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【完結】境界を行くもの 箱庭の街  作者: Thera
Ep.03 緊迫の茶会
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冬の木立より来たる

 

 『イングリッド・フォン・バルヒェット』。機巧が示した持ち主の事を、エリックは知らない。だが。


(バルヒェットという姓には聞き覚えがある。皇太子妃殿下、その生家の苗字だ)


 エリックは強ばった唇を動かし、少女に訊ねた。


「君は、イリス・デューラーと名乗ったはずだ。偽名だったのかね?」


「違う!」


 少女は絶叫した。青ざめ、かさついた唇が細い言葉を紡ぎ出す。


「私はイリスよ。それ以外の名前なんて知らない。知らない、覚えてない、思い出せない……」


 少女は頭を抱えると、うわごとのように言葉を吐いた。その姿は未知に怯え、縮こまる幼子そのもの。やはり、嘘をついているようには見えなかった。


「少しでも心当たりがあるのであれば」


 だが、エリックが少女に手を伸ばしたその瞬間。


「──やめて」


 少女の声が、糸のようにピンと張り詰めた。

 生意気な子供の声はなりをひそめ、後に残るのは湧き出る殺意の霧。顔を上げた少女は鼻にしわを寄せ、エリックを睨みつけていた。

 まるで、別人。悩むより前に、恐怖に突き動かされたエリックの口は、言葉を紡いでいた。


「誰だ、お前は」


 先程までとは、まるで雰囲気が異なる。槍を構えた、獰猛な異教徒──いや、そのような表現では生ぬるい。まるで、憎悪と怨念の概念そのものと、相対しているかのようだった。

 これ(・・)は、己の質問にどう答えるだろうか。エリックの緊張が張り詰める中、少女は答えた。


「私の名は常に、共に駆けるものの名に等しい」


 黒手袋に覆われた手を胸に当て、少女は歌うように告げる。少女が顔を上げた瞬間、エリックは気付いた。若草色だったはずの少女の瞳が、鮮やかな金色に輝いている事を。


「もうじき(イリス)は眠り、(イリス)は目を覚ます。私は、私の身が早々に燃え尽きる事を望まない。私の心を乱さないで。もし、私の身が死んだ時は」


 雪のように温度を感じさせない声が、部屋に落ちた。


「今度はあなたに宿り、そして燃え尽きる刻まで呪います。エリック・オードラン」


 少女は口端を裂かんほどに(わら)うと、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。



◇◇◇



 夢を見ていた。水面のように波紋を揺らす空間の上。空には金色の光が集い、まるで星空のようだ。

 

 幻想的な光景に心奪われたのは一瞬だけ。天より舞い落ちる(それ)が指先に触れた瞬間、断続的な映像がイリスの中を駆け抜け、消えて行った。


 優しい目をした老人たち。暖かい暖炉。かすれたのどが紡ぐ子守唄。不安げな顔をした大人たちが、顔を突き合わせて話し合う姿。近寄った子供たちを優しく押しのける、乾いた手。家畜の子が、袖口を引っ張ってくる感触。


 大人から追い払われた自分は、家畜を連れながらふと眼下の景色に視線を移す。どこまでも続く、若草の丘。風車が回るその向こうには、深い緑の森が広がっていた。


(ここ、学院都市(チチェリット)じゃない)


 高山地帯にある学院都市、その郊外に暮らす老夫婦(ソームズ)一家。彼らの姿に似ているようで、全てが違っていた。


(これは、本当に私の記憶……?)


 覚えがない。記憶がない。それなのに、どうしてこんなに嬉しくて、苦しいのだろう。乾いた砂地に降る雨のように、あたたかい悲しみがイリスの瞳から溢れ出ようとした──刹那。


『まぁ、かわいそうに。こんな地獄の中で、ただひとり生き延びてしまったのね』


 新たな映像がねじれ、弾けた。無機質な女の声に、イリスは顔を上げる。煙にかすんだ鈍色の空。風に舞う灰と雪、焦げ臭いにおい。

 何もかもがくすんだ世界で、鮮やかな色彩を保ち続ける女は異質だった。


『あなた、名前は?』


 しゃがみ込んだ女の顔が見えた。複雑に編み込まれた淡いはちみつ色の髪。微笑んではいるが、感情を感じさせない薄氷色の瞳。

 『私』は自分の名を答えた。イリス。イリス・デューラーと。それに対し、女は満面の笑みで言った。


菖蒲の花(イリス)。悪くないけど、ありきたりだわ。そんな名では、埋もれてしまう。貴女のことは、豊穣の子(イングリッド)と呼びましょう』


 女は勝手に言うと、『私』の顔に手を伸ばした。耳を撫で、頬を撫でるその手は、細く綺麗で氷のようだった。


『初めまして、イングリッド。我が父の汚点と隠された、哀れな子供。今日からあなたを、私の家に迎え入れましょう……あぁ、』


 なんて、かわいそうな子。つぶやく女の顔は、どこか自分に似ているような気がした。

 

 

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