少女たちの邂逅
表紙を挿入します。気になる方は挿絵機能をオフにしてください
爽やかな朝。きらめく湖畔をのぞむ草地。
現刻を以って、紫苑・アスタリスはファーストキスを喪失した。
街をうろつく日雇い労働者に、暴行をされた訳じゃない。内気な紫苑には、彼氏なんてモノもいない。お相手は、深く帽子を被った少年。そして紫苑は、どちらかというと少年の唇を奪ってしまった側だった。
「な、な……」
草地で揺れる白い花。光を反射する美しい湖面。仰向けに倒れた少年は、瞳を盛大に揺らし震えている。そりゃそうだ。急に押し倒されて、唇を奪われたら、誰だって──
「ご、ごめんなさい! いまどきますっ!」
急速に熱を帯びる顔面。飛び跳ねる心臓、混乱する思考回路。慌てて少年の体から飛びのこうとした瞬間、紫苑の腕は、少年の上半身を殴打してしまった。
「げほっ?! あ、あんたねぇ……っ!」
「えっ?」
せきこみながら、起き上がる少年。いや、違う。厚い皮製の服で分からなかったが、胸に手が当たった瞬間、柔らかい感触が──
「もしかして、女の子」
言いかけた、刹那。紫苑は、自分の身体がふわりと浮き上がるのを感じた。
「だぁ……らっしゃあぁああぁあぁあぁああぁあぁあぁああぁあぁあぁああぁあぁあっ!」
怒号と共に投げ飛ばされる身体。猛スピードで迫る湖面。かろうじて視線を動かすと、肩で息をする少女の姿が目に映った。
「ご、ごめんなさいぃ〜っ!」
悲鳴混じりの謝罪を虚空に放ち、紫苑の身体は湖に着水する。揺らめく水の世界、遠のく陽光と意識。幻想的な水面を仰ぎ、紫苑は翡翠色の瞳を細めた。
(どうしてこんなことに、なったんだっけ……)
誰も聞いていない呟きをあぶくと一緒に吐き出し、紫苑は、現状に至る原因になった事の顛末に思いを馳せた。
◇◇◇
西の大国、イウロ帝国の最高峰学術機関である〈チチェリット学院〉は、黒い峰々に見降ろされる湖岸の街に存在する。
外界と隔てられた高地の学院に入学を許されるのは、由緒正しい貴族の家系の子息と、並外れた才能の持ち主のみ。まさに選ばれし者の、気高き学び舎。そんなご大層な評価を受けている学院の廊下を、紫苑は縮こまるように歩いていた。
「待て、貴様。そこのお前だ、朔弥人の娘」
ふいに呼び止められ、紫苑は肩を揺らす。恐る恐る振り返ると、金髪碧眼の貴族学徒が仁王立ちしていた。
香水でも付けているのか、バラのにおいが漂っている。
「なんでしょう……?」
「言われずとも分かっているだろう。他国人の分際で、学院の廊下に汚らしい足跡を付けおって。教授の温情に甘えているのだろうが、ここは帝国人のための学院だ」
「あの、わたしは、その」
後退するたびに、首に提げた銀の鈴が揺れる。その音すら不快とでも言うように、学徒は口を歪めた。
「口答えするな。朔弥人」
無造作な平手に、抱えていた本を弾き落とされる。とっさに本を拾おうとした、刹那。
「きゃあっ?!」
足がもつれ、地面に倒れる。チリンと歌う鈴の音に、くすくすと高い笑い声が重なった。振り返ると、足を突き出した女学徒の姿が見えた。
「あら嫌だわ。なんでこんな所に、東国のお猿さんがいるのかしらぁ」
「帝国人の為の学院なのに。おかしな事よねぇ」
わざとらしい大声に対する、周囲の反応は様々だ。同じようにニヤニヤ笑う、やはり社交科らしき学徒。眉をひそめたり、距離を取ろうとする普通科の学徒。
自然と人垣が割れる中、紫苑は這いつくばったまま、本の一冊に手を伸ばそうとした──のだが。
「チッ」
舌打ちと共に、本が目前で奪われた。慌てて視線を上げた紫苑が見たのは、目深に帽子を被った子供だった。紫苑と同い年くらいで、細身だががっしりとした体躯をしている。だから間違えたのだ。紫苑も、周囲の人間も。
「あら、あの子。学院の前をうろついてる乞食坊やじゃない?」
「まぁ! 流れ者の朔弥人と一緒にいるの、お似合いだわねぇ」
女学徒のヒソヒソ声を聞きながら、紫苑は『少年』を見上げた。すっぽりと髪を覆う帽子、頬に走る痛々しい傷跡。薄汚れた服を着ているのに、瞳の若草色は妙に鮮やかだった。
「おい、小僧。この方々をどなたと心得て」
「黙れ」
『少年』が吐き捨てた言葉に、男子学徒の頬が痙攣した。『少年』が貴族学徒を無視し、その脇をすり抜けようとしたその瞬間。学徒は、『少年』の腕を掴んで唸った。
「調子に乗るなよ、汚らしい乞食ごときが!」
身体が乱暴に引き寄せられる。学徒の腕が振り上げられる。周囲の学徒の驚く顔、嗤い顔、目を逸らす姿。
「だめっ!」
紫苑は、手を伸ばすことを選択した。でも届かない。男の腕が、少年の側頭部を捉える方が早い。緩慢になる時間の中、紫苑は絶望の色を瞳に灯した。
「フン」
