機巧と祈祷
(変わった子だったなぁ)
時同じくして、チチェリット学院の研究棟。本を抱えた紫苑は、研究室棟の方面に足を進めていた。
目的地に近付くにつれ、磨き上げられた廊下に怪しげな置物や砂埃が増え始める。壁に立て掛けられた棚には、手入れの怪しい植物鉢が並ぶ。ちなみに、棚の形は緩やかな人型。古い時代の棺を改造して作ったのだと、制作者が自慢げに話していたのを紫苑は聞いていた。
(ここの皆さんも、十分変わっているとは思うけど……)
見上げた扉には、『術式文化学研究室』との看板が下がっている。ためらいがちに扉を開けると──
「締め切りが俺を! 翻弄するーッ!」
寄声と共に、羊皮紙の束が宙を舞っていた。
「あ、あのう」
「今だそこだ……覚醒せよ僕の頭脳……ヒラメキ・キラメキ・シメキリ……ひひひ締め切りが追いかけてくるよオ……」
「ただいま戻りました」
奇声を上げながら机にかじりつくのは、紫苑より三つ四つ年長の学徒達だ。奇行を繰り返す彼らを避けて、研究室の奥へ。最奥部にはもう一つの部屋があり、中にいる男性の声が聞こえてくる。
「──であるから、施薬院用機巧の供給数を最大にするべきだ。教会の圧力がかかる前に、関係都市に配置を進めてくれたまえ」
伸びた茶髪を束ねた後ろ姿。遠隔通話を可能とする機巧に話しかける間も、ペンの動きは止まらない。
彼こそがこの〈術式文化学研究室〉の主人にして、紫苑を引き取ったエリック・オードラン教授だ。
「──というのは、異教徒弾圧と内戦の影響だろう。移民の増加と共に、住民からの苦情も増えている。雇用政策については、来月の自治都市合同会議で……」
次々とかかってくる遠話を捌きながら、一枚、また一枚と羊皮紙を仕上げていく。とても話しかけることができず、紫苑は教授室に一番近い椅子にちょこんと腰掛けた。
年長者たちの喧噪に混じれない寂しさを紛らわすように、抱えていた本の一冊と、ノートを開く。ちっとも頭に入ってこない文字列を追いながら、時間を潰すのに専念していると。
「あらぁ、戻ってたのねぇ」
大人びた女学徒が、紫苑に歩み寄ってきた。
研究室にいる学徒の中では年長の方で、年の頃は十代後半。品の良いブラウスとスカートからは、ほんのりと柑橘のような香りが漂っていた。
「ジェシカさん」
「勉強を見て貰いに来たんでしょう? 私で良ければ、教えてあげるわよぉ」
椅子を引っ張ってきて、紫苑の隣に腰掛ける。にこにこと微笑む女学徒に「ありがとうございます」と頭を下げて、紫苑はためらいがちにノートを差し出した。
「この記述なんですけど、ちょっと意味が分からなくて」
「ああ、これは特殊な術式だからねぇ。解き方は……」
言葉を交わし、ペンを走らせる。先達の解説が分かりやすいとはいえ、『術式』と呼ばれる概念は十一歳の紫苑にとって非常に難解なものだ。
すぐに集中力の限界が訪れて、紫苑は机に突っ伏してしまう。そんな紫苑を微笑ましそうに眺めながら、ジェシカはマグカップとクッキー缶を取り出した。一時休止という事らしい。
「学院都市での生活には慣れたかしらぁ? よその都市から来る学徒補はまだ寮に入ってないから、同い年の子は少ないと思うけど」
小皿に空けられるクッキーは可愛らしく。ティーポットから注がれる紅茶からは、爽やかな柑橘のにおいがする。
クッキーに伸ばしかけた手を止めて、紫苑はジェシカの方を見上げた。
「そういえば、さっき、面白い子に会ったんです」
「面白い子?」
「わたしと同い年くらいの女の子だったんですけど、戦闘用の機巧付き杖を使いこなしてたんです。動きながら術式を組み立てるなんて、すごいなあって」
「……その子、その場で術式を組み立てていたのぉ? 事前に組まれた術式を機巧に読ませるとか、登録された式を選んでたんじゃなくて?」
「はい! わたしも、あんな風に術式を立てられるようになればなぁ」
