冬の木立より来たる
『イングリッド・フォン・バルヒェット』。機巧が示した持ち主の事を、エリックは知らない。だが。
(バルヒェットという姓には聞き覚えがある。皇太子妃殿下、その生家の苗字だ)
エリックは強ばった唇を動かし、少女に訊ねた。
「君は、イリス・デューラーと名乗ったはずだ。偽名だったのかね?」
「違う!」
少女は絶叫した。青ざめ、かさついた唇が細い言葉を紡ぎ出す。
「私はイリスよ。それ以外の名前なんて知らない。知らない、覚えてない、思い出せない……」
少女は頭を抱えると、うわごとのように言葉を吐いた。その姿は未知に怯え、縮こまる幼子そのもの。やはり、嘘をついているようには見えなかった。
「少しでも心当たりがあるのであれば」
だが、エリックが少女に手を伸ばしたその瞬間。
「──やめて」
少女の声が、糸のようにピンと張り詰めた。
生意気な子供の声はなりをひそめ、後に残るのは湧き出る殺意の霧。顔を上げた少女は鼻にしわを寄せ、エリックを睨みつけていた。
まるで、別人。悩むより前に、恐怖に突き動かされたエリックの口は、言葉を紡いでいた。
「誰だ、お前は」
先程までとは、まるで雰囲気が異なる。槍を構えた、獰猛な異教徒──いや、そのような表現では生ぬるい。まるで、憎悪と怨念の概念そのものと、相対しているかのようだった。
これは、己の質問にどう答えるだろうか。エリックの緊張が張り詰める中、少女は答えた。
「私の名は常に、共に駆けるものの名に等しい」
黒手袋に覆われた手を胸に当て、少女は歌うように告げる。少女が顔を上げた瞬間、エリックは気付いた。若草色だったはずの少女の瞳が、鮮やかな金色に輝いている事を。
「もうじき私は眠り、私は目を覚ます。私は、私の身が早々に燃え尽きる事を望まない。私の心を乱さないで。もし、私の身が死んだ時は」
雪のように温度を感じさせない声が、部屋に落ちた。
「今度はあなたに宿り、そして燃え尽きる刻まで呪います。エリック・オードラン」
少女は口端を裂かんほどに嗤うと、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
◇◇◇
夢を見ていた。水面のように波紋を揺らす空間の上。空には金色の光が集い、まるで星空のようだ。
幻想的な光景に心奪われたのは一瞬だけ。天より舞い落ちる光が指先に触れた瞬間、断続的な映像がイリスの中を駆け抜け、消えて行った。
優しい目をした老人たち。暖かい暖炉。かすれたのどが紡ぐ子守唄。不安げな顔をした大人たちが、顔を突き合わせて話し合う姿。近寄った子供たちを優しく押しのける、乾いた手。家畜の子が、袖口を引っ張ってくる感触。
大人から追い払われた自分は、家畜を連れながらふと眼下の景色に視線を移す。どこまでも続く、若草の丘。風車が回るその向こうには、深い緑の森が広がっていた。
(ここ、学院都市じゃない)
高山地帯にある学院都市、その郊外に暮らす老夫婦一家。彼らの姿に似ているようで、全てが違っていた。
(これは、本当に私の記憶……?)
覚えがない。記憶がない。それなのに、どうしてこんなに嬉しくて、苦しいのだろう。乾いた砂地に降る雨のように、あたたかい悲しみがイリスの瞳から溢れ出ようとした──刹那。
『まぁ、かわいそうに。こんな地獄の中で、ただひとり生き延びてしまったのね』
新たな映像がねじれ、弾けた。無機質な女の声に、イリスは顔を上げる。煙にかすんだ鈍色の空。風に舞う灰と雪、焦げ臭いにおい。
何もかもがくすんだ世界で、鮮やかな色彩を保ち続ける女は異質だった。
『あなた、名前は?』
しゃがみ込んだ女の顔が見えた。複雑に編み込まれた淡いはちみつ色の髪。微笑んではいるが、感情を感じさせない薄氷色の瞳。
『私』は自分の名を答えた。イリス。イリス・デューラーと。それに対し、女は満面の笑みで言った。
『菖蒲の花。悪くないけど、ありきたりだわ。そんな名では、埋もれてしまう。貴女のことは、豊穣の子と呼びましょう』
女は勝手に言うと、『私』の顔に手を伸ばした。耳を撫で、頬を撫でるその手は、細く綺麗で氷のようだった。
『初めまして、イングリッド。我が父の汚点と隠された、哀れな子供。今日からあなたを、私の家に迎え入れましょう……あぁ、』
なんて、かわいそうな子。つぶやく女の顔は、どこか自分に似ているような気がした。