だが、男の腕は届かない。『少年』がほんの少しだけ顔をずらしただけで、その拳は空を切る。学徒の腕はだらしなく伸びきり、どてっ腹も無防備に晒される。『少年』がすれ違いざまに軽く軸足を蹴ると、学徒の身体は簡単に地面に伏した。
「ぐぁっ⁈」
悲鳴とともに、時間の停滞が弾けた。遠退いていた音と同時に嗅覚が戻り、強烈なバラの香りが鼻をつく。『少年』も同じ事を思ったのだろうか。鼻に全力で皺を寄せたまま、男子学徒を見下ろし言った。
「喧嘩を売る相手は、見た目で選ばない方が良いと思うけど」
「生意気な!」
顔を醜く歪ませて、男子学徒がまた拳を握りしめようとする──その前に。
「うるさいってば」
『少年』は、ナイフのようなものを学徒に突きつけた。夜空色の刀身を走る、金色の紋様。柄に飛び出た歯車から察するに、あれは星沁機巧だ。瞳を揺らす紫苑同様、刃を突きつけられた男子学徒は、さっと顔を青ざめさせた。
「放浪者風情が、なぜ機巧付き杖を。それは学院の技術の結晶。一介の乞食が〈星沁機巧〉を扱うなぞ」
男が言い切る前に。『少年』は、短刀杖から突き出た歯車──機巧の撃鉄を弾いた。
「〈星沁機巧 起動〉」
始まりの合図で歯車は連鎖し、噛み合い、加速する。青ざめていく学徒を見下ろしたまま、『少年』は淡々と言葉を紡ぐ。
「〈星沁適合域 標準定義〉。〈回路接続〉〈 術式反映開始〉──」
「ま、待て!待ってくれ!」
必死の形相で叫ぶ男を無視し、複雑な単語を組み上げる。言葉の羅列は術式だ。世界を構成する最小単位、〈星沁〉へと干渉し、物理法則を加速する為の歌だ。
「〈座標決定〉〈範囲測定済〉……〈術式開放〉」
起動を告げる言葉と同時に、引金を指で回す。渦巻く光は、絶望の表情を浮かべた男めがけていっせいに飛び出し──
「うおっ⁈ 」
──男が踏み付けていた本を、男ごと持ち上げた。
「学徒を名乗るなら、本くらい大事にすれば」
空中に浮かぶ本を掴むと同時に、術式を停止する。慌てる男を取り巻きたちの真上で解放すると、『少年』はそのまま紫苑に向かってきた。
「ひぅっ!」
手を伸ばされた紫苑は、反射的に頭を抱えた。『少年』を怖がっていたかは、自分でも分からない。ただ、身体が反射的に動いたのだ。身についた習慣が、紫苑にそうさせていた。
「……。置いとくから」
紫苑の行動を見て、『少年』は何を思っただろうか。分からない。『少年』はただ、紫苑の前に本を置いて、踵を返した。『少年』が近付くと、やじ馬は自然と隅に避けていく。
「あ……ま、待って!」
紫苑は慌てて立ち上がると、『少年』を追って走り出した。学舎の外に出て、若草の斜面をしばらく降りると、見つけた。
草地にたたずむ『少年』。注ぐ陽光は心地良く、湖は鏡面のように輝いている。
少し冷たい春風に身を任せ、目を細めているその姿は、どこか寂しげで。紫苑は、とっさに差し出された手を拒絶してしまった自身に、嫌悪の感情が湧き上がるのを感じた。
「さっきはごめんなさいっ!」
紫苑は、少年に駆け寄った。
「わたし、びっくりしちゃって。つい目を逸らしちゃったんだけど、怖いとかじゃなくて、あの、そのっ!」
「近い」
テンパっているとは、まさにこういう状況のことを言うんだろう。
『少年』がこちらをなだめようとしているのは分かったが、混乱した紫苑は言葉を紡ぐことしかできなかった。
「謝らなきゃと思って、それでっ! それと、えっと、あのねっ⁈」
「ちょっと、落ち着いて」
『少年』が一歩後退しつつ、紫苑の肩を掴んできた。紫苑の動きを止めて、冷静にさせようという作戦だったのかもしれない。
「あっ」「えっ」
だが、その作戦は。紫苑が小石に躓いた事によって、白紙化した。
そして事件は発生する。押し倒す紫苑、倒される『少年』。接触したのが胴体だけならいざ知らず。唇とかいうやたらデリケート扱いされる部位が、不測の接触事故を起こしてしまったのだ。
「「………… 」」
強い風に、花びらが舞い上がり。樹々は興奮するようにざわめいた。
「な、な……」
垂れがちの目元。やや太めキツめの輪郭を持つ眉に、こめかみから口元まで走る傷痕。寸前まで冷めた顔をしていた『少年』は、起きた出来事が把握できなかったのか、ぽかんと口を開けていた。
──後はまあ、単純な成り行きだ。『少年』だと思っていたのは『少女』であり、怒りを買って投げ飛ばされたと。
そして至る水中。紫苑は、あぶくの光る水面を見上げた。
(我ながら、すごいロクでもない飛ばされかただなあ)
謎の感慨を覚えた直後に気付く。あれ、これってもしかして走馬灯? 死にかけた人は、昔の経験をフル検索して生存方法を探そうとするから、記憶がよみがえるとか何とか。
(いけない。とりあえず泳がないと。沈んじゃう)
のんきな感想を抱きつつ、紫苑は身を起こそうとした。刹那、頭上に大きな影が差し込んで。
「ちょっと、何で無抵抗に沈んでんのよ!バカなの?! 」
罵声と共に、紫苑の身体は強制的に持ち上げられた。