断裂した記憶
イリスは、最後の問題に視線を走らせた。数字が並ぶ、文字が並ぶ。そこに難しい意味なんてない。海は何色だ、山は何色だ。そんな単純な問いと一緒に、色がついた数字が並んでいる。
自分が想像する色に一番近い色の数字を選んで、並べていけば答えが生まれる。そういうものだとイリスは思っていた。
熱中すればするほど、楽しくなればなるほど、頭の中が熱くなっていく。焼き切れるほどに熱い。耳の奥が痛いような気もする。だが、それ以上に楽しさが勝る。
これは遊びだ。面白い。これは楽しいものだ。楽しい、楽しい。楽しい──
◇◇◇
「……くん。イリスくん!」
肩を揺らされた瞬間、少女はハッと目を見開いた。
「え、あ、何?」
「……。一度、解くのを止めなさい」
エリックは、安堵したようにため息をついた。そして、背後の扉を指差して続ける。
「注文の品が届いたから、机を片付けねばね」
それを聞いて、イリスは慌てて紙をかき集めた。入ってきたウェイターは、まずイリスの前にコーヒーカップを置いた。こんもりと盛られた生クリームには甘桂の粉が振りかけられ、既に甘い香りを漂わせている。
ごくりと喉を鳴らすイリスの前で、ウェイターはガチャガチャと道具を組み立てて、机の上に芸術的なオブジェを生み出しはじめた。
「……何してるの、コレ?」
「これは、オトナのためのコーヒーの淹れ方ですよ。小さなお嬢さん」
ウェイターはイリスに微笑みかけると、慣れた手つきでグラスに砂糖を、そして酒を注いだ。それを火であぶるように温めていたかと思うと、くるりとグラスを回し。
「燃やしたー⁈ 」
「燃やしました」
少女の反応を楽しむように、ウェイターは続けた。
「酒の一種として楽しむ方もいますが、今回は香り付けが目的なので、酒精は飛ばします。上からコーヒーを注ぎますと」
「あ、火が消えた」
「さらに上からクリームを乗せれば、完成です」
「おおー」
イリスが小さく拍手すると、ウェイターは微笑ましそうに頭を下げて出て行った。扉が閉まるのを待って、エリックはイリスに問いかける。
「問題をこちらに。飲む間は預かろう」
「飲みながらって選択肢は?」
「君にはケーキがあるだろう。食べながら解くのは行儀が悪い」
早く渡しなさい、というエリックの言葉に、イリスは「あと検算だけなのに」むくれながらも従った。
だが、甘いコーヒーをひと口飲み、チョコレートが何層にも重ねられたケーキを口にしてからは態度一変だ。年相応に目を輝かせ、今度は甘味に集中し始める。紙切れへの興味は逸れたようだ。
フォークを持つ指先、ティーカップを持ち上げる動作、ソーサーにカップを戻す仕草。一切無駄がない少女の動きに、エリックは眉をひそめた。
「……見られてると、食べにくいんだけど」
少女の言葉に、エリックは肩をすくめた。
「いや。綺麗にものを食べると思ってね。別に悪い意味で見ていたわけではないよ」
少女は怪訝そうに首を傾げ、またケーキに視線を戻す。彼女がまたケーキに意識を向けるのを確認して、エリックは手元の紙に視線を落とした。
(構築式は……全て正しい。計算も完璧だ。完璧すぎる)
学院で帝国最高峰の教育を受けた高位学徒ですら、この短時間で解くことは容易ではない。エリックは瞳を震わせた。
(どこの教区で教育を……いや。こんな逸材を手離す教区があるだろうか)
よその教区から、優秀だからとチチェリット学院に移ってくる学徒は一定数いる。だが、そういった学徒は元の教区に戻る事を期待され、留学という形を取っている。この少女のような形で放り出される事は、まずあり得ないだろう。となれば。
(考えられる可能性は、やはり)
エリックは少女がケーキを食べ終わるのを待って、懐からある機巧を取り出した。
「この機巧、君が使っている物と同じかね?」
夜空色の刀身に、複雑な機巧が組み込まれた機巧付き杖。ナイフと銃を組み合わせたような見た目のそれに、少女の表情が驚きに満ちた。
「図書館の本だと、見つけられなかったのに」
「図書館に出入りしていたのは、それが理由だったか」
エリックは嘆息し、言葉を続けた。
「この機巧は、今ここにある物と合わせて、ふた振りしか製作されていない特注品だ。名は──」
「星夜術刀八〇式」
少女は、緊張した面持ちで告げた。
「覚えてる。その名前と……使い方だけは」
「覚えている、だと? 君はもしや、記憶がないとでも言いたいのかね」
エリックの問いに、イリスは目を逸らしながら頷いた。エリックが眉をひそめる間もなく、少女は蒼色の機巧を取り出した。エリック側にある物とうり二つで、しかし使い込まれた星夜術刀だ。うす汚れた刀身を、少女は手袋をした指で愛おしそうになぞった。
「これは、最初から持ってたわ。この街の人は機巧を持っていることが多いから、そういう持ち物なんだろうって思ってたけど……途中で、違うって気付いた」
人々が使う機巧とは違う。スイッチひとつで湯を沸かしたり、パン焼き釜の温度を調整したり、釣った魚を冷やしてみたり。そういう物とは、用途が違う。ひとつの目的に縛られない使い方ができる高級品で。
「人を殺すための機巧、なのよね」
少女の言葉は、微かに震えていた。演技だろうか。しかし、エリックの目には、少女が年相応の幼さに映っていた。
「その通りだ」
エリックは、少女の瞳をまっすぐ見つめて返した。
「この機巧は、私が作った。当時の最新鋭技術を注ぎ込んだ、戦闘特化の武器機巧だ。君がコレによく似た機巧を持っていたと聞いた時は、本当に肝を冷やしたんだ。なにせ、私がこれを作った時、この機巧には単純な命令式しか登録していなかった」
「……防御と、電気による抑制攻撃」
少女の言葉に、エリックは頷いた。
「それから、電気を纏った刃で刺し貫くための『焼刃機能』だ。私が最初に付けた機能は、三つだけだ」
コーヒーをひと口すすり、エリックは続けた。
「ただ、新たな術式の登録を依頼される可能性もあったからな。それなりの容量と機能を、星夜術刀は備えていた。君のような子供が、不安定な口頭入力で使うという状況は想定外だがね」
エリックはイリスの様子を伺ったが、少女は沈黙したままだ。不安と恐怖が入り混じった表情を見せる少女を前に、気まずさが沸き上がってくる。
「……。貸してみなさい」
エリックは星夜術刀を指さした。
「壊しはしない。中の構築式や、登録情報を調べるだけだ」
「でも」
「本当にそれだけだ。君を盗人と思っているわけではない」
エリックの言葉に、少女はおずおずと機巧を差し出した。ちょこんと座ったままの少女に微笑むと、エリックは機巧の腹に指を添えた。
(星夜術刀は特注品。登録された持ち主以外には、そもそも真価を発揮できない仕組みになっている)
この機巧はナイフの形こそしているが、持ち主の星沁で保護した状態で使わなくては、刃物としての機能すら果たせない。機巧の隙間から、内部に異物が入り込んでしまうためだ。持ち主以外が手にしても、武器として使えない。安全機構として、持ち主の情報が登録されているというわけだ。
「こんな構築式も入ってたんだ」
「通常は使わない場所に格納されている。気付かないのも無理はないさ」
つぶやく少女の前で、浮かび上がる光の文字列を遡り、膨大な情報の中から、登録した持ち主の情報を抽出する。記された、持ち主の名前は。
「イングリッド……?」
少女の名前でも、エリックが記憶している依頼主──皇太子妃の名前でもなかった。




