チチェリット博物院
博物院の原型は、お貴族様が美術品を見せびらかすための獲得品置き場だったそうだ。
だが学院の博物院に並ぶ展示品は、実用的なものが大半を占める。
水晶に閉じ込められた植物標本や、獣が生きている時の姿を再現した剥製がぽつぽつ。それ以外には岩塩、鉱石、何らかの紋様が掘られた石板やら岩がずらりと陳列。
それらを掘るための採石具や作業服など、薄汚れた道具も展示中だ。
「うわ、石だらけだ」
博物院に踏み入ったイリスは、ずらりと並ぶ石の山に思わず声を上げた。観光時期を外れているためか、客はイリス以外にいないようだった。
イリスは無骨な説明プレートを見つけると、その表面に書かれた文字を追い始めた。
「えーと。〈この街は、大昔は鉱山の街として賑わっていました〉……?」
鉱夫やその家族も多く、今よりも街としては栄えていた。だが、大規模な落盤事故があり、労働者の大勢が亡くなってしまった。鉱山主も事故に巻き込まれ、大勢の人が消えてしまった。
鉱石が採れなくなり、人も消え。あとは寂れた山間の廃墟だけが残ってしまった。開発途中だった街道も放置され、この場所は忘れられた地になろうとしていた。
「そこに現れたのが、学者たち」
──説明プレートを読み進めながら、イリスは博物院の奥へと進んでいった。
「教会から追われて、身を落ち着ける場所として選んだのが、廃坑になったこの街だった」
学者たちには金が必要だったのだろう。寂れた酒場に拠点を置き、地元の若者に学問を教えながら、資金源を探すために廃坑の調査を行う。
「そして彼らは……見つけた」
イリスは壁にかけられた絵画を見上げ、首を傾げた。
「〈崩れた廃坑のその奥に、白く美しいその森を〉? 森……まぁいいや、先読もう」
学者たちは高度な技術者集団として、『白き森』から得られた財を元に、この街を復興していった。
「学徒が集まり、賑わいを取り戻した湖畔の街は、景勝地としても名を馳せた」
美しい景色を求める芸術家、その支援者、彼らに需要を見出した人々。
あらゆる人が湖畔に集まり、かつての廃坑は賑わいを取り戻した。
「そうしてできたのが、この学院都市チチェリット……かぁ」
呟き、石だらけの区画を抜けたイリスは瞬きした。
歴史の展示がある区画を抜けると、急に視界が明るくなったのだ。壁に白亜の森が描かれ、白い塗料が多いせいだろうか。
明かり取りのガラスから差し込む光が、その絵画にちょうど差し込んでいるためだろうか。
静謐で、寒々しくて。そしてどこか、懐かしい。
展示室に入ったイリスは、呆けたように絵画に魅入っていたのだが。
「──この絵が気になるのかね」
背後から声をかけられて、咄嗟に地面を蹴り跳ねた。
「っ⁈ 」
イリスの背後にいたのは、三十代くらいの男だった。茶髪に緑眼、ボロボロのコートを羽織っているが、育ちは悪くなさそうに見える。
(知らないやつだ)
そう思うのに、イリスは無意識に身が引き締まるのを感じていた。
「驚かせてすまない。久しぶりに客を見たもので、つい声をかけてしまった。いや、この博物院は見ての通り地味だからね。湖畔の美景を求めて来る観光客には、あまりウケが良くないんだ」
男女連れに対する人気スポットは、圧倒的に美術館。併設レストランのザリガニ料理がとても美味い、と。どうでもいいチチェリット豆知識を披露する男に、イリスは片眉をつり上げた。
「あなた、学院の人?」
「そうだとも。といっても、この施設の管理者ではないがね」
男は、イリスに手を差し出しながら言った。
「私の名はエリック・オードラン。この学院で教鞭を取る者の一人だ。専門は──」
男が続けようとした、その時だった。
「術式……文化学」
イリスの口から、勝手に言葉がまろび出た。
「おや、私の事は知っていたのか」
「え、ちが」
イリスは、優しげに瞬きする男を前に、一歩後退した。
「知らない。私、あなたの事は知らない」
なのに、どうして言葉が出たのだろう。自らの鼓動が早くなっていくのを感じ、イリスは眉をひそめた。
「ただ、知っていた分野が……思いついた分野が、それだったってだけ。だと思う」
そうだ。そうに違いない。初めて会う人間の事を、知っているはずがないのだから。自らに言い聞かせていくうちに、胸の奥で揺れていた『何か』はゆっくりと沈んでいった。
(今の感覚は、一体──)
暗がりに潜む者と、目が合ってしまったような。鼻の奥から全身にかけて、冷たいものが這いまわるような感覚だった。一体何が起きたのだろう。這い上がる恐怖に支配されかけた、イリスの思考は。
「あぁ、なるほど。紫苑くんから、私の所属を聞いていたのだな」
エリックの朗らかな声によって遮られた。
「えっ?」
顔を上げたイリスに対して、エリックは続けた。
「君が先日、良くしてくれた少女がいただろう。夜明けのような蒼紫の髪に、翡翠色の瞳をした子だ」
「あぁ。あの、首から変な形の鈴を下げてた」
「そうだ。彼女は、私の養い子なのだよ」
君にお礼がしたくてね、と。エリックは少女に微笑みかけると、言葉を続けた。
「この後、少し時間を貰っても良いかね? 代わりと言っては何だが、君が興味を持った事柄については、私が答えてあげよう」
イリスは逡巡し、目を伏せた。紐で無理やり縛った革靴の、つま先だけが差し込む光に照らされている。一歩踏み出した向こう側、照らされる壁画に視線を移して、イリスは問うた。
「この……『白き森』って、何の事なの?」