白き森
宝石のような目をした子だ。少女を見下ろしながら、エリックは目を細めた。
(術の過使用による変質だろうか。幼いうちから星沁を過剰に使用した子供は、目や髪に兆候が現れると聞く)
術式を使っていないのに、微量の星沁が血管に通っているようだ。健康に影響がないか、調べる必要があるかもしれない。内心で考えながら、エリックは言葉を続けた。
「白き森。神々の箱庭……かの土地の呼び名は複数あるが、学術的には『境界』と呼ばれている」
「境界?」
エリックは頷き、満面の笑みで訊ねた。
「突然だが、君。妖精や精霊の存在を信じているかね?」
「……はぁ?」
少女の口から、呆れたような声が溢れた。静寂の博物院に響いた声に慌てて口を塞いでから、少女は小声で言葉を続ける。
「それって、羽根が生えた小人のコト? おとぎ話で定番の」
「あるいは、美しい女人になれる水の精霊かもしれないし、岩陰に隠れ住む、変身妖精かもしれないが。どうかね?」
エリックの問いに、少女はぴくぴくと眉を動かした。質問があまりに子供じみているので、意図を計りかねたのだろう。だが、少女はため息をつくと、真剣な眼差しで答えた。
「星沁は、私たちの肉体と、精神の両方を形作っている。どこぞの神話だと、魂とやらが肉体から離脱した後、輪廻転生を繰り返し、女神の元に辿り着く……なんて話もあるけど」
頭にトンと指を添え、少女は口を歪めた。
「私が思うに精神は、安定した肉体なしに成立しないわ。だって、私たちの『考える』という能力は、完全に脳に依存しているんだもの。
妖精だの精霊だのがいたとしても、伝承みたいに肉体を持たない存在だとは、ちょっと考えられない。それが私の結論」
「素晴らしい。実に論理的かつ、科学的な結論だ。では幽霊についてはどうかね」
少女は眉根を寄せた。
「幽霊については、もう学説が出てたはずよね。あれは、人が死後に残す反響のようなもの。星沁の密度が高い空間には残りやすいけど、積極的に何か考えるような存在じゃあ……」
「では、星沁密度がありったけ濃厚な空間があればどうだろう?」
エリックは、満面の笑みで問うた。
「肉体という、安定しているが物理法則に制限された器ではなく。純粋な星沁のかたまりを肉体代わりにできるほどに、星沁で満たされた空間。そんなものが、我々の知覚し得ない高次元に存在するとしたら?」
少女は瞬きした。
「……まぁ、精霊も神サマも、あり得るかもしれない。そんなものが、本当にあればだけど」
「学院の創設者たちは、そのような空間が本当にあると仮定していた」
エリックは展示品の女神像を仰いだ。女神像は色付きガラスに彩られ、ただ静かに宙を見つめている。
「創設者たちは悩んでいたのさ。『神や精霊達の住む世界があるとしたら、それは星沁密度が非常に濃い空間で、我々が感知しえない高次元にあるのだろう……あぁしかし困った。存在しないもの、観測できないものは証明できない! このままでは、教会の連中に嘘つき呼ばわりされてしまう』とね」
何かないか、我々の言葉を証明してくれる存在は。創設者たちの言葉を代弁しつつ、エリックは壁の絵を指した。
「そんな彼らの前に現れたのが、この『白き森』だったのだよ。この森は、ただの辺境の地ではない」
どのような季節でも雪で覆われている、極寒の空間。他の地では見ないような生物が当たり前のように生息し、なぜかその数が減る事はない。
「重要だったのは、この空間の星沁が、人が長く留まるには有害なほど濃厚だったということ。そして、閉じられた大陸の中にありながら、地の果てが見つかっていないことだな」
「えっ? 端から端まであるいても、反対側にある都市まで抜けられないってこと?」
「まぁ、雪山行軍になってしまうから、毎回調査隊が引き返す羽目になる、というのが大きい気はするがね」
エリックは苦笑した。
「とにかく、だ。現時点で可能な測量の結果と、実際の地図が釣り合わないというのは事実なのだ。何とも不思議で、奇妙な空間だろう? これを見つけた創立者たちは、大歓喜さ」
両手を広げ、エリックは役者のように言った。
「『我々の説を裏付けるように、星沁密度が濃く、かつ常識の通用しない空間が発見された! この白き森こそ、神の世界と、我々の世界の『境界』に当たる存在なのかもしれない!』と」
これが白き森、『境界』と呼ばれる空間についての説明だ。エリックが締めくくっても、少女はしばらく放心したように口を開けていた。ステンドグラスに照らされた女神像、古い獣の骨、白き森から発掘された石碑……口持たぬ観客に囲まれる中、少女が吐いた感想は。
「そんなヤバい空間のこと、初めて聞いた」
という、何とも子供じみたものだった。
「この街には、白き森の発掘を目当てに集まる流浪者も多いのだがね。細かい理屈はともかく、君ほど博識な子供が『境界』を知らなかった方が驚きだ」
「……」
少女は、わずかに表情をこわばらせた。エリックは、あえて気付かないふりをしながら言葉を続ける。
「さて、君の質問は以上かな? であれば、私の方からも君に聞きたいことが」
あるのだが、と。ようやく本題に入りかけたエリックの言葉を遮ったのは、慌ただしい足音と、己の名を呼ぶ職員の声だった。
「何だね。展示室では静かにしたまえ」
「教授こそ叫んでおられたじゃないですか……って、そんな事はどうでも良いんです」
口を尖らせたエリックに、職員は息を整えながら言った。
「学院長からの招集です。『灰の街より鳥来る。至急、学長室に来るように』と」
「……」
灰の街というのは、教会本部のある宗教都市の隠語だ。エリックは顔をしかめた。
(教会からの使者が着いたか。まったく、これからというタイミングで)
だが、何も知らない職員の手前だ。招集に応じないわけにもいかない。
「すまない。博識な少女くん、名前は何と言ったかね」
「イリスよ。イリス・デューラー」
「ではイリスくん、話の続きはまた今度。あわれな社会の歯車は、上司命令に逆らえないのだ」
名刺入れからカードを取り出し、少女に手渡す。少女がそれを受け取るのを確認すると、エリックは踵を返した。
「博物院には、あと二つほど展示室があるぞ。楽しんでくれたまえ!」
さわやかな笑顔を残し、姿を消した学院教授。それを追いかける職員。後には、元の静寂の中、カードを押し付けられたイリスが佇んでいた。
「何だったの、今の人」
呟いても、答える者は誰もいない。無愛想なガラスケースに囲まれながら、イリスは呆然と瞬きするのだった。