは自宅で作ってる個人製作家の人がいて、三味線の家元というか師匠さんがその人に製作を依頼して、出来た物を弟子に売るというのが昔からの伝統的な決まり事です。そこに、製作家と師匠さんの持ちつ持たれつの信頼関係があって、師匠さんも仲介手数料として個人製作家から買う値段の倍近く弟子にふっかけるので儲けも出るし、師匠が弟子を多く集めればそれだけ注文が入るので製作家も仕事にあぶれる事は無いという持ちつ持たれつの関係がある楽器なので、一般的な島村とかクロサワなどの楽器屋さんでは三味線は買えないシステムとなっています。
関東以北、特に津軽三味線は今でも個人製作家が角材から手造りするのが普通で、メーカーにも注文は滅多に入りません。
そんな中でのこの東京和楽器という会社というのは、謂わば個人製作家に『9割くらい作ってこっそりと卸す』というのが主流のメーカーです。演奏者に直接売る事は、よほどの演奏家でない限りしません。
要は個人製作家が高齢になって角材から三味線を作る体力も気力も無くなった時世に、後は磨くだけとか漆を入れるだけとかの状態の半製品を売って、後は個人製作家がチョコッと手を加えて師匠に売るだけという、何だろう、言ってしまえば業務用のレトルト食品を作るようなメーカーです。元々の大瀧邦楽器時代は仕込み前の胴の完成品だけを作って行商していた荻窪の小さなメーカーだったのですが、90年代頃には既に八王子工場で棹まで半製品で作って全国の個人製作家に出荷するような一大メーカーになっていました。
しかし、2000年前後くらいには八王子工場は既に自転車操業みたいになっていて、毎月イチかバチかみたいな経営をしていました。当時、こんな小さな会社なのに毎月2,000万円以上の売り上げを出さないと社員全員の給料が分割払いになってしまうという、とんでもない丼勘定な経営をしていて、にも関わらず、三味線の棹を作れる木工職人は社内に2人だけでした。このような手工業のセクションでは何処でもリペア8割、新品の製作2割くらいというのが現状。それで棹師は一人あたり月に1,000万円分稼がなきゃ他の社員みんなが給料遅れるって、あまりにもずさんでした。
ただ、たまに250万もする簾トチの金細が出たり、白檀の胡弓が出たり、スネークウッドの地唄が出たり、当時はまだそういった『大当たり』がポツポツとコンスタントに売れていたので奇跡的に食いつないでいけていましたが、やっぱりそんな運だけじゃ無理ですよ。逆にそんな運頼りでよくあれから20年も続いたものだと、その強運に感心すら覚えます。
2005年頃だったかな、そんな運気も下がりきって注文も全く入らなくなってボーナスも全員一律5万円しか出せないって年があったのですが、その時に座間の紅屋という三味線屋からエレキ三味線の共同開発の話を持ち掛けられた事がありまして。当時の東京和楽器は数人の古参の職人以外は全てESPからヘッドハンティングで引き抜かれてきた20代の若いクラフトマン15人くらいで社員構成されていましたから、みんなエレキ三味線の開発にノリノリで毎日遊び半分で仕事に集中してました。でも結局エレキ三味線は全て当初から紅屋が設計した構造が採用され、東京和楽器には全く利益無し。しかし、さすがに紅屋も悪いと思ったのか、これまでに構想していたアクリル製の糸巻きの製造と販売の権利を全て東京和楽器に譲渡したらしく、そのアクリル糸巻きのほうが吾妻ナントカという三味線奏者に使われるようになってバカ売れして、翌年の夏には月給の4倍のボーナスが支給されたりという事もありました。 ホントに社員全員で博打を打ってるような行き当たりばったりの会社でした。ロックなノリで面白いっちゃ面白い会社でしたが。
この頃になると特に関東から西、長唄や小唄が主流の地域では個人製作家の高齢化、後継者不足が深刻な状況になっていて、表立って演奏の機会を目にすることも無いような三味線の注文が非常に多くなった時期でもありました。
長唄や小唄などは多分、流派は違えど元は一つだったようで地域が多少違っても棹の形や寸法などはみんなほぼ同じなので作るのは楽です。
民謡も長さと面の幅がそれぞれ3種類くらいの違いがあるだけで、それぞれの寸法を指定通りに作れば良いだけなので簡単です。
義太夫や清元は太棹とも呼ばれて、長唄を太くしたような特殊な形をしていますが、これは『杵屋さんの雛形』というか、この流派の型しタイプが無いので覚えてしまえば簡単です。
柳川も然り、長唄を極細にして中棹から面も背も弓なりに反り始めるという特殊な形をしていますが、これも唯一無二なので型を覚えてしまえば型どおり楽に作れます。
胡弓もオワラと天理しか型が無いので覚えてしまえば簡単。
問題は地唄と津軽なんです。
先述したとおり、東京和楽器というメーカーは『後は個人製作家が磨くだけ』くらいの製品を作って各個人製作家に売る商売なので、その製作家が一から作ったような形に仕上げなければなりません。ところが、地唄や津軽の三味線なんていうものは、その土地々々の人が『オラはこの形の方が弾きやすいんだス』とか『確か、あの人の持ってた三味線はこんな形だったよな』とかっていう曖昧な伝承の基に各地で代々作られてきたガラパゴスな物なので、ホントに作家さん毎に形が全然違います。まあ、結果的に流派や家元毎に三味線の型にも特徴があるって事なのでしょうけど。
長さとか面幅などは流石にどれも同じでも棹の丸み、天神や猿尾なんかはホントにどれも『曖昧な記憶を基に作ってみた』といった感じで全部違う。まず、それを工場に送って貰って、その完成一歩手前の状態の完コピを作るというのが東京和楽器の仕事となります。
ただ、ここで東京和楽器の職権乱用というかズルい点があって、全国の家元お抱えの職人さんの中には本当に造形デザインにおいて神憑ってるジウジアーロみたいな天才的なデザイナーもいて、そういった名人の作った型が修理か何かで送られて来た際に、その型を自社の職人に覚えさせて、それら名品のいいとこ取りミックスな型の三味線を自社のオリジナル製品として出しちゃってるんです。だから東京和楽器の三味線って型が物凄く良いのは確かで、現時点で史上最も線の綺麗な三味線が欲しいと云うなら東京和楽器オリジナルの三味線を買って間違いないと云えるのも確かではあるんです。
例えば木を削って曲線を含む立体造形を作るような工芸って、一旦、その形の『感じ』を、見た印象や触った感覚で覚えてしまえば次回から同じ物を作る事って案外簡単なんです。難しいのは最初にそのラインを見つけ出す事の方で、最初にその『美しい線』を自力で見つけ出せる人っていうのが名工とか天才って呼ばれるほんの一握りの人な訳であって。例えばランボルギーニだってフェラーリだって造形の線さえ読み取ってしまえばタミヤでもアオシマでも1/1スケールで完全に再現する事は簡単に出来るのと同じという事です。
三味線で云えば鶴屋さんとか杵屋さんくらいかな、本当に凄いと思ったのは。そんな名工の型を躊躇無く吸収して自社製品として出してしまう大瀧邦楽器の根性も相当凄いと思っていましたが。でも、以前一回だけ、修理で青森から本場の津軽三味線が送られてきた事があったのですが、その猿尾の曲線のあまりの曲線の美しさに『ウチの津軽の猿尾もこの型にしませんか?』と社長に聞いた事がありましたが、あまりに美し過ぎる特徴的な形に社長もビビって『流石にコレはバレるだろ』と苦笑いしていた事がありました。
そんな博徒の集まりみたいな会社でも棹師の腕だけは確かでした。
私は元々、御茶ノ水のESPテクニカルハウスというところでHさんやOさんと一緒にcharのシグネチャーモデルを作ったりnavigatorの新作プロトタイプを作ったりしていたギターの製作をしていました。でも、98年頃には既にエレキギターには斜陽が差し始めていて、自分が定年までこの業界がもつかどうか不安を感じ始めていた頃に、私の前に現れたのが大瀧社長でした。このとき既に社長は『ウチの会社は後5年もすれば主要な職人がみんな定年で職人がいなくなっちゃうの。技術を後継する人がいなくなっちゃったら日本の伝統文化が途絶えちゃうの。手で三味線を作れる職人の技術を受け継げるような人材はいない? 給料ならいくらでも出すからさ。』といった感じで頭を下げて勧誘してきたんです。ESPのロックなノリの人達は、そんなフクロウみたいな顔をしたオッサンの話をみんな笑い飛ばしていましたが、私は興味を惹かれてしまったんですよね。実際、高額な三味線がジャンジャン売れた月など、頭おかしいんじゃないかってくらい取っ払いの臨時ボーナスが現金支給されてた時期もあったので、『いやぁマジでココに来てホントに良かった』って思った時期も確かにありました。結局、そういった職人気質の経営がダメだったのでしょうけど。
でも、技術的にはnavigatorブランドのギターなどとは全く別次元で上ですよ。どう例えたら分かりやすいか、職人の見方で見ると、例えばnavigatorのギターはデアゴスティーニの模型、東京和楽器の三味線は実車のレクサス LS 600といった感じに見えてしまいます。デアゴスティーニの模型だって凄いっちゃ凄い良く出来てるし、模型の方が良いと言える部分もあるのは重々承知の上ですが、新車のレクサスLS600を持ってこられて並べられて『どっちのが良く出来てる?』って言われたら、『模型』と答える人は少ないというか、技術として比べるのがそもそも間違ってるジャンルだと思うでしょう。当にギターと三味線は、それくらい求められる技術や精度に違いがあります。こう言ってはなんですが、エレキギターって『遊びとして充分に使える精度があって見た目さえ格好良ければ』それが最高なんです。100年経っても狂わない精度なんて必要なくて、たとえ1年で割れちゃっても、そこをボルトで留めて治して使ってるくらいの方が格好よく見えたりする事さえあるような独特な観点を有する楽器、高いオモチャの域を出ません。
一方の三味線は『伝統工芸品』であって、仏壇とか箪笥のように『代々受け継がれて後世に残るようなものでなきゃいけない』という使命の元に作られる物であって、組み木で組まれる棹の未接着の継ぎ手部分など髪の毛一本、光一筋の隙間も許されない精密な作りが要求されます。
まず私の場合は、ESPである程度のキャリアを持った状態で大瀧邦楽器八王子工場(現・東京和楽器)に入ったのですが、そんなギター作りの技術など全くの無意味とされて、二ヶ月間、ノミとカンナの刃の裏出しだけをやらされました。私が大瀧に入ったのは一月。外にある井戸場で毎日毎日朝から晩まで道具の刃を研がされました。大雪の日も、タライの水がガチガチに凍っている朝も、毎日毎日井戸で刃の裏出しをしていました。知っていますか?井戸水って真冬なら温かいと感じるんですよ。勿論、氷が張るような日などは、最初は頭まで痛くなる激痛に感じるくらい冷たいんですが、そのうち温く感じるようになってきて、手が鮮やかな赤色に染まる頃には手から湯気が上がり、水は温かく感じるようになってきます。人の体って不思議なもので、こんなに手を痛めつけても冷たい水でやっている限り手荒れとかアカギレなんてのは全然出来ないです。それが、怠けて給湯器なんか使ってお湯でやったりしたら一発でアカギレして、手全体がカッサカサになってしまうでしょう。
この二ヶ月間というのは会社の中でも棹師候補だけが通る道で、ここで嫌になって逃亡したものはそれっきり。二ヶ月間やっても裏出しが出来なかった者は漆入れや製材に廻されます。この裏出しというのはホントに大変で、ノミやカンナというのは売っている時点で裏側は緩く弧を描くように真ん中を削って凹ませてあるのですが、この裏を最低でも刃先から1cmくらい平らにする事を『裏出し』と言います。特に突きノミなどは、この裏出しした平面の箇所を木に押し当てて押し削る事によって、ノミ裏の平面を木に『移す』といった感じで平らに削る事が出来る訳で、裏出しの際に両端が落ちて丸くなってしまっていたら、そのノミでいくら肩で真っ直ぐ押しても押し跡の両端に山が出来てしまっていくらやっても平面にはならないというのは想像に難くないでしょう。また、下手な人が裏出しして両端が落ちていたり裏全体が真ん中が高くなってしまったノミというのはベテランでも修復は難しいです。両端落ちや真ん中高っていうことは、落ちてしまった端の高さまで真ん中だけを研いで落としていかなければならないので普通に裏出しする何倍もの時間と集中力を要します。
この東京和楽器って会社はホントに昔気質の悪ノリで、普段道具に使う刃物は全て新潟の名工『清政』を使っていて、それでも一年に一本くらい刃を研ぎきってしまうため『勿体ない』と言って、清政の先代でもう製造されていない物凄い切れ味の『村正』という刃の付いた道具を仕上げのひと削りにだけ使うといった超こだわりでやっていてるため、新人が来て裏出しをやらせる時に『今、これしか無いから』と言って清政や村正の刃で裏出しをやらせて、失敗されて村正の刃を捨ててしまった事も何度もありました。大体、切れる刃ほど硬いので、こんな名刀クラスの硬い刃を始めから裏出し出来るような人なんていません。
裏出しは割れたガラス片のように、蛍光灯が端から端まで真っ直ぐに映らなかったら失格です。
これも不思議なもので、最初は二カ月もかかって奇跡的に出来たような物でも、次からは『それ以上』じゃないと自分で許せなくなります。その次も『前回以上』じゃないと納得いかない。そのまた次も…、てな具合で三年も経てば自分から相当なところまでいけるはず、というか、見えるようになってます。
そんな風に最初は『なんとなくなれた』棹師でしたが、この会社に於いて棹師は最も不遇なボディションというのがこの会社が衰退した一番の原因だと思います。
単純に棹師の腕とセンスと作った物が持つ『華』次第で全従業員の収入が大きく乱高下してしまうというあまりの責任の重さというのもありますが、それにも増して、この会社の『棹師以外』の殆どが前職ではそこそこ名のあった楽器職人で、引き抜きによって遥々この会社に来たのに最初の裏出しで挫折して他のセクションに廻された人たちな訳で、私のような20代前半のポイと出が棹師になっても僻みしかないっていう社風というか、雰囲気をどうしても生じてしまうような環境っていうのが一番ダメなんじゃないでしょうか。他のセクションの社員全員から僻まれて足を引っ張られる『いじめ』の対象にしかなりません。
私が棹師の部屋に入った当時、57歳の職人と、その弟子の55歳の職人しか棹師がおらず、社長曰く弟子の方は『直線の感覚が全然ダメ。何を作っても真ん中を辺りがフワッと膨らんでしまう。いくら説明しても自分じゃ分からない。彼には継がせられないから、○○君(57歳の職人)が引退したら君がウチの型を継ぐ事になるから頑張って覚えてくれ。』
いきなりそんな話をされました。
でも、ここにも一つ問題があって、確かにこの弟子のほうの人は感性からして下手だったのですが、この年上のほうの職人って言うのも努力でなんとかやってるだけの凡人だったんですよ。天才肌の人から見たらどんなに彼が精一杯頑張って作った物でも中の上くらいにしか見えない程度の物しか作っていない。多分、これまで多くの名品を見てきて、それを会社ぐるみで自分の作みたいにいくらでもコピーしてきたせいで、あたかもそれが自分の実力だと勘違いしてきた時間が長過ぎた事による一種の労災でもあるのでしょう。そこに社長も『君は凄い』なんて言って平気で火に油を注ぐような天然だったので、会社全体の雰囲気がおかしくなっていったんだと思います。
当時、私も若かったので、下に堕ちた若い連中を黙らせるため、そしてこの凡人職人に真の天才っていうのがどんなものかを見せてやるために意識を一気に『工芸モード』に切り替えて、めちゃくちゃ集中しました。なんとなく自分の運命を呪って、怒りに近い感情でムキになって尋常じゃない精度で作っていましたから。
その後、手前味噌ではありますが、会社の上客(坂東玉三郎、長山洋子など)を全部私の指名客に塗り替えて、3年目に当時の石原都知事から東京都認定 伝統工芸士の認定証を受け取りました。すると、大瀧社長というのは非情というか、冷酷無比な商売人でもあるので、あと数ヶ月で定年を迎える、例の『凡人だった職人』を『糸巻き仕込み』という『技術は要るけど末端』のセクションに左遷し、私を棹師の筆頭に据えて、会社の収入の全責任を私一人に置いたのでした。ちょうどその時に『アメリカ同時多発的テロ』のニュースが会社の食堂のテレビで流れていたので、その時期の話です。
当然というか、そんな人事異動があった直後から『凡人だった定年間際の職人』は発狂して完全に精神崩壊してしまいました。
その『凡人職人』は、左遷された翌日には細密作業用の『眼鏡ルーペ』を購入してきて、私の仕上げた棹を一日中拡大して見て『ここの個所のペーパーの目が平行じゃない』などの『ケチつけ』に明け暮れるようになり、四六時中社長に付き纏うようになってしまい、社長も「はいはい」といった感じにその職人を無視し続ける日々。そのうちに凡人職人は自費でレーザー水平器を買ってきて、それで私の作った棹を測ってマイクロ単位で社長に訳の分からない抗議と付き纏いを続けるようになってしまいました。大体、三味線なんていう楽器は、マイクロだのナノだのという機械的な正確性よりも、演奏者に『しっくりくる感触』というのが一番大事であり、それは決して機械では作り出せない人間味というか『温かさ』とでも言うべき『絶妙な不正確さ』にあるものなのに、それを忘れて自分がそれまで築いてきたキャリアや威厳を失いたくないという私欲のためだけにレンズや光学機器まで持ち出して自分を誇示しようと足掻くなど、それこそ凡人のすること。そんな凡人の悪足掻きを冷淡に切り捨てて無視し続けた大瀧社長の感覚は確かに凄いと認めざる得ないところではありますが。
しかし、この『凡人職人』がこれまでに築き上げてきた『口八丁』の威厳というものも中々のものだったのか、それとも単に『棹師になれなかった若者達』が、この『凡人職人』を利用して私を引きずり落とそうとしていたのか、まあ、今となってはどっちでもいい事ですが、当時、社長以外の全ての社員が私の『敵』となりました。
社員全員が『敵』という状況を体験した事ってありますか?盆と正月に地元に帰った時、古い飲み仲間に『結局、世の中で信用出来んのは親しかいねえぞ』なんて言った事はありますか?
当時、明らかだったこと。分かり易く例えるなら、『クジラクラウン』が最高水準としてフラッグシップとなっていた時代に、いきなり『セルシオ』が出てきたらどう思うでしょう?
自惚れだと思ってもらって構いませんが、当時は当にそんな状況でした。私の作った三味線を一片も否定出来る人がいなくなっていた中、『敵』が言う事と言えば「調子に乗るな」「お前に食われてもらうつもりはない」「俺は認めない」といった空虚なものばかり。毎日毎日朝から晩まで何処に行ってもそんな事ばかり言われる日々です。圧倒的な実力の差って、何を持ってしても埋まらないんですよ。哀しいかな、これはしょうがないものとして私も理解しています。
普通の家庭に生まれた人が、いくら朝から晩まで数学の勉強をしたって、正直、オイラーやフェルマーみたいに歴史に名を残すような数学者には絶対になれないと断言します。足のサイズが24cmの人が、足のサイズを32cmにしたいと努力したってそれは叶わないのと同じ事。『生まれ持った器』というものが違うのでこれはしょうがない。日本の一般の家庭に生まれた人はどんなに努力したってメイフェザーには勝てないのと同じ事なんですよ。問題は、自分よりも圧倒的に長けた能力を持つ人を目の当たりのしたときに、その人に対する自身の身の振り方の上手い下手が所謂『その人の資質』と見られる部分なんだと思います。
男で嫉妬に狂った人達というのは本当にキツいです。当時はまだ週6日勤務で土曜日までキッチリ働いていた中で、連日プライベートの時間の夜中まで使って嫌がらせを続けていた連中の執念深さには違った意味で『怖いよぉ』って思っていました。まあ元来、職人なんていう職に就いている人なんていうのは徹底して『詰める』のが得意というか、それにしか喜びを感じないような気質の人達なのでしょけど、例えばその気質を私の作った棹を元に『これを使って更に詰めれば今までより格段に良いところまで仕上がる』と思えるような資質を持った人はあの会社にはいなかったです。自らが頂点でなければ許せないと思う人達ばかりで、自分よりも才能のある者を一刻も早く排除して、自分を頂点とする平和な空間を取り戻したいと思って形振り構わず嫌がらせををしてくる人しかいませんでした。
そのうち、私の借りていたアパートの扉には朝になると『消えろ!』『出てけ!』なんて張り紙が張られたり、夜中じゅう30分おきに無言電話が掛かってきたりするようになりました。そんな『詰め』の精神をどうして仕事に全フリして生かせないのか。
それでも、私の中には『前作より一個所でも良く上回ってるところがないと許せない』という制作意識が芽生えていて、どんどんどんどん作は良くなる一方でした。
そんな感じで、どんどんどんどん社員全員からの遺恨は強まり、一方で社長からの期待や信頼度だけは益々上がっていくばかり。
そんな状況の中で、私の心を癒すのは『弟子』の存在だけとなっていました。弟子というのは師匠に忠実なので良いですよ。
私にも3年目以降、弟子を着けてくれるようになり、専ら棹の工房の中では一日中弟子と二人きりという職場環境になっていました。私が漆のセクションで意味も無い「調子に乗るな」なんて罵声を散々浴びて戻ってきても、弟子は「先生、ここの線ってこれで大丈夫でしょうか?見て下さい、お願いします」なんて言ってくれるので、無条件で癒やされるんです。
私は弟子に声を荒げた事は一度もありませんでした。自分の見解を自分から言うこともしないようにして、『自主性』というのに一番重きを置くように常に心掛けて、全てに「いいね、いいよ」と言うようにしていました。しかし、代わる代わる5人いた弟子は全員辞めてしまいました。しかも、そのうち一人は自殺未遂、一人は失踪、一人は精神を病んで入院(入所)、一人は突然剃髪してきて僧侶になると言い出す、という5人中4人が頭がおかしくなって去っていってしまいました。
先にも書きましたが、職人家業に於ける持って生まれた才能の差っていうのはどんなに努力をしてもダメなんですよ。自分の到達地点で妥協して仕事を続けるか、諦めて別の仕事を探すしかない。
折角、私が大切に大切に育て上げようと思っても、私がその気質を見出した人達というだけあって、みんな自ら自分の限界に気が付いて苦悩して自ら潰れていく。他人が苦悩して、精神が崩壊していくのを目の当たりのすることほど辛いものはなかったです。
毎日のように我が家に来て飲み潰れる男。私は拒否した事は無く、なんにでも付き合いました。そいつが泥酔して毎晩ギターを掻き鳴らして大声でピーズの歌を弾き語っても、なにも言わず聴いてあげました。『そうする事によって彼が翌日から平面出しのコツを掴むかもしれない』とか本気で思って。
でも、みんなダメだったんですよね。ぞれぞれの人が持つ固有の限界点っていうのは生まれ持って、どうやっても変えられない。あとは『上手くやる』しかないんです。その事を教えられなかったというか、気付かせてあげるだけの能力が私には無かった。
『真面目で不器用』な弟子たちは悩んで、泣いて、用水路に飛び込んだり出家したり、中央道を古いベンツで110キロオーバーで走行して即逮捕されたり、部屋で練炭焚いて死のうとしたり、みんな『壊れて』去って行きました。最初は私も胸が苦しくて息もできないような状態になりましたが、回を重ねる毎に何も考えなくなってしまって、普通に晩御飯を食べているようにまでなっていました。
そんな中、元からいた『腐れ社員』たちは、弟子がみんな壊れる私の事を嘲笑ったり、『テメーのせいでみんな死ぬんだよ』なんて言ってくる奴もいました。
もう疲れて、疲れちゃってね。私は2008年に東京和楽器を退社しました。
会社もボロボロの時期だったので退職金も10回の分割払い、退職記念品は紙箱入りのボールペン2本でした。もう、どうでも良かったですが。
もう二度と誰の顔も見たくないと思ってましたが、コロナ真っ只中でNHKでも民放でも『東京和楽器倒産か?』っていうニュースが流れた時に、流石にネットで検索したら当時のままの社員一同の集合写真が出てきて『最悪だ』と思って速攻でページを閉じました。
当時からいくらかまともだった人は残っておらず、最悪だった人しか写真に写っていない。大滝社長が不憫でならないですよ。
最悪 最悪 最悪 最悪 最悪 最悪 最悪 最悪 最悪 。
この会社は最早、呪われています。
楽器っていうのは『明るく楽しく』でナンボじゃないですか?
楽しく作ったって名品が作れちゃうような軽いノリの集団みたいなメーカーが作った楽器が一番『良い音』がしますよ。
『コトリバコ』じゃないですが、様々な遺恨や怨念みたいな物が固まって出来たような楽器なんて、いくら良く出来ていたって音に『影』の印象があります。視聴した『感覚』的に暗いというか、無条件に突き抜けてくるような明朗な響きが大滝の棹には無いです。
単に良質な極硬質な紅木だけを使ってるから振動=響きも少ないんだなどという物理的な言い訳をしてくるかもしれませんが、そんなものに粘質的に拘って他を認めないような頭の固い体質を変えないから時代の波に取り残されて倒産しかかっているのも事実。
そんな『暗く影を帯びた気質』が日本の伝統だと言うなら、そんな伝統はいっそのことコロナと一緒に断ち切って『輝くような明るい』新しい日本の伝統を今から始めたっていいんじゃないかと思っています。
始まりがあれば必ず終わりもあります。
終わらなきゃ次が始まらないんです。