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【完結】境界を行くもの 箱庭の街  作者: Thera
Ep.02 学院都市チチェリット
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湖畔通りの朝

 

 もう朝だ。

 重い頭を持ち上げて、イリスはため息をついた。


「なんだろ……なんか夢見た気がするんだけどなぁ」


 窓の外を眺めてみたところで、思い出せることはない。

 両頬を叩くと、イリスは身を起こした。しかし──


(あれ……?)


 視界が急に暗くなる。意識が揺らぐ。反射的に突き出した手が壁を捉えると、奇妙に歪んでいた視界がゆっくりと回復を始めた。


「立ちくらみかしら」


 そんな事を呟きながら帽子を被り、部屋を後にする。リビングの机には、昨日青年が置いていった乾酪(チーズ)が置いてある。

 乾酪は切り分けられ、そのうち一切れが小銭やパンと共に、イリスの鞄の上に置いてある。イリスはパンの包み紙をちぎると、使い古しの鉛筆を取り出した。


「あー……」


 包み紙に何かを書こうとして、瞬きする。そのまま左に持っていた鉛筆を右に持ち替えると、震える手で文字を綴りはじめた。

 『はくぶついん に いってきます』──不器用で、震えた文字。いかにも不慣れな子供が綴りました、といった風体の文字を見て口元を緩めると、イリスは鞄を手に取った。


「行ってきます」


 老夫婦が寝ている部屋に小さく声をかけて、踵を返す。小屋を出て真っ先に見えるのは、清々しい蒼穹と黒々とした山脈の峰だ。急峻な斜面を蛇行するように作られた道を、湖岸通りの方に向かって下っていく。


「さて、と」


 目指す場所は学院のすぐそばに店舗を構える『ヴァレンシア商会』、その店頭。店番をしていた少年は、イリスを見つけると歯を見せて笑った。


「よう、イリス。今日も元気そうで何よりだ」


 言いながら手渡してきたのは、情報紙の束だ。日付は昨日以前で、いわゆる売れ残りだ。


「いつも悪いわね、ルーク」


 正規で買うよりもいくらか安めの小銭を手渡し、イリスは情報紙を受け取った。茶色のタイルで護岸された湖畔に腰掛けて、情報紙の一枚を広げる。


「最近の幽霊騒ぎは、古典語学科の教授が深夜に全裸で湖畔通りを走り抜けていたためと判明。ザリガニ獲り祭りの実行委員会が発足! 今年のザリガニ王者の称号は誰の手に? ウス=異本(イホン)を裏で製造・売買していた学徒たちを、風紀委員が取締り。繰り広げられた戦いについて、教授陣からのコメント……何これ。またロクでもない記事ばっか載ってるわね」


「学院都市じゃあ日常だぜ。慣れるっきゃねえな」


 イリスの隣に腰かけた少年は、自らの朝食を頬張りながら続けた。


「しっかしお前、なんで文字が読めないフリなんてしてるんだ? 自分の名前以外の文字も、読み書きできるんだろ」


「だって、怪しさ倍増でしょ」


 乾酪(チーズ)のせパンをかじりながら、イリスは肩をすくめた。


「読み書きもできるなんて言ったら、教育受けてるのがもろバレじゃない。で、私達くらいの年齢で読み書き覚えてるってなると、あんたみたいな商人か」


「よその教区で基礎教育を受けてる、学徒候補生だな。東の施薬院とか、北の教会とか……あっ」


 ルークは得心がいったのか、困ったような笑顔になった。教育機関が充実している都市は、この学院都市以外にも存在する。その代表的な街の一つが、教会が教育を受け持つ北の街──この学院都市と水面下で争う敵都市だ。


「教会のスパイだと思われたら、おしまいなの」


 痛くもない腹を探られたくはない、とイリスは口を歪めた。


「ただでさえ怪しまれてんのよ。ソームズさん夫婦は優しいけど、息子(ドミニク)さんに追い出されたら、行くとこがないわ」


「そん時はうちの商会に来いよ。子供の世話役が足りてねぇから、雇ってもらえるぜ。多分」


 朝食を食べ終えると、少年は立ち上がった。


「博物院に行くんだったな。オレ、商会特典のタダ券持ってるから譲ってやるよ」


「え……いいの?」


「おうよ。別にオレは使わねぇし」


 チケットが束ねられた手帳の中から一枚を切り取ると、少年はそれをイリスに手渡した。


「ありがと。その、何も返せないけど」


「気にすんなって。むしろお前、ゴミに出す情報紙に金払ってんだから、このくらいはな」


 心なしか足取りの軽くなった少女を見送り、見習いの少年は微笑んだ。


「さーてと。オレも掃除終わらせねぇとな」


 背伸びをして、思いきり朝の光を浴びる。湖面は煌めき、街灯にとまった鳥たちは蒼穹へと羽ばたいていく。なんてことはない、ありふれた朝。日常の始まりだと、油断していたルークは気付かなかった。


「先程の少女とは、仲が良いのかね?」


「ん? まぁ、そっすね」


 背後からかけられる声に無造作に答え、ルークは振り返った。


「商会のゴミから情報紙を漁ってたんで、取っといてやるようにしてるんすよ。毎日来るんで、だいぶ顔馴染みっす……ってぇ⁈ 」


 無造作に束ねた茶髪、鮮やかな緑玉色の瞳。恵まれた体躯を隠すように、古ぼけた革のコートを羽織った男がそこに立っていた。


「え、エリック・オードラン教授⁈ おはようございます!」


「おはよう、少年」


 悪戯っぽく笑うと、学院教授は身をかがめた。


「少し、話を聞かせてはくれまいか?」


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