何気ない言葉のつもりだった。それこそ、未来に希望を抱く少女らしい純粋な言葉に、先達は。
「ダメよぉ、危なすぎるから」
冷静に。しかし、わずかに声を震わせながら、紫苑を遮った。
「えっ?」
「私たちが扱う『星沁機巧』はね。紫苑ちゃんがお母さんから習った『祈祷術式』とは、事象発現の手法が全然違うのよぉ」
言いながら、ジェシカは椅子に座り直した。真正面から紫苑を見据え、マグカップを横に置く。
「紫苑ちゃんが覚えている術式は、資格のある人間が、神への『祝詞』を完璧に歌い上げる事で発現する。そういう物よねぇ?」
「は、はい。朔弥で信仰されている神様への祈りなので、帝国の人が同じ方法でお祈りをしても、発現しない……と、思います」
ジェシカの発言に、紫苑は首をかしげる。その反応も想定済みだったのか、ジェシカは辛抱強く言葉を続けた。
「紫苑ちゃんの使う術式──『祈祷術式』と呼ぶわねぇ? この術式を、私や他の学徒は使えない。それはね、私たちが帝国人で、信仰する神が違うからってだけじゃない。『こうあって欲しい』という自分の想像を、祈りを、世界に忠実に反映するだけの才能が無いのよぉ」
己の意思で、世界を構成する最小単位──『星沁』に干渉する力。星沁干渉力と呼ばれる才能の有無が、『朔弥式』の成功率を決めている。
「イウロ人は、周辺諸国に比べると、星沁干渉力が低い民族なのよねぇ。だから、道具に頼らざるを得なかった。欲しかったのは、生まれつきの才能に左右されない技術。誰でも、分け隔て無く恩恵を授かれる、奇跡の絡繰り。その願いから生まれ、進歩してきたのが『星沁機巧』なのよぉ」
星沁機巧は、『祈祷術式』で言うところの『人の意思』を、精密な機巧の動きで代用している。
だからこそ詳細な術式を立てられるが、不完全な入力は許されない。扱う術式によっては、自身の身に危険が及んでしまう。
「教授でさえ、口頭入力は滅多にやらないのよぉ」
ジェシカは、冷静に言葉を続けた。
「やるとしても、機巧に事前に登録した術式の基盤を選んで、少しだけ式を加えて発動するって方法が多いの。一から十まで術式を練り上げるなんて……正直、紫苑ちゃんくらいの年の子にできるとは」
──到底思えない。きっと、紫苑は機巧の扱いに長けていないから、勘違いをしてしまったのだろう。ジェシカが結論付けようとした時だった。
「その話は本当かね?」
頭上からの声。同時に、皿に盛られたクッキーがつままれ、消える。
視線を向けると、眼鏡の男性──エリック・オードラン教授が、クッキーを頬張っている最中だった。
「エリック先生。でも、今の話を聞いちゃうと勘違いかもしれないなって」
エリックは紫苑の言葉に、緑眼を細めた。
「そもそも、機巧に組み込む術式を自力構築する技術が生まれたのも、最近の話だ。機巧の方が、多様な術式に対応できていなかったからね。経験の浅い紫苑くんが迷うのは、当然の話だ」
ジャム入りクッキーを飲み込み、ハーブ入りクッキーへ。目を閉じ満足げに味わいながら、エリックは続けた。
「どのような姿の機巧だったかね。その子が持っていた機巧付き杖は」
「ええと、杖は杖だったんですけど、短刀の形をしていて」
紫苑は、宙を仰ぎながら続けた。
「蒼い刀身に、金色で装飾したナイフ型です。刃の根元にスイッチとか、計測器がたくさん付いていました」
「──何だと?」
エリックは困惑したように眉をあげた。
「確かなのかね? ……いや、君が嘘をつく理由などありはしないな。ありがとう」
エリックはやや低い声で礼を言うと、上着に袖を通した。
「また話を聞かせてくれたまえ。数刻で戻る」
それでは、とだけ言って、エリックはするりと廊下に出ていった。その後ろ姿を見送ると、紫苑はジェシカを仰ぎ見た。
「どうしたんでしょう、エリック先生?」
「さぁ……?」
顔を見合わせても、答えは出ない。何でもない日常、穏やかな昼下がりの刻。紅茶から上がる湯気は、ゆっくりと冷めかけていた。