忘れるべき夢
「この街、変人しかいないのかしら」
空に星が満ちた刻。ベッドに腰掛けたイリスは、ため息混じりにつぶやいた。
手には、学院の紋章が金字刻印されたカードが一枚。エリックと名乗った男が渡してきたものだ。一見しただけでは、ただの名刺。しかし、イリスはカードの裏地に触れて目を見開いた。
「……」
姿勢を正し、カードに両手を添える。深く息を吸い込むと、イリスは目を閉じた。
(流れろ、星沁。胸の奥から心臓へ。心臓から血管へ。血を伝って、指の先まで)
物理法則を歪めるような術には機巧が必要だが、星沁を物に通すだけなら簡単だ。体を巡る熱を制御し、己の生命力を変換した星沁をカードに流し込む。
すると、案の定。何も書いていない裏地に、焦げたような茶色の文字が浮かび上がった。
「カフェ ハネウサギ ニ ハチ ノ カネ……」
『喫茶店 跳ね兎』は、たしか街の中央付近にある店だ。ここに来い、という事なのだろう。
「回りくどいわね」
イリスは唇をへの字に曲げた。教授が星沁が必要なからくりを使ったのは、紫苑に自分の情報を聞いていたからだろう。しかし、この程度の内容なら口頭で済む話だったはずだ。
「何か意図があって……いや、悪戯好きおじさんってだけかしら。このカード、仕組みとしてはかなり面白いし」
イリスは嘆息し、カードをズボンのポケットにしまい込んだ。枕に頭を預けると、乾いたわらのにおいが鼻腔をくすぐる。古い木製の天井、橙色のランプ、窓から差し込む月の光。全てが穏やかで、静かすぎる。イリスは短刀杖を鞘ごと胸に抱き抱えると、掛け布の中に潜り込んだ。
(明日、本人に聞けば良い話だわ)
まどろみ、夢の中に滑り落ちてゆく。心地よい闇にくるまりながら、少女は意識を手放した。
◇◇◇
『私』は絶対に忘れない。忘れてなるものか。
暗い暗いまどろみの中で、記憶は過去に遡る。真っ暗な食器棚の中で、『私』は待った。包丁を抱き抱え、耳を澄ませる。祖父母の悲鳴が、何かが砕ける音が。家畜のいななきが、異教徒たちの笑い声が。全てが入り混じり、吐き気のする狂乱となって押し寄せていた。
やがて訪れた好機。異教徒の大半の声が離れ、たった一人の足音が近づいてきた。扉が開いた、その瞬間。
『え……?』
自分に突き立てられた刃を、信じられないような目で見下ろす、異教徒の男──今にして思えば少年──と目が合った。異教徒と目が合った時間は、きっと一瞬だった。お互いがお互いを、幽霊を見るような目で見ていたと思う。決定的な差は、『私』が刃を突き立てた側だったという事だ。
『っ、ぁああぁああぁああっ!』
『私』は食器棚を飛び出して、少年をそのまま押し倒した。抜いた刃を振り上げる、突き立てる。跳ねる体。肋骨に当たり、弾かれる刃。関係ない。関係ない!
怒りに身を任せた。興奮に身を任せた。少年が何か言いかけた気がしたが、聞こえなかったふりをした。やがて少年が静かになり、周囲から何も聞こえなくなった頃。
灰色の空から、燃える町をいたわるような雨が降り注いだ。
でも、町には何も残らなかった。しわくちゃの手をした祖父母の笑顔も。毎朝にぎやかだったはずの家畜たちの声も。全てを奪っていった、赤髪の異教徒の姿さえ。
あの日、故郷の町は死んだのだ。
『私』は絶叫した。全てを失ったという自覚と、自分がした事への恐怖と、胃の中からせり上がってくる全てを混ぜこぜにして、地面に汚く吐き散らかす。喉が裂けてしまうくらいに、声にならない音を鳴らし続けた。頬を伝う雨の冷たさ。それだけが、世界と『私』をつなぐ絆だった。
いつまでそうしていたのだろうか。出会った誰かに、何を答えてどうしたのだったか。気付いた時には、もう、『私』は『私』としての生き方を失っていた。
そこは『故郷の町』ではなかった。時に白い壁の部屋であり、時に広大な芝生の中央であり。そして。そして──
『ねぇ、〈 〉。あなた、才能がないんですってね』
美しく微笑む『あの人』がいる、美しい庭園のテーブルだった。それは昼下がりの淡い微睡み。せせらぎに乗る落ち葉のように、その記憶は流れてゆく。
『成功はしたけど、役立たず。求められた才能を持つ事ができなかった。あぁ、それは、なんて悲しい結末でしょう。私はね、〈 〉。そのような悲しみに耐えることができないの』
花満ちた園。白いテーブルクロス。柑橘と紅茶の香り。ティーカップを持つあの人の、優雅で無機質な語りの声。
『だから、これを貴女に差し上げましょう。これは、才なき者が、才なき者たちのために生み出した道具』
使う者の願い、あるいは欲望を。曖昧な祈りなどではなく、より洗練された術式として流し込む事によって、物理現象を加速させる夢のからくりだ、と。
言われた直後に聞いていた。『どこでコレを手に入れたのか』と。それを聞いて、あの人は。初めて本心から『悲しそう』な顔をした。
『知ったところで、貴女はそこにたどり着けない』
それでもいいなら、教えてあげる。白く細い指を機巧に沿わせながら、あの人は言った。
湖畔に佇む、白亜の街並み。外見は美しく、されど神聖なる祈りを科学に堕としめた、悪逆の都。不遜な歩みを止めない、『人間』たちの為の世界。その名は。
『学院都市、チチェリット。あなたにとってこの名前が、吉と出るか凶と出るか。分からないけど、ねぇ〈 〉』
どうか、死なないでね。そう言って、あの人は微笑んだ。もう感情は感じられなかった。
『私』があの人に、どんな言葉を返したか。奇跡の機巧を手にした時、何を口にしたのか。
目が覚めると、〈私〉はいつも答えを忘れている。思い出そうと悩んだことすら覚えていない。〈私〉は立ち上がり、ほつれた麻布のカーテンを横に引く。外に見えるのは、緑の丘。黒い峰々に抱かれた、湖畔の街だ。
鐘の音が聞こえる。老人たちが『彼女』を呼ぶ声、家畜たちの鳴き声。焼きたてのパンや、スープからただようしあわせの匂い。それは全て〈私〉が求めたもの。失った事に気付かずに、大切な物が置き換わっている事に気付かずに。それでいい。それで〈私〉は、『私』は幸せだ。覚えているのは『私』だけで良い。
全て忘れろ。思い出すな。どうか、どうかお前だけは